柳田民俗学と方言周圏論 室伏志畔
柳田國男は「京都の時雨の雨はなるほど宵暁ばかりに、物の三分か四分ほどの間、何度と無く繰り返してさっと通り過ぎる。東国の平野ならば霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る」とそれぞれに見事にイメージ化している。それを吉本隆明は引き取って、古典の時雨はどこで歌われようと、前者の京都の時雨のイメージを前提に展開したのだという。この京のイメージを極めることがいわゆるこの国の古来からの教養で、そのイメージに通じれば、何処にあっても「題詠」に従って、雅の道に通じることができた。
とするとき「東国の平野の霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る」東北や各地のとりどりの時雨に密接に結びついた各地の幻想に、柳田國男が鍬を入れたことは如何に画期の試みであったかは見やすい。
和人のわきまえとしての和歌は、京のイメージに一元化する日々の実践で、この国の感性の涵養そのものであった。それは畿内中心の感性の一元化を自然過程とすることにほかならない。それは逆に云えば都中心の鄙(地方)の差別化そのものであるばかりではない、下々が何を云おうがお上が大事とするこの国の風習は、この感性と表裏一体したエリート官僚の知性を強固なものとしたのは当然である。
ここ一〇年近く、畿内一元史観からの脱却を説いてきたが、それは単に記紀史観からの知性の奪還に止まらず、ここ一三〇〇年にわたり涵養された日本人の感性構造を疑い、そこからの越境をはかる、途方もない不可能性への挑戦でもあったわけだ
。
1.『全国アホバカ分布考』
この吉本隆明の柳田國男論と前後して、私は、今もテレビで放映中の「探偵!ナイト・スクープ」が、一九九一年のテレビ界のビッグ・タイトルを総なめすることになった番組の、その経緯を含め再構成した『全国アホバカ分布考―はるかななる言葉の旅路』(松本修著・新潮文庫)を読んだ。そして、たまたま点けたテレビから、「探偵!ナイト・スクープ」の探偵局で秘書役を務めた岡部まりが、今夏の参院選の出馬会見に小沢一郎と共に現れる共時性に驚いたが、それ以上にびっくりしたのは、「探偵!ナイト・スクープ」のプロデューサーで、『全国アホバカ分布考』の著者である松本修がアホバカ語分布を方言周圏論で一元的に説明する姿をこの本で目の当たりにしたことである。
「探偵!ナイト・スクープ」とは、視聴者の調査依頼に応じる番組だが、その一つに「東京からどこまでが『バカ』で、どこからが『アホ』なのか、調べてください」という依頼があった。それを秘書役の岡部まりが読み上げ、探偵局長の上岡龍太郎がそれを「一見バカバカしく見えるが……文化の境界線を探る重要な調査で」と応じ、北野誠探偵に調査を命じたのに始まる。東京駅から北野誠が新幹線に乗り込み、東京の「バカ文化圏」が大阪の「アホ文化圏」にどこら辺りで線引きできるかを、途中下車し確かめて行くのだが、名古屋周辺で「タワケ文化圏」が厳然とあることに遭遇し、アホ・バカの境界線探索は、いつしかアホ・タワケの境界線探索に変わり、それが岐阜県の関ヶ原辺りとする報告を持ち帰る。関ヶ原は云うまでもなく、豊臣方と徳川方の天下分け目の合戦場であったばかりではない、古代の一大決戦・壬申の乱の舞台で線引きできるというのは、誠興味深い。これをきっかけに、この番組は、一年がかりで全国のアホバカ語の分布地図作りがスタートするが、問題は近畿の西にもアホ・バカの境界線があり、東西のバカ文化圏に挟まれてアホ文化圏があるという事実をスタッフは驚くが、わけても驚いたのはプロデューサーの松本修はなかったか。
ここに全国の教育委員会に3000通以上のアンケートを発送、回収し、アホバカ方言分布が地図に上に書き込まれる。この説明に松本修が用いたのが方言周圏論であった。
柳田國男は、言葉は同心円上に広がり都から旅をし、遠い地方ほど都の古い言葉が残ると、こう述べる。
