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フタコトミコト

人との”逢い"と大きな愛を歌いますSoul Singer、爆走の日々!!!

五月の陽射しから

2014-05-28 20:48:47 | 東日本大震災自己記録
いわきの、水石山と同じよりその上の標高だという。この塩尻は…標高約600メートル。先日は海抜二メートルの小名浜。

まるでヨーロッパのような公園がすぐ近くにある。信州まつもと空港をぐるりと取り囲むその周囲は、まともに歩けば10キロある。割愛して6キロ位を二時間ウォーキングしたら、腕が真っ赤に日に焼けた。今日は二日目、明日は日焼け止めを塗らないと駄目だなあ。

その近くに品揃え豊富なフラワーセンターを見つけた。もの凄い花の種類。苗も切り花もだ。目移りしていると、隣にいた老夫婦が「今年は鶯があまり鳴かないな」「ええそうねえ」と話している。公園では、鶯の声が呼応している。これでも、地元の方にとっては、鳴いていない方なのだろう。鶯の鳴き声で目覚める朝もあるくらいだ。

久しぶりに寄せ植えをした。
不思議な位、2011年より前の生活の記憶が抜け落ちているのだ。この感覚は、自分だけではなかった。先日、日々の新聞社さんで、大谷さんと大越さんと話していた時のこと。
「震災前もそうだけれど、震災より一年間の記憶がない」と一致した。私はもしかすると、この一年間は、驚きの連続に見舞われたので、出来事の記憶は鮮明だが、日常生活が一変して、前の記憶が封印されてしまったようになっていた。この二日間に、少しずつ蘇る。

家人に おかえり という感覚、ご飯の支度、この感覚もだ…。違うのは、浜の風ではなく、乾いた山の風。違うのは、海からの船の警笛ではなく、高速道路を走る車の音。
「四年目の今を、どう生きるか、四年目のいわきを、どう描くか」と3人での会話は終了した。

それぞれの今を生きている。
生きてこそ、変わる。生きてこそ、進む。生きてこそ、思い出す。

猫の額ほどの小さな庭が小名浜の長屋にあった。後藤のおじちゃんが大切にしていた植木の数々を思い出す。サツキ、ツバキ、ああ、これからは鈴蘭が所々に顔を出し、可愛らしかった。今は、新しい土地主が家を建て、駐車場として埋め立てた。その地下には、何の根っこ達が眠っているだろうか。強い強い木香薔薇だろうか。

本当に久しぶりに寄せ植えをした。小さな小さな庭に。


生きてこその今

2014-03-11 23:52:36 | 東日本大震災自己記録
朝早くの高速バスに乗った。
母と小名浜港前のうろこいちでお昼を食べた。
じいちゃんばあちゃんとの他愛ない会話。
可愛くて仕方のない姪をかまって、
妹に誕生日プレゼントを渡した。
アイスを食べながら妹が、

