いわき市で歌を教える仕事に就いてもう13年。現在は若干数の生徒さんを月イチの来市で引き続き教えている。郡山でも教えていたので、ピーク時には月120名程の生徒さんと接し、今迄で教えた数は200名超か。とにかく沢山の皆様との歌縁に感謝。1999年、ひょんな事から「ゴスペルを教えてみない?」という一声で、全くピアノが弾けず、楽譜が読めずの24歳の私が四苦八苦しながら、ヤマハの講師資格を2度目の受験で取得してからのその道のり。着任してすぐヴォーカルコースとゴスペルコーラスコースを受け持った。いわきで初の本格的ヴォイストレーニングが受講可能、ゴスペルグループも他になく、当時の映画「天使にラヴソングを」で列島的人気と化した話題のゴスペル教室いわき初上陸とくれば、瞬く間に沢山の人が集まった。教えた経験も無く、楽譜を見れば目眩がするような状態でこの一年間の授業は、毎回内心大混乱。黒人音楽が好きで歌うにも長けているから勘で大丈夫...とは甘かった。ゴスペルは音楽的にも高度で苦難の連続。そんなある日「レッスンは毎回がステージと同じだよ」と先輩講師に云われてから成る程、違ってきた。人の空気を操る事、前に立つ振る舞い方、言葉使い、言葉の間、掴み方、指針を示す事...回数を重ねる毎に、毎回が新しい実例である怖さに慣れてきた。ノンクリスチャンゆえに葛藤はあったが、私なりにゴスペルの根底にあるものに向かい、伝えた。2001年、40名以上の登録生で市主催のイベント「わくわくいわき」に出演、これが初めてのお披露目となる。当時、市内イベントステージに大人数のゴスペルグループが出ることはなかった。マイクのセッティングに困難し、まずゴスペル特有のコード理論に長け、弾ける伴奏者が見つからず苦悩した。発表会も前例が無く、教室主催の楽器店側の説得と担当者とのやり取りに心底苦労した。けれどめげずに、教会での初ソロライヴを成功、毎年恒例の年末ライヴを満員動員させ、次々と実績を築いた。今いわきでも幾つものゴスペルグループがある。この教室で共に歌った面々も個々で素敵に活躍している。私がこの街で一番多い縁は、歌うを通じて、ゴスペルソングを伝えるを通じて。かつての盛り上がりこそ無いが、今の教室の皆「コラヴォイス」の面々とも、ようやくソウル(魂)の部分で紡がれている感じ。のんびり温か、それで良いのだ。新しい誰かをいつでも迎えれるように。あ、お気軽にご参加を。詳細はイラスト参照。後編に紡ぎます。
家族以外で一番近い存在かも知れない、そんな兄貴がいます。プロベーシストの江口弘史さん。いわきにはもう何度も演奏に来て下さっている彼。彼との出逢いは2005年。アメリカはシカゴで大学在住中にプロ活動開始、15年間ブルース界の第一線を走り抜けていた一人。2004年に、ゴスペル界の大御所メイビス•ステイプルのバンドで来日、そのまま帰国となり今に至るまで、真の黒人音楽を熟知するプレイヤーとして周囲の信頼は厚い。私は江口兄さんの音楽に対する美学とポリシー、その音が大好きで、ライヴを追っかけたり、私のバンドではバンドマスターとして頼りにしている本当に大切な存在。初めて逢った時の衝撃といえばその体形だ。背も大きく、アメリカサイズの大巨漢!ショービジネスの本場で生き抜いてきた彼は、歌に関してもはっきりしていて厳しかった。帰国して数ヶ月後に大病を患って、熊のようなえぐっちゃんはすっきりとカッコ良くなった。本場で鍛え上げられたその技術と音楽精神は、言葉での説明は不要。まずその佇まいと音から、誰もが彼を気になってしまう。日本ではミュージシャンを紹介する際に「メジャーの誰だれのサポートで活躍」と添えると食い付きが良かったりする。アメリカではバックミュージシャンという感覚ではなく、個のプレイヤーとしての扱いがある。それは理想だと思う。彼はこの日本でもそのプライドを持ち続ける。読譜も完璧で技能は世界レベル、すぐ即戦力となる彼程の実力者は直ぐにメジャーのサポートでも忙しくなれるはずなのに。彼は自分の音楽の時間を大切にする。私の中に江口語録がある。「とにかく歌の、音楽の事を真面目にやれ。後はそれからついてくる」「一生掛けて音楽に向かえ」と時たま叱咤も交え。彼が私とステージに立ってくれなくなったら私の音楽精神が堕落した時。誰よりも周りを見て人の心の動きにも敏感である彼の音は、温かく力強く繊細。良き関係を一生掛けて紡いでいきたい大切な縁です。結び。
