溢れスパーク

あなたは私の心は行かせます

しかし、、、アタマでっかちは良くない

2017-05-29 12:49:25 | 日記

文字は、自分の思いや考えを表す、伝える。

手段として、一番、手っ取り早い。
書き手も読み手も、共通の言語を読み書き話していると、相互理解しやすいdermes 脫毛

これはあくまでも手段であって、なにを伝えるかが要である。

最近、わたしは、自然界の映像などを見ると、深いものを感じる。
ナレーションや解説など一言もない。

つい最近、行ったポルトガル。
ここに関して、前以て全く勉強、下調べしなかった。
知っているのは、学生時代に学校で、ざっくり習ったことだけ。
あとは、知人の「何もないとこやで。そんなとこ行って何を見るの?」の一言。

説明は要らない。
見たもの、感じたものが全て。
だが、観光立国にありがちな、見せる美しさであることを忘れてはならない。
美しい観光地は整備され、立ち寄るトイレ休憩の店は、最新の設備が整っている。
しかし、表に現れることがない、人々のナマの暮らしや喜怒哀楽などには触れることはない。
それがわかっていても、美しいものを修復し、維持し、整える継続力は素晴らしい。

それはそれとして、(至れり尽くせりの旅行が楽しいのは当たり前のことで、行ける人はいいよね、と、いろんな人
々、角度がある)

「知識は不要だ」みたいな新書を本屋で見た。
2000円もする、西洋人らしき著者の本で、ざっと立ち読み。
全くの無知は論外だが、知識に頼る、絶対的自信を持つことを諌めた内容で、全て同感。
知ったかぶりすることなかれ、知らないことは素晴らしい、未来に発展して延びる因子だそうだ。
知識は毎日毎秒、更新されなければならないので、自分の知識にあぐらをかくな、というかんじの内容。(咀嚼、わ
たし風解釈)

知識だけでなく、感性も変化するはず。
文字だけに頼らない伝達、伝授、
浅知恵だったり無知だったりする、そこから深いもの、真理を読み取ることがある。

伝達能力のないものから、なにかを読み取るのは、受け手側の洞察力や感性に他ならないと思う。

なので、文字ばかりに頼らない、自由な時空、発想、感受性も大事だなあと思う今日この頃だ。


うどん屋の釜、らしい

2017-05-22 10:37:51 | 日記

母を見ていると、30年後の自分の姿が見える。

娘を見ていると、30年前の自分の姿と重なる。

孫を見ていると、
(成長して)今はまったく別の生物体となってしまった子ども達の姿を思い出す???はずなのだが、
初めて見るかのごとく。
自分が子育てしている頃は、一日一日の成長ぶりに感動する余裕などまったくなく、
どうやって育ててきたのだろう???と、首を傾げる。

例えば、夕食。
娘が、孫に食べさせていると、娘は自分の食事がさえぎられる。
大変だなあ、自分のご飯もゆっくり食べられないで、と気の毒に思う。
わたしは、上の孫(2歳)の食事介助は出来ても、下の孫(1歳)は、気難しいし、食事ルールがあるようだから、
へんに手を出して、ややこしくなるよりも、母親である娘に任せる。
自分の時はどうしていたのだろう???と、記憶の糸を辿る。

あ、そうだ。
子供に食べさせるのが精一杯で、自分は同時に食事しなかったと、たぶん思う。
それどころではなかったと。
あるいは、すっかり、まったく忘れて、アタマの記録紙が真っ白になっているのかも知れない。
その場その場を切り抜けて、ただひたすら毎日を送るのみだった。

押しつぶされそうに次から次へと降りかかる、やるべきことが、どんどん肩に乗ってきて、
それを振り払っても振り払っても、次から次へと用事が新しく生み出されていった。
考える暇はないが、少しぐらい段取りや、効率性を考えなければ、山積みのまま処理しきれない。

全部、完璧に処理しようと考えると、ストレスの山になる。
大雨の時の車のワイパーのように、前が見える分だけ、どりあえずは、雨や雪を払いのける。
そうしながら、走る。

だから、子供が小さい頃のことをあまり覚えていないのだろう。
ワイパー作業に追われながらも、車を運転し続けなけれないけない。
車の外の景色なんぞ、見る余裕はなかった。

だから、孫を見ていると、うちの子供たちはこんなんだったっけ?と、どうしても思い出せない。
脳の回路に焼きつくヒマもないほど、全力投球の毎日だったのだろう。


今は、イクメンが、重要な子育ての役割を果たしてくれる。
一昔前は、イクメンどころか、子供が一人増えるかんじで、夫が家に帰ってくると手間が増えるので憂鬱になるほどだった。

