午後になっても、なかなか晴れ間は、望めませんけれど…
お気に入りの歌声を聴きつつ、好きな本など読みながら過ごしているうちに
アレヤコレヤと気がかりを抱えていても、気分も変わってくるものですネ!
テレビをつけると、スタジオパークに夏八木勲さんが出演なさっています。
今度の土曜日に、近代文学館で開かれる「方丈記私記」の朗読をなさるのを
聴きに行く予定なので、私も今からとっても楽しみにしています。
今は、朝のドラマの「だんだん」にも、ご出演とのこと。
俳優さんの佇まいやお声の発生や鍛え方、表現力などなど
やはり、ほんとうに厳しい鍛錬を重ねていらっしゃるのでしょうね。
その「堀田善衛展」も11月24日(月)までとのこと。
土曜日は、できれば早めに行って、展示のほうもゆっくりと観ようと思っています。
そうそう、PR誌「青春と読書11月号」に、小川洋子さんが
「『堀田善衛上海日記』を読む 巨人誕生の過程」という文章を
寄せていらっしゃいました。(以下引用)
『 私が最も心惹かれたのは、物事がきちんと定まっていない混沌とした場所に取り残された青年が、いかに自分自身の内面と向き合ってゆくか、という青春文学の王道とも言えるテーマが日記の中心に流れている点だった。』
「方丈記私記」では、昭和の時代の戦争の記憶と「方丈記」の書かれた時代とを重ねながら
鴨長明の目線と作者の目線が、交じり合っているように、私には感じられましたし…
時に私自身も、混沌とした中に放り出されているような感覚になることがありますけれど
その中で、自分の目線の拠り所になるものが、あるのやらないのやら…
読んでみたい本が、また一冊見つかりました。
サテ…
相変わらず「気になる本」もアレコレとあって
最後まで読みきれずに、図書館に返却することもしばしばです。
読みかけ、未読を含めて
自分のための備忘録代わりのメモを、残しておくことにいたしましょう!
(いろんな分野のアチコチに広がっておりますので…どこから拾っていけばよいのやら…?)
(福岡伸一さんの「世界は分けても分からない」で、お名前を知った)
* 団まりな著「性のお話をしましょう」(こちらは、とても読みやすく…面白くって)
同じく「細胞の意思」(こちらは、これから本文に目を通すんですけれど
写真もあって、生物好きにはウレシイです。)
後者のあとがきより、一部を引用いたしますと
「 もともと人間が自然の成り立ちを知りたいと思ったのは、何より自分たちがどこから来て、なぜここにいるのか、生きているとはどういうことなのかを、理解したかったからではないでしょうか。そのために自然を解析し、生き物を見つめてきたのです。こうした科学的な活動の結果として、今、私たちは整理に困るほどの膨大な知識を手中にしています。ここで複雑さから逃げては何にもなりません。個別の知識の糸を少しずつ紡いで、複雑なものの姿を描き出すための材料は、すでにじゅうぶんに蓄積しているはずです。
生きている私たち〝人間〟を知るための最初の一歩は細胞から。生き物の最大の特徴である〝自発性〟の根源としての細胞を理解できずに人間を理解することはできないでしょう。その細胞は、膨大な種類と数の化学反応の、想像を絶するほど複雑なバランスのうえに成り立っているものです。走り続けることで成立しているようなこのシステムを、分子メカニズムとしてとらえ尽すことはできません。
…私たちが細胞を〝生き物〟と認めることができさえすれば、これまで気付けなかった多くのことが見えてきます。細胞を私たちと同じ生き物と認め共感をもってこれに寄り添うことが、やり方によっては決して擬人的でも、情緒的でも、非科学的でもなくできることを、私は本書で実例を持って示したつもりです。』
これまでに、知らず知らずの内に身についてしまった潜入観念などを忘れて…
読み進めてみたい本ですね!
(検索してみたところ、偶然「クオリア日記」に、お写真を見つけました!)