「これって去年と、一昨年と同んなじ風景じゃん!」と言った。

「わざとそうしてるんだよ!」

だって、この日常でさえ、
いつもあるものではないのだ、と
あの時そう教わったのだから。

ラジオが救ってくれた。
妹と携帯は繋がらなかった、
けど魂が繋がった。
結果、私達は津波から逃れ、再会した。

生きてこそ、の日常がどれだけ大事かを噛み締める日。

それぞれの生活が変わり、
それぞれに思う悲しみ悩みは計り知れない。
もし、私がそれぞれの立場なら…
と思うことも烏滸がましい。

私は自分の人生と日常を精一杯に頑張る。
元気があれば、まず、家族を明るく出来る。
そして周りをも。

人々がそれぞれの形で、人を想う日。
それは大きさや数や範囲や、
手柄で計ることではない。
冷静な視点と対応力をいつでも持ちたい。

2014.3.11
菅波ひろみ








2011年3月11日の記憶と、ラジオに寄せる想い。

2013-03-11 11:27:37 | 東日本大震災自己記録
2011年3月11日、いわき市岩間町の海岸前の妹の家で一人留守番をしていたあの時、大きく大地は波打った。家裏の崖崩れで辺りは砂埃が舞い、近くの火力発電所の煙突は水蒸気爆発を次々に起した。震えが止まらず、とりあえず駐車中の車に乗り、妹達を待つか逃げるかの選択に翻弄した。ふとラジオをつけるとSea Waveから津波到達時間の声。あと20分...懸けた。妹達は小学校に避難しているはずだ、急いで小学校に行って確認しよう、車を走らせて小学校へ着くが校庭が大陥没し辺りは困難を極め探すすべもない。海へ戻ろうと試みる...だけどあまりの怖さにスーパーの駐車場で震えた。戻ったら?...のまれる。でも助けなければ...もし避難していたら?ラジオは到達時間まであと3分。
諦めと絶望感で小学校へ避難する車の列に並んでいると、赤ん坊と小2の男の子を連れた妹が走っているのを見つけた...!

...そう、ラジオが、私の行動を支えた。
その後すぐに、関西の友が、私の事を思案して、FM802のDJヒロ寺平氏に私のCDを渡し、私の歌へは沢山の方の想いを寄せて頂けることになった。
だからラジオ局を、今年、歌を持って、自足で回ろうと決意した。
震災を機に、FMは地域での横の連携を頑にし、各地ではコミュニティFMの開局や、防災への意識をより高め、地域により密着させた体制を築いてゆく。長野 KBCラジオ、FM西東京、調布FM,佐賀FM, ふくしまFM, FMココラジ, いわきSea Wave, 愛知県一宮 I-wave, そして大阪FM802...局の皆様、DJの皆様、局へ繋げて下さった友人達、そして、リスナーの皆様へ感謝を込めて。

未だ続く困難と力強さの狭間に人々は日常を築いてきた。
忘れては思い出し、立ち止まっては越えて。
生きてこその日々を誰もが大切に、そして失った命へ尊い祈りを永遠に。
あの日と同じ冷たい風と暖かな春の陽射しの下、
人々は傷みを感じ、今を愛おしく、これからに強く誓うだろう。

ーいわき市小名浜より祈りを込めて。

(写真は被災したいわき市岩間町)

過ごし方、捉え方...

2013-02-11 21:54:58 | 東日本大震災自己記録
311周辺はイベントはしない、参加しない。

福島市など色々あるようですが...
海側に住む者にとっては、
イベントという過ごし方は今の所、ない...
どんなに家族が大事か、知らされた日。
沢山の方が亡くなった日。
だから、静かに祈り、家族と過ごします、いわきで...

妹家族は、未だ荒れ地の岩間海岸で過ごす。
私は、小名浜の段ボールは10コ以上、そのまま。
知らぬ遠い地で故郷を思う...
今、何故、この地に居るのかを問う...
色々です。

あと、一ヶ月で2年。







文字数制限超過。

2012-09-12 01:44:46 | 東日本大震災自己記録
早く寝たのでまた目が覚めた。
あーあ。
おまけに嵐の川の中をこれから泳ぐ、
なんて嫌な夢から覚めたわけで…

震災から一年半…てことで、
何か気取ってtwitterで
限界文字数びっしり宜しく書く気はなし。

福島県から出た者の半数は、
地元に戻る気持ちが薄れているというニュース。
捨てたわけでもキライになったわけでもない、と思う。
ー日々は毎日で作られる。
忘れたいわけじゃない。
一刻も早く毎日を日常を立て直して、
おまんまを食べなきゃいけないからと、
あの時、会社をその土地でやっていけないと、
判断して移動した人も少なくない。
家族を、従業員の生活を守るために…
地元を捨てたわけじゃない。
その土地でまた新しい日常が形成されてしまったんだ。
ー移転が果たして正解なのか、誤りなのか、
罪なのか、未だ苦しんでいる人も沢山いると思う。
誰もが簡単に呟ける内容ではない。
県外に出たことが罪と感じ悩む人も、
実際多い、だろう。
あの時、誰もが生き延びなくてはならない、
究極の選択肢を迫られた。
それが今に結びていているということ…
SNSに書かぬとも、それぞれがあの時の選択と、
今ある日常とこれからの事を思ってる。
責めることでも、人がジャッジすることでもない。
見えない湿っぽい感情はまだまだ続く。
私は…彼の決めたことを支えたかった。
よく、守ってくれたと思う。
でも、全部を守ろうとしたのはおこがましく、
無理なことだと彼は時折遠くをみる。