ヨッシー、彼女は生粋の西会津ッ子である。荻窪駅西口の裏路地で小さな小料理屋を営み、今月の29日で開店9周年を迎える。前回登場した荻窪ルースターでカリスマ的人気だったウエイトレスのヨッシーは、2004年秋に満を持して念願の店を持つ。彼女の魅力はその飾りっ気の無い開けっぴろげな性格にある。年代や役職関係なく、衣着せない口調で誰とも同等に接する。ルースター時代も、出演者のミュージシャンよりお客様を楽しませてしまう程のフロア巡回術。丁度ヨッシーがルースターを去る頃、営業時間外で、似ていない越路吹雪の物真似をする彼女に出くわしたのが衝撃の初対面。そのステージ術に周りは釘付けで大笑い。彼女がいれば、どんな場でもぱっと明るくなるのだ。6年位前に私の部屋の真向かいに越して来て、その間柄は家族の如く。彼女の店が終わるまで待って、帰りにラーメン屋に寄ったり、休みの日曜にぶらり出掛けたり。実は彼女の上京の理由は、チェッカーズのフミヤさんに逢う為。常連客は、そんな彼女の生き甲斐を茶化しながら、彼女の大きく明るい声で一日の疲れを癒す。夜中酔って愚痴を言うと「中央線で満足するな、もっとデカイ舞台に立ちなさい」と叱咤された。私が兼ねてから出演したかった目黒の大きなライヴハウスに出演が決まった時は、誰よりも喜んでくれた。震災の年の秋に、私がゴスペルを歌うYoutubeを見て、NHK BSの「アメイジング•ボイス」から出演の依頼が来た。対談コメンテイターは、何と藤井フミヤ氏!真っ先にヨッシーに電話し、当日は彼女を付き人として連行。日頃の愚痴聞きと叱咤激励の恩返しが出来た気がした。今もなお、ヨッシーは私のライヴに沢山の常連客を連れて応援に来てくれる。ヨッシーの「バッチリ!」をライヴの出来のバロメーターにしている自分もいたり。とにかく本当の姉のように慕っている。「ならぬものはならぬのです」の名言は大河ドラマ以前に、彼女の口癖で聞いていた。その言葉に、彼女の生き様と頑固さの美学が映る。今日も豪快な笑い声で、カウンターの縁の一つ一つに酒を注ぐ。ー 結び。

荻窪に部屋を借りて今秋で早9年。この街での縁の数々より、音楽食堂Rooster佐藤ヒロオマスターこそまず始めに語るべく人物。音楽で縁を紡ぐ達人です。2004年秋、東京で腕試しするべく部屋を借りた。頼る伝手も皆無、的外れのセッションを回ってはため息をつく日々。部屋と反対側の西口に気になっていたライヴハウスRooster。一度知人が出演時にゲストで歌わせて頂いたのだが、失敗をして足が遠のいていた。ある夜、勇気を振り絞って閉店間際に行くと、丁度仲間内でセッション中。一発歌ってみると一番喜んでくれたのは「貴女がゲストで歌った時の記憶がない」と言ったマスターだった。「毎月出演中のソウルバンドを紹介するから、ゲストで歌ってみたら」と彼の一声で毎月出演する事に。様々なライヴのゲスト、周年イベントと、マスターのお奨めで、一年の間であっという間に出演ミュージシャンにも顔が知れ渡り、お客様も増えた。程なくして初ソロ出演も大成功、数年毎月ソロ出演させて頂きほぼ毎回満員。沢山の事を教わった。休み時間に自ら手品を披露、従業員に「オーダー取るより笑いを取れ」と仕込む風変わりさは他に類を見ない。一人で来ても楽しめる音楽の演芸場のように、音楽の質が良いのは当たり前、ディズニーランドのように色々楽しめて幸せになって帰ってもらいたい、そんな思いを持ち続け、めでたく去年15周年を迎えた。今では彼とは公私共に仲良し。2010年にいわきアリオスでの私の活動10周年ライヴの時に、マスターは司会として、更にギターも弾き、その根っからのサービス精神に脱帽した。毎年9月18日は彼とお店の生誕記念祭。毎回歌うローリングストーンズの替え歌の中で「寂しくなったらここへ来れば良いー」と歌いながら想いを込め過ぎて声が裏返るマスターにほろりとしながらも、これからも宜しくね、と呟く私なのである。今年の9月18日も楽しみ、上京の際は是非ご来店を。結び。
『縁紡ぎ』第5話 「長野での、始まり」
私のよな移動人には、フェイスブックは嬉しいツール。各方面でのライヴ告知や、中々逢えない各地の友人とのコミュニケーション。自分なりにうまくボーダーを引きつつ、公私で便利に使っている。そんな訳で、フェイスブックから繋がったエニシからお話。
311の直後、夫の仕事が突然長野に移り、私たち夫婦の住まいは現在塩尻にある。生まれも育ちも小名浜の私は、山に囲まれた海の無い土地に住むなど考えられなかったし、元々、東京に腰を降ろして音楽活動したかった私にとっては東京移住から程遠い状況になり、複雑な心境だった。小名浜の実家、荻窪の部屋(借りてもう9年)、塩尻のアパートの3ヶ所を行き来する生活が始まって一年半の今である。
