サッカーの指導に携わってみて面白いことに気がつきました。
それは、逆説的ですが「サッカーは教えれば教えるほど下手になる」という事実です。
一生懸命子ども達に教えこむ指導者が子ども達をダメにしている光景をたくさんみてきました。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
なぜ教えれば教えるほどダメになるのか
指導者としては、子ども達にしっかり教えなければいけないというように考えるのは自然なことだと思います。例えば
「ボールはこうやって蹴るんだよ。ドリブルはこうやってするんだよ。」
と手取り足取り教えます。
しかし、子ども達はできないんです。指導者はできるようになるまで一生懸命教えようとします。でも、子ども達はプレーしたい。できなくてもプレーしたいんです。
指導者は一生懸命、ダメなプレーを直そうとしてくれます。時には厳しく。「何度も同じこと言わせるな。しっかりやりなさい。」と。
そんなことを繰り返していくうちに子ども達は主体性を失います。言われたとおりにやらなければ怒られる。練習しなければ怒られる。失敗したら怒られる。そしてだんだんサッカーが楽しくなくなってしまいます。
それだけではありません。子どものやることなすことを強制し、矯正することによって好奇心は失われ、主体性は失われます。そして言われたことしかできなくなってしまいます。
つまり子供達自身が自分の頭で考えることができなくなってしまいます。
ですが、サッカーは状況に応じて考えて判断することが求められます。それができない監督の指示がなければ動けない指示待ち人間になってしまいます。これではダメなのです。
教育の本質は、教えることではなく、主体性を育むこと
サッカーが強い国と日本のサッカーの教え方の違いで面白い話があります。
日本ではまず相手がいないところでの練習を始めます。ボールの蹴り方、止め方から指導してしまいます。作法から入ってしまうのです。
一方でブラジルやアルゼンチンなどのサッカー大国は、まず試合をやらせます。
サッカーを「体感」させるのです。相手が邪魔をする中で、上手くボールをゴールまで運べないことを最初に体感させるのです。
そして子ども達に考えさせるのです。
「どうやったら相手を避けられるかな?」
「どうやったらゴールまでいけるかな?」と。
この違いが面白い現象を生み出します。
「日本人は練習ではものすごく上手いけど、試合では下手くそ」
逆に海外の強い国の選手は、
「練習は下手くそだけど、試合だと上手い」
つまり、相手がいない場所では上手くボールが蹴れても、試合で相手がいる中では上手くボールが蹴れない。こういうことが起こってしまうのです。サッカーの基本はインサイドキックなどではなく、”駆け引き”なのです。
日本サッカーは本質がスッポリ抜けてしまっているのです。これはよくよく考えてみると、教育という大きな括りの中でも同じような問題があるのではないかと思います。教育の基本は教科書を暗記させることなどではなく、”主体性を育むこと”なのです。
教えれば教えるほど下手になる現象はきっとこの主体性を育むということをないがしろにした結果なのだと思います。
人間は他人に何事も教えることはできない
ガリレオ・ガリレイはこう言いました。
「人間は他人に何事も教えることはできない。ただ、自分の努力でそれを発見するのを、手助けするだけだ」
きっとこの言葉は真実で教育の本質とはこういうことなのだと思います。子どもの可能性を伸ばすということは、主体性を育むことであり、それは好奇心を刺激してあげることなのだと思うのです。
ですから私たち大人が子ども達の成長を促すためにやるべきことは強制や矯正ではなく、好奇心をくすぐる仕掛けと、自分で考えること、判断することを習慣付けてやることなのだと思います。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…