相互批評の饗宴――幻想史学と仲間たち

 これは幻想史学の提唱から15年経った仲間たちとの相互批評と詩と写真による饗宴である。

『越境としての古代[5]』書評        添田 馨

2012年02月26日 | 書評
『越境としての古代[5]』書評        添田 馨

論理の蔓草としての歴史考証
  
 わが国の歴史、ことに国内資料が極端に乏しい七世紀以前の古代史について、ひとたび研究の途上に歩を進めようとすると、その歩みはかならずと言ってよいほど、見えない巨大な壁のようなものにぶち当たるのを、誰しもが経験するはずだ。それは記紀に端を発し、江戸期の国学イデオロギーや明治期以降のナショナリズム思想の広汎な浸透を受け、史学アカデミズムや公教育の現場にかぎらず、私たちの意識内部にまで強固に巣くってしまった天皇家中心の一国史観、およびそこから枝分かれした様々な固定概念群のことを指す。共同の幻想として、長い時間かけて形成されてきたこの見えない巨大な壁とは、ひとたびそれを破壊しようとすれば、逆に自分がにべもなく跳ね返されてしまうほど強靭であり、個人ひとりの努力ではびくとも動かぬものとさえ映るのだが、いま私には、またひとつ別の景色が見えはじめてもいるのだ。それは、この巨大な壁にさまざまな緑の葉を無数に繁らせた蔓草がびっしりと張りつき、まさにその全面を覆いつくさんばかりに勢いよく繁茂するその姿である。この蔓草を、私は比喩的に論理の蔓草と呼ぶ。か細いが、たしかな生命力でもって、その巨大な壁の隙間に、無数の毛根を差し入れて成長する蔓草のイメージこそ、私が市民レベルの古代史研究の諸活動に関して、この数年来抱いてきた原イメージなのであった。そして、『越境としての古代』に集約される運動体について私が抱いてきたイメージも、実はこれと同種のものである。
 だが、その市民レベルでの古代史研究において、現在、自らがもっとも喫緊な課題として留意すべきは、それがよって立つところの根底的な思想性にこそ潜在する。『越境としての古代[5]』の刊行を受けて、私がいぜん変わらぬ共感を覚えると同時に、一番に強く感じた懸念の中身も、まさにその点にある。「越境」というキーコンセプトは、この運動体において参加者各位が、既成の観念や常識に囚われることなく自由な見識をもって思考し、また史実の真相に迫るために有効と信じられる学問・思想上の知見はすべてこれを排除するものではない、という基本スタンスを保証するものとして、本来機能してきた。今日まで着実に巻を重ねてきたこの研究論集も、ここにきて第五集の刊行ともなると、これはもう立派な実績を打ち立ててきたと見える反面、それ自体が権威化することの弊を、やはり自らが厳しく律していくべき意識づけの必要な、その最初の踊り場までやって来たのではとの感が強い。
 あたかも私のこうした思いを上書きするかのように、会を主宰する室伏志畔は冒頭の「越境通信5」で、次のように書く。

 六○年代の安保・三池闘争は、国家権力に対しようとするとき、それを守るようにある既成左翼の矛盾を露わにした。その越境を私は、吉本隆明が主導する自立思想や、谷川雁の大正炭鉱闘争から抽出し、九州王朝説を踏まえて戦後史学の枠組みを、記紀の幻想表出から読み解くことで果たそうとしてきた。しかし、九○年代に入り九州王朝説は、古田学説を踏み絵とし、その「父性」への忠誠をはかるものへ変質したため、私はその「父性」を突き破る「様々な子性」の試みに道を開くことなしに明日はありえないと踏み出したのは、全ての思想は常に「父性」を横超させる中にしかないという深い確信にあった。

