千年の官魂、一民魂に如かずーー室伏志畔
待望久しい犬芝英雄の「豊前王朝説」が一本にまとまることとなった。そのその豊前王朝説の喧伝にこれ努めたとはいえ、年配の先覚者を鞭打ち急がせた私は、ここにその非礼を詫びると共に、心からその出版をこう言祝ぎたい。
「千年の官魂、一民魂に如かず」と。
そのためにも文化というものはやはり身銭を切ってでも、まず出すところに意味あることを私は云いたいのだ。本質的な問題提起を自負するなら、その一歩を踏み出すことなしに、明日の文化はないことを私は説いてきたので、そこにまた二の矢を継ぐ自信もまた問われることを、云っておきたいと思う。
ともあれ、九〇年代の初めに、一歩を記した豊前王朝説は、これまで切れ切れに発表を見る中で注目を集めてきた。そしてに十四年目にしてようやく、そのまとまった姿を、今、ここに現すこととなった。しかしそれはニ千枚近い論稿をストックしてきた、大芝英雄の五分の一に満たないことは言っておかねばならない。
私と犬芝英雄の出会いは、一九九七年の夏、別府埠頭に始まる。そのとき私は大和仏教に先在する九州仏教の古代古寺跡を調べていたが、筑前に十四古寺跡があるのは理解できても、十一寺跡を豊前に数えるのに驚き、私は蘇我仏教について調べていた山崎仁礼男を誘い豊前旅行に出かけた。そのとき、別府に在住する大芝英雄に面会を申し出たのは、彼の論稿「『九州難波津』の発見」に、ただならぬものを感じていたことによる。
その中で大芝英雄は安閑記の一条から豊前難波を発見していたが、私はその裏に摂津難波を入り口に語られる大和中心の記紀史観は、豊前難波の付会ではないかという疑問を隠しもっていることを読み取った。昔、水木しげるの漫画に、少年が円い輪を潜ると、その向こうに別世界が広がる話を描いていたが、この一条の輪を潜った大芝英雄の向こうに広がる遠大な光景を私のように深読みした者はなく、この小論は発表から七年ほこりに塗れていた。
別府埠頭で顔を合わすこととなった三人はそれぞれに、古田武彦の九州王朝説を踏まえ、歴史論をこのとき書き出していた。山崎仁礼男は、倭国律令のコンサルタントこそ蘇我氏であったとし、その近畿経営の中から大和の「蘇我王国」は出現したとする論を成し、私はこのとき、倭国仏教の精華のミックス像として造形された聖徳太子は、大和仏教をもっともらしく荘厳するために記紀に姿を現したとする聖徳太子架空論を立ちあげ、その原像を、古田武彦の云う太宰府ではなく、もうひとつの倭国である豊前に焦点を合わせる倭国楕円国家論を提起しつつあった。その「倭国の別顔」を書き上げたのは、この豊前旅行直前で、私はこの旅行で、大和は元あっての箱庭で、その候補地として、突如浮上してきた豊前に私は熱い視線を注ぎつつあった。というのは大芝英雄の豊前難波説を踏まえ、聖徳太子の別名の倭国東宮を考えると、それは太宰府の本宮の対するもうひとつの中心と読めたからで、このとき、その豊前に皇大神宮をしのぐ宇佐神宮があることは私には意味深長と思えた。この三人三様の在り方が、まだわからないままに初対面の時問は過ぎたが、それはその後の成り行きを思うとき、私には感慨深い。
このそれぞれの経緯は、七○年代初頭に始まった博多湾岸を向いてこのとき石化した赴きのある古田倭国論では、大和朝廷論へのアプローチが難しかったからで、とりどりに自ら歩み始めるはかに九〇年代の開始はなかった。そのために大和朝廷諭に九州王朝説をどう内的に取り込むかに思案を巡らすはかなかったのである。そうした中、古田武彦は九〇年代に入ってから、紀元一世紀頃に倭国傍流の神式の東征出発地を宮崎県の日向から、筑前の天孫降臨地の日向の改めたのはよかったが、その目的地はまったく疑うことなく、近畿大和とする記紀の奸策に沿った文献論証を行う仁至った。