ということで、茂木先生の「クオリア日記」でお名前を伺った
* 高安秀樹著 「経済物理学(エコノフィジックス)の発見」
(私の最大の苦手の物理と経済の融合とは?結局よくわかりませんでしたけれど
よくニュースの中で「経済」に対して、生き物のような言い方をされたり
一方、物理で扱うような法則性が適用されて解析されていたりするらしく…
実態があるのか?ないのか?も、さだかでなくて
いつか私の理解の及ぶ言葉で説明していただけると、うれしいんですけれど。)
* 伊勢田哲治著「哲学思考トレーニング」
(まだ、序の「哲学的クリティカルシンキングのすすめ」を読んだだけですけれど
その部分だけでも、私にとってはとても興味深いことが書かれています。)
「ほどよい懐疑主義」
「情報の質を高めるための共同作業」として(以下引用)
『そこで、本書では、クリティカルシンキングというものを、情報の送り手と受けて両方の共同作業の中で、社会において共有される情報の質を少しでも高めていくためのものの考え方、としてとらえる。実際、きちんとした議論にもとづいてきちんとした主張をするためにも、他人の主張を吟味するのと同じ技術や知識が役に立つはずであるから、コミュニケーションの両側にかかわるものとしてクリティカルシンキングを統一的に扱うのは、けっこう筋が通っているのではないかと思う。』
最後まで読み進められたら、私がぜひ詳しく知りたいのが
第5章「みんなで考えあう技術―不確実性と合意のクリティカルシンキング」に
ついてでしょうか?(以下引用)
『第5章では、合意形成のプロセスについて考える。みんなで何かを決めなくてはいけないという文脈では、…たとえば、不確実性の大きい状況で判断を下す際にはどうしたらよいのか、人々の意見の違いについてどう考えたらいいのか、価値判断と事実判断が複雑にからみあう問題についてはどう考えたらいいのか、などの話題をこの章でとりあげる。』
「哲学」も、私には、まったくと言っていいほど捉えきれないからこそ…
とっても気になる分野なので
少しでも、そのシッポあたりに取り付くきっかけをいただけたら、うれしいんですけれど。
(次の本は、著者名を「三冊屋のサイト」から拾って、ところどころ読みました。
そうそう、新宿にできた新しい本屋さん(ブック1st)の中に、三冊屋のコーナーがあるそうで
開催期間は限定で、12月17日までの予定とのこと。)
*ローレンス・レッシング著「フリーカルチャー」
専門的なことは、皆目わからない私ですから、
自分勝手に気になったところだけを、以下に引用しておきますと…
『 サンフランシスコのプレシディオ通りを走るとごつい黄色のスクールバス2台が、色とりどりのハッとする絵で覆われ、学校の名前のかわりに「Just Think!(考えてもごらんよ)」と書かれているのを見かけるかもしれない。でもこのバスが可能にするプロジェクトで、単に頭の中で考えるだけのものはほとんどない。…Just Think!は子供たちが映像を作ることを通じて、身の回り至る所に見つかる映像を理解し批評できるようにする。(中略)
「メディアリテラシーとは、メディアの映像を理解し、分析し、構築しなおす能力のことです。」とJust Think!の代表デイブ・ヤノフスキーは語る。「狙いは(子供たちに)メディアの働きやその構築方法、配信方法、そして人々がそれにどうアクセスするかを理解してもらうことです。(中略)
学者や社会活動家の世界では、こうした形のリテラシーが次世代の文化にとってきわめて重要であると考える人が増えている。というのも、ものを書いた人は誰でも著述の難しさを知っているのに―話をつなげて、読者の関心を逃さずわかりやすく言葉を紡ぐのがいかに難しいことか―メディアがどんなに難しいか実感としてわかっている人はほとんどいない。あるいはもっと根本的に、メディアの仕組み、観客の捕まえ方、物語の導き方感情をあおったり緊迫感を高めたりする方法について、具体的に知っている人はほとんどいない。(中略)
「読むだけ」。よそで作られた文化を受動的に受けるだけの存在。カウチポテト。消費者。これは20世紀のメディアの世界だ。
21世紀はちがうかもしれない。これが重要な点だ。それは読み書き両方の世界になるかもしれない。少なくとも読んで同時に書くという技法を最もよく理解する世界。あるいは一番いいのは、読んで、その世界が導いたりわざと曲解させたりするのに使う道具立てを理解するような世界。あらゆるリテラシーの狙い、なかでも特にこのリテラシーの狙いは、「自分たちが作ったり表現したりするために適切な言語を選ぶ力を人々に与える」ということだ。それは生徒たちに「二十一世紀の言語で意思疎通ができる」ようにする。』
『でもアメリカでは、ブログはまったく別の意味を持つに至った。単に私生活について語るためにこの空間を使う人もいる。でも多くの人はこの空間を公開対話のために使っている。公共的に重要な話題を議論し、見方の間違っている人を批判し、政治家の意思決定を批判し、みんなの見ている問題に解決策を提案する。…
このちがうサイクルが可能なのは、ブログには他の方式のような商業圧力が存在しないからだ。さらにブログと主流メディアとがちがうサイクルを持つ第2の理由がある。…この運動の父であり何十年にもわたるソフト作者であるデイブ・ワイナーが話してくれたようにもう一つの違いは金銭的な「利害衝突」の不在だ。…「アマチュアジャーナリストにはなんといっても利害衝突がないか、あるいは利害衝突が簡単に開示できて、それをいわば問題にしなくていいのがわかるんだ。」』
(第2章の中だけでも、こんなになってしまって、引用していたらキリがありません。
もっと本論の部分の大切な記述もあるとは思いますけれど、その前に止めておきます。
そういえば、訳をなさっている山形浩生さんという方のお話が…
以前読んだ「〈ことば〉の仕事」という本の中にありましたっけ。)
ネット上でのあれこれは、きっとほんとうにどんどん進んでいるのでしょうけれど
これからの子どもたちにとっては、どんな風に受け入れられていくのでしょうか?
