相互批評の饗宴――幻想史学と仲間たち

 これは幻想史学の提唱から15年経った仲間たちとの相互批評と詩と写真による饗宴である。

書評―齋藤愼爾著『ひばり伝―蒼穹流謫』(講談社) 室伏志畔 

2011年09月26日 | 書評
  
〈廃墟〉のなかの〈巷の唄〉    室伏志畔

 これは不世出の大歌手・美空ひばりの四十数年の芸能活動に加えられた毀誉褒貶した千の声を、戦後の〈廃墟〉という原点に置き戻し考察した「ひばり本」の決定版である。その地平から今、セレブを演出する裕次郎の二十三回忌はなんとむなしく見えることか。経済が見えざる手によって導かれるなら、見えざる伝統を無意識に負った多寡に歌手の評価もかかっている。その意味を深めた竹中労、平岡正明、大下英治、吉田司、新藤謙等の言説に凝縮されたひばり本・四百数十冊に目配りしながら、齋藤愼爾はその思春期にひばりから受けた〃歴史的な負債〃の返済としてこれを書く。そこには前年の『寂聴伝――良夜玲瓏』(白水社)に見られた〈遠慮〉がふっきれ地声が奔騰し好ましい。それは対象が生者ではなく死者であったことによろうが、何よりも齋藤愼爾にとってひばりが「原初の生の断崖に立たしめ、生の歪みを,良心の摩耗を蘇らせる原器」としてあったことに因ろう。
 棺の蓋をして声望定まるなら、密葬時の祭壇に平岡正明は、「全国民が見ていながら、見ていない」ものとして、ひばりの位牌を囲んで、親族、芸能人仲間と共に、「皇族、遊侠世界、解放運動リーダーからの花環がある」のを認めた。それは美空ひばりの死以外にはあらわれることのなかった「日本芸能界の本流」の裏書きにほかならない。本書はその課せられた宿題への齋藤愼爾なりの応答とも受け取れる。
 それはプロローグの「孤島苦のゆくえ」から十六章に及ぶが、その表題は齋藤愼爾の句集を読むに似て絢爛にして悲愁漂う。それは「〈廃墟〉のなかの少女」「讃歌と呪禁」「命名神聖論」「黒衣たちの肖像」「親分と赤い靴のメルヘン」「男巫のパヴァーヌ〈孔雀舞〉」「銀幕幻影」「スクリーンとその祭儀的時空」「〈港〉文化と〈城下町〉文化」「〈河原〉と〈梨園〉」「〈異形者〉の系譜」「空蝉の宴」「聖父母、皇子たちへの悼詞」「唄を越える歌」「花季の瞑府にて」と連続し倦まない。それらはひばりを軸として展開される原像論、知識人論、命名論、マネージャー論、ヤクザ発生論、「山口組」論、ひばり映画論、戦後雑誌論、芸能水源論、情念論、結婚・離婚論、家族論、流行歌論の別名にほかならない。その「ヤクザ発生論」をするに齋藤愼爾は新たに「侠客、任侠、ヤクザ、暴力団、極道者等々、関係書四、五十冊」を読んだとあるのを見れば、他も推して知るべきなのだが、それがその光彩陸離にして棘ある博学な文体をもって語られるところに本書の醍醐味がある。それらはかつて痴れ者を唸らせた『偏愛的名曲事典―〈文学と音楽の婚姻〉』(三一新書)を決して裏切らず、時に渦巻き、滔々と流れる。
 日中戦争開始の一九三七年生まれの美空ひばりのラジオから流れる歌声を、第二次世界大戦開始の一九三九年生まれの齋藤愼爾が、山形県酒田市沖、北西三十九キロの孤島・飛島で捉えたのが邂逅の始まりとする。流れる『悲しき口笛』、『東京キッド』、『越後獅子の唄』等の唄にある孤児、浮浪児、靴磨き、角兵衛獅子に見られる「よるべなき子ども」に、齋藤愼爾は「秩序に馴染めず、はぐれている影の私」を重ねずにはおれない戦後をもった。それは後年、「文化良民からの被差別次元に寄り添っていこうとする『反近代』志向、混沌とした母なる闇への回帰」へと溯行、深化させたところに本書はあるといえようか。
 それは五線譜という補助線の上で論ずるに似たひばり論への過激な反論というべきで、ここ一五〇年の近代知の頽廃を押し分け出現した「十歳に満たない大人を超出した声音をもつ」異人を、その根源から問い直すものとなった。それは五線譜を読めないひばりが、何故、大衆の情念を真底から揺り動かし、四〇数年にわたり戦後感性をリードしたかの逆説を問うに等しく、本書が単なる伝記本に止まらぬ思想書としての風貌をもつ所以である。
 そのひばり(加藤和枝)の才能は、三歳児における「百人一首」の朗詠に発現し、父・増吉や師匠・川田晴久の浪曲を通し磨かれ、ハリー・ベラフォンテをして声を失わせたのが祖母から聞き覚えた即興の『唄入り観音経』であったという事件ほど、ひばりがこの国の深い声明を始めとする伝統芸能の流れを汲んであったかを語るものはない。