それは古田武彦の「目本的回帰」で、せっかく中国文献から大和朝廷に先在する倭国を救出しながら、記紀史観の中に依然として大和朝廷を放置し、通説以上の皇国史観を説く矛盾に古田武彦は自らを委ねてしまった。
この古田武彦の回帰に先立ち、豊前王朝説の形成があったことは幸いであった。もう少し遅れたら、この発表を九州王朝説がまともに取り上げたかどうかは怪しい。それは一三○○年にわたる大和中心の記紀史観を、イドラ(偏見)として斥けるコペルニクス的転回であったが、九州王朝説の仲間内ではこのとき山崎仁礼男がそうであるように、多元的難波説の一つとして注目されたにすぎない。
今も大和中心史観は微勣だにしない。そして誰一人として大和を疑うことすら知らないのは、大和朝廷の先在を疑った古田武彦ですら、大和朝廷に遠い昔の神武に始まるとお墨付きを与えたことによっても明らかである。
このイドラの大海の中で.市井の民間研究者が溺れることなく、『古事記』からした文献論証をもって大和の前身は豊前にあったと、この列島の千数百年のイドラを突き抜けたのである。その自前の論理を臆することなくそそり立たせた勇気はやはり特筆大書されてよい。それは本居宣長が、『古事記』は上古の実と心を伝えるとする思いこみから、天下の大道を「天照大御神の道」と説き、大和魂からすべてを解かねばならないとした逆立ちした論理とはなんと大違いな、普遍性へ開いた論理の達成としてあることか。
この大芝英雄の文献論証から生じた英知はまた、戦後史学の文献実証史学と、どこがどうちがうのか。戦後史学は「科学」を標榜しながら、「記紀史観の僕」としてその裏付けに精出してきた官魂からした論理で、文献論理を自ら自立させることはついになかったのだ。それは記紀史観にある狂信的な部分を排除するに功あったとはいえ、歴史を崇神や応神天皇以後の天皇史の内に限る、戦後版の手堅い皇国史観でしかなかったのだ。
これは戦後考古学も同じで、記紀史観との癒着は覆いがたいものがある。年輪年代法や放射性元素C14による分析による研究が、近年、脚光を浴び、ついにC14による分析は弥生時代を五〇〇年遡らせる「弥生新世紀」が喧伝されるに至っている。それは記紀の天皇史観の枠外の出来事として現在あるが、本当の激震は、その記紀史観の最たる天皇史の出来事が疑われて、初めて二十一世紀の考古学も歴史学も始まると云えようか。
その先駆けとして大芝英雄の大和朝廷の前身としての豊前王朝の発見は、文献論証史学の記紀史観からの自立なのであり、大和朝廷の前身を隠したつもりの『古事記』から豊前を導き出したという逆説は、千年の歴史学が官魂からするものでしかなかったことを逆証する。
幻想史学が、主に『日本書紀』の幻想表出の内にその指示表出を回収する中で、架空現実としての大和の枠組みを幻視し、豊前に白羽の矢を立てつつあったとき、『古事記』からの大芝英雄の豊前王朝の発見がその指示表出から成されたことに私は驚き、文通を求めた。打てば響くように帰ってきたその反応は、私の予想に違わない到達点を示すものてあった。私は自分の孤立するほかなかった幻視が、そこに別の角度から裏付けをもって語られているのを見て、世界には語るべき友はいるものだと、この先覚者の七年にわたる孤独を思い、どんなに励まされたか知れない。