当初長野には知り合いは全く居らず、友達を作る気力もなく。だけど、何かしたい気持ちはあって。そんなある日、30代始めの元気の良い若者2人とフェイスブックで知り合った。一人が福島市出身で、一方は松本ッコ。震災後は炊き出しのボランティアに何度も出向き、今、松本で福島支援の団体を運営しているという。メイルでのやり取りの後、彼らと直接話すことに。だけど熱い彼らの想いとは裏腹に、当時「福島の為に頑張りたい!」というその気持ちは私にとって何だか痛かった。多くの福島県民が避難に訪れている、サポートしていきたいんだ、という彼らの想いに「私は避難ではないんだけどな...」と何とも後ろ向きな心で帰宅する。二人はその後も、フェイスブックから幾度となく地元でのイベントを紹介してくれたりと気に掛けてくれた。実際の所、自分の移動生活が落ち着かずで手一杯だったり、自分の気持ちを操作していくので精一杯。「外側」に対して「あなたにはわかるまい」と卑屈的な感情すら感じたり。彼らの運営する「支援部隊みらい」では、福島県人会を作り、芋煮会、祭りへの出店など参加を呼びかけ、福島からの移住者を寂しくさせないように頑張っていた。シリコンバンドを作り、自分達の知るあらゆるネットワークに直接出向き、その売上げを支援金に。フェイスブックで遠巻きにその様子を見ていた私自身、長野に対して、いつの間にか厚い厚い心の壁が出来ていたのだ。震災による被災者的な捉え...社交的な仕事をしている分、そういう感覚に自分が塗れていることを認めたくなかったかも。この春、そんな気持ちに終止符を打つかのように「再生の灯火に」という自作曲を録音し、FM局を自分の足で回ろうと決意、彼らに相談すると親身になって伝手を考えてくれた。
そしてこの夏、自分達の団体で復興ソングの録音があるので参加しませんか、と声を掛けてくれた。まだ顔を知らない参加者達の向こうに沢山の笑顔が見えた気がして、一つ返事。安曇野での泊まり込み録音では、とても印象的な2日間を過ごす事になる。壁が溶けた、のだ。溶かしてくれたのだ、歌が、人の愛情が。本当に嬉しかった。一気に友達が出来た。自分を話すこと、人の輪に入ってゆくことがこんなに恐れていたことはなかったが、参加の直前、「素直でありたい」と胸に唱えた。みらいの二人、カズ君とヒロ君は「本当に来てくれてありがとう」と泣いてくれた。みらいの活動の愛に救われた私。夫はようやくだね、と笑みで語り、友達が出来て楽しそうな私に一言「良かったね」と言ってくれた。
年配の方も子供にも親しみやすいその歌は、「福幸」と名付けられ、今年中に世界配信される。声、太鼓、楽器...集まった各自の得意な部分を持ち寄って作られた福島への愛の讃歌。参加者は、安曇野で工房経営、養豚場の女社長、ガレージ経営、砕石業、福祉士、保母さん、この歌を作った安曇野へ移住した音楽家夫婦(奥様のふまちゃんとの色々は今後登場するであろう)と様々。丸くなって話した時の、福島出身蕎麦エニシ達人カズ君の一言が印象的。「俺は、蕎麦しかないから。これでひとと繋がりたいだけ」誰かと誰かを繋げたい、自分が人と係りたいと思う時、持ち寄る愛情の表現は人それぞれ、それはそれぞれに備わっている。フェイスブックはあくまで交流ツール。直接顔を見て、笑って、食べて、話して、心を開いて。それがどんなに大事なことかを知らされる。長野での楽しい日々はこれから。それぞれとの逸話も出て来る事でしょう、ということで今回は始まり始まり、で結びなのです。
私のよな移動人には、フェイスブックは嬉しいツール。各方面でのライヴ告知や、中々逢えない各地の友人とのコミュニケーション。自分なりにうまくボーダーを引きつつ、公私で便利に使っている。そんな訳で、フェイスブックから繋がったエニシからお話。
311の直後、夫の仕事が突然長野に移り、私たち夫婦の住まいは現在塩尻にある。生まれも育ちも小名浜の私は、山に囲まれた海の無い土地に住むなど考えられなかったし、元々、東京に腰を降ろして音楽活動したかった私にとっては東京移住から程遠い状況になり、複雑な心境だった。小名浜の実家、荻窪の部屋(借りてもう9年)、塩尻のアパートの3ヶ所を行き来する生活が始まって一年半の今である。