何十歩も、後からにせよ…
私にも、その全体像のあらましを見通すことができるのかどうか???
できるところまで、少しでも把握していけるように、
どなたかに、ぜひわかりやすく教えていただきたいものデス!!
相変わらず、書きながらも「ブログの取り扱いについて」
まだまだよくわかっていない私ですけれど…
どこかのどなたかのブログのご紹介で、目に留ったのが…
*日本経済新聞社編「日記をのぞく」です。
ごく短い日記の抜粋から、作者の姿を想像するのはとても難しいんですけれど(以下引用)
『日記を介して「その人物の生き方や考え方を探る」という意味を込めて「のぞく」という言葉を使っている。』とのこと。
その作者の作品への興味をつなぐ橋渡しに、なるかもしれませんね。
また、これから読んでみたい「気になる本」が見つかりそうです!!
夢中になって、本のお話をしているうちに…外も暗くなってきて
とりあえず、無事に(?)kirikouも、学校から帰ってきました。
家にいるときくらいは…
母としても、うるさいことをなるべく言わないようにして
少しでも、ゆったりとした時間を過ごせますように~!!
お気に入りの歌声を聴きつつ、好きな本など読みながら過ごしているうちに
アレヤコレヤと気がかりを抱えていても、気分も変わってくるものですネ!
テレビをつけると、スタジオパークに夏八木勲さんが出演なさっています。
今度の土曜日に、近代文学館で開かれる「方丈記私記」の朗読をなさるのを
聴きに行く予定なので、私も今からとっても楽しみにしています。
今は、朝のドラマの「だんだん」にも、ご出演とのこと。
俳優さんの佇まいやお声の発生や鍛え方、表現力などなど
やはり、ほんとうに厳しい鍛錬を重ねていらっしゃるのでしょうね。
その「堀田善衛展」も11月24日(月)までとのこと。
土曜日は、できれば早めに行って、展示のほうもゆっくりと観ようと思っています。
そうそう、PR誌「青春と読書11月号」に、小川洋子さんが
「『堀田善衛上海日記』を読む 巨人誕生の過程」という文章を
寄せていらっしゃいました。(以下引用)
『 私が最も心惹かれたのは、物事がきちんと定まっていない混沌とした場所に取り残された青年が、いかに自分自身の内面と向き合ってゆくか、という青春文学の王道とも言えるテーマが日記の中心に流れている点だった。』
「方丈記私記」では、昭和の時代の戦争の記憶と「方丈記」の書かれた時代とを重ねながら
鴨長明の目線と作者の目線が、交じり合っているように、私には感じられましたし…
時に私自身も、混沌とした中に放り出されているような感覚になることがありますけれど
その中で、自分の目線の拠り所になるものが、あるのやらないのやら…
読んでみたい本が、また一冊見つかりました。
サテ…
相変わらず「気になる本」もアレコレとあって
最後まで読みきれずに、図書館に返却することもしばしばです。
読みかけ、未読を含めて
自分のための備忘録代わりのメモを、残しておくことにいたしましょう!
(いろんな分野のアチコチに広がっておりますので…どこから拾っていけばよいのやら…?)
