25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

本当はデフレが進んでいるのではないか

2016年10月05日 | 社会・経済・政治

 3、4年前、僕は東京の貸し会議室を探して、そこを利用する立場だった。セミナーのためである。これには苦労した。尾鷲から東京へのJRが異常に高い上に、安い貸し会議室がみつからず、2万円とか時には3万円で借りていた。

 今年、貸す立場となった。すると世の事情は全く変わっていた。安い貸会議室が林立しているのである。安い貸会議室を集めたポータルサイトまである。一時間あたりの料金は驚くことに180円などというのはざらにある。一番よく使用される時間帯でも1000円というところである。要するに「空き室過剰」なのだ。この世界ではデフレが進行したのである。知り合いの息子が横浜の保土ヶ谷にアパートを探したところ、2万円7千円だった、ということにも驚いたが、おそらくこれも供給過剰なのであろう。

 安倍政権はデフレを脱却したというが、日銀は「石油安」「消費税」で名目成長率2%に至っていない、と説明している。2%増やすために金融緩和策を持続するという。

 昨日、ある炉端焼き店に夕方の五時半から出かけた。おかみさんは相変わらず無口で淡々と仕事をしている。客席は満席である。ところが客は飲むペースが遅く、食べるものを注文しない。僕ら二人だけが注文するばかりである。「こういう感じなん?」と聞くと、おかみさんはうなづく。

 食べ方、飲み方も変わってしまったのか。これは「節約飲み食い」である。おそらくここでもデフレなのだろう。すると庶民の暮らし、企業活動は本当にインフレの状況にあるのだろうかと疑わざるを得なくなる。政治政務費の不正もおよそ議員の将来の不安からくるものだろうし、このせこい事件が全国津々浦々みんなやっているような気がしてくるのも、デフレなのに違いない。サラリーマンは議員にはなれない。議員をするものは税金をせこさで、ちょっとかすめ取ろうとする。全国の地方議員から自民党が崩れていくような兆候が見える。やはり一党による長期体制はどこかから腐り始めるのだ。

 膨大に膨らんでいく国の借金もやがていきつくところまでいくはずだ。今東京都で起きていることはやがて日本国が舞台になっていくのではないか。十七年後には3件に1件が空き家になる、と新聞に出ていた。こういう予想でどうして経済成長を謳わねばならないのだろうか。いつも疑問に思う。


宇多田ヒカルのこと

2016年10月04日 | 音楽

  僕らは普通3歳くらいの頃に胎児の頃からの記憶が一度リセットされるように無意識の闇に沈みん込んでいく。その無意識の記憶がどのような色合で、どんな音で、どんな模様をしているか、闇はどんな闇なのか。それが一度成長過程でこれも無意識に出てくる時期がある。思春期だと思える。このころに彼女はデビューした。普通の人が味わう青春を味わうことができず、電車の切符一枚買うこともできなかった、という。そして27歳で「アイーティスト生活」から「人間活動」へと休止宣言をした。

  宇多田ヒカルは33歳になった。子供がいる。育児をすることで、乳児の頃、どんな風な子はどんなふるまいをし、どんな時に泣き、と自分の憶えていない3歳くらいまでのことを子育てをしながらいくらか確認できたそうだ。母親である藤圭子が死んでからいろいろなことを考えたのだろう。

 彼女は音楽活動を再稼働した。新しいアルバムは日本や海外でも大人気だそうである。北欧の国のどこだったかヒットチャート一位であり、今のところアメリカでは六位である。出たばかりだからまだ上がっていくのかもしれない。

 哀しげなトーンの宇多田ヒカルの声とその音楽は進化し、深化していることに我々は気がつくはずだ。おそらくアルバムの内面のテーマは「自分と母」である。語り尽くせない言葉よりも一束の花。孤独な道を歩いていても一人じゃない、あなたがいる・・・。切ないが音のとりあわせがよく、何度も聴いてしまう。「ともだち」という歌もよかった。「道」はやっと母を客観的に見えた彼女の越え方がわかるような気がした。

 心理学を学んだというよりも自分で考えたのだと思う。それは糸井重里が聞き手になってくれて語った言葉からもわかる。

 なんだか、ほとんどミュージシャンがぶっ飛ばされたような気がする。音の新しさ、コーラスの斬新さ、楽器の選び方、これまで誰もできなかったことをやってしまったと僕は思いながら、Songs の録画を何度も見ている。

 もうひとつ、桑田佳祐。健在である。彼の魅力のひとつにオマージュがある。わかっている人なら笑ってしまうが、わからない人には、なんだこの歌はとなる、そんな歌も多い。ところが前川清風のオマージュでもやっぱり桑田佳祐である。桑田の才能は青春時代であった昭和の懐かしみをほどよく持っているが、宇多田ヒカルの場合は、昭和のカケラもない。そしてクラッシクでもないポップスがここまできたか、と驚いてしまうのである。詩も練りに練られている。こういうアーティストが出てきたことにびっくりだ。こういうとき世界はすごい、と思う。