当初長野には知り合いは全く居らず、友達を作る気力もなく。だけど、何かしたい気持ちはあって。そんなある日、30代始めの元気の良い若者2人とフェイスブックで知り合った。一人が福島市出身で、一方は松本ッコ。震災後は炊き出しのボランティアに何度も出向き、今、松本で福島支援の団体を運営しているという。メイルでのやり取りの後、彼らと直接話すことに。だけど熱い彼らの想いとは裏腹に、当時「福島の為に頑張りたい!」というその気持ちは私にとって何だか痛かった。多くの福島県民が避難に訪れている、サポートしていきたいんだ、という彼らの想いに「私は避難ではないんだけどな...」と何とも後ろ向きな心で帰宅する。二人はその後も、フェイスブックから幾度となく地元でのイベントを紹介してくれたりと気に掛けてくれた。実際の所、自分の移動生活が落ち着かずで手一杯だったり、自分の気持ちを操作していくので精一杯。「外側」に対して「あなたにはわかるまい」と卑屈的な感情すら感じたり。彼らの運営する「支援部隊みらい」では、福島県人会を作り、芋煮会、祭りへの出店など参加を呼びかけ、福島からの移住者を寂しくさせないように頑張っていた。シリコンバンドを作り、自分達の知るあらゆるネットワークに直接出向き、その売上げを支援金に。フェイスブックで遠巻きにその様子を見ていた私自身、長野に対して、いつの間にか厚い厚い心の壁が出来ていたのだ。震災による被災者的な捉え...社交的な仕事をしている分、そういう感覚に自分が塗れていることを認めたくなかったかも。この春、そんな気持ちに終止符を打つかのように「再生の灯火に」という自作曲を録音し、FM局を自分の足で回ろうと決意、彼らに相談すると親身になって伝手を考えてくれた。
そしてこの夏、自分達の団体で復興ソングの録音があるので参加しませんか、と声を掛けてくれた。まだ顔を知らない参加者達の向こうに沢山の笑顔が見えた気がして、一つ返事。安曇野での泊まり込み録音では、とても印象的な2日間を過ごす事になる。壁が溶けた、のだ。溶かしてくれたのだ、歌が、人の愛情が。本当に嬉しかった。一気に友達が出来た。自分を話すこと、人の輪に入ってゆくことがこんなに恐れていたことはなかったが、参加の直前、「素直でありたい」と胸に唱えた。みらいの二人、カズ君とヒロ君は「本当に来てくれてありがとう」と泣いてくれた。みらいの活動の愛に救われた私。夫はようやくだね、と笑みで語り、友達が出来て楽しそうな私に一言「良かったね」と言ってくれた。
年配の方も子供にも親しみやすいその歌は、「福幸」と名付けられ、今年中に世界配信される。声、太鼓、楽器...集まった各自の得意な部分を持ち寄って作られた福島への愛の讃歌。参加者は、安曇野で工房経営、養豚場の女社長、ガレージ経営、砕石業、福祉士、保母さん、この歌を作った安曇野へ移住した音楽家夫婦(奥様のふまちゃんとの色々は今後登場するであろう)と様々。丸くなって話した時の、福島出身蕎麦エニシ達人カズ君の一言が印象的。「俺は、蕎麦しかないから。これでひとと繋がりたいだけ」誰かと誰かを繋げたい、自分が人と係りたいと思う時、持ち寄る愛情の表現は人それぞれ、それはそれぞれに備わっている。フェイスブックはあくまで交流ツール。直接顔を見て、笑って、食べて、話して、心を開いて。それがどんなに大事なことかを知らされる。長野での楽しい日々はこれから。それぞれとの逸話も出て来る事でしょう、ということで今回は始まり始まり、で結びなのです。
えにしつむぎ 第4話「ヒロ寺平さんとの出逢い」
311の一週間後、男性の、とても良い声で留守電が入っていた。切れの良い口調で「ヒロテラダイラです」と名乗る。その直後に関西の友人数人からメイルが。「菅波ちゃんの歌が、今、FM802のHiro T’s Morning Jamで流れてたよ!びっくり!」802? ヒロテラダイラ?なんのこっちゃ。揺れも続く不安の最中、取り急ぎ、折り返した電話口から「月末に予定していた大阪ライヴを決行する?よっしゃ、では番組のゲストで話しまひょ」「!!!は?はい!!」...後に聞けば関西では彼を知らない人の居ない、タモリさんのよな存在だと関西の仲間が云う。「806といえば、関西を代表する大きなFMやで」と。ヒロ寺平さん...何故そんな方が私に?私の大阪の親友が震災後直後に「福島で歌手の友人が被災した。彼女の歌を聞いて下さい!」ヒロさん宛にCDを送った所から繋がった縁。3月24日、大阪。親友と共に802へ訪れ、オンエアへ。「その時の様子を、話してもらえませんか」「私はあの時、岩間海岸前に住む妹の家で一人留守番を。歌の練習中に大きな揺れが...近くの火力の煙突が爆発し、家の上の崖から岩が次々と砂浜へ落ち、砂煙が舞い、停車の車中で絶体絶命と覚悟しました。