相互批評の饗宴――幻想史学と仲間たち

 これは幻想史学の提唱から15年経った仲間たちとの相互批評と詩と写真による饗宴である。

書評ー大芝英雄著『大和朝廷の前身 豊前王朝』(同時代社)  室伏志畔

2011年09月19日 | 書評
 千年の官魂、一民魂に如かずーー室伏志畔

 待望久しい犬芝英雄の「豊前王朝説」が一本にまとまることとなった。そのその豊前王朝説の喧伝にこれ努めたとはいえ、年配の先覚者を鞭打ち急がせた私は、ここにその非礼を詫びると共に、心からその出版をこう言祝ぎたい。
 「千年の官魂、一民魂に如かず」と。
 そのためにも文化というものはやはり身銭を切ってでも、まず出すところに意味あることを私は云いたいのだ。本質的な問題提起を自負するなら、その一歩を踏み出すことなしに、明日の文化はないことを私は説いてきたので、そこにまた二の矢を継ぐ自信もまた問われることを、云っておきたいと思う。
 ともあれ、九〇年代の初めに、一歩を記した豊前王朝説は、これまで切れ切れに発表を見る中で注目を集めてきた。そしてに十四年目にしてようやく、そのまとまった姿を、今、ここに現すこととなった。しかしそれはニ千枚近い論稿をストックしてきた、大芝英雄の五分の一に満たないことは言っておかねばならない。
 私と犬芝英雄の出会いは、一九九七年の夏、別府埠頭に始まる。そのとき私は大和仏教に先在する九州仏教の古代古寺跡を調べていたが、筑前に十四古寺跡があるのは理解できても、十一寺跡を豊前に数えるのに驚き、私は蘇我仏教について調べていた山崎仁礼男を誘い豊前旅行に出かけた。そのとき、別府に在住する大芝英雄に面会を申し出たのは、彼の論稿「『九州難波津』の発見」に、ただならぬものを感じていたことによる。
 その中で大芝英雄は安閑記の一条から豊前難波を発見していたが、私はその裏に摂津難波を入り口に語られる大和中心の記紀史観は、豊前難波の付会ではないかという疑問を隠しもっていることを読み取った。昔、水木しげるの漫画に、少年が円い輪を潜ると、その向こうに別世界が広がる話を描いていたが、この一条の輪を潜った大芝英雄の向こうに広がる遠大な光景を私のように深読みした者はなく、この小論は発表から七年ほこりに塗れていた。
 別府埠頭で顔を合わすこととなった三人はそれぞれに、古田武彦の九州王朝説を踏まえ、歴史論をこのとき書き出していた。山崎仁礼男は、倭国律令のコンサルタントこそ蘇我氏であったとし、その近畿経営の中から大和の「蘇我王国」は出現したとする論を成し、私はこのとき、倭国仏教の精華のミックス像として造形された聖徳太子は、大和仏教をもっともらしく荘厳するために記紀に姿を現したとする聖徳太子架空論を立ちあげ、その原像を、古田武彦の云う太宰府ではなく、もうひとつの倭国である豊前に焦点を合わせる倭国楕円国家論を提起しつつあった。その「倭国の別顔」を書き上げたのは、この豊前旅行直前で、私はこの旅行で、大和は元あっての箱庭で、その候補地として、突如浮上してきた豊前に私は熱い視線を注ぎつつあった。というのは大芝英雄の豊前難波説を踏まえ、聖徳太子の別名の倭国東宮を考えると、それは太宰府の本宮の対するもうひとつの中心と読めたからで、このとき、その豊前に皇大神宮をしのぐ宇佐神宮があることは私には意味深長と思えた。この三人三様の在り方が、まだわからないままに初対面の時問は過ぎたが、それはその後の成り行きを思うとき、私には感慨深い。
 このそれぞれの経緯は、七○年代初頭に始まった博多湾岸を向いてこのとき石化した赴きのある古田倭国論では、大和朝廷論へのアプローチが難しかったからで、とりどりに自ら歩み始めるはかに九〇年代の開始はなかった。そのために大和朝廷諭に九州王朝説をどう内的に取り込むかに思案を巡らすはかなかったのである。そうした中、古田武彦は九〇年代に入ってから、紀元一世紀頃に倭国傍流の神式の東征出発地を宮崎県の日向から、筑前の天孫降臨地の日向の改めたのはよかったが、その目的地はまったく疑うことなく、近畿大和とする記紀の奸策に沿った文献論証を行う仁至った。
 それは古田武彦の「目本的回帰」で、せっかく中国文献から大和朝廷に先在する倭国を救出しながら、記紀史観の中に依然として大和朝廷を放置し、通説以上の皇国史観を説く矛盾に古田武彦は自らを委ねてしまった。
 この古田武彦の回帰に先立ち、豊前王朝説の形成があったことは幸いであった。もう少し遅れたら、この発表を九州王朝説がまともに取り上げたかどうかは怪しい。それは一三○○年にわたる大和中心の記紀史観を、イドラ(偏見)として斥けるコペルニクス的転回であったが、九州王朝説の仲間内ではこのとき山崎仁礼男がそうであるように、多元的難波説の一つとして注目されたにすぎない。