《若し日本が此様な細長い島でなかったら、方言は大凡近畿をぶんまはしの中心として、段々に幾つかの圏を描いたことであらう。》(『蝸牛考』)
ぶんまはしはコンパスの古称で、この方言周圏論の提起はヨーロッパ起源だが、柳田國男はそれを『蝸牛考』で、つまりカタツムリの各地の呼び名分布について報告したのである。先の柳田國男の一文はその中にあるものだが、それが蝸牛に止まらず、十分に成り立つかどうかについては、晩年は懐疑の内に他界した。
松本修は、主要なアホバカ方言23語、つまり、アホ、ノクテー、アヤカリ、アンコウ、バカ、ウトイ、トロイ、タワケ、ボケ、ゴジャ、コケ、テレ・デレ、タボ、ダラ、ホウケ、タワラダ、ホンジナシを日本地図に書き入れると、京都を中心に東西で上記の同じアホバカ方言が日本地図上で、同心円上に並ぶことから、柳田國男の方言周圏論を持ち出し、テレビ放映の中で上岡龍太郎探偵長を中心とするスタッフの軽妙洒脱なおもしろ、おかしいやりとりを通し、民俗学者を出し抜き、かくして「探偵!ナイト・スクープ」は一九九一年度のテレビ界のタイトルを総なめすることとなった。
2.方言周圏論と柳田國男
この快挙を認めるに私はやぶさかではない。その上での遅ればせの批判を今からするのは、方言を京からのお流れとしてマスコミが一元的に説明することに、私は一種の戦慄を感じるのは、できるだけ多元的にあるべきマスコミが、一元的な方言周圏論を振りまくことに微塵の危惧の自覚がないことにある。ソフトに言葉を振りまきながら松本修は、柳田國男をはじめ民俗学者が手をこまねいた方言周圏論の是非を出し抜き、満面してやったりとするところが、そこになかったと云えば嘘であろう。しかし、それが、こう書くのは、やはり勇み足もすぎるのではないか。
《分布図に採用したような、それなりの広さの分布域をもつ方言には、地方で独自に生まれたものなどひとつもないのではと思われてきた。》
と書くからだ。そして、アホバカ方言の最も外枠にある、同心円上に乗る東北と南九州に伝わるホンジナシの京からの遙かな旅について、東北のスーズー弁を恥じる人々を前に、松本修は、それは地元特有の言葉ではなく、遙か遠い昔、京の都から何百年の旅をした京言葉の遺風を今に伝えるものだとこう講演し、こう書く。
《仮に言葉こそ心であるとするのなら、古い雅の京の心は、今の京都にはありはしないのだ。現在の京都人をはじめ私たち関西人が使っているのは、江戸時代以降の京の言葉にすぎない。平安から室町にかけての偉大だった京の心と言葉は、はるかな北と南、東北と九州の山野にこそ、今なお豊かに息づいているのだ。
東北の方言、そしてそれを自由に操れるお年寄りは、そうした歴史的な意味で、まさしく日本の宝と言って過言ではないだろう。》
東北の方言は、かつての京の歴史的なことばを今に伝えており、かつての都ことばだったから恥じることはないのですと、松本修は東北の人に話しかける。私は、松本修がそう思い込むのは仕方ないとしても、東北の民衆がその説明に感激してもらっては困るのだが、事実は、話す方もそれに聞き入る双方が涙し感極まったというのだ。
しかし、松本修のこの云い方は、言葉と心は京に生まれ、鄙の東北でそれを受け継いだ東北の人は、言葉と心を京から与えられたかのごとき云い方である。それは鄙なる田舎には自立した心も言葉も育たなかったかのごとき言い草で私は見逃すことができない。それこそ、現在に至る官僚中心のエリート社会の心性を作った当のものとして告発されべきものだが、鄙なる東北のお年寄りが、かつての京ことばを今に保存する「日本の宝」と褒めてはいるが、実際は東北文化を貶しているのだ。それは京の雅な文化とは別に、鄙としての地方はとりどりに豊かな言葉や心をもつと、鄙文化に独自の価値を見出してきた柳田國男の民俗学とは逆立ちした理解でしかないからだ。