車のラジオからは「津波の到着はあと20分」との声、津波なんて思ってもみず...小学校へ迎えに出た妹が私を心配して戻って来たらどうしよう...残るか今直ぐ立ち去るかの究極の選択に。結果、その場を離れ、妹とは無事、途中で落ち合う事が出来ました」震災後すぐ、twitterで東京の知り合いのシンガーが「歌で励ましにいく!」という声を載せた。私は思わず「食料水源ガソリンの確保がままならないのに、今歌は必要ない...私だって歌いたいんだ!」とそう返信してしまう。でも本心だった。この非常時に、音楽なんて何の役にも立たないんだって、極度に落ち込んでしまったのだ。そう話すとヒロさんは「けれどあなたはこうして、東北の生の声を伝えるべくしてここにいる、ごらん」番組に寄せられた沢山の励ましのメイルが届いている。涙が止まらなかった。翌月4月末には、何と大阪野外音楽堂でのヒロさんの番組主催の大きなショーケースライヴでトリとして出場。沢山の方が私の名前を知り、再び励ましを寄せて下さった。本当に夢の中にいるようだった。その一年の間、ヒロさんはマメにメイルを下さり、2度程番組のゲストにも呼んで下さり(超メジャーの方が出演申し込みされても中々出られないとか)、翌年の野音での同イベントへも出演の切符を下さった。思えば、津波の到達時間を知らせたFMいわきに命を救われ、FM802には音楽の、歌の力をもう一度信じるように、強い励ましを頂いたのだ。自分の歌が、存在が、人を動かすなど到底思えなかったが、私自身、どんな状況でも歌う事を、音楽の力を信じることを止めるな、ヒロさんに背中を押され続けていた一年間だった。ライヴの開催は、時に一人よがりかも知れない、けれど、頂いた想いを無駄にせず、それがライヴに活きるように心掛けている。見えない無数の糸が紡がれている一枚の上で歌っているよな気持ちで。ヒロ寺平さん、本当に有り難う。また彼にエエ歌、を聞いてもらえるように自分の歌に向かっていこう。ー 結び、ます。
311の一週間後、男性の、とても良い声で留守電が入っていた。切れの良い口調で「ヒロテラダイラです」と名乗る。その直後に関西の友人数人からメイルが。「菅波ちゃんの歌が、今、FM802のHiro T’s Morning Jamで流れてたよ!びっくり!」802? ヒロテラダイラ?なんのこっちゃ。揺れも続く不安の最中、取り急ぎ、折り返した電話口から「月末に予定していた大阪ライヴを決行する?よっしゃ、では番組のゲストで話しまひょ」「!!!は?はい!!」...後に聞けば関西では彼を知らない人の居ない、タモリさんのよな存在だと関西の仲間が云う。「806といえば、関西を代表する大きなFMやで」と。ヒロ寺平さん...何故そんな方が私に?私の大阪の親友が震災後直後に「福島で歌手の友人が被災した。彼女の歌を聞いて下さい!」ヒロさん宛にCDを送った所から繋がった縁。3月24日、大阪。親友と共に802へ訪れ、オンエアへ。「その時の様子を、話してもらえませんか」「私はあの時、岩間海岸前に住む妹の家で一人留守番を。歌の練習中に大きな揺れが...近くの火力の煙突が爆発し、家の上の崖から岩が次々と砂浜へ落ち、砂煙が舞い、停車の車中で絶体絶命と覚悟しました。車のラジオからは「津波の到着はあと20分」との声、津波なんて思ってもみず...小学校へ迎えに出た妹が私を心配して戻って来たらどうしよう...残るか今直ぐ立ち去るかの究極の選択に。結果、その場を離れ、妹とは無事、途中で落ち合う事が出来ました」震災後すぐ、twitterで東京の知り合いのシンガーが「歌で励ましにいく!」という声を載せた。私は思わず「食料水源ガソリンの確保がままならないのに、今歌は必要ない...私だって歌いたいんだ!」とそう返信してしまう。でも本心だった。この非常時に、音楽なんて何の役にも立たないんだって、極度に落ち込んでしまったのだ。そう話すとヒロさんは「けれどあなたはこうして、東北の生の声を伝えるべくしてここにいる、ごらん」番組に寄せられた沢山の励ましのメイルが届いている。涙が止まらなかった。翌月4月末には、何と大阪野外音楽堂でのヒロさんの番組主催の大きなショーケースライヴでトリとして出場。沢山の方が私の名前を知り、再び励ましを寄せて下さった。本当に夢の中にいるようだった。その一年の間、ヒロさんはマメにメイルを下さり、2度程番組のゲストにも呼んで下さり(超メジャーの方が出演申し込みされても中々出られないとか)、翌年の野音での同イベントへも出演の切符を下さった。