 今も大和中心史観は微勣だにしない。そして誰一人として大和を疑うことすら知らないのは、大和朝廷の先在を疑った古田武彦ですら、大和朝廷に遠い昔の神武に始まるとお墨付きを与えたことによっても明らかである。
 このイドラの大海の中で.市井の民間研究者が溺れることなく、『古事記』からした文献論証をもって大和の前身は豊前にあったと、この列島の千数百年のイドラを突き抜けたのである。その自前の論理を臆することなくそそり立たせた勇気はやはり特筆大書されてよい。それは本居宣長が、『古事記』は上古の実と心を伝えるとする思いこみから、天下の大道を「天照大御神の道」と説き、大和魂からすべてを解かねばならないとした逆立ちした論理とはなんと大違いな、普遍性へ開いた論理の達成としてあることか。
 この大芝英雄の文献論証から生じた英知はまた、戦後史学の文献実証史学と、どこがどうちがうのか。戦後史学は「科学」を標榜しながら、「記紀史観の僕」としてその裏付けに精出してきた官魂からした論理で、文献論理を自ら自立させることはついになかったのだ。それは記紀史観にある狂信的な部分を排除するに功あったとはいえ、歴史を崇神や応神天皇以後の天皇史の内に限る、戦後版の手堅い皇国史観でしかなかったのだ。
 これは戦後考古学も同じで、記紀史観との癒着は覆いがたいものがある。年輪年代法や放射性元素C14による分析による研究が、近年、脚光を浴び、ついにC14による分析は弥生時代を五〇〇年遡らせる「弥生新世紀」が喧伝されるに至っている。それは記紀の天皇史観の枠外の出来事として現在あるが、本当の激震は、その記紀史観の最たる天皇史の出来事が疑われて、初めて二十一世紀の考古学も歴史学も始まると云えようか。
 その先駆けとして大芝英雄の大和朝廷の前身としての豊前王朝の発見は、文献論証史学の記紀史観からの自立なのであり、大和朝廷の前身を隠したつもりの『古事記』から豊前を導き出したという逆説は、千年の歴史学が官魂からするものでしかなかったことを逆証する。
 幻想史学が、主に『日本書紀』の幻想表出の内にその指示表出を回収する中で、架空現実としての大和の枠組みを幻視し、豊前に白羽の矢を立てつつあったとき、『古事記』からの大芝英雄の豊前王朝の発見がその指示表出から成されたことに私は驚き、文通を求めた。打てば響くように帰ってきたその反応は、私の予想に違わない到達点を示すものてあった。私は自分の孤立するほかなかった幻視が、そこに別の角度から裏付けをもって語られているのを見て、世界には語るべき友はいるものだと、この先覚者の七年にわたる孤独を思い、どんなに励まされたか知れない。
 豊前王朝説は『古事記』から導き出された。しかし現『古事記』はその豊前王朝史を大和王朝史のごとく焼き直してしまった。ここから大芝英雄は本書で、これまでの『古事記』成立説をすべて排して、七世紀前半成立説を現『古事記』から導き出しているのは、やはり刮目すべき成果と云うべきであろう。それは先の焼き直しを考えるとき、大和朝廷の成立は、白村江の敗戦後の唐による倭国占領が引き金となり、近江に逃げた天智を討つた天武の大和入りに始まったことを糊塗するためにあったことに心づこう。とするとき原『古事記』の完成はそれ以前にあったとするほかないのだが、その諭証を如何に行うかは至難のことと思われた。しかし大芝英雄はそこを突き抜け、現『古事記』の筆使いから今回の快挙に至っている。その舌を巻くような史眼は、本書ではあまり触れられなかったが、『古事記』への色濃い仏教占典の影響論証と共に、双璧の『古事記』論を成している。
 しかしこの余りあるこの快挙を成した無名の大芝英雄をいいことに、その成果を掠め取ろうとする胸糞の悪い動きもあったことを払は記しておきたいと思う。しかし大芝英雄の業績は、そうした動きをよそに、人、共に毅然とした高みを行くものとしてあるのだ。七O年代に姶まった九州王朝説は、市民による歴史研究運動に育まれる中で、四半世紀して全く官魂に毒されない独立不羈の精神を培うに至ったのだ。それは千年の大和幻想の眠りを打ち破り、官魂の思いのままにならない自立した民魂の何たるかを示すに至ったことを、人は見なければならない。
 この達成を学界が容易に受け入れるとは思えないが、それが何のことであろう。我々が期待するのはそれへのお追従からした官魂との妥協の中に成果を埋没させるのではなく、民魂の奥底からの求めに耳傾けるところにこそあるのだ。この黙契の中に大芝英雄のたゆまぬ努力と達成はあり、八十歳近くにして、まだかくしやくとして老けることを知らない、今が保持されているのだ。
 その大和朝廷の前身としての豊前王朝説が今、読書界にその巨歩を記すのだ。その意味を深く理解し、そのバトンを受け継ぐ者は果たして誰か。(H一五・一一・二四)

