吉本隆明追悼 〈知〉の退行に抗して 室伏志畔
一年前の地震に伴う津波の惨状を伝える多くの特集番組が残像として揺曳する中、吉本隆明の訃報を聞いた。二ヶ月近い入院生活で死因は肺炎とあり、苦しまれたのではと案じたが浮かぶ顔が穏やかであるのは救いである。かくして吉本は「未来に置かれた死者の眼」(埴谷雄高)そのものと化し、普遍視線として我々の情況に緩やかに降りて来ているかに見える。それに応え微熱の中、パソコンを立ち上げたが、想いは親鸞論に収斂して行くのは、あれもだめ、これもだめと〈知〉の退行に対しレッドカードを出し続け、末法の世を渡った親鸞に、吉本が重なるからにほかならない。
戦後の焦土を天を仰ぎ彷徨った大衆に、寄り添うように吉本はその思想を育んできた。それは生きるに値しない末法の世をのたうった衆生に寄り添い、南都北嶺の僧に背を向けた親鸞の彷徨に重なる。「万行諸善の仮門」を出て、「善本徳本の真門に廻入」したが飽き足らず、ついに「撰択の願海」に身を投げるに親鸞の出発は始まった。この親鸞が法然に出会うまでの歩みに、すでに二つの〈知〉の退行との訣別が語られている。〈知〉の獲得に励み、さらに積善し徳を施すことは、誰もが一度は通る道である。しかし、それを売りにするようでは思想としてたかがしれている。励行は怠ることなく必要ながら、それだけでは前途が開けないのもまた自明である。そこを一段階進めると、なぜか決まって積善徳行の道が準備される。これが鼻持ちならぬのは、それが階級性に裏打ちされてあることによろう。そのため、それからの越境はたちまちその有徳の側からの人徳にもとるしっぺ返しが待っていた。その浄土教への弾圧に始まった流罪生活から、いつしか親鸞は〈非僧非俗〉の境位に達し、宗教の向こう側へと横超した。
親鸞が末法の世で飢え死ぬ衆生を前に、称名念仏による法然の「撰択の願海」の門を叩いたのは、そこでは、飢え死ぬ者に「生死無常」を説く真門の徳僧とちがい、浄土門は全力をあげて眼前の衆生に応えんとしていたことによろう。それは津波によって打ちひしがれた東北の民に、思想はどう対処するのかという問いに重なる。親鸞はそれに対し処方を何一つ出していない。しかし、浄土を求め殺到する衆生に対し、無常を説き、積善を進める真門の僧とちがい、浄土宗は称名念仏によって往生はできると言い切った。これは弥勒が悟りを開くに五十六億七千万歳を用したのに、凡夫をして瞬時に〈浄土〉へ至らせる教えであった。これに天台・真言の旧仏教が猛烈に反発し、弾圧に狂奔するが、それは飢え苦しむ衆生を見ないに等しい。それは震災以来一年というのに、復興の進まぬ東北の現状をよそに、党派性を優先させた政治の怠慢に重なろう。しかし、思想がそれ以上の何をしたかも怪しい。そんな課題が思想にあることすら自覚されないところに現在の思想の危機があるといえよう。そこにあって親鸞は、のたうつ衆生に「みなさまと往生を遂げて、浄土でお会いしましょう」と応え続けた。この一種、倒錯にも似た親鸞の応答を、吉本はこう引き受けている。
《どこにあるかわかりませんが、いながらにしてじぶんの現在をたえず照らしている、そういうものがほんとの〈死〉であって、いわゆる「肉体の死」というものは、いわば喩えとしての死、「比喩の死」だというふうにかんがえていたとおもいます。》と書く。これは生きるに値しない末法の世にあった衆生に、「肉体の死」が「比喩の死」であるなら、死の恐怖をやわらげたことは確かである。それは『教行信証』に親鸞の思想が体系的に煮詰まっているとする坊主主義からする見方に対し、吉本がこう答えたところに重なる。《最後の親鸞は、そこ(注;『教行信証』)にはいないように思われる。〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。》と云うのだ。こう吉本が言い切ったことで、世の言説の多くがたちまち色褪せて行くのを私は当時、ありありと実感したことを隠すまい。それは『最後の親鸞』の〈非僧非俗〉の思想の普遍化を通し、吉本が確立した〈知〉の理念であった。