思えば、津波の到達時間を知らせたFMいわきに命を救われ、FM802には音楽の、歌の力をもう一度信じるように、強い励ましを頂いたのだ。自分の歌が、存在が、人を動かすなど到底思えなかったが、私自身、どんな状況でも歌う事を、音楽の力を信じることを止めるな、ヒロさんに背中を押され続けていた一年間だった。ライヴの開催は、時に一人よがりかも知れない、けれど、頂いた想いを無駄にせず、それがライヴに活きるように心掛けている。見えない無数の糸が紡がれている一枚の上で歌っているよな気持ちで。ヒロ寺平さん、本当に有り難う。また彼にエエ歌、を聞いてもらえるように自分の歌に向かっていこう。ー 結び、ます。
「世界中の人と一秒間ずつ逢うとしたら190年かかるらしい。だとすると、生きてる中で、良い出逢い悪い出逢いに係らず出会っている人達は、ものすごく貴重なんやなぁ。で、いつもそばにおってくれる人なんて奇跡中の奇跡の出逢いやな」彼女の言葉の後、静かに虫の声が鳴った気がした。さて、七夕の夜の宴が明けたら、彼女と彼はどの町へと流れ着くのだろう。今日は、第3の故郷でもある、愛すべき大阪での数あるエニシ話の一つを。
初めて大阪に辿り着いた時の、最初の出逢い。大阪は新世界、通天閣真下に位置する小さな孤島『のこされ島』の話を。2008年に思い立って、いわき駅から関西行きの夜行バスに飛び乗った。ゴスペルコーラスを教えるようになり、8年目の事。宗教思想、人種、欧米人への音楽的技術のコンプレックス...ゴスペルに向かおうとすればするほど、深みにハマってしまう、そんな時期に「関西のゴスペルが熱い!」そう聞いていたことを直に感じてみたかったのだ。2600円という破格の宿を予約し、行ってみると、いわゆる低賃金労働者が集まるドヤ街にあった。夜ふらりと宿の窓から見えた通天閣まで。思いのほか観光地化されたその周辺に少し安堵感を覚え、手書きのバーの看板が目に付き、その階段を上ってみる。「いらっしゃい」小さい丸いこけしのようなボブカットの女性が東北からの旅人を迎える。その隣には190cmはあろう眼鏡の細身の大男、その絵面はいっそうこの旅の奇妙さをかき立てた訳で。女は通称のこさん、男は通称ガンジー。夜更けまで話し込み、北の旅人はその次の日の夜もその島で休息を取ることになる。「のこされ島」には、全国各地そして海外からの旅人が連日漂流する。安宿が多い為、日本へのバックパッカーが多く存在する、実は国際的な新世界。未来少年コナンの生まれた美しい島、のこされ島由来のバーの名前。 主人公コナンがおじいと過ごしたロケット小屋さながらの素朴であったかい手作り空間。この二人のほっこりした島精神が相まって、日々様々な人がそこには集い往く。彼らはそのうちに、「よっこらしょ島」というシェアハウスをオープン、あらゆる国の旅人と触れ合う日常の中、平和と生活について深く考えるように。生活にリアルに息づく思想を時に立ち上がり声高に叫び、時に仲間と音楽に乗せる。震災後直ぐ、彼らは東北に出張のこされ島を提供してあげよう!と沢山の楽器とお酒を積んで新世界から小名浜に来てくれた(その時のこさんは丸坊主で、ガンジーと揃ってそれはそれは只ならぬ後光を放っていたのだった)彼らの心はどんな時も「人」に向いている。
ー西暦2008年、核兵器より超絶威力の「超磁力兵器」使用の最終戦争が勃発。人類は大半が死滅、これ迄の高度な文明の多くが消失。五大陸は変形し地軸も曲がり、超磁力兵器による激烈な地殻変動で多くの都市が海中に没す。戦争勃発からの20年後、コナンはのこされ島でおじいと平穏に暮らすも、心ない悪党にその生活を乱され、守るべき人と自然の為に征服者に立ち向かってゆく...2013年「バラクーダ号」は、新世界から七夕の次の朝、出航する。コナンではなく、のこさんとガンジーを乗せて。小さい丸い織り姫と長く細い彦星は天の川を南へのんびりと流れて往く。暮らしとは、必ずしも住まい在りきではない。生きる様(さま)だと思う。日本を旅し、そして海をも渡る時がくるだろう。一期一会について考える。一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること...一期一会の縁とは、良きも悪しきも出逢う人全てに相当する。もう逢えないかも知れない。だけど、きっと遠くに行ってもこの人達は切り開いていくのだろうな、という安心感を胸に、彼らの家なき放浪の旅に拍手を送りたい。また逢えるさ、縁さえあれば、と。さてさて、大阪での縁の数々は人情てんこ盛り。また次へのお楽しみとして、結びましょう。