※大芝英雄講演 2011年10月9日(日)pm2時 泉北すえむら資料館(旧泉北考古資料館

書評 『和姓に井真成を奪回せよ』(越境の会/編 同時代社) 西垣祐作

2011年09月19日 | 書評
「名前」とは恐ろしいものだーー 西垣祐作

 「名前」とは恐ろしいものだ。特に「姓」は、家系の由来や出自をも表してしまう。出身地や系譜などが履歴のように刻印されたものが、「姓」なのだ。相手の名前が分かったときに、この世のものとも思われない喜びを感じるときもあれば、世界が凍りつくような恐怖を感じるときもある。
 『グリム童話』に、次のような話がある。貧乏な粉屋の娘が「こびと」の助けで、藁を金に紡ぐ。やがて王妃となった娘は、「こびと」との約束で、最初の赤ん坊を彼に与えなくてはならなくなる。「こびと」は、泣き悲しむ娘に「三日間待ってやる。その間に自分の名前を言い当てることが出来たなら、勘弁してやる。」と言う。使いの者を国中に走らせた王妃(娘)は、ある情報を得る。三日目に「こびと」がやってきた時、娘は彼に告げる。「あなたの名前はルンペルシュティルツヒェン」。本名を言い当てられて驚いた「こびと」は、「悪魔が教えたな。その名前を悪魔が教えたな。」と叫びながら地団駄踏み、逆上してついに自分自身をまっぷたつに引き裂いてしまった。
 糸紡ぎをする「こびと」の名前を当てる類話は、ヨーロッパ各地にあり、北欧には巨人や悪魔の名前当て伝説もある。イギリスでは『トム・ティット・トット』が有名であり、日本でも、『大工と鬼六』という同種の昔話がある。
 さて、ここで問題。「井真成」という名前は、どう読むか?
 ことの起こりは、こうである。二○○四年十月、中国の西北大学歴史博物館が、唐代の日本人留学生「井真成」の墓誌を発掘、発見したと伝えた。墓誌の蓋には十二文字、墓誌銘には一七一文字が刻まれていた。その内容は、以下のようなものである。
 「井真成」は日本からやってきた。学問に励んでいたが、開元二十二(七三四)年に三十六歳で亡くなった。その死後、玄宗皇帝は彼に「尚衣奉御」という官位(従五品上の位)を贈った。万年県(長安の東郊)産水の東原に葬られた。
 銘の最後には、彼の葬礼の悲しみが刻まれ、また「肉体は異国に埋められたけれども、魂は故郷に帰ることをこいねがう。」という痛切な表現で結ばれている。
彼が生きた時代は、六九九年~七三四年。まさに「日本」という国号ができたての頃であった。「井真成」は、七一七(養老元)年の第九次遣唐使(阿倍仲麻呂・吉備真備らが有名)に随行した留学生ではないかと推測されている。
 日本の学会では、「井」という姓をめぐって、和姓の一部を中国姓としたとする説が有力になり、元の和姓について、「葛井」、「井上」、「白猪」などの説が出された。また、「井真成」の出身地は、現在の藤井寺市であると確定的に報道されている。さらに、墓誌里帰り運動が盛り上がり、墓誌は愛知万博で公開された後、東京→奈良→九州の各国立博物館での展示後、「郷里」藤井寺市へ届けられる手はずになっているようである。
 この墓誌発見以降の一連の「事態」に、室伏氏(「越境の会」代表)のセンサーは敏感に反応した。おそらく、「井真成」問題の「向こう側」を直感的に幻視したのだろう。氏は、学会やマスコミを中心とした「こちら側」の安易な歴史認識に憤りを覚え、一ヶ月のうちに「腕と人間を見込んだ」八人を糾合し、本書を発行したのである。これはまさに、歴史認識において停滞し退廃した「状況」に対する抵抗戦であり、知的集団戦でもある。