月に二回は地元に戻る私。
恐らく、前のここでの日常に記憶が執着しているのだろう。
今日は高速バスから降り、
馴染みの魚屋に寄ることで癒された記憶…
お土産だよ、と渡せば喜ぶ家族の顔…
あんなに仲の良かった友人たちとも全く会ってない。
帰ってるよの一言さえも躊躇してしまう。
気にしてないわけじゃない。
境遇が違ったことで、分かり合えないんじゃないか、
と恐いんだと思う。
明日は震災以前から変わらず続くレッスン仕事。
続けるを守ること、
生きることは常に変化していること、
そう今を受け入れることしか出来ない…

雷止んだ。
雨は強い。
地震の時の天変地異を思い出す。
この節目にこの天候は恐怖と虚しさを煽る。
濁流を昇らなきゃいけない使命感を抱いて、
川には戻りたくないな…





そしてまた日は暮れる

2012-03-27 22:23:26 | 東日本大震災自己記録
昨日は代官山で個人ヴォーカルレッスンを終えたあと、
お気に入りの代官山蔦やでぼーっと。
予定外の本を三冊購入。





今朝10時前に新宿から松本行きの高速バスに乗る。
松本駅着いたの、15時。
通常の2時間遅れ。
そこから、超ローカル線に乗って(自分でドアを開ける列車!!)
3駅目。そこから徒歩10分...
ドアの前に厚くはだかる田舎の高校生は微動だにしない。
長野、のんびりし過ぎ!
もうね、泣きたいっす。
連日移動、金銭、時間共に消耗。
だが、今は仕方ない...のか。
家族の嬉しそうな顔は何にも替えられぬ...

毎日音楽の刺激に塗れたい!
っていわきの時ももがいていた。
地方在住をネックに思っていた日々、場所を山間に移してそしてアゲイン。



人生の深さが増せばまたヨロシ。

ってことで締めますね。
本読んで眠ろう...

もっと大変な人は、まだまだ多く、多く、いるのだから...

坂の上の向こう側

2012-03-25 03:10:58 | 東日本大震災自己記録
あー10時に寝たら起きちまった。
長野に着き、ちょっと一週間移動続きで疲れたか。
七日のうち、家の布団が3日も違うって…。
でも安心して眠れる夜があるのは有難い。
先日、妹の住む岩間海岸を歩いた。
軒並み無くなった家々の後にはもう何も建たないだろうな。
津波の来る前をゆっくり思い出した。
小さなこの集落には、昔ながらの大きな家ばかりだった。
新しめの家は数える程だった。
考えてみたら甥はこの辺に遊び仲間が居なかったわけだから…
お年寄りばかりだったこの集落には、
もう家は建たないだろう。
高台はなく、山の下の小さなポケットのよな場所。

集落の奥、妹の住む家の上の山を越せば小浜海岸に抜ける。
そこへ行くには名所である極どいUピンカーブを通る。
411に崖崩れを起こし、通行止めになったその坂とカーブを少し歩く。
土砂でねじ曲がったままのガードレールはそのままだ。
大きく亀裂の入ったままの路面にはタンポポが顔を出している。
坂の上まで走ろう、甥と競争した。
一年ぶりに望んだその坂の上の向こうの集落は、
人気なく寂れた雰囲気が漂う。
野良犬がいて恐いから、と妹が言い、私達はその先には行かなかった。
確認すると坂での幾枚かの写真が消えている。
途中、何かのボタンに触れてバグったのを覚えてる。
まあ、そのせいだろうが、震災後の写真を撮るのは
やはりよろしくない。
浜辺にある、とうばに手を合わせた。
歩いている途中、菜の花やスミレが所々逞しく咲き誇っていた。
そのたんびに姪は小さな手を合わせる。
とうばに花が添えられていて、そこで「お祈りしてね」と
言ったからだろう。
この小さな心には、どんな思い出として宿るのだろう。
五月には二歳になる。

東京では刺激と興奮の渦の中の知り合い達。
"今日は楽しかった!"と様々なSNSで語る。
メジャーの華やかな舞台で活動する仲間、
レコーディング、ライブ、それぞれが切磋琢磨する
彼らの日常。
私は違う日常にいる。境界線を引くわけではなく、
より自分の感を信じて生きたいと、
通り過ぎる車窓際、思うのであった。