初めて大阪に辿り着いた時の、最初の出逢い。大阪は新世界、通天閣真下に位置する小さな孤島『のこされ島』の話を。2008年に思い立って、いわき駅から関西行きの夜行バスに飛び乗った。ゴスペルコーラスを教えるようになり、8年目の事。宗教思想、人種、欧米人への音楽的技術のコンプレックス...ゴスペルに向かおうとすればするほど、深みにハマってしまう、そんな時期に「関西のゴスペルが熱い!」そう聞いていたことを直に感じてみたかったのだ。2600円という破格の宿を予約し、行ってみると、いわゆる低賃金労働者が集まるドヤ街にあった。夜ふらりと宿の窓から見えた通天閣まで。思いのほか観光地化されたその周辺に少し安堵感を覚え、手書きのバーの看板が目に付き、その階段を上ってみる。「いらっしゃい」小さい丸いこけしのようなボブカットの女性が東北からの旅人を迎える。その隣には190cmはあろう眼鏡の細身の大男、その絵面はいっそうこの旅の奇妙さをかき立てた訳で。女は通称のこさん、男は通称ガンジー。夜更けまで話し込み、北の旅人はその次の日の夜もその島で休息を取ることになる。「のこされ島」には、全国各地そして海外からの旅人が連日漂流する。安宿が多い為、日本へのバックパッカーが多く存在する、実は国際的な新世界。未来少年コナンの生まれた美しい島、のこされ島由来のバーの名前。 主人公コナンがおじいと過ごしたロケット小屋さながらの素朴であったかい手作り空間。この二人のほっこりした島精神が相まって、日々様々な人がそこには集い往く。彼らはそのうちに、「よっこらしょ島」というシェアハウスをオープン、あらゆる国の旅人と触れ合う日常の中、平和と生活について深く考えるように。生活にリアルに息づく思想を時に立ち上がり声高に叫び、時に仲間と音楽に乗せる。震災後直ぐ、彼らは東北に出張のこされ島を提供してあげよう!と沢山の楽器とお酒を積んで新世界から小名浜に来てくれた(その時のこさんは丸坊主で、ガンジーと揃ってそれはそれは只ならぬ後光を放っていたのだった)彼らの心はどんな時も「人」に向いている。
ー西暦2008年、核兵器より超絶威力の「超磁力兵器」使用の最終戦争が勃発。人類は大半が死滅、これ迄の高度な文明の多くが消失。五大陸は変形し地軸も曲がり、超磁力兵器による激烈な地殻変動で多くの都市が海中に没す。戦争勃発からの20年後、コナンはのこされ島でおじいと平穏に暮らすも、心ない悪党にその生活を乱され、守るべき人と自然の為に征服者に立ち向かってゆく...2013年「バラクーダ号」は、新世界から七夕の次の朝、出航する。コナンではなく、のこさんとガンジーを乗せて。小さい丸い織り姫と長く細い彦星は天の川を南へのんびりと流れて往く。暮らしとは、必ずしも住まい在りきではない。生きる様(さま)だと思う。日本を旅し、そして海をも渡る時がくるだろう。一期一会について考える。一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること...一期一会の縁とは、良きも悪しきも出逢う人全てに相当する。もう逢えないかも知れない。だけど、きっと遠くに行ってもこの人達は切り開いていくのだろうな、という安心感を胸に、彼らの家なき放浪の旅に拍手を送りたい。また逢えるさ、縁さえあれば、と。さてさて、大阪での縁の数々は人情てんこ盛り。また次へのお楽しみとして、結びましょう。
縁紡ぎー第2話
ー現在(いま)を織り成す歴史の糸/手繰り寄せれば重なる人/源(もと)を辿れば溢るる音/胸に掲げし己のこと/此処に息づく曾祖母の魂/粋と気っ風の辰巳の芸者.... 自作曲「Back To My Roots」にある一節にございます。根源なる縁はまずはご先祖から、ということで今回の縁紡ぎは、祖父と曾祖母のお話より。いわき市合併より市の発展に精魂を注いで来た祖父橋本渡は、後に昭和50年よりいわき市助役として10年間就任。子供心に自慢の祖父でありました。「爺ちゃんはな、本当は深川の人なんだよ」の口癖。そう、彼の母親ヤスさんは芸者さん。「辰巳の芸者ってな、純粋に三味線と唄の芸事で暮らす粋なスタイルさ」「お前はヤス母さんそっくり」私、その度に茶の間のモノクロ写真を見上げる。ふうん。