その夫の代わりに、夫の両親、主に義母が、子育てをサポートしてくれた楊海成
あの時は感謝していたが、夫が父親になる試練の場を、先回りして、先々、夫の母親が奪ってしまったのかも知れない。
夫は子育て戦争にはまったく巻き込まれず、「のうのうと」(この表現には悪意とウラミが込められていますね)
仕事や遊びに精を出していたと言える。

その場その場がしのげればよい、と考えていたわたしは、義母の援助には、こころの底から感謝した。
が、家族という車の両輪の片方は、義母になり、夫との両輪は、築かれないまま、今日に至る。
昔の男性、父親は、そういうものかも知れない。
が、権限、威厳があった。家父長は重いものを背負っていた。

重いものは親が背負ってくれ、いつまでも子供のまま歳を重ねている。
これは、夫だけでなく、わたしにも言えることだろう。
親なき後、いったいどうするつもり?

なし崩し的に消滅していく恐れをわたしは抱いている。
せめて、ぐっと足をふんばり、崩れていってほしくない部分を支えたいと考える。
実践するために、その部分は、どんな部分なのか、形を明確にしたい。

土砂降りの中でのワイパーを必死で作動させる時期は卒業した。
これからのわたしのワイパーは、車の中から、外をクリアーにはっきりと見えるよう、きっちり動かして、
車がいつ止まってもいいように、だが、車はどこに向おうとしていたかを表せたらいいなあと思う楊海成

後の人々(家族)にやってほしいと思うことを、自分でとりあえずは、体現したい。
自分はなにもしないで、なにかをしてほしい、と望むのは分が良すぎる。

時代の流れもあるので、各時代に生きる家族たちは、流れに沿いつつも、呑み込まれないよう、独自の道を模索して欲しい。

ただ、自分の意思、遺志を伝えるのは、文字だけでは伝達能力が低い。
これは、今、母がせっせせっせと毎日、文章を書いていてそれを傍らで見ていて、そう思う。
思いは、書くだけでは伝わらない。
行動しなければ。
(母はしっかり、めいっぱい行動していたが→我々、子ども達から大ブーイング)

母に若い頃、よく言われた。
「あんたは、うどん屋の釜や。湯(言う)だけ」
さすが親。的を得ている。

言うだけでは、なにも起こらない。
しかし、洗脳という手段もある。
洗脳は、巨大な行動力を生み出す。
しかし、わたしのこの年齢、行動力、能力からすると、今から洗脳は無理。
洗脳されるのも、洗脳するのも、両方、無理である。
第一、自分のアタマで考えられるようにしなければ、洗脳などというものには、恐れるものの、価値を見出さない。

自分の願うような方向に、自分が向うのは出来なくもないような(出来るような)気がするが、
人をしむけるのは、そうとうな力が必要である。
今更ながら、であるが楊海成

ただただ望みを言うだけでは、叶わない。
今まで、人を動かした経験がないので、どうにもこうにもできないだろう。
が、自分自身、悔いが残らないよう、長期戦で、行動してみようかと思っている。


うどん屋の釜、らしい

2017-05-19 14:39:03 | 日記

母を見ていると、30年後の自分の姿が見える。

娘を見ていると、30年前の自分の姿と重なる。

孫を見ていると、
(成長して)今はまったく別の生物体となってしまった子ども達の姿を思い出す・・・はずなのだが、
初めて見るかのごとく。
自分が子育てしている頃は、一日一日の成長ぶりに感動する余裕などまったくなく、
どうやって育ててきたのだろう・・・と、首を傾げるPretty Renew 銷售手法

例えば、夕食。
娘が、孫に食べさせていると、娘は自分の食事がさえぎられる。
大変だなあ、自分のご飯もゆっくり食べられないで、と気の毒に思う。
わたしは、上の孫(2歳)の食事介助は出来ても、下の孫(1歳)は、気難しいし、食事ルールがあるようだから、
へんに手を出して、ややこしくなるよりも、母親である娘に任せる。
自分の時はどうしていたのだろう・・・と、記憶の糸を辿る。

あ、そうだ。
子供に食べさせるのが精一杯で、自分は同時に食事しなかったと、たぶん思う。
それどころではなかったと。
あるいは、すっかり、まったく忘れて、アタマの記録紙が真っ白になっているのかも知れない。
その場その場を切り抜けて、ただひたすら毎日を送るのみだった。