柳田民俗学は一面的に言い切れるものでないのは、山人論に民俗論を始めた柳田國男が常民論に行き着く逆説性を免れなかったこと一つを見ても明らかである。それは柳田民俗学が明治国家の国策遂行の一面を担う矛盾を生きたことに関係する。彼は民俗学者であったが、国の高級官僚として農政に深く関わり、ことに南洋統治とりわけ台湾統治に深く関わった。そのとき、方言周圏論を持ちだした柳田國男は、民俗学者であったか国策遂行者であったかをふわけることは血を流さずに肉塊を切り取るに似て難しい。とりわけ、ドイツ民俗学が国策科学としてナチスの時代に一世風靡したことを思えば、その影響下に生まれた方言周圏論が国策的イデオロギーに染まっていなかったとは云えない。それを日本方言に適用した方言周圏論についての柳田國男の主張を、柳田民俗学の主要テーマであったごとく捉え、鈴木修が「アホバカ方言分布考」で、その立証を行ったかのごとき評価を私は取らない。というのはそれはナチスの国策民俗学の線上から生まれた理論の趣が強いからで、晩年それに懐疑的であったのはその自省の一面を含意している。時雨と云えば、物の三分か四分ほど降ってはさっと通り過ぎる京の時雨に対し、霰や霙混じりの東北の時雨を、それと同価値のものとして見たところに、むしろ私は柳田民俗学の意義を見るからである。
また鈴木修が、現在の関西人が使っている言葉は江戸時代以降の京言葉で、東北と九州に息づく言葉は、平安から室町にかけての言葉とするのは、歴史射程がいささか浅過ぎよう。その東北と九州南端地域の住民は、人種的にも縄文的倭人の特徴を持ち、その両端に挟まれた弥生的倭人の特徴と質を異にすることは人類学者が主張して来たところであり、記紀万葉にある大和ことばの成立は、松本修が踏まえる平安時代以前よりは遙かに深い淵源をもっており、畿内中心に成立したとは云えないのである。そうした中で、アホバカ方言をすべて鎌倉・室町以後の京ことばのお下がりとして説明していいのか、私には懐疑的である。
七世紀末に飛鳥や奈良の畿内に都が成立し、八世紀末期の平安時代以降、京都が列島の文化の中心となったが、それ以前から神武の昔から大和が中心でであったとすることなく、私は六七二年の壬申の乱後のことだとしてきた。その前は七世紀半ばまでは倭国中心、つまり北九州中心の時代が八〇〇年近くあり、その前に出雲中心の時代があり、大和ことばの淵源は北九州に発し、その古層に今は南北の南九州や東北に追いやられた縄文的言語が踏まえられていた。つまり、列島における文化の中心移動についての配慮も、日本語の重層性について鈴木修のはまったく配慮がなく、畿内一元史観の上で全国アホバカ分布の説明が鎌倉・室町文化以後の京ことばの地方への分布として一元的に方言周圏論が展開されているのだ。その方言周圏論の全てが間違っていると私は云うのではもちろんない。一元的にアホバカ方言を周圏論にすべて乗せて論じる気が知れないというのだ。文化は高きから低きに流れるのは当然としても、常に双方向的に展開した文化の、鄙からの流れを無視した文化論の暴挙へのチェックこそ、マスコミが大いに気を遣うべきで、テレビという利器を使用する放送関係者はことに、文化の多様性に配慮しなくてはならないのに、一元的説明をしてどうする。また、出雲や北九州を中心とする列島の一時代を夢想したこともないため、それらを中心とした方言周圏論の複層的な展開がないのは当然とはいえ、それは七世紀以前の列島文化をなかったごとく扱っており、それは神話を切り捨てた戦後史学以上に、浅い日本文化論の展開になっている。そうした瑕疵を踏まえて成立した現在のエリート文化の形を見事に、このアホバカ分布考はなぞっているのだ。
3.朝敵と大和一元史観
方言周圏論の九〇年代の見事な論証とされる『全国アホバカ文化考』に、私はなぜこうもこだわるのだろうか。鈴木修は「アホバカ表現こそ、まさに言語遊びのアイデアの玉手箱と言うことができるだろう」として、さらに、こう続ける。