去年の3月後半記【震災後備忘録】ー守る人が居てこその家ー

2012-03-24 11:08:23 | 東日本大震災自己記録
おはようございます。
生憎の雨ですねえ。
これが過ぎると春到来、なのでしょうか。

去年の今頃、の記憶がぽちぽちと蘇ります。
3月23、24日は、大阪WAZZ、名古屋Slow Blues と決まっていたツアーを、
何とか決行したのでした。
そして本当に沢山の方に、FM802を通して、バンドメンバーを通して、
ライヴハウスを通して、お客様皆様、友人達、沢山の方々に支えて頂きました。
感謝の日々でした。


そうだ。去年の今頃に決行を決めた頃は、原発爆発でみな不安だった。
逃げた方がいいのか、このままもっと悪くなるのか。
本当に本当に私達は恐怖だった。50Km圏内とはいえ何一つ確かな情報が無い中、不安と恐怖しかなかった。
爆発から数日後、叔父サン(母の弟)が、「駄目だ、こっから移動すっぺ」と深刻な家族会議を持ちかけ、
じいちゃんばあちゃん、母、母の弟夫婦、私の妹家族は混乱し、一瞬泣くわ喚くわとぐちゃぐちゃになった。
結果、母の弟夫婦と妹家族は残ると言い張った。
じいちゃんは、ばあちゃんと移動すると決め、ある夜、叔父サンの会社のディーゼルトラックで
叔父サンが仕事先の近くにアパートを借りたという、その茨城県の神栖市まで旅立つことになった。
ばあちゃんは極度に乗り物に酔う。15分先でも移動が難しい。
じいさんも90歳の高齢だ。でも時間はない...ばあちゃんには睡眠薬を飲ませて、
狭い4トントラックの座席に、じいさんとばあさんを押しやった。
高齢でだいぶ鈍っていたじいさんが、かつてのオーラを取り戻し、しっかりとばあちゃんの肩を抱いて、
「大丈夫だ、じいちゃんが守る」と言って手を振った。私や妹や母は空になった二人のベットを見て、
一晩中泣いた。津波にやられ、大きく波うった海岸線ひた走って6時間、
午前3時、彼らは無事神栖に到着したのだった。
二人の居ない家は、まるで、別の家だった。家というのは、誰かが住んで、守って初めて家というのだと
改めて思った。私達の中での彼らの存在の重さを改めて痛感した。
ずっとばあちゃん家に皆寄り添っていたので、向かい側の私と家人の家も、
がらんと寂しそうだった。めちゃめちゃのままだった。

83歳にして、初のアパート暮らしを体験した栄子ばあさん。


「まるで新婚旅行した気分だったわね」と今となっては思い出話...かな。


母と良く散歩をした近所に。


この周辺にも津波の跡が。道路は液状化により、潮の噴出した場所が点在した。

私は、大阪と名古屋に行く事を決意した。
私と母は、その次の日の夜中に叔父サンと神栖に向かう事になる。
電車も高速バスもガソリンもない中、東京に出る事さえ困難だったから、
ディーゼルが動くうちに、お前も移動しておけと叔父サンが言ってくれたからだ。
叔父サンとは、一時誰もいなくなったいわきの市道を走り(まるで映画の世界!)、
水を汲みに出掛け、避難所に置いてきたりした。
彼はその夜も、会社の同僚数人に物資を運ぶと言い出し、トラックには私達の荷物の他に
カップラーメンやら缶詰やらを倍に積み、汚染されていたであろう気味の悪い強風の中、
市内各地で荷下ろしをし、ようやく神栖に向かったのであった。

そこから数日、神栖のアパートで母と二人で眠る。隣の部屋にはじいさんばあさん。
それから東京に移動、そして、ドラムのテツの車で関西に向かうのであった。
家人はその後、長野に住居を移すことになる。


いわきと東京と長野に未だ私達の荷物は分散している。
家と呼べる所は3つあることになる。
今週は、いわき、そして、東京に戻り、今日はまた長野に発つ。
去年は想像は出来なかった絵図だが、日々大切に進むしか無い。
未だ未だ避難所の生活をされている方も沢山いる。
警戒地区で家に戻れない方も沢山居る。
嗚呼、沢山いる、の表記のなんて冷たい事...ごめんなさい。
だけど数字の把握でもなく...多くの人の居ない「家」が取り残されていることは事実。
住んでこその、家...家族が帰る、そして日常が息づく所....
早くそれぞれが安らぎの空間を取り戻せますように...