豊前王朝説は『古事記』から導き出された。しかし現『古事記』はその豊前王朝史を大和王朝史のごとく焼き直してしまった。ここから大芝英雄は本書で、これまでの『古事記』成立説をすべて排して、七世紀前半成立説を現『古事記』から導き出しているのは、やはり刮目すべき成果と云うべきであろう。それは先の焼き直しを考えるとき、大和朝廷の成立は、白村江の敗戦後の唐による倭国占領が引き金となり、近江に逃げた天智を討つた天武の大和入りに始まったことを糊塗するためにあったことに心づこう。とするとき原『古事記』の完成はそれ以前にあったとするほかないのだが、その諭証を如何に行うかは至難のことと思われた。しかし大芝英雄はそこを突き抜け、現『古事記』の筆使いから今回の快挙に至っている。その舌を巻くような史眼は、本書ではあまり触れられなかったが、『古事記』への色濃い仏教占典の影響論証と共に、双璧の『古事記』論を成している。
しかしこの余りあるこの快挙を成した無名の大芝英雄をいいことに、その成果を掠め取ろうとする胸糞の悪い動きもあったことを払は記しておきたいと思う。しかし大芝英雄の業績は、そうした動きをよそに、人、共に毅然とした高みを行くものとしてあるのだ。七O年代に姶まった九州王朝説は、市民による歴史研究運動に育まれる中で、四半世紀して全く官魂に毒されない独立不羈の精神を培うに至ったのだ。それは千年の大和幻想の眠りを打ち破り、官魂の思いのままにならない自立した民魂の何たるかを示すに至ったことを、人は見なければならない。
この達成を学界が容易に受け入れるとは思えないが、それが何のことであろう。我々が期待するのはそれへのお追従からした官魂との妥協の中に成果を埋没させるのではなく、民魂の奥底からの求めに耳傾けるところにこそあるのだ。この黙契の中に大芝英雄のたゆまぬ努力と達成はあり、八十歳近くにして、まだかくしやくとして老けることを知らない、今が保持されているのだ。
その大和朝廷の前身としての豊前王朝説が今、読書界にその巨歩を記すのだ。その意味を深く理解し、そのバトンを受け継ぐ者は果たして誰か。(H一五・一一・二四)
※大芝英雄講演 2011年10月9日(日)pm2時 泉北すえむら資料館(旧泉北考古資料館
待望久しい犬芝英雄の「豊前王朝説」が一本にまとまることとなった。そのその豊前王朝説の喧伝にこれ努めたとはいえ、年配の先覚者を鞭打ち急がせた私は、ここにその非礼を詫びると共に、心からその出版をこう言祝ぎたい。
「千年の官魂、一民魂に如かず」と。
そのためにも文化というものはやはり身銭を切ってでも、まず出すところに意味あることを私は云いたいのだ。本質的な問題提起を自負するなら、その一歩を踏み出すことなしに、明日の文化はないことを私は説いてきたので、そこにまた二の矢を継ぐ自信もまた問われることを、云っておきたいと思う。
ともあれ、九〇年代の初めに、一歩を記した豊前王朝説は、これまで切れ切れに発表を見る中で注目を集めてきた。そしてに十四年目にしてようやく、そのまとまった姿を、今、ここに現すこととなった。しかしそれはニ千枚近い論稿をストックしてきた、大芝英雄の五分の一に満たないことは言っておかねばならない。
私と犬芝英雄の出会いは、一九九七年の夏、別府埠頭に始まる。そのとき私は大和仏教に先在する九州仏教の古代古寺跡を調べていたが、筑前に十四古寺跡があるのは理解できても、十一寺跡を豊前に数えるのに驚き、私は蘇我仏教について調べていた山崎仁礼男を誘い豊前旅行に出かけた。そのとき、別府に在住する大芝英雄に面会を申し出たのは、彼の論稿「『九州難波津』の発見」に、ただならぬものを感じていたことによる。
その中で大芝英雄は安閑記の一条から豊前難波を発見していたが、私はその裏に摂津難波を入り口に語られる大和中心の記紀史観は、豊前難波の付会ではないかという疑問を隠しもっていることを読み取った。昔、水木しげるの漫画に、少年が円い輪を潜ると、その向こうに別世界が広がる話を描いていたが、この一条の輪を潜った大芝英雄の向こうに広がる遠大な光景を私のように深読みした者はなく、この小論は発表から七年ほこりに塗れていた。