 室伏氏を中心とした「越境の会」の主張は、極めて明快である。すなわち、「井真成」の姓「井」は、中国姓に倣って一字姓に変えた「井(=セイ)」ではなく、和姓の一字姓「井(=イイ)」であり、「井真成」は「イイマサナリ」という名前であったとするものである。それでは、「井(=イイ)」姓の日本における分布はどうなっているのか。本書第四章の白名一雄氏の調査によると、非常に興味深い結果が示されている。全国の「井(=イイ)」姓の約半数は熊本県に集中している。さらに、熊本県の中でも阿蘇郡、特に「産山村」が最も多いのだ。この観点からすると、「井真成」の故郷は藤井寺市ではなく、熊本県阿蘇郡産山村と考える方が理にかなうことになる。この、シンプルで力強い論理的推論が、「井真成」問題における「越境の会」の論の根幹である。日本の学会やマスコミは、なぜこのような可能性さえ思い描かないのか。本書を読み進むうちに、そのような思いが強くなってくる。
 ところで、ここで執筆者九人の切り口を、それぞれ見ていくことにしよう。第一章は、書家の保井氏による墓誌の臨書。牛乳で字を書き、裏から墨を塗って拓本のような味わいを出した作品である。第二章は福永氏による「井真成墓誌銘の解釈」。四六駢儷体の文体を基本にして行ったもの。第三章は、恵内氏による「産山村に井姓を訪ねる」と題した探訪記。第四章は、「イイ」読みの井姓を電子電話帳で検索、整理し、音韻変化にも着目した白名氏の論文。第五章は、阿蘇地方と古代中国との関係を考察した兼川氏の論文。第六章は、民俗学的観点から「井真成」問題をとらえた越川氏の論文。第七章は、「ゐ」音の字を中心に日本古代史を考察した福永氏の論文。第八章は、唐代の視点からとらえ直した「井真成墓誌」論。第九章は、東アジア民族移動史の流れの中に「井真成」問題を位置づけ、「この列島における井姓のもつはかりがたい重さ」を考察した論文。「向こう側」シリーズに始まる室伏幻想史学の、さらなる「深化」をもたらした一編。
 以上、「井真成」=和姓を基調として、手練の書き手が多角的かつ重層的な旋律を奏でている本書は、現在の停滞した歴史認識の根幹に揺さぶりをかけ、強く転調を促しているといえよう。
一三OO年の眠りから覚め、我々の元に届けられたタイムカプセル、「井真成墓誌」は我々に実に多くのことを語りかけてくれる。しかし、その声は「井真成」の本名を知っている者にしか聞こえてこない。我々の歴史認識はいまだに、七一二年成立の『古事記』、七二O年成立の『日本書紀』の呪縛から解かれておらず、大和朝廷を起源とする万世一系の天皇史観という共同幻想から自由ではない。だが、権力者は常に、前権力者から正統性だけを継承し、歴史を恣意的に書き換えるという鉄則を忘れてはならない。その意味で、今回の「井真成」問題において、我々が「あなたの名前はイイマサナリ」と呟く時、地団駄踏んで逆上するのは、本来の歴史を隠蔽し、書き換え、藤原天皇制を画策した「藤原不比等」その人なのかもしれない。
 本書は「井真成墓誌」論を通して、旧来の「記紀歴史観」に対するレクイエムを奏でており、その上に「墓標」を打ち立てようとするものである。また、十九歳で遣唐使として唐に渡り、以後十七年間留学生として勉励したとされる「井真成」の魂を「真の故郷」に導こうとするものとなっている。(季報「唯物論研究」)