「旧サイゴンも二十一世紀になってのイラン、イラクもアフガニスタンも未だ〈美空ひばり〉を生み出していない」と齋藤愼爾は書く。それは自国民三〇〇万人の犠牲と銃後の悲惨と引き替えに、戦後、美空ひばりをもった日本の〈僥倖〉を確認するものであろう。しかし、その〈僥倖〉を説く齋藤愼爾は、またこのひばり一家の点鬼簿を深夜にひそかに編んで、「おらあつらかった、おらあ苦しかった、本当におらあ苦しかったぜ…」という幻聴を耳にし、「芸能が敗者の痛憤であり、屈辱であり、諦観であるなら、この叫びは一家の誰から発せられても不思議はない…」と、ひばりの栄光と表裏してあった家族の苦悩に筆を下ろしているところに本書のもつ重さもまたあるといえよう。
 東京は下町の南千住の石炭問屋の長女として生まれた母・喜美枝とひばりを一卵性母子と云うのはたやすい。それは「いちばん嬉しかったことは」と聞かれ、「お嬢が、離婚する、といったときでしたね」とためらいなく答えたところに明らかである。また父・増吉は横浜で魚屋を開く一方、ギター、都々逸、さのさをよくする多趣多芸の人で、ひばりが川田晴久に出会うまで「芸の手引き」をし、戦後いち早く、アマチュア楽団を組織したことを抜きに、ひばりの早熟な才能の開化は語りえない。しかし、愛人との間に二人の男子を成し、また妻・喜美子の妹・菊代との間にひばりは異母姉妹を持ったことは、いまや周知の事実となった。その芸にうるさかった父がまた「娘を河原乞食にし、結婚をできなくさせるのか」と喜美枝に詰め寄ったが、「あなたの悪事に口出しはすることはやめましょう。そのかわり、和枝の歌を伸ばしたい私の夢を許していただきたい」と喜美枝の反論を齋藤愼爾は拾っている。その延長に一卵性母子の二人三脚による大歌手への挑戦が始まる。その歌手とステージ・ママの誕生は、昭和二一年のひばり九歳の時で、それはその妹弟である勢津子八歳、益夫五歳、武彦三歳の育児放棄と別でなかったところに、ひばり一家の明暗もまた分かれた。後年、弟二人はやくざな芸人となり、ひばりの稼ぎの六割を紅灯に散らし、ひばりバッシングの原因を作るが、ひばりが最後まで母親代わりの保護を引き受けた理由はここに由来する。蓮の花は泥に根を張って美しく咲くように、ひばりの唄は家庭の泥に根を下ろしていたことを見ないひばり論はなべて失格である。そのひばりの唄が心に沁みた田岡一雄は「ええ暮らしした家の娘が、なんぼいい喉で歌うても、わいら極道の心まで、打ちはせんわい」と述べたことを押さえたい。それは『カラマーゾフの兄弟』の才が淫乱卑猥な父フョードル抜きに語れないのと同じである。
 ひばりに大歌手に道つけた者として歌の師匠・川田晴久、マネージャー・福島通人、山口組三代目・田岡一雄を人は上げる。その川田晴久が日本の伝統音楽の流れにひばりを通じさせたなら、福島通人は「稼ぎは交通費でいいが、看板は主演の灰田勝彦並み」に扱わせて売り出し、田岡一雄が興業を仕切り、ひばりの晴れ舞台を用意し、念願の歌舞伎座を十五歳のひばりが制した日が日米講和締結による占領からの解放日であったことも感慨深い。その三人の出会いは昭和二十三年で、そのとき山口組三代目を継いだ田岡一雄は、組員二十三人をもつだけであったが、今はヤクザの内、二人に一人は山口組という四万人に及ぶ全国組織の基礎を作り上げた。この暴力団との関係が後のひばりバッシングの基にあるが、当時、芸人がそれへの挨拶なしに舞台を踏めない現実を置いての非難は、弟二人との絶縁を迫るのと同じで、千年の根を持つ非合理の解決をひばり一人に負わす不当なもので、それは血を流さずに肉塊を切り取るに似て難しい。ひばりはファンに塩酸をかけられて以後、その庇護をいっそう田岡一雄に頼ったのは、事後にしか動かない警察とボデイガードといった警備保障がなかった時代では、興行権を押さえる組に頼るほか身の保障がなかったことにあろう。