別府埠頭で顔を合わすこととなった三人はそれぞれに、古田武彦の九州王朝説を踏まえ、歴史論をこのとき書き出していた。山崎仁礼男は、倭国律令のコンサルタントこそ蘇我氏であったとし、その近畿経営の中から大和の「蘇我王国」は出現したとする論を成し、私はこのとき、倭国仏教の精華のミックス像として造形された聖徳太子は、大和仏教をもっともらしく荘厳するために記紀に姿を現したとする聖徳太子架空論を立ちあげ、その原像を、古田武彦の云う太宰府ではなく、もうひとつの倭国である豊前に焦点を合わせる倭国楕円国家論を提起しつつあった。その「倭国の別顔」を書き上げたのは、この豊前旅行直前で、私はこの旅行で、大和は元あっての箱庭で、その候補地として、突如浮上してきた豊前に私は熱い視線を注ぎつつあった。というのは大芝英雄の豊前難波説を踏まえ、聖徳太子の別名の倭国東宮を考えると、それは太宰府の本宮の対するもうひとつの中心と読めたからで、このとき、その豊前に皇大神宮をしのぐ宇佐神宮があることは私には意味深長と思えた。この三人三様の在り方が、まだわからないままに初対面の時問は過ぎたが、それはその後の成り行きを思うとき、私には感慨深い。
このそれぞれの経緯は、七○年代初頭に始まった博多湾岸を向いてこのとき石化した赴きのある古田倭国論では、大和朝廷論へのアプローチが難しかったからで、とりどりに自ら歩み始めるはかに九〇年代の開始はなかった。そのために大和朝廷諭に九州王朝説をどう内的に取り込むかに思案を巡らすはかなかったのである。そうした中、古田武彦は九〇年代に入ってから、紀元一世紀頃に倭国傍流の神式の東征出発地を宮崎県の日向から、筑前の天孫降臨地の日向の改めたのはよかったが、その目的地はまったく疑うことなく、近畿大和とする記紀の奸策に沿った文献論証を行う仁至った。
それは古田武彦の「目本的回帰」で、せっかく中国文献から大和朝廷に先在する倭国を救出しながら、記紀史観の中に依然として大和朝廷を放置し、通説以上の皇国史観を説く矛盾に古田武彦は自らを委ねてしまった。
この古田武彦の回帰に先立ち、豊前王朝説の形成があったことは幸いであった。もう少し遅れたら、この発表を九州王朝説がまともに取り上げたかどうかは怪しい。それは一三○○年にわたる大和中心の記紀史観を、イドラ(偏見)として斥けるコペルニクス的転回であったが、九州王朝説の仲間内ではこのとき山崎仁礼男がそうであるように、多元的難波説の一つとして注目されたにすぎない。
今も大和中心史観は微勣だにしない。そして誰一人として大和を疑うことすら知らないのは、大和朝廷の先在を疑った古田武彦ですら、大和朝廷に遠い昔の神武に始まるとお墨付きを与えたことによっても明らかである。
このイドラの大海の中で.市井の民間研究者が溺れることなく、『古事記』からした文献論証をもって大和の前身は豊前にあったと、この列島の千数百年のイドラを突き抜けたのである。その自前の論理を臆することなくそそり立たせた勇気はやはり特筆大書されてよい。それは本居宣長が、『古事記』は上古の実と心を伝えるとする思いこみから、天下の大道を「天照大御神の道」と説き、大和魂からすべてを解かねばならないとした逆立ちした論理とはなんと大違いな、普遍性へ開いた論理の達成としてあることか。
この大芝英雄の文献論証から生じた英知はまた、戦後史学の文献実証史学と、どこがどうちがうのか。戦後史学は「科学」を標榜しながら、「記紀史観の僕」としてその裏付けに精出してきた官魂からした論理で、文献論理を自ら自立させることはついになかったのだ。それは記紀史観にある狂信的な部分を排除するに功あったとはいえ、歴史を崇神や応神天皇以後の天皇史の内に限る、戦後版の手堅い皇国史観でしかなかったのだ。