※大芝英雄講演 2011年10月9日(日)pm2時 泉北すえむら資料館(旧泉北考古資料館

書評ー室伏志畔著『王権論の向こう側』(同時代社)  添田 馨

2011年09月19日 | 書評
進化し続ける幻想史学-添田 馨

 室伏志畔『王権論の向こう側』を読み、今回あらためてあの“明白すぎる謎”というものに思いを至らさざるを得なかった。例えば私たちの漢字の発音―「序詞」において室伏氏が「思えば、我々が発音する漢語の多くが呉音でしかないことは、いかに黒潮ロードを通り訪れた者が多かったかを暗示する。この遥かなる道の起源は我々が考えているより以上に古いのかもしれない」といみじくも述べているように、日本語の漢字の発音には「呉」音読みのものがかなり多く混在している。いまから二千数百年ほども過去に遡るこの大陸国家の発音がなぜ今に至るまで踏襲されているのか、というこの当たり前な事実が、時として地下にその全貌を隠した巨大な秘密の露頭でないとは誰にも言えない。
 このような“明白すぎる謎”を前にして、その疑問を正面ではなくいわばものごとの裏面から解きほぐしていく細い道を想定するとすれば、私たちは王朝史そのものに対しても徹底して懐疑的に関わっていくべき必然性を否が応にも身にまとう結果となる。そしてこの道はそのまま「王権論の向こう側」にまで、私たちを確実に道案内してくれるはずだ。
 さても史学はその発展進化の過程を、必ずしも新たな遺跡や歴史資料の発掘発見にのみ 負うものではなく、その多くを論理の展開力にも応分に負うものであることを、この一冊は私にまざまざと教えてくれた。
 室伏志畔のこれまでの歩みは、幻想史学という方法原理を文字通り零から立ちあげる一方で、それと表裏して新たな古代史像というものを同時的に、あたかも歴史の谷間を被いつくす錯誤の狭霧を吹き消すかのように切り拓いてもいくという、一刀両断の離れ業のまさに連射の進撃だった。むろん彼のそうした独自の思考がもたらす驚異の道行きとは、「伊勢神宮」から始まり「法隆寺」「大和」「万葉集」と続く一連の“向こう側シリーズ”既刊四冊の内にすでに十分な異彩を放ってはいるが、それにも増してこの『王権論の向こう側』は、ちょうどこれの前著に当たる『日本古代史の南船北馬』(同時代社)ではじめて全貌解明への端緒を見せた古代の日本列島を洗う東アジア、特に中国・江南における激動史の波を、さらにその嵐の中心にまで溯って検証しようとする稀有壮大な野心作だと言えようか。
 本書は「あとがき」を入れても二○五頁ほどしかないコンパクトな外見をなしているが、その中身はぎっしり詰まった高性能の爆薬よろしく、危険きわまる論理の驚くような破壊力に満ちみちている。特に室伏氏が本書の第一章と第二章に、それぞれ「ユダヤ教と天皇制」(先駆論)および「『死海文書』の告発」(捏造論)のふたつの原理論を礎石として置いたことは、これから始まる「歴史」が単なる考証事実にとどまらない、あくまで“思想として語られた歴史”であることを何よりも雄弁に物語っているだろう。
 「人間はいかなる動物よりも幻想的動物であることを深く理解するなら、遠い原始の昔から、幻想的な撒き餌はふんだんになされ、その装置に大衆を取り込むことによって支配は成り立ってきたと思わないわけにはいかない」(18頁)と述べる室伏氏が、フロイト晩年の論文「人間モーセと一神教」を導きの糸に、本来エジプトの太陽神・アートン信仰にその起源を有した一神教の伝統を、ユダヤ教は自民族の宗教神たるヤーウェに振り当てることによってあたかもそれを自己起源のものであるかのように取り込み、同時に偶像を禁止し破壊してエジプトに繋がる痕跡の一切を消し去ることで、悠久のユダヤ原理のもとへそれを詐術的に歪曲したのだと述べる時、そこに二重に透視されているのはわが「日本書紀」におけるまったく以て相似形の詐術、すなわち藤原氏による「天武殺し」と「悠久の大和史観」の造作創出という歴史内容のあからさまな歪曲の様相であったことは言を待たない。