《こういう言葉が京の町で次々と開発されるにあたっては、おそらく、庶民の遊びの精神が作用していた。人は人をけなすために最大限の知恵を絞り、あらゆるボキョブラリーを動員して、表現のユニークさ、絶妙さを競ったのである。それは稚気愛すべき、都の庶民の企てだった。こんな時、「痴」や「愚」、或いは「無知」などをストレートに表すような言葉、或いは差別的な言葉は、当然のことながら、最初から排除された。そんな一片のデリカシーもない、また遊び心もセンスの冴えもない発想こそ、まさに恥ずべき「ナンセンス」さだったからである。》
この一種、軽妙洒脱な伸びやかな論は、またなんと美しく善意な日本人論、日本語論であろう。しかし雅の極値として尊ばれた大和ことばとしての、「八雲立つ」は「八蜘蛛断つ」で、素戔嗚命の八俣大蛇退治に象徴される八雲国の粛清であり、玉藻刈りは「物部狩り」で、藤波は「藤無み」としての旧権力者に対するおぞましい粛清の一面を大和ことばの内に隠し持っていた。また京ことばのその優美さは、「どうぞ、ぶぶ漬けでも」という一見さんへの誘いは、「ぼちぼちお引き取り下さい」の裏腹な意味をもつものとしてあった。その京ことばの中心領域である畿内に、差別がもっとも色濃く残るとは、雅文化のもつもう一つの一面を語るものである。またホンジナシの方言周圏論の外周が、大和朝廷の朝敵とされた熊襲や蝦夷の地に重なる歴史を落として、それは成り立つのだろうか。こうした認識を欠いての京ことばの地方拡散だけで語られる『アホバカ方言分布考』は、一知半解でしかない。
ホンジナシは本地ナシで、本性をなくすことだとされる。酒に酔って正体を無くすとき、このことばが使われるのは、その一端を証明する。それがアホバカ方言に加わるのは、人は本来の性質を失っては人でないとするところにあろう。そして古来にあって、性質はそれぞれの土地の刻印を色濃く受けており、それを無くした者を愚かとするところにあった。問題はその喪失が酒によってもたらされたのではなく、そこに朝敵・熊襲や蝦夷を挟むとき、それは外的圧力によって正体を無くすまで追い込まれた過去があったことを知るのだ。熊襲や蝦夷は朝廷のたび重なる圧迫によって土地を追われた。新たに開発した土地にも朝廷の手は及び、追及の手は止むこと無かった。そのためにやむなく朝廷に帰伏することを余儀なくされた者に朝廷は、夷をもって夷を征する策をもって、彼等を朝敵征討の先頭に立て、その恭順の程を試した。この敵側につき、千々に心を狂わんばかりに痛めた者をホンジナシと呼び、さらに彼等を追い込み正体を無くさせたので、果たして鈴木修の言うように京ことばの遙かな遠い旅路を告げるものであったかどうかを私は怪しむ。そのことは熊襲や蝦夷の本貫が北九州で、現在、南九州と東北の列島の最果てにあることは、南北に裂かれた敗者の姿をまざまざと今に伝える。
しかし、この『全国アホバカ文化考』は、神話世界で語られる越と出雲にアホバカ方言であるダラが共有されているのを発見したのは興味深い。それはこれら地方を私は長江下流域の南船系越人の渡来地としてきたからで、このダラの共有関係は、越文化と出雲文化を担った者が通底していたことを今に語るように思えてならない。須佐之男命(素戔嗚命)に婿入りした大国主命は、越の沼河比売を娶るものの、国譲りにあったと記紀にある。その敗れた大国主命末裔は大和に入り、唐古・鍵遺跡を営み大和王権の基礎を創ったと私はしてきた。それはまた須佐の男命・大国主命一族の出雲追放と別でない。それとは別に越を頼り落ちのびた者もあったろう。「姓名ランキング」で検索すると、須佐氏の最多県は新潟県となり、須佐之男命一族の末裔は越の沼河比売一族を頼り、越に落ちて行った者があったことを今に伝える。
『全国アホバカ文化考』は、方言を畿内中心の都ことばのお流れとしたが、地方の歴史文化を回復する中で、その地方の自生的なことばに奪回するのが方言論の王道である以上、この九〇年代初頭の成果を、多元的に見つめ直す時は来ている。(2010.5.2)