〈非僧〉が「妻帯し、子を産み、この現実の不信と造悪と、愛憐は、あたかも習俗と同じように肯定さるべきもの」として受容されたなら、〈非俗〉の真髄は〈「俗とおなじ現世の〈あはれ〉と〈はかなさ〉と〈不信〉とを、いわば還相の眼をもって生活するところに」あると吉本は言い切った。これこそが親鸞が自らを真宗と揚言した由縁で、そこに浄土教一般からの親鸞の横超があったなら、吉本の現在知からの越境もあったのだ。そこを知的俗物はそれに見合う権威と組織に寄生するが、吉本は下町に溶け入り、それらと無縁の生活を営んだ。それが如何に稀有の実践であったかは、それに続く吉本主義者が一人として出なかったことが証明する。
親鸞が法然門下に入り、非僧非俗の境位を確立するまでに、いくつかの〈知〉を斥けた。源信から法然、そして親鸞、さらに一遍へと浄土門の歩みを説くのは勝手だが、源信→法然→一遍は直線的に語れても、法然から親鸞への階梯はそれを逸脱していた。そこに「疾く、死なばや」と一遍門下で死を実体化する動きがあった。それは如何に世が生きるに値しない日々にあったかを語っても、それが倒錯であるのは、そうすることで死が深められることはなかったからだ。彼らは死をできるだけ凄惨に色づけ実体化をはかることに意味を見出そうとしたが、それは命を肉弾のごとく費やす凄みを競っただけで、そこに浄土門における〈知〉の退行があった。この一遍門下の「肉体の死」の競合に対し、飢え死ぬ衆生を否応なく襲う「肉体の死」を「比喩の死」だと説き、そこからの現世へ回帰する死の視線の獲得を普遍化した親鸞が、どれほど思想として、〈死〉や〈浄土〉を深めたかは明らかであろう。
ところで、親鸞は自然に親しんでも、深山に分け入る隠遁思想と一線を画して来た。しかし、親鸞の〈自然法爾〉の思想を自然派は自らに似せて回収するが、それはとんでもない誤解である。〈自然法爾〉の思想は悪人正機説に通じても、天地自然の予定調和に通じることはない。吉本は親鸞が、真言や天台では、耳や心を研ぎ澄まし「天地自然の声」を他界の声を聞くごとく修練に励む姿に〈知〉の退行を見ている。親鸞はそこに「人間と人間とのあいだに交わされる声しかほんとは聞かないし、聞こえないというふうに、自分の耳をもっていった」と吉本は云い、そこに「なにがのこるかといいますと、まず第一に、〈善悪〉についての声だった」として、「天地自然の声」を意味ありげに、〈神〉や〈自然〉のお告げを見る自然派に〈知〉の退行を見、斥けたことを忘れまい。
いつの世にあっても、本来の〈知〉を深めることをせず、鍛錬をひけらかし、積善徳行を誇り、自然との同化を人間的だとし、命を消尽する勘違いが横行してきた。そのあの手この手の〈知〉に纏わるそれらは、宗教や党派としてそそり立つのは、卓絶した〈知〉の灯台下ほど〈知〉の山師が住みやすいという逆説にある。それらは今日も党派を組み、またマスコミに依拠し、日替わりメニューのように立ち替わり現れ、懲りることなく、大衆をおだてつつ無知な者として御託宣を垂れ、教導すると称しては引き回し、天国を保証するといい地獄を味わわせてきたのが、大方の〈知〉の実体にほかならない。しかし、親鸞はのたうつ衆生に、何一つそんなことを云わなかった。知者が御託宣を垂れるところで、「存じてもて存知せざるところなり」といい、「面々のお計らいなり」とし、大乗の〈知〉についた。この意味を踏まえることなしに吉本への批難を多くの〈知者〉は繰り返すが、それはその〈知〉そのものが退行していることに無自覚なことによる。それらの多くが世間を審判者にして自らを誇るが、それ自身が恥ずべき〈知〉の退行であることを吉本はよくわきまえていた。〈知〉はそれを越えて〈知〉を進展させることなしに明日はないので、それを恐怖や道義性を振り回し批難するほど〈知〉の退行はないのだ。
さて、こうした〈知〉の退行の一方、吉本思想に対する称揚とその位置づけに貢献してきた吉本主義者に見られる〈知〉の自慰もまた見逃せない。彼らは情況における批評の優位性を誇るが、こぞって吉本の掘った穴をこれ大事と掘り返す落ち穂拾いに留まるようでは、やはり五十歩百歩であろう。吉本の知的領域から横超してこそ、〈知〉はなんぼのものとなろう。それこそが吉本への何よりもふさわしい追悼となることを私は疑わない。合掌。(二〇一二.三.二一)