(福岡伸一さんの「世界は分けても分からない」で、お名前を知った)
* 団まりな著「性のお話をしましょう」(こちらは、とても読みやすく…面白くって)
同じく「細胞の意思」(こちらは、これから本文に目を通すんですけれど
写真もあって、生物好きにはウレシイです。)
後者のあとがきより、一部を引用いたしますと
「 もともと人間が自然の成り立ちを知りたいと思ったのは、何より自分たちがどこから来て、なぜここにいるのか、生きているとはどういうことなのかを、理解したかったからではないでしょうか。そのために自然を解析し、生き物を見つめてきたのです。こうした科学的な活動の結果として、今、私たちは整理に困るほどの膨大な知識を手中にしています。ここで複雑さから逃げては何にもなりません。個別の知識の糸を少しずつ紡いで、複雑なものの姿を描き出すための材料は、すでにじゅうぶんに蓄積しているはずです。
生きている私たち〝人間〟を知るための最初の一歩は細胞から。生き物の最大の特徴である〝自発性〟の根源としての細胞を理解できずに人間を理解することはできないでしょう。その細胞は、膨大な種類と数の化学反応の、想像を絶するほど複雑なバランスのうえに成り立っているものです。走り続けることで成立しているようなこのシステムを、分子メカニズムとしてとらえ尽すことはできません。
…私たちが細胞を〝生き物〟と認めることができさえすれば、これまで気付けなかった多くのことが見えてきます。細胞を私たちと同じ生き物と認め共感をもってこれに寄り添うことが、やり方によっては決して擬人的でも、情緒的でも、非科学的でもなくできることを、私は本書で実例を持って示したつもりです。』
これまでに、知らず知らずの内に身についてしまった潜入観念などを忘れて…
読み進めてみたい本ですね!
(検索してみたところ、偶然「クオリア日記」に、お写真を見つけました!)
ということで、茂木先生の「クオリア日記」でお名前を伺った
* 高安秀樹著 「経済物理学(エコノフィジックス)の発見」
(私の最大の苦手の物理と経済の融合とは?結局よくわかりませんでしたけれど
よくニュースの中で「経済」に対して、生き物のような言い方をされたり
一方、物理で扱うような法則性が適用されて解析されていたりするらしく…
実態があるのか?ないのか?も、さだかでなくて
いつか私の理解の及ぶ言葉で説明していただけると、うれしいんですけれど。)
* 伊勢田哲治著「哲学思考トレーニング」
(まだ、序の「哲学的クリティカルシンキングのすすめ」を読んだだけですけれど
その部分だけでも、私にとってはとても興味深いことが書かれています。)
「ほどよい懐疑主義」
「情報の質を高めるための共同作業」として(以下引用)
『そこで、本書では、クリティカルシンキングというものを、情報の送り手と受けて両方の共同作業の中で、社会において共有される情報の質を少しでも高めていくためのものの考え方、としてとらえる。実際、きちんとした議論にもとづいてきちんとした主張をするためにも、他人の主張を吟味するのと同じ技術や知識が役に立つはずであるから、コミュニケーションの両側にかかわるものとしてクリティカルシンキングを統一的に扱うのは、けっこう筋が通っているのではないかと思う。』
最後まで読み進められたら、私がぜひ詳しく知りたいのが
第5章「みんなで考えあう技術―不確実性と合意のクリティカルシンキング」に
ついてでしょうか?(以下引用)
『第5章では、合意形成のプロセスについて考える。みんなで何かを決めなくてはいけないという文脈では、…たとえば、不確実性の大きい状況で判断を下す際にはどうしたらよいのか、人々の意見の違いについてどう考えたらいいのか、価値判断と事実判断が複雑にからみあう問題についてはどう考えたらいいのか、などの話題をこの章でとりあげる。』
「哲学」も、私には、まったくと言っていいほど捉えきれないからこそ…
とっても気になる分野なので
少しでも、そのシッポあたりに取り付くきっかけをいただけたら、うれしいんですけれど。
(次の本は、著者名を「三冊屋のサイト」から拾って、ところどころ読みました。
そうそう、新宿にできた新しい本屋さん(ブック1st)の中に、三冊屋のコーナーがあるそうで
開催期間は限定で、12月17日までの予定とのこと。)
*ローレンス・レッシング著「フリーカルチャー」
専門的なことは、皆目わからない私ですから、
自分勝手に気になったところだけを、以下に引用しておきますと…