柳田國男は「京都の時雨の雨はなるほど宵暁ばかりに、物の三分か四分ほどの間、何度と無く繰り返してさっと通り過ぎる。東国の平野ならば霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る」とそれぞれに見事にイメージ化している。それを吉本隆明は引き取って、古典の時雨はどこで歌われようと、前者の京都の時雨のイメージを前提に展開したのだという。この京のイメージを極めることがいわゆるこの国の古来からの教養で、そのイメージに通じれば、何処にあっても「題詠」に従って、雅の道に通じることができた。
とするとき「東国の平野の霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る」東北や各地のとりどりの時雨に密接に結びついた各地の幻想に、柳田國男が鍬を入れたことは如何に画期の試みであったかは見やすい。
和人のわきまえとしての和歌は、京のイメージに一元化する日々の実践で、この国の感性の涵養そのものであった。それは畿内中心の感性の一元化を自然過程とすることにほかならない。それは逆に云えば都中心の鄙(地方)の差別化そのものであるばかりではない、下々が何を云おうがお上が大事とするこの国の風習は、この感性と表裏一体したエリート官僚の知性を強固なものとしたのは当然である。
ここ一〇年近く、畿内一元史観からの脱却を説いてきたが、それは単に記紀史観からの知性の奪還に止まらず、ここ一三〇〇年にわたり涵養された日本人の感性構造を疑い、そこからの越境をはかる、途方もない不可能性への挑戦でもあったわけだ
。
1.『全国アホバカ分布考』
この吉本隆明の柳田國男論と前後して、私は、今もテレビで放映中の「探偵!ナイト・スクープ」が、一九九一年のテレビ界のビッグ・タイトルを総なめすることになった番組の、その経緯を含め再構成した『全国アホバカ分布考―はるかななる言葉の旅路』(松本修著・新潮文庫)を読んだ。そして、たまたま点けたテレビから、「探偵!ナイト・スクープ」の探偵局で秘書役を務めた岡部まりが、今夏の参院選の出馬会見に小沢一郎と共に現れる共時性に驚いたが、それ以上にびっくりしたのは、「探偵!ナイト・スクープ」のプロデューサーで、『全国アホバカ分布考』の著者である松本修がアホバカ語分布を方言周圏論で一元的に説明する姿をこの本で目の当たりにしたことである。
「探偵!ナイト・スクープ」とは、視聴者の調査依頼に応じる番組だが、その一つに「東京からどこまでが『バカ』で、どこからが『アホ』なのか、調べてください」という依頼があった。それを秘書役の岡部まりが読み上げ、探偵局長の上岡龍太郎がそれを「一見バカバカしく見えるが……文化の境界線を探る重要な調査で」と応じ、北野誠探偵に調査を命じたのに始まる。東京駅から北野誠が新幹線に乗り込み、東京の「バカ文化圏」が大阪の「アホ文化圏」にどこら辺りで線引きできるかを、途中下車し確かめて行くのだが、名古屋周辺で「タワケ文化圏」が厳然とあることに遭遇し、アホ・バカの境界線探索は、いつしかアホ・タワケの境界線探索に変わり、それが岐阜県の関ヶ原辺りとする報告を持ち帰る。関ヶ原は云うまでもなく、豊臣方と徳川方の天下分け目の合戦場であったばかりではない、古代の一大決戦・壬申の乱の舞台で線引きできるというのは、誠興味深い。これをきっかけに、この番組は、一年がかりで全国のアホバカ語の分布地図作りがスタートするが、問題は近畿の西にもアホ・バカの境界線があり、東西のバカ文化圏に挟まれてアホ文化圏があるという事実をスタッフは驚くが、わけても驚いたのはプロデューサーの松本修はなかったか。
ここに全国の教育委員会に3000通以上のアンケートを発送、回収し、アホバカ方言分布が地図に上に書き込まれる。この説明に松本修が用いたのが方言周圏論であった。
柳田國男は、言葉は同心円上に広がり都から旅をし、遠い地方ほど都の古い言葉が残ると、こう述べる。
《若し日本が此様な細長い島でなかったら、方言は大凡近畿をぶんまはしの中心として、段々に幾つかの圏を描いたことであらう。》(『蝸牛考』)