一年前の地震に伴う津波の惨状を伝える多くの特集番組が残像として揺曳する中、吉本隆明の訃報を聞いた。二ヶ月近い入院生活で死因は肺炎とあり、苦しまれたのではと案じたが浮かぶ顔が穏やかであるのは救いである。かくして吉本は「未来に置かれた死者の眼」(埴谷雄高)そのものと化し、普遍視線として我々の情況に緩やかに降りて来ているかに見える。それに応え微熱の中、パソコンを立ち上げたが、想いは親鸞論に収斂して行くのは、あれもだめ、これもだめと〈知〉の退行に対しレッドカードを出し続け、末法の世を渡った親鸞に、吉本が重なるからにほかならない。
戦後の焦土を天を仰ぎ彷徨った大衆に、寄り添うように吉本はその思想を育んできた。それは生きるに値しない末法の世をのたうった衆生に寄り添い、南都北嶺の僧に背を向けた親鸞の彷徨に重なる。「万行諸善の仮門」を出て、「善本徳本の真門に廻入」したが飽き足らず、ついに「撰択の願海」に身を投げるに親鸞の出発は始まった。この親鸞が法然に出会うまでの歩みに、すでに二つの〈知〉の退行との訣別が語られている。〈知〉の獲得に励み、さらに積善し徳を施すことは、誰もが一度は通る道である。しかし、それを売りにするようでは思想としてたかがしれている。励行は怠ることなく必要ながら、それだけでは前途が開けないのもまた自明である。そこを一段階進めると、なぜか決まって積善徳行の道が準備される。これが鼻持ちならぬのは、それが階級性に裏打ちされてあることによろう。そのため、それからの越境はたちまちその有徳の側からの人徳にもとるしっぺ返しが待っていた。その浄土教への弾圧に始まった流罪生活から、いつしか親鸞は〈非僧非俗〉の境位に達し、宗教の向こう側へと横超した。
親鸞が末法の世で飢え死ぬ衆生を前に、称名念仏による法然の「撰択の願海」の門を叩いたのは、そこでは、飢え死ぬ者に「生死無常」を説く真門の徳僧とちがい、浄土門は全力をあげて眼前の衆生に応えんとしていたことによろう。それは津波によって打ちひしがれた東北の民に、思想はどう対処するのかという問いに重なる。親鸞はそれに対し処方を何一つ出していない。しかし、浄土を求め殺到する衆生に対し、無常を説き、積善を進める真門の僧とちがい、浄土宗は称名念仏によって往生はできると言い切った。これは弥勒が悟りを開くに五十六億七千万歳を用したのに、凡夫をして瞬時に〈浄土〉へ至らせる教えであった。これに天台・真言の旧仏教が猛烈に反発し、弾圧に狂奔するが、それは飢え苦しむ衆生を見ないに等しい。それは震災以来一年というのに、復興の進まぬ東北の現状をよそに、党派性を優先させた政治の怠慢に重なろう。しかし、思想がそれ以上の何をしたかも怪しい。そんな課題が思想にあることすら自覚されないところに現在の思想の危機があるといえよう。そこにあって親鸞は、のたうつ衆生に「みなさまと往生を遂げて、浄土でお会いしましょう」と応え続けた。この一種、倒錯にも似た親鸞の応答を、吉本はこう引き受けている。
《どこにあるかわかりませんが、いながらにしてじぶんの現在をたえず照らしている、そういうものがほんとの〈死〉であって、いわゆる「肉体の死」というものは、いわば喩えとしての死、「比喩の死」だというふうにかんがえていたとおもいます。》と書く。これは生きるに値しない末法の世にあった衆生に、「肉体の死」が「比喩の死」であるなら、死の恐怖をやわらげたことは確かである。それは『教行信証』に親鸞の思想が体系的に煮詰まっているとする坊主主義からする見方に対し、吉本がこう答えたところに重なる。《最後の親鸞は、そこ(注;『教行信証』)にはいないように思われる。〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。》と云うのだ。こう吉本が言い切ったことで、世の言説の多くがたちまち色褪せて行くのを私は当時、ありありと実感したことを隠すまい。それは『最後の親鸞』の〈非僧非俗〉の思想の普遍化を通し、吉本が確立した〈知〉の理念であった。