また、「キリスト教徒であるヨーロッパ人にとってイエスを神格化した『新約聖書』がバイブルであるなら、日本人にとって聖徳太子を神格化した『日本書紀』は、まことに非宗教的なバイブルというにふさわしい。そしてキリスト教も大和仏教もイエスと聖徳太子を超ウルトラ化させる幻想の内に、民衆を呑み込むことを策するものであった」(56頁)と述べる時も、やはりそこに重ね合わされているのは、もともとがその崇拝対象の弾圧者でしかなかった者が、当の崇高なる人物の死後にあたかも自分が正統的なその遺髪の継承者であるかのように聖典・史籍を造作改竄してたちふるまう姑息な姿、すなわちキリスト教においてはパウロと呼ばれたサウロ、そしてまた『日本書紀』においては藤原鎌足、不比等父子というこれら歴史内実の巧みな纂奪者たちのしたたかなその面貌であった。
 およそこうした思想的な背景をもって、室伏志畔の「王権論」もまた独力で走り出したのだ。そして私は、自分が見たところ、非常に重要にして画期的な論点と目される個所は、本書中に少なくとも三つあると踏んだ。
 一番目のそれは、第四章「原大和の 一番目のそれは、第四章「原大和の祭祀形態」(復元論)にある「原大和史」に関するまったく新しい視点だ。すなわち室伏氏が「原大和」をその上古の昔から大和朝廷のものだったのではなく、それは「近畿の物部王国」だったのではないかとした点である。
 室伏氏はこれまでも、『日本書紀』が出雲史と倭国史をその「神代」の記述の内に取り込んだように、原大和史をもみずからかき消し、その上からさらに倭国東朝史をおおい被せて「悠久の大和史観」に繋いだのだと主張してきた。だが、そもそもの原大和史なるものが、いかなる人々の織りなすいかなる共同幻想に裏打ちされた社会体制であったのか、それ以上明確には述べてこなかった。今度の著作で、はじめてそれが「おそらく原大和の多氏は出雲の国譲りによって、国を失い四方に散った於宇(多)一族の中心が近畿に入ったものと思われる」というように、具体的な氏族名で取り上げられたのである。特に三輪山の太陽信仰の中心に位置する多神社について、次のように書いている点が興味深い。
 「この春日神社の主宰者としての多神社の発見は、その主宰者を多氏とする。多はまた意宇、意富、於宇、太、大、と様々に書かれてきた。このとき私に、もし、それを東アジアに思考を開くときどうなるのかと、今まで想いもしなかった考えに捉われたとき、思いがけないことに新羅(伽耶)第一王朝の王家である の字が頭をよぎった。それは今まで夢想もしなかったことで、私をさらに飛躍させずにはおかなかった。というのはこの幻視の先に捉えた朴王朝は紛れもない太陽信仰の王朝であったからである。」(94頁)
 さらに二番目の重要な論点とは第六章「日本の南船北馬」にある、古代中国は江南・呉越の民の日本列島への到来が、倭国(九州)の成立とどう接点するのかという問題に関するより具体的な記述である。
 すなわち前著『日本古代史の南船北馬』で一度ダイナミックに描かれたこの構図は、さらにその幻視の精度を確実に向上させていると私には映ったのだった。その様子は次のように語られる。