ぶんまはしはコンパスの古称で、この方言周圏論の提起はヨーロッパ起源だが、柳田國男はそれを『蝸牛考』で、つまりカタツムリの各地の呼び名分布について報告したのである。先の柳田國男の一文はその中にあるものだが、それが蝸牛に止まらず、十分に成り立つかどうかについては、晩年は懐疑の内に他界した。
松本修は、主要なアホバカ方言23語、つまり、アホ、ノクテー、アヤカリ、アンコウ、バカ、ウトイ、トロイ、タワケ、ボケ、ゴジャ、コケ、テレ・デレ、タボ、ダラ、ホウケ、タワラダ、ホンジナシを日本地図に書き入れると、京都を中心に東西で上記の同じアホバカ方言が日本地図上で、同心円上に並ぶことから、柳田國男の方言周圏論を持ち出し、テレビ放映の中で上岡龍太郎探偵長を中心とするスタッフの軽妙洒脱なおもしろ、おかしいやりとりを通し、民俗学者を出し抜き、かくして「探偵!ナイト・スクープ」は一九九一年度のテレビ界のタイトルを総なめすることとなった。
2.方言周圏論と柳田國男
この快挙を認めるに私はやぶさかではない。その上での遅ればせの批判を今からするのは、方言を京からのお流れとしてマスコミが一元的に説明することに、私は一種の戦慄を感じるのは、できるだけ多元的にあるべきマスコミが、一元的な方言周圏論を振りまくことに微塵の危惧の自覚がないことにある。ソフトに言葉を振りまきながら松本修は、柳田國男をはじめ民俗学者が手をこまねいた方言周圏論の是非を出し抜き、満面してやったりとするところが、そこになかったと云えば嘘であろう。しかし、それが、こう書くのは、やはり勇み足もすぎるのではないか。
《分布図に採用したような、それなりの広さの分布域をもつ方言には、地方で独自に生まれたものなどひとつもないのではと思われてきた。》
と書くからだ。そして、アホバカ方言の最も外枠にある、同心円上に乗る東北と南九州に伝わるホンジナシの京からの遙かな旅について、東北のスーズー弁を恥じる人々を前に、松本修は、それは地元特有の言葉ではなく、遙か遠い昔、京の都から何百年の旅をした京言葉の遺風を今に伝えるものだとこう講演し、こう書く。
《仮に言葉こそ心であるとするのなら、古い雅の京の心は、今の京都にはありはしないのだ。現在の京都人をはじめ私たち関西人が使っているのは、江戸時代以降の京の言葉にすぎない。平安から室町にかけての偉大だった京の心と言葉は、はるかな北と南、東北と九州の山野にこそ、今なお豊かに息づいているのだ。
東北の方言、そしてそれを自由に操れるお年寄りは、そうした歴史的な意味で、まさしく日本の宝と言って過言ではないだろう。》
東北の方言は、かつての京の歴史的なことばを今に伝えており、かつての都ことばだったから恥じることはないのですと、松本修は東北の人に話しかける。私は、松本修がそう思い込むのは仕方ないとしても、東北の民衆がその説明に感激してもらっては困るのだが、事実は、話す方もそれに聞き入る双方が涙し感極まったというのだ。
しかし、松本修のこの云い方は、言葉と心は京に生まれ、鄙の東北でそれを受け継いだ東北の人は、言葉と心を京から与えられたかのごとき云い方である。それは鄙なる田舎には自立した心も言葉も育たなかったかのごとき言い草で私は見逃すことができない。それこそ、現在に至る官僚中心のエリート社会の心性を作った当のものとして告発されべきものだが、鄙なる東北のお年寄りが、かつての京ことばを今に保存する「日本の宝」と褒めてはいるが、実際は東北文化を貶しているのだ。それは京の雅な文化とは別に、鄙としての地方はとりどりに豊かな言葉や心をもつと、鄙文化に独自の価値を見出してきた柳田國男の民俗学とは逆立ちした理解でしかないからだ。