 ところで齋藤愼爾は、ひばりをひばりたらした人として、「平凡社創立者の岩堀喜之助、平凡編集長・清水達夫、映画監督・斎藤寅次郎、作曲家・古賀政男、万城目正らを同比重で加えたい」とする。先の三人がひばりの立つ土壌を固めたなら、齋藤愼爾の挙げる五人は、ひばりにある多様な花を引き出した人といえるかも知れない。雑誌『平凡』を歌謡曲と映画の二本立て路線に切り替え、美空ひばりを看板にし「読む雑誌から見る雑誌」を演出したのが岩堀喜之助なら、『平凡』、『週刊平凡』、『平凡パンチ』と三つの一〇〇万読者をもつ雑誌を創り上げたのが清水達夫で、この二人の延長に「何人も会社の経営権(人事権、給与件、編集権)を独占しない、オーナーなき出版会社」は実現されたと齋藤愼爾は書き加えることを忘れない。また斎藤寅次郎は「ひばりありき」に始まる娯楽映画を実現し、生涯で一五八本のひばり映画の端緒を開いたがまともな評価を与えられていないという。そのひばりの映画からの退場に日本映画の衰退が重なるなら、その見直しは五線譜に基づく音楽論と同様な芸術映画観からの脱却とパラレルにあるように思える。そのひばりについて長谷川一夫は「私は女優を育てたが、ひばりは男優を育てた」と述べているのは味わい深い。また作曲家・古賀政男、ことに万城目正こそ、ひばりの原像形成にもっとも資し、遠い昔からの伝統音楽の流れに確固とひばり唄を位置付け、時代を鎮魂した人としてもっと記憶さるべきだと齋藤愼爾はいう。
 最後にひばりバッシングについて一言するなら、その口火を切ったサトウハチローは「近頃でボクの嫌うものはブギウギを唄う少女幼女だ」とひばりを槍玉に挙げ、「消えてなくなれとどなりたくなった。吐きたくなった。いったい、あれは何なのだ。あんな不気味なものはちょっとほかにはない。可愛らしさとか、あどけなさが、まるでないんだから、怪物、バケモノのたぐいだ」とげろを吐いた。そのサトウハチローは戦中、東南アジア、中国を蹂躙した日本兵と同じ残虐さをもってそれら仮想国に進撃する桃太郎の詩を書き散らした。それは日本軍隊と本質的に同じ残虐さをもっていたことを齋藤愼爾は押さえることを忘れない。ひばり親子はこの無念を忘れないようにその新聞記事をお守りに入れ持ち歩いたという。敗戦後、小説の神様・志賀直哉は最も美しい言葉としてフランス語の採用を説き、『読売報知新聞』が「漢字の放棄」を提言したという。サトウハチローのカタカナ書きがそれに倣い、それに呼応するように左翼のタカクラ・テルがあったことを忘れまい。そのとき、これら大家は「大人以上に歌い上げた子ども」に未来を予見することなく、戦中の「非国民」思想をもってひばりを裁いていたのだ。九歳の美空ひばりは笠置シズ子に倣い『河童ブギウギ』でデビューしたものの、たちまち『悲しき口笛』や『東京キッド』にはじまる〈廃墟〉の「はぐれ者」を原点に据えた唄に本領を見出し、死者を鎮魂し孤児を励ます唄をもって戦後大衆の心を揺さぶった。
 左右を問わず、自らの短慮の外にある者を「怪物、バケモノ」とする異人観こそ、この国を滅ぼしてきた当のもので、この拝外主義的文化観の狭さを打破しない限り、「正式な音楽学校を出ていない」という理由で、当時、人気ベスト・ワンの岡晴雄がNHKから敬遠されるといったマチガイは、当局が「近藤勇はいいが、新撰組の近藤勇は、暴力団だからいけない」といったトンチンカンな指導に合流し、今後もやむことはないのは、井真成を中国姓に比定し、朝敵にあった熊襲の井姓を外した古代論議のお粗末に接続する。
 舞台で身を粉にして大衆を勇気づけて回るひばりを見ずに、人権についての近代法の整わない戦後初期に疲れて電車内でしゃがんだひばりや、マネージャーに背負われて眠るひばりをフライデーし、労働基準法、児童福祉法、教育法違反を匂わす『婦人朝日』に象徴される進歩的批判があった。これはその整備に奔走するのではなく、そうした環境を保障されない中で奮闘する者に水かけるもので、食べるために道を模索する庶民から茶碗と箸を叩き落とす行為に等しく、今でも世の大学の先生がときに繰り返すところだ。
 ペンはなかなか納まりそうにないのは、本書が大衆的な具だくさんの鍋物に似て熱いからだが、そこでも齋藤愼爾は父・増吉の死を引き金に弟・益夫の逮捕劇に始まったバッシングから「川の流れのように」に至る多くのひばり歌をベスト・テンに入れる今の評価を肯んじない。それは「『河原乞食』と蔑まれ、天の下、旅をねぐらとし、村から村へと蒼穹流謫の日々をおくった」者の心が、敗戦日のどこまでも青かった空に通底しているとする齋藤愼爾にとって、その原点としての〈廃墟〉を見失った歌がどれだけ世評が高いとしても、虚しいとする危機感は、「もう誰とも和解はしない」という決意と共に天を突き抜けてあることによろう。(2009.7.2)(『季報・唯物論研究』)

※大芝英雄講演 2011年10月9日(日)pm2時 泉北すえむら資料館(旧泉北考古資料館)