武家の出身という橋本家の先祖は、関西の摂津の所属(大阪との縁は既にここより?)、武蔵の国(関東)を経て流れ流れて、磐城の国、湯長谷藩(内藤公)に所属。慶応より明治の移りに、武家掃討の追撃で命からがら辿り着いた先は鹿島村...現在の鹿島町下蔵持に土着する事となる。渡爺様のお父様、寛(カン)氏は、やり手の実業家であったらしい。爺様の母君、江戸っ子のヤスさんは小名浜のかつて賑やかであった中島という街で、三味線の師匠として多くの弟子養成にあたったと云う。爺様は子供の頃、周囲から「お師匠さん」と敬愛されるヤスさんを自慢に思っていた。三味線と端唄のお弟子さんが昼夜出入りする家で、自然に覚えた唄も、ヤスさんの前では「ああ、駄目だよ。訛っていてお話にならないね」と一蹴されたと嘆く。深川で産まれた爺様は、実際生粋の小名浜ッ子。ともあれ親譲りで、爺様の声は色気があり、歌は上手いのだ。そう思うと、先祖から受け継ぐDNAも、立派なエニシだなあ...なんて思いませんか。今、この話を綴るにあたり、参考にしている爺様の原稿用紙の最後には「そのヤスさんの芸の美学が、やがてひ孫にあたるひろみに継承されることとなるから不思議なものだと思う」との結び。”芸は身を助く”と口癖のように聞いていた言葉も、私自身、今となって時に身に沁みて、そして感謝するのであった。
余談だが、明治•大正•昭和を跨いで愛された映画館が小名浜には在った。芝居小屋から始まった「磐城座」から「いわき座」へ、そしてグリーン劇場とローズ劇場が併設されたイワキ会館へ。大正の終り、小名浜に娯楽施設が無い頃の話、この磐城座の設立に寛曾爺さん、一役買ったとのこと。爺様の記憶が薄れる前に色々書いておいて、と頼んだ歴史話は想像以上に、小名浜と共に在った人生が描かれていた。さあさ皆様、小名浜のザ•生き字引とは、94歳のこの橋本渡さんの事でございます。...先祖代々、紡ぎ紡がれのエニシ話、第2話結びます。
ー現在(いま)を織り成す歴史の糸/手繰り寄せれば重なる人/源(もと)を辿れば溢るる音/胸に掲げし己のこと/此処に息づく曾祖母の魂/粋と気っ風の辰巳の芸者.... 自作曲「Back To My Roots」にある一節にございます。根源なる縁はまずはご先祖から、ということで今回の縁紡ぎは、祖父と曾祖母のお話より。いわき市合併より市の発展に精魂を注いで来た祖父橋本渡は、後に昭和50年よりいわき市助役として10年間就任。子供心に自慢の祖父でありました。「爺ちゃんはな、本当は深川の人なんだよ」の口癖。そう、彼の母親ヤスさんは芸者さん。「辰巳の芸者ってな、純粋に三味線と唄の芸事で暮らす粋なスタイルさ」「お前はヤス母さんそっくり」私、その度に茶の間のモノクロ写真を見上げる。ふうん。
武家の出身という橋本家の先祖は、関西の摂津の所属(大阪との縁は既にここより?)、武蔵の国(関東)を経て流れ流れて、磐城の国、湯長谷藩(内藤公)に所属。慶応より明治の移りに、武家掃討の追撃で命からがら辿り着いた先は鹿島村...現在の鹿島町下蔵持に土着する事となる。渡爺様のお父様、寛(カン)氏は、やり手の実業家であったらしい。爺様の母君、江戸っ子のヤスさんは小名浜のかつて賑やかであった中島という街で、三味線の師匠として多くの弟子養成にあたったと云う。爺様は子供の頃、周囲から「お師匠さん」と敬愛されるヤスさんを自慢に思っていた。三味線と端唄のお弟子さんが昼夜出入りする家で、自然に覚えた唄も、ヤスさんの前では「ああ、駄目だよ。訛っていてお話にならないね」と一蹴されたと嘆く。深川で産まれた爺様は、実際生粋の小名浜ッ子。ともあれ親譲りで、爺様の声は色気があり、歌は上手いのだ。そう思うと、先祖から受け継ぐDNAも、立派なエニシだなあ...なんて思いませんか。今、この話を綴るにあたり、参考にしている爺様の原稿用紙の最後には「そのヤスさんの芸の美学が、やがてひ孫にあたるひろみに継承されることとなるから不思議なものだと思う」との結び。”芸は身を助く”と口癖のように聞いていた言葉も、私自身、今となって時に身に沁みて、そして感謝するのであった。
余談だが、明治•大正•昭和を跨いで愛された映画館が小名浜には在った。芝居小屋から始まった「磐城座」から「いわき座」へ、そしてグリーン劇場とローズ劇場が併設されたイワキ会館へ。大正の終り、小名浜に娯楽施設が無い頃の話、この磐城座の設立に寛曾爺さん、一役買ったとのこと。爺様の記憶が薄れる前に色々書いておいて、と頼んだ歴史話は想像以上に、小名浜と共に在った人生が描かれていた。さあさ皆様、小名浜のザ•生き字引とは、94歳のこの橋本渡さんの事でございます。...先祖代々、紡ぎ紡がれのエニシ話、第2話結びます。