『 サンフランシスコのプレシディオ通りを走るとごつい黄色のスクールバス2台が、色とりどりのハッとする絵で覆われ、学校の名前のかわりに「Just Think!(考えてもごらんよ)」と書かれているのを見かけるかもしれない。でもこのバスが可能にするプロジェクトで、単に頭の中で考えるだけのものはほとんどない。…Just Think!は子供たちが映像を作ることを通じて、身の回り至る所に見つかる映像を理解し批評できるようにする。(中略)
「メディアリテラシーとは、メディアの映像を理解し、分析し、構築しなおす能力のことです。」とJust Think!の代表デイブ・ヤノフスキーは語る。「狙いは(子供たちに)メディアの働きやその構築方法、配信方法、そして人々がそれにどうアクセスするかを理解してもらうことです。(中略)
学者や社会活動家の世界では、こうした形のリテラシーが次世代の文化にとってきわめて重要であると考える人が増えている。というのも、ものを書いた人は誰でも著述の難しさを知っているのに―話をつなげて、読者の関心を逃さずわかりやすく言葉を紡ぐのがいかに難しいことか―メディアがどんなに難しいか実感としてわかっている人はほとんどいない。あるいはもっと根本的に、メディアの仕組み、観客の捕まえ方、物語の導き方感情をあおったり緊迫感を高めたりする方法について、具体的に知っている人はほとんどいない。(中略)
「読むだけ」。よそで作られた文化を受動的に受けるだけの存在。カウチポテト。消費者。これは20世紀のメディアの世界だ。
21世紀はちがうかもしれない。これが重要な点だ。それは読み書き両方の世界になるかもしれない。少なくとも読んで同時に書くという技法を最もよく理解する世界。あるいは一番いいのは、読んで、その世界が導いたりわざと曲解させたりするのに使う道具立てを理解するような世界。あらゆるリテラシーの狙い、なかでも特にこのリテラシーの狙いは、「自分たちが作ったり表現したりするために適切な言語を選ぶ力を人々に与える」ということだ。それは生徒たちに「二十一世紀の言語で意思疎通ができる」ようにする。』
『でもアメリカでは、ブログはまったく別の意味を持つに至った。単に私生活について語るためにこの空間を使う人もいる。でも多くの人はこの空間を公開対話のために使っている。公共的に重要な話題を議論し、見方の間違っている人を批判し、政治家の意思決定を批判し、みんなの見ている問題に解決策を提案する。…
このちがうサイクルが可能なのは、ブログには他の方式のような商業圧力が存在しないからだ。さらにブログと主流メディアとがちがうサイクルを持つ第2の理由がある。…この運動の父であり何十年にもわたるソフト作者であるデイブ・ワイナーが話してくれたようにもう一つの違いは金銭的な「利害衝突」の不在だ。…「アマチュアジャーナリストにはなんといっても利害衝突がないか、あるいは利害衝突が簡単に開示できて、それをいわば問題にしなくていいのがわかるんだ。」』
(第2章の中だけでも、こんなになってしまって、引用していたらキリがありません。
もっと本論の部分の大切な記述もあるとは思いますけれど、その前に止めておきます。
そういえば、訳をなさっている山形浩生さんという方のお話が…
以前読んだ「〈ことば〉の仕事」という本の中にありましたっけ。)
ネット上でのあれこれは、きっとほんとうにどんどん進んでいるのでしょうけれど
これからの子どもたちにとっては、どんな風に受け入れられていくのでしょうか?
何十歩も、後からにせよ…
私にも、その全体像のあらましを見通すことができるのかどうか???
できるところまで、少しでも把握していけるように、
どなたかに、ぜひわかりやすく教えていただきたいものデス!!
相変わらず、書きながらも「ブログの取り扱いについて」
まだまだよくわかっていない私ですけれど…
どこかのどなたかのブログのご紹介で、目に留ったのが…
*日本経済新聞社編「日記をのぞく」です。
ごく短い日記の抜粋から、作者の姿を想像するのはとても難しいんですけれど(以下引用)
『日記を介して「その人物の生き方や考え方を探る」という意味を込めて「のぞく」という言葉を使っている。』とのこと。
その作者の作品への興味をつなぐ橋渡しに、なるかもしれませんね。
また、これから読んでみたい「気になる本」が見つかりそうです!!
夢中になって、本のお話をしているうちに…外も暗くなってきて
とりあえず、無事に(?)kirikouも、学校から帰ってきました。
家にいるときくらいは…
母としても、うるさいことをなるべく言わないようにして
少しでも、ゆったりとした時間を過ごせますように~!!