〈非僧〉が「妻帯し、子を産み、この現実の不信と造悪と、愛憐は、あたかも習俗と同じように肯定さるべきもの」として受容されたなら、〈非俗〉の真髄は〈「俗とおなじ現世の〈あはれ〉と〈はかなさ〉と〈不信〉とを、いわば還相の眼をもって生活するところに」あると吉本は言い切った。これこそが親鸞が自らを真宗と揚言した由縁で、そこに浄土教一般からの親鸞の横超があったなら、吉本の現在知からの越境もあったのだ。そこを知的俗物はそれに見合う権威と組織に寄生するが、吉本は下町に溶け入り、それらと無縁の生活を営んだ。それが如何に稀有の実践であったかは、それに続く吉本主義者が一人として出なかったことが証明する。
親鸞が法然門下に入り、非僧非俗の境位を確立するまでに、いくつかの〈知〉を斥けた。源信から法然、そして親鸞、さらに一遍へと浄土門の歩みを説くのは勝手だが、源信→法然→一遍は直線的に語れても、法然から親鸞への階梯はそれを逸脱していた。そこに「疾く、死なばや」と一遍門下で死を実体化する動きがあった。それは如何に世が生きるに値しない日々にあったかを語っても、それが倒錯であるのは、そうすることで死が深められることはなかったからだ。彼らは死をできるだけ凄惨に色づけ実体化をはかることに意味を見出そうとしたが、それは命を肉弾のごとく費やす凄みを競っただけで、そこに浄土門における〈知〉の退行があった。この一遍門下の「肉体の死」の競合に対し、飢え死ぬ衆生を否応なく襲う「肉体の死」を「比喩の死」だと説き、そこからの現世へ回帰する死の視線の獲得を普遍化した親鸞が、どれほど思想として、〈死〉や〈浄土〉を深めたかは明らかであろう。
ところで、親鸞は自然に親しんでも、深山に分け入る隠遁思想と一線を画して来た。しかし、親鸞の〈自然法爾〉の思想を自然派は自らに似せて回収するが、それはとんでもない誤解である。〈自然法爾〉の思想は悪人正機説に通じても、天地自然の予定調和に通じることはない。吉本は親鸞が、真言や天台では、耳や心を研ぎ澄まし「天地自然の声」を他界の声を聞くごとく修練に励む姿に〈知〉の退行を見ている。親鸞はそこに「人間と人間とのあいだに交わされる声しかほんとは聞かないし、聞こえないというふうに、自分の耳をもっていった」と吉本は云い、そこに「なにがのこるかといいますと、まず第一に、〈善悪〉についての声だった」として、「天地自然の声」を意味ありげに、〈神〉や〈自然〉のお告げを見る自然派に〈知〉の退行を見、斥けたことを忘れまい。
いつの世にあっても、本来の〈知〉を深めることをせず、鍛錬をひけらかし、積善徳行を誇り、自然との同化を人間的だとし、命を消尽する勘違いが横行してきた。そのあの手この手の〈知〉に纏わるそれらは、宗教や党派としてそそり立つのは、卓絶した〈知〉の灯台下ほど〈知〉の山師が住みやすいという逆説にある。それらは今日も党派を組み、またマスコミに依拠し、日替わりメニューのように立ち替わり現れ、懲りることなく、大衆をおだてつつ無知な者として御託宣を垂れ、教導すると称しては引き回し、天国を保証するといい地獄を味わわせてきたのが、大方の〈知〉の実体にほかならない。しかし、親鸞はのたうつ衆生に、何一つそんなことを云わなかった。知者が御託宣を垂れるところで、「存じてもて存知せざるところなり」といい、「面々のお計らいなり」とし、大乗の〈知〉についた。この意味を踏まえることなしに吉本への批難を多くの〈知者〉は繰り返すが、それはその〈知〉そのものが退行していることに無自覚なことによる。それらの多くが世間を審判者にして自らを誇るが、それ自身が恥ずべき〈知〉の退行であることを吉本はよくわきまえていた。〈知〉はそれを越えて〈知〉を進展させることなしに明日はないので、それを恐怖や道義性を振り回し批難するほど〈知〉の退行はないのだ。
さて、こうした〈知〉の退行の一方、吉本思想に対する称揚とその位置づけに貢献してきた吉本主義者に見られる〈知〉の自慰もまた見逃せない。彼らは情況における批評の優位性を誇るが、こぞって吉本の掘った穴をこれ大事と掘り返す落ち穂拾いに留まるようでは、やはり五十歩百歩であろう。吉本の知的領域から横超してこそ、〈知〉はなんぼのものとなろう。それこそが吉本への何よりもふさわしい追悼となることを私は疑わない。合掌。(二〇一二.三.二一)