これは戦後考古学も同じで、記紀史観との癒着は覆いがたいものがある。年輪年代法や放射性元素C14による分析による研究が、近年、脚光を浴び、ついにC14による分析は弥生時代を五〇〇年遡らせる「弥生新世紀」が喧伝されるに至っている。それは記紀の天皇史観の枠外の出来事として現在あるが、本当の激震は、その記紀史観の最たる天皇史の出来事が疑われて、初めて二十一世紀の考古学も歴史学も始まると云えようか。
その先駆けとして大芝英雄の大和朝廷の前身としての豊前王朝の発見は、文献論証史学の記紀史観からの自立なのであり、大和朝廷の前身を隠したつもりの『古事記』から豊前を導き出したという逆説は、千年の歴史学が官魂からするものでしかなかったことを逆証する。
幻想史学が、主に『日本書紀』の幻想表出の内にその指示表出を回収する中で、架空現実としての大和の枠組みを幻視し、豊前に白羽の矢を立てつつあったとき、『古事記』からの大芝英雄の豊前王朝の発見がその指示表出から成されたことに私は驚き、文通を求めた。打てば響くように帰ってきたその反応は、私の予想に違わない到達点を示すものてあった。私は自分の孤立するほかなかった幻視が、そこに別の角度から裏付けをもって語られているのを見て、世界には語るべき友はいるものだと、この先覚者の七年にわたる孤独を思い、どんなに励まされたか知れない。
豊前王朝説は『古事記』から導き出された。しかし現『古事記』はその豊前王朝史を大和王朝史のごとく焼き直してしまった。ここから大芝英雄は本書で、これまでの『古事記』成立説をすべて排して、七世紀前半成立説を現『古事記』から導き出しているのは、やはり刮目すべき成果と云うべきであろう。それは先の焼き直しを考えるとき、大和朝廷の成立は、白村江の敗戦後の唐による倭国占領が引き金となり、近江に逃げた天智を討つた天武の大和入りに始まったことを糊塗するためにあったことに心づこう。とするとき原『古事記』の完成はそれ以前にあったとするほかないのだが、その諭証を如何に行うかは至難のことと思われた。しかし大芝英雄はそこを突き抜け、現『古事記』の筆使いから今回の快挙に至っている。その舌を巻くような史眼は、本書ではあまり触れられなかったが、『古事記』への色濃い仏教占典の影響論証と共に、双璧の『古事記』論を成している。
しかしこの余りあるこの快挙を成した無名の大芝英雄をいいことに、その成果を掠め取ろうとする胸糞の悪い動きもあったことを払は記しておきたいと思う。しかし大芝英雄の業績は、そうした動きをよそに、人、共に毅然とした高みを行くものとしてあるのだ。七O年代に姶まった九州王朝説は、市民による歴史研究運動に育まれる中で、四半世紀して全く官魂に毒されない独立不羈の精神を培うに至ったのだ。それは千年の大和幻想の眠りを打ち破り、官魂の思いのままにならない自立した民魂の何たるかを示すに至ったことを、人は見なければならない。
この達成を学界が容易に受け入れるとは思えないが、それが何のことであろう。我々が期待するのはそれへのお追従からした官魂との妥協の中に成果を埋没させるのではなく、民魂の奥底からの求めに耳傾けるところにこそあるのだ。この黙契の中に大芝英雄のたゆまぬ努力と達成はあり、八十歳近くにして、まだかくしやくとして老けることを知らない、今が保持されているのだ。
その大和朝廷の前身としての豊前王朝説が今、読書界にその巨歩を記すのだ。その意味を深く理解し、そのバトンを受け継ぐ者は果たして誰か。(H一五・一一・二四)
※大芝英雄講演 2011年10月9日(日)pm2時 泉北すえむら資料館(旧泉北考古資料館