柳田民俗学は一面的に言い切れるものでないのは、山人論に民俗論を始めた柳田國男が常民論に行き着く逆説性を免れなかったこと一つを見ても明らかである。それは柳田民俗学が明治国家の国策遂行の一面を担う矛盾を生きたことに関係する。彼は民俗学者であったが、国の高級官僚として農政に深く関わり、ことに南洋統治とりわけ台湾統治に深く関わった。そのとき、方言周圏論を持ちだした柳田國男は、民俗学者であったか国策遂行者であったかをふわけることは血を流さずに肉塊を切り取るに似て難しい。とりわけ、ドイツ民俗学が国策科学としてナチスの時代に一世風靡したことを思えば、その影響下に生まれた方言周圏論が国策的イデオロギーに染まっていなかったとは云えない。それを日本方言に適用した方言周圏論についての柳田國男の主張を、柳田民俗学の主要テーマであったごとく捉え、鈴木修が「アホバカ方言分布考」で、その立証を行ったかのごとき評価を私は取らない。というのはそれはナチスの国策民俗学の線上から生まれた理論の趣が強いからで、晩年それに懐疑的であったのはその自省の一面を含意している。時雨と云えば、物の三分か四分ほど降ってはさっと通り過ぎる京の時雨に対し、霰や霙混じりの東北の時雨を、それと同価値のものとして見たところに、むしろ私は柳田民俗学の意義を見るからである。
また鈴木修が、現在の関西人が使っている言葉は江戸時代以降の京言葉で、東北と九州に息づく言葉は、平安から室町にかけての言葉とするのは、歴史射程がいささか浅過ぎよう。その東北と九州南端地域の住民は、人種的にも縄文的倭人の特徴を持ち、その両端に挟まれた弥生的倭人の特徴と質を異にすることは人類学者が主張して来たところであり、記紀万葉にある大和ことばの成立は、松本修が踏まえる平安時代以前よりは遙かに深い淵源をもっており、畿内中心に成立したとは云えないのである。そうした中で、アホバカ方言をすべて鎌倉・室町以後の京ことばのお下がりとして説明していいのか、私には懐疑的である。
七世紀末に飛鳥や奈良の畿内に都が成立し、八世紀末期の平安時代以降、京都が列島の文化の中心となったが、それ以前から神武の昔から大和が中心でであったとすることなく、私は六七二年の壬申の乱後のことだとしてきた。その前は七世紀半ばまでは倭国中心、つまり北九州中心の時代が八〇〇年近くあり、その前に出雲中心の時代があり、大和ことばの淵源は北九州に発し、その古層に今は南北の南九州や東北に追いやられた縄文的言語が踏まえられていた。つまり、列島における文化の中心移動についての配慮も、日本語の重層性について鈴木修のはまったく配慮がなく、畿内一元史観の上で全国アホバカ分布の説明が鎌倉・室町文化以後の京ことばの地方への分布として一元的に方言周圏論が展開されているのだ。その方言周圏論の全てが間違っていると私は云うのではもちろんない。一元的にアホバカ方言を周圏論にすべて乗せて論じる気が知れないというのだ。文化は高きから低きに流れるのは当然としても、常に双方向的に展開した文化の、鄙からの流れを無視した文化論の暴挙へのチェックこそ、マスコミが大いに気を遣うべきで、テレビという利器を使用する放送関係者はことに、文化の多様性に配慮しなくてはならないのに、一元的説明をしてどうする。また、出雲や北九州を中心とする列島の一時代を夢想したこともないため、それらを中心とした方言周圏論の複層的な展開がないのは当然とはいえ、それは七世紀以前の列島文化をなかったごとく扱っており、それは神話を切り捨てた戦後史学以上に、浅い日本文化論の展開になっている。そうした瑕疵を踏まえて成立した現在のエリート文化の形を見事に、このアホバカ分布考はなぞっているのだ。
3.朝敵と大和一元史観
方言周圏論の九〇年代の見事な論証とされる『全国アホバカ文化考』に、私はなぜこうもこだわるのだろうか。鈴木修は「アホバカ表現こそ、まさに言語遊びのアイデアの玉手箱と言うことができるだろう」として、さらに、こう続ける。
《こういう言葉が京の町で次々と開発されるにあたっては、おそらく、庶民の遊びの精神が作用していた。人は人をけなすために最大限の知恵を絞り、あらゆるボキョブラリーを動員して、表現のユニークさ、絶妙さを競ったのである。それは稚気愛すべき、都の庶民の企てだった。こんな時、「痴」や「愚」、或いは「無知」などをストレートに表すような言葉、或いは差別的な言葉は、当然のことながら、最初から排除された。そんな一片のデリカシーもない、また遊び心もセンスの冴えもない発想こそ、まさに恥ずべき「ナンセンス」さだったからである。》