 「しかし呉越の民はなぜ日本に向かったのであろう。私はその後の斉の方士・徐福の行動や、それから四五○年近くして、三国時代の呉の孫権が衛温と諸葛直に武装兵一万人を与え派遣したことを思うと、仙人の住むとされた三神山の蓬莱、方丈、瀛州は黒潮の流れる先に確かにあり、その蓬莱の夷州やにおいてすでに徐福の子孫達が数万戸ををなし、そこから会稽にきて商いをしている事実があったからである。実際、江南から黒潮に乗れば日本へは数日しか要せず、漁をして流された者は多かったと思われる。」(138頁) ここから室伏氏の幻視の想像空間はさらに北東へと延びていき、呉人が上陸して住んだ地が夷州つまり九州で、越人の最後に落ち着いた先が丹後半島以北の亶州すなわち越の国だったとする見解は前著の通りだとしても、さらに「その夷州の中心地がわけても山跡と呼ばれ倭となった理由は、仙人の住む、方丈、の三神山があるとされていたからで、かかる三山のある地は、夷州である九州においては香春三山をおいてなかったからである」という決定的な言葉から窺えるように、ここに『大和の向こう側』で展開された“原大和”の驚愕のヴィジョンが、見事に東アジア大の規模で、その遥かな円環を閉じむすんでいく様を私は望見するのである。
 そして三番目の刮目すべき最後の論点とは、第八章「天府の国の伝説」における、失われた長江文明のまっさらな原像に至りゆく室伏氏の一連の幻視内容だ。わが国の古代史の変動を東アジアの民族移動史との連関において捉えるべきだとの観点は、室伏氏がこれまでも声を大にして主張してきたところであるが、そのフォローされてきた圏域はいわば朝鮮半島までで、上述したように中国江南地方での呉越の滅亡という政治的激動を一部そこに反映させてはいたものの、大陸におけるそれはいまだ間接的な記述にとどまっていた感が強かった。それが今回、「天府の国」すなわち独自に発達をみた稲作文明を擁した四川省の「蜀」と本邦の古代国家との関わりの発見として、この問題がはじめて正面から捉え返されたのである。
 言わばこのことの思想的な意義は、私には計り知れないほど大きいのではないかと思われる。なぜなら、それはわが国の弥生時代における王権交代劇のさらにその向こう側に隠された古層の原=王権像を、はじめて真摯に描き出す端緒ともなりうるまったく新しい画期的な視点だからである。たしかに室伏氏自身も「長江文明と本邦の稲文化の渡来を、具体的に呉越の民に関係づける説は、通説においても九州論者においてもまだしの感は否めない」と述べているが、私たちの歴史観をこれまで大本のところで規定してきた司馬遷の『史記』がなぜか北方王権の黄河文明「夏」から始まっているように、明らかに南方に花開いた長江文明の記述の切り捨てによってそれが成立っている様を考えれば、昨今の中国における考古学的な長江文明の目をみはる発掘発見と相俟って、室伏氏の「天府の国」へのこの幻想の翼は、文字通り私たちの民族的起源と文化の淵源とをそのはるかな原郷にまで一気に拉し去るほどの衝撃力を秘めているのだと言えるだろう。
 幻想史学はこのように、その規模と内容とにおいて力強く進化し続けている。否、それは深化しつつ自らの生々流転を生きている、と言ったほうがよいかもしれない。
 「幻想史学は自説のナルチシズムの使徒足ることを何よりも恥と考え、新たな知に常に頭蓋を開放することによって、それらどの立論に対しても浮草以上の評価を与えはしなかった。そしてただただ想像力をもって幻視することによって、それらの断片を一個の構造物に組み立てる論をなしてきたのである。しかしそれは一瞬の平衡感覚ともいえる危うさの内にあるので、幻想史学の立論をたやすく実体化する否や、それはまったく違ったお化けとなるしかないことは言っておかねばなるまい。」(189頁)
 室伏氏のこの言葉は、私の耳にはじつに新鮮に響く。まさに氏のこうした言葉を待つまでもなく、幻想史学は言葉のもっとも真摯な意味において、歴史への不断かつ徹底した“批評”作業でもあることを、いま私は深く知らされるのである。(季報「唯物論研究」)

※大芝英雄講演 2011年10月9日(日)pm2時 泉北すえむら資料館(旧泉北考古資料館