押しつぶされそうに次から次へと降りかかる、やるべきことが、どんどん肩に乗ってきて、
それを振り払っても振り払っても、次から次へと用事が新しく生み出されていった。
考える暇はないが、少しぐらい段取りや、効率性を考えなければ、山積みのまま処理しきれないSmarTone 上網

全部、完璧に処理しようと考えると、ストレスの山になる。
大雨の時の車のワイパーのように、前が見える分だけ、どりあえずは、雨や雪を払いのける。
そうしながら、走る。

だから、子供が小さい頃のことをあまり覚えていないのだろう。
ワイパー作業に追われながらも、車を運転し続けなけれないけない。
車の外の景色なんぞ、見る余裕はなかった。

だから、孫を見ていると、うちの子供たちはこんなんだったっけ?と、どうしても思い出せない。
脳の回路に焼きつくヒマもないほど、全力投球の毎日だったのだろう。


今は、イクメンが、重要な子育ての役割を果たしてくれる。
一昔前は、イクメンどころか、子供が一人増えるかんじで、夫が家に帰ってくると手間が増えるので憂鬱になるほどだった。

その夫の代わりに、夫の両親、主に義母が、子育てをサポートしてくれた。
あの時は感謝していたが、夫が父親になる試練の場を、先回りして、先々、夫の母親が奪ってしまったのかも知れない。
夫は子育て戦争にはまったく巻き込まれず、「のうのうと」(この表現には悪意とウラミが込められていますね)
仕事や遊びに精を出していたと言える。

その場その場がしのげればよい、と考えていたわたしは、義母の援助には、こころの底から感謝した。
が、家族という車の両輪の片方は、義母になり、夫との両輪は、築かれないまま、今日に至る。
昔の男性、父親は、そういうものかも知れない。
が、権限、威厳があった。家父長は重いものを背負っていた。

重いものは親が背負ってくれ、いつまでも子供のまま歳を重ねている。
これは、夫だけでなく、わたしにも言えることだろう。
親なき後、いったいどうするつもり?

なし崩し的に消滅していく恐れをわたしは抱いている。
せめて、ぐっと足をふんばり、崩れていってほしくない部分を支えたいと考える。
実践するために、その部分は、どんな部分なのか、形を明確にしたい。

土砂降りの中でのワイパーを必死で作動させる時期は卒業した。
これからのわたしのワイパーは、車の中から、外をクリアーにはっきりと見えるよう、きっちり動かして、
車がいつ止まってもいいように、だが、車はどこに向おうとしていたかを表せたらいいなあと思う。

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時代の流れもあるので、各時代に生きる家族たちは、流れに沿いつつも、呑み込まれないよう、独自の道を模索して欲しい。

ただ、自分の意思、遺志を伝えるのは、文字だけでは伝達能力が低い。
これは、今、母がせっせせっせと毎日、文章を書いていてそれを傍らで見ていて、そう思う。
思いは、書くだけでは伝わらない。
行動しなければ。
(母はしっかり、めいっぱい行動していたが→我々、子ども達から大ブーイング)

母に若い頃、よく言われた。
「あんたは、うどん屋の釜や。湯(言う)だけ」
さすが親。的を得ている。

言うだけでは、なにも起こらない。
しかし、洗脳という手段もある。
洗脳は、巨大な行動力を生み出す。
しかし、わたしのこの年齢、行動力、能力からすると、今から洗脳は無理。
洗脳されるのも、洗脳するのも、両方、無理である。
第一、自分のアタマで考えられるようにしなければ、洗脳などというものには、恐れるものの、価値を見出さない。

自分の願うような方向に、自分が向うのは出来なくもないような(出来るような)気がするが、
人をしむけるのは、そうとうな力が必要である。
今更ながら、であるが。

ただただ望みを言うだけでは、叶わない。
今まで、人を動かした経験がないので、どうにもこうにもできないだろう。
が、自分自身、悔いが残らないよう、長期戦で、行動してみようかと思っている。


おしゃべり、べらべら

2017-05-12 10:49:36 | 日記

こんなことがあったのよ。
あの人ったら、ああ言ったのよ。
あれを食べたらこうで、これを買いに行ったらああで。

延々と続くおしゃべり。
ランチタイムや、カフェ。

あったこと、目についたことへの感想を思いつくまま、口にする。
ストレス解消になると思う。
幼児や子供が思いのままに話すように。

自分のことを知ってもらう。
自分の考えを誰かに話したい。
声を出す発声は、一種の声帯と口の運動。
内にこもるのではなく、相手のリアクションが欲しい。
相手の表情や声を楽しむ人もいるだろう。