この一種、軽妙洒脱な伸びやかな論は、またなんと美しく善意な日本人論、日本語論であろう。しかし雅の極値として尊ばれた大和ことばとしての、「八雲立つ」は「八蜘蛛断つ」で、素戔嗚命の八俣大蛇退治に象徴される八雲国の粛清であり、玉藻刈りは「物部狩り」で、藤波は「藤無み」としての旧権力者に対するおぞましい粛清の一面を大和ことばの内に隠し持っていた。また京ことばのその優美さは、「どうぞ、ぶぶ漬けでも」という一見さんへの誘いは、「ぼちぼちお引き取り下さい」の裏腹な意味をもつものとしてあった。その京ことばの中心領域である畿内に、差別がもっとも色濃く残るとは、雅文化のもつもう一つの一面を語るものである。またホンジナシの方言周圏論の外周が、大和朝廷の朝敵とされた熊襲や蝦夷の地に重なる歴史を落として、それは成り立つのだろうか。こうした認識を欠いての京ことばの地方拡散だけで語られる『アホバカ方言分布考』は、一知半解でしかない。
ホンジナシは本地ナシで、本性をなくすことだとされる。酒に酔って正体を無くすとき、このことばが使われるのは、その一端を証明する。それがアホバカ方言に加わるのは、人は本来の性質を失っては人でないとするところにあろう。そして古来にあって、性質はそれぞれの土地の刻印を色濃く受けており、それを無くした者を愚かとするところにあった。問題はその喪失が酒によってもたらされたのではなく、そこに朝敵・熊襲や蝦夷を挟むとき、それは外的圧力によって正体を無くすまで追い込まれた過去があったことを知るのだ。熊襲や蝦夷は朝廷のたび重なる圧迫によって土地を追われた。新たに開発した土地にも朝廷の手は及び、追及の手は止むこと無かった。そのためにやむなく朝廷に帰伏することを余儀なくされた者に朝廷は、夷をもって夷を征する策をもって、彼等を朝敵征討の先頭に立て、その恭順の程を試した。この敵側につき、千々に心を狂わんばかりに痛めた者をホンジナシと呼び、さらに彼等を追い込み正体を無くさせたので、果たして鈴木修の言うように京ことばの遙かな遠い旅路を告げるものであったかどうかを私は怪しむ。そのことは熊襲や蝦夷の本貫が北九州で、現在、南九州と東北の列島の最果てにあることは、南北に裂かれた敗者の姿をまざまざと今に伝える。
しかし、この『全国アホバカ文化考』は、神話世界で語られる越と出雲にアホバカ方言であるダラが共有されているのを発見したのは興味深い。それはこれら地方を私は長江下流域の南船系越人の渡来地としてきたからで、このダラの共有関係は、越文化と出雲文化を担った者が通底していたことを今に語るように思えてならない。須佐之男命(素戔嗚命)に婿入りした大国主命は、越の沼河比売を娶るものの、国譲りにあったと記紀にある。その敗れた大国主命末裔は大和に入り、唐古・鍵遺跡を営み大和王権の基礎を創ったと私はしてきた。それはまた須佐の男命・大国主命一族の出雲追放と別でない。それとは別に越を頼り落ちのびた者もあったろう。「姓名ランキング」で検索すると、須佐氏の最多県は新潟県となり、須佐之男命一族の末裔は越の沼河比売一族を頼り、越に落ちて行った者があったことを今に伝える。
『全国アホバカ文化考』は、方言を畿内中心の都ことばのお流れとしたが、地方の歴史文化を回復する中で、その地方の自生的なことばに奪回するのが方言論の王道である以上、この九〇年代初頭の成果を、多元的に見つめ直す時は来ている。(2010.5.2)
この文章からは、推敲もせず自慰的駄文を投稿してしたり顔の醜い老人の姿しか見えません。
いや、もしかすると推敲しても気付いていない?
著者の名を間違えたままの批判など、無礼の極み。
これ以上の老醜をさらす前に、どうぞこの世からお去り願いたい。