相互批評の饗宴――幻想史学と仲間たち

 これは幻想史学の提唱から15年経った仲間たちとの相互批評と詩と写真による饗宴である。

書評 『和姓に井真成を奪回せよ』(越境の会/編 同時代社) 西垣祐作

2011年09月19日 | 書評
「名前」とは恐ろしいものだーー 西垣祐作

 「名前」とは恐ろしいものだ。特に「姓」は、家系の由来や出自をも表してしまう。出身地や系譜などが履歴のように刻印されたものが、「姓」なのだ。相手の名前が分かったときに、この世のものとも思われない喜びを感じるときもあれば、世界が凍りつくような恐怖を感じるときもある。
 『グリム童話』に、次のような話がある。貧乏な粉屋の娘が「こびと」の助けで、藁を金に紡ぐ。やがて王妃となった娘は、「こびと」との約束で、最初の赤ん坊を彼に与えなくてはならなくなる。「こびと」は、泣き悲しむ娘に「三日間待ってやる。その間に自分の名前を言い当てることが出来たなら、勘弁してやる。」と言う。使いの者を国中に走らせた王妃(娘)は、ある情報を得る。三日目に「こびと」がやってきた時、娘は彼に告げる。「あなたの名前はルンペルシュティルツヒェン」。本名を言い当てられて驚いた「こびと」は、「悪魔が教えたな。その名前を悪魔が教えたな。」と叫びながら地団駄踏み、逆上してついに自分自身をまっぷたつに引き裂いてしまった。
 糸紡ぎをする「こびと」の名前を当てる類話は、ヨーロッパ各地にあり、北欧には巨人や悪魔の名前当て伝説もある。イギリスでは『トム・ティット・トット』が有名であり、日本でも、『大工と鬼六』という同種の昔話がある。
 さて、ここで問題。「井真成」という名前は、どう読むか?
 ことの起こりは、こうである。二○○四年十月、中国の西北大学歴史博物館が、唐代の日本人留学生「井真成」の墓誌を発掘、発見したと伝えた。墓誌の蓋には十二文字、墓誌銘には一七一文字が刻まれていた。その内容は、以下のようなものである。
 「井真成」は日本からやってきた。学問に励んでいたが、開元二十二(七三四)年に三十六歳で亡くなった。その死後、玄宗皇帝は彼に「尚衣奉御」という官位(従五品上の位)を贈った。万年県(長安の東郊)産水の東原に葬られた。
 銘の最後には、彼の葬礼の悲しみが刻まれ、また「肉体は異国に埋められたけれども、魂は故郷に帰ることをこいねがう。」という痛切な表現で結ばれている。
彼が生きた時代は、六九九年~七三四年。まさに「日本」という国号ができたての頃であった。「井真成」は、七一七(養老元)年の第九次遣唐使(阿倍仲麻呂・吉備真備らが有名)に随行した留学生ではないかと推測されている。
 日本の学会では、「井」という姓をめぐって、和姓の一部を中国姓としたとする説が有力になり、元の和姓について、「葛井」、「井上」、「白猪」などの説が出された。また、「井真成」の出身地は、現在の藤井寺市であると確定的に報道されている。さらに、墓誌里帰り運動が盛り上がり、墓誌は愛知万博で公開された後、東京→奈良→九州の各国立博物館での展示後、「郷里」藤井寺市へ届けられる手はずになっているようである。
 この墓誌発見以降の一連の「事態」に、室伏氏(「越境の会」代表)のセンサーは敏感に反応した。おそらく、「井真成」問題の「向こう側」を直感的に幻視したのだろう。氏は、学会やマスコミを中心とした「こちら側」の安易な歴史認識に憤りを覚え、一ヶ月のうちに「腕と人間を見込んだ」八人を糾合し、本書を発行したのである。これはまさに、歴史認識において停滞し退廃した「状況」に対する抵抗戦であり、知的集団戦でもある。
 室伏氏を中心とした「越境の会」の主張は、極めて明快である。すなわち、「井真成」の姓「井」は、中国姓に倣って一字姓に変えた「井(=セイ)」ではなく、和姓の一字姓「井(=イイ)」であり、「井真成」は「イイマサナリ」という名前であったとするものである。それでは、「井(=イイ)」姓の日本における分布はどうなっているのか。本書第四章の白名一雄氏の調査によると、非常に興味深い結果が示されている。全国の「井(=イイ)」姓の約半数は熊本県に集中している。さらに、熊本県の中でも阿蘇郡、特に「産山村」が最も多いのだ。この観点からすると、「井真成」の故郷は藤井寺市ではなく、熊本県阿蘇郡産山村と考える方が理にかなうことになる。この、シンプルで力強い論理的推論が、「井真成」問題における「越境の会」の論の根幹である。日本の学会やマスコミは、なぜこのような可能性さえ思い描かないのか。本書を読み進むうちに、そのような思いが強くなってくる。
 ところで、ここで執筆者九人の切り口を、それぞれ見ていくことにしよう。第一章は、書家の保井氏による墓誌の臨書。牛乳で字を書き、裏から墨を塗って拓本のような味わいを出した作品である。第二章は福永氏による「井真成墓誌銘の解釈」。四六駢儷体の文体を基本にして行ったもの。第三章は、恵内氏による「産山村に井姓を訪ねる」と題した探訪記。第四章は、「イイ」読みの井姓を電子電話帳で検索、整理し、音韻変化にも着目した白名氏の論文。第五章は、阿蘇地方と古代中国との関係を考察した兼川氏の論文。第六章は、民俗学的観点から「井真成」問題をとらえた越川氏の論文。第七章は、「ゐ」音の字を中心に日本古代史を考察した福永氏の論文。第八章は、唐代の視点からとらえ直した「井真成墓誌」論。第九章は、東アジア民族移動史の流れの中に「井真成」問題を位置づけ、「この列島における井姓のもつはかりがたい重さ」を考察した論文。「向こう側」シリーズに始まる室伏幻想史学の、さらなる「深化」をもたらした一編。
 以上、「井真成」=和姓を基調として、手練の書き手が多角的かつ重層的な旋律を奏でている本書は、現在の停滞した歴史認識の根幹に揺さぶりをかけ、強く転調を促しているといえよう。
一三OO年の眠りから覚め、我々の元に届けられたタイムカプセル、「井真成墓誌」は我々に実に多くのことを語りかけてくれる。しかし、その声は「井真成」の本名を知っている者にしか聞こえてこない。我々の歴史認識はいまだに、七一二年成立の『古事記』、七二O年成立の『日本書紀』の呪縛から解かれておらず、大和朝廷を起源とする万世一系の天皇史観という共同幻想から自由ではない。だが、権力者は常に、前権力者から正統性だけを継承し、歴史を恣意的に書き換えるという鉄則を忘れてはならない。その意味で、今回の「井真成」問題において、我々が「あなたの名前はイイマサナリ」と呟く時、地団駄踏んで逆上するのは、本来の歴史を隠蔽し、書き換え、藤原天皇制を画策した「藤原不比等」その人なのかもしれない。
 本書は「井真成墓誌」論を通して、旧来の「記紀歴史観」に対するレクイエムを奏でており、その上に「墓標」を打ち立てようとするものである。また、十九歳で遣唐使として唐に渡り、以後十七年間留学生として勉励したとされる「井真成」の魂を「真の故郷」に導こうとするものとなっている。(季報「唯物論研究」)

※大芝英雄講演 2011年10月9日(日)pm2時 泉北すえむら資料館(旧泉北考古資料館


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