私の小名浜のかつての家の跡には、3階建ての素敵な家が完成間近だ。

はまだまだ続く....

輝ける命のともしび。

2012-03-12 02:33:52 | 東日本大震災自己記録
嫁に出て、もう12年になるが、
母との別れ際がこんなに寂しかったことってないな。
いつも、近くに住んでいたし、
この9年はずっとばあちゃん家の前に住んでいたから。
今度また大きな地震が来たら...?
これが最後の別れだったらどうしようー、そんな想いが瞬間過ってしまうのであった。

土曜日、いわきアリオス中劇場の観客席に座り、ステージ、
そして辺りを見渡す。
2年前、10周年記念ライヴをした所。
中々の大きな会場だったなあーと何だか遠い昔に感じた。
長く活動して来た町なのに、何だか知り合いの居ない、馴染みの無い町に感じたのは
何故だろう。

市民シェイクスピアの舞台も、良い具合に、
自分の作った曲が、物語を熟知した俳優達によって、
すくすくと劇中で育てられてきたのだなと、
歌う部分では、何だか子を見る親の気分で見守っていた。
劇鑑賞は殆ど初体験。だけど、知らないあたしが観ても気軽に楽しめる、
間宮監督のエスプリが随所に効いた、粋な劇だった。
(初めてあったときに、監督自身も芸者街で育ったと聞いた。
役者のセリフに”ちとてんしゃん”が聞こえて、ほくそ笑んだ)
もっと私自身が、彼らとの触れ合いがあったら良かったなあと思った。
(まあ休養に入ってしまったので仕方ないが)

今日は...
去年の今頃は...と思い出される瞬間はこの一日に何度もあって、
だけど、なるべく、家族との今を大事に、
家族のそれぞれの笑顔が、今日は大事に出来て嬉しかった。
思い出すことは沢山ある。
陰に捉えれば、深みにはまってしまうことも多々あった。
疎遠になってしまった縁も...少なくない。(それは、自分がそうしてるのか...もしれない)
飲み込んだ屈辱もあったり...した。
そしてやっぱり、私は自分のことで、精一杯だった。
支援、復興...その言葉が降ってくれば来る程、
私は何も出来なかったと思う。

いわきから、長野は遠いと思った。
さっき家に着いて、道のりは遠いと思った。
群馬のあるトンネルを抜ければ急に銀世界が広がり、雪が吹雪き、
かと思えば、小諸辺りに雪はなく、満月に満たない月が低く笑ってる。
慣れない...


真夜中1時、インターのパーキングに止まり、
再度空を仰いでから、姨捨山の、その山合いの集落を望む。
この灯りの数だけ、それぞれの生活の営みがある。
”祈りは一つだ”と思う。
だけど、この灯りの数々を、身近に感じることは出来なかった。
知らない人、知らない街。私は被災者、貴方は...?
テレビ報道を見た後の気持ちはなんて影響されやすいんだろう。

東北の浜の街を彩っていた沢山の生活の灯火は、
今日、その生きていた証は輝ける永遠の魂として、
多くの祈りを持ってもう一度、火を灯された。
それぞれの立場は、そして痛みは、それぞれでないとわからない。
わかったふりは禁物...でも祈る。魂に向かって私達は祈る。

ー祭りが終わったような気分にさせられるのは、
テレビのせいだと思う。だけど未だ未だ何も解決してはいない。
生活においても、各自しっかり働いてゆくことを考えなければならない。
私は、家人との生活も大切にしなければならないし、
いわきの家族も大事であり、
自分の仕事もどんどん繁らせてゆく必要がある。
まずは、各自の軸ありきなのだなと思う。

『再生の灯火に』
聴いて下さって、みなさん本当にありがとう。

私の家族との幸せのひととき。

カメラマンは母、家人は仕事。

12日が誕生日の甥。今日の主役であった。
ひいばあちゃんとひいじいちゃんが居るってどんな気持ちなんだ?ジェイ。

バイバイと、無邪気に手を振る姪。
去年の今頃は赤ん坊だった。守れてよかったよ。