ただただ話したいだけの人もいる。
自分を出したい。表現したい。
理解してほしい。同意してほしい。認めてほしい。誉めてほしい。
承認欲求を満たしたい人もいる數碼通寬頻
慰めてほしい。同情してほしい。
そういう人もいるだろう。


さて、わたし。
べらべらしゃべらないほうだ。
日常の出来事、日記的なことは、なんのために話すのか、よくわからないぐらい。

今日の出来事を、家族や友人に、夕食時や休日に話す。
これは、団欒で、良い時間だと思う。
話自体の内容に別にたいした意味はなくても、コミュニケーションである。
相互理解を深めると共に、親しみが増し、距離感を縮める。
あたたかい時間を共有する。

とすると、大して近寄りたくもない、仲良くなりたいと思わない人と、しゃべっても意味がない。
が、話しているうちに、好感を持つかも知れない。
食わず嫌いは、良くない。

街で、ぺちゃくちゃお話をしている人たちの話を聞くともなく聞こえてくると、実にどうでもいいことをしゃべっている。
文字にしてまとめたら、数行のことを延々と何時間もしゃべっている。
明らかに、感情を発散して、自分の脳と心をリフレッシュさせている。
ヨガや瞑想のような効果があるSmarTone 上網
人によって、精神バランスをキープする方法は、まちまちである。

わたしの発散先は、ブログやメール。
ブログは特定の人を対象にしていないし、コメントや、同意を強要しないから、迷惑はかけないが、メールは一対一なので相手に負担をかけるかも知れない。
LINEは、いちいち細かく反応するのは、煩わしいと思うので、家族としかしない。

ブログやメールやLINEも、日常のどうでもいい報告的なものはしない。
日常の目についたことや、重要報告事項、興味深かったこと、疑問に思ったことを伝える。
暇つぶしに、退屈しのぎには、決してしない。
と、偉そうに明言しているが、その割には頻繁にやっている。
退屈だからしているのではなく、やっていると退屈を感じるヒマがないだけで、実質的には、能動的か、受動的かの違いだけで、やっていることは同じである。

LINEの相手は家族の中でも、娘たちだけ。
彼らは、気がおけない人々(気を遣ってくれない人々)なので、無視されることもあるが、へんに無理して構ってもらうのも心苦しい。
いくら親娘だからといっても、もたれかかりすぎて、べったり重いのは避けたい。
「ごくたまに」重いのは、許容範囲内だと思っているが。

こんなことがあって、あんなことがあって、という、いつもの日常の出来事を話すのは、小学生ぐらいまで。
中学生にもなると、話さなくなると思うが
大人になっても、まだ、ぺちゃくちゃ話している人々を見かけると、ある意味、おもしろい。funny である。
が、愛すべき人々なのかも知れないSmarTone 上網

しかし、時として、電車内だったり、店内、至近距離だったり、声が大きいか、よく通る場合、うるさい。

それはそれとして、
他愛ない話を思いつくままに、感情的に話せる相手がいて、自分を洗いざらいさらけ出してアウトプットできる人や場があるということは、素晴らしい。
ただし、そういう関係を築いたり、維持したり、努力が必要である。


もう 信じよう

2017-05-04 11:43:56 | 日記

平均台を用心しながら歩いてるうちに

わたしにあった信じるちからがやせ細っていって

そのことばすら信じがたくなっていたdermes 價錢

 

でも静けさの中でわかったことがある

時がくれば

時間はかかるだけかかって想いをかなえる

 

焦りとか不安とか 煙りが晴れるまで待って

とっきんときんの冷たさを耐えて

何度折れても ほんとうに望むものをたどり

からだのずっと奥から信じ続けていれば

冬のある朝 赤いリボンのついた贈り物が届くように休閒椅

それと巡りあう

 

あの時耳をかすめただけのことば

ようやくわかったことがある

いつもじぶんの器にあるものしか受け取れないけど

ひっかかったことは いつか降りてくる

手間をかけたものは本物になる

 

変わる時は思いがけなく

どう転んでもだいじょうぶと知っていて

あくせくしないで まるごと観ていると

遠回りに見えても 本来あるほうへ変わってく

準備ができた時 水に石の沈んでいく静けさで

 

流れに小舟をのせるように

両手でそっと わたしたちを送ろう