 裏返すなら、それは、記紀の記述を絶対視する従来史学の正系に依拠することなく、むしろそれを積極的に踏みはずしたところに、わが国の新たな古代史像を大胆に描き出してきた市民レベルの古代史研究の歩みが、その内部で再びみずからを正系化していくことに対する主宰者側からの警鐘として、私には受け取れた。かつて、この流れの根幹に生成した九州王朝説にしても、その最初の提唱者である古田武彦学説を絶対視するだけでは、新たな展望はなにも始まらないとする室伏氏のこの表明は、同時に越境しあう古代史研究においては決してタブーを作らせまいとする、その強固な意志をもあらためて感じさせるものである。
 就中、まず引き込まれたのは、福永晋三の「神武東征の史実―倭奴国滅び邪馬台国成る―」であった。この論考になぜ私が最初に注目したかといえば、その内容が古田学説の根幹をなす「邪馬壹国」説への、まさに正面からの批判的検証だったからである。その著『邪馬台国はなかった』で、かつて古田氏が「邪馬臺国」から「邪馬壹国」へと劇的に転換させた古代史像は、文字通り古代史研究に新次元をひらく“コペルニクス的転回”として私たちの記憶に焼きついている。だが、ある意味でそれが固定的な観念として、それ以上検証されることなく継承されるならば、やはりそれ自体が定説化の道を歩むことに否応なくなっていくだろう。福永氏のこの論考は、そのことにまっこうから否をつきつけた果敢な取り組みでもある。
 中国の歴代史書の記述の丁寧な比較検証により、福永氏は、古代の倭人国の名の表記について、やはり「邪馬臺国」が正式なもので「邪馬壹国」では決してありえないという根拠を、きわめて論理的に拾いあげては、古田説の再転倒に向かったのだと言えよう。そして、その論証過程も、私にはきわめて説得的なものに映った。そして、いわばこの各論部分は、福永氏にとってはより大きな眺望へと至るための、最後の外堀を埋める作業でもあった。彼は、論の冒頭でこのように自らのビジョンを語っている。

  私は、この『越境としての古代』にシリーズを書き続けて、一貫して《神武は二世紀半ば、天神ニギハヤヒ王朝(『後漢書』に云う「倭奴国」、私の云う「天満倭国」)を侵略し、福岡県田川郡香春岳一ノ岳(記紀に云う畝傍山)の東南麓に都を建て、同じく畝傍山(香春一ノ岳)の東北の陵に葬られた、初代「豊秋津洲倭王」である。》としてきた。
 これを冷静に振り返った時、神武の「豊秋津洲倭国」の建国こそが、『後漢書』にいう「邪馬台国」の建国であり、後に倭国大乱を経て、後漢末に卑弥呼を共立するに至る倭国の歴史と合致することに気づかされた。 (「神武東征の史実」一八二頁)

 そして、さらに次の段階として、福永氏による神武東征の史実のより具体的な復元作業が、次回以降、いま以上に強力に進められていくことを、私などは心ひそかに期待するのである。
 また、今号の大きな特徴として挙げなければならないのは、王朝としての「吉備」に関する有力な論が、複数せりあがってきたことだろう。以前より、吉備は古代の勢力図において無視できぬ地位を占めてきたのは事実であるが、あくまでそれは有力な地方勢力という位置づけの内部においてであった。今般の「吉備」論は、それとは根本的に異なる。「吉備」を、かつての「出雲」のように、一個の独自王朝とみなすことによって、古代史像の新たな編み替えがなされようとしているのだ。
 「吉備」論を語るにあたり、最初に言及しなければならない論考が、室伏志畔「隠された王国―吉備国論―」である。室伏氏は、その冒頭、次のように述べている。

 吉備論がにわかに浮上しつつある。
 ここ一年ばかりの間の私の周囲だけで、庄司圭次が国分寺論で聖武天皇の国分寺建立の詔(みことの)り以前に九州と吉備を二中心とする動きがあったとし、大芝英雄が、喜楽・端正・始哭・法興の四年号を上宮法皇による吉備年号だとし、兼川晋が九州にあった古の金印国家・委奴(ゐぬ)国は吉備に移ったとする刮目すべき論が輩出している。(「隠された王国」二四○頁)

 こうして古代の列島史は、九州ヤマトからも近畿ヤマトからもはるかに越境して、これまで空白だった吉備の地にようやくたどり着いたのだと言えようか。その意味で、「吉備」論はまだその端緒についたばかりとも言えるが、この論で室伏氏は、まず実体概念としての「吉備」を幻視することに、まずは最大限の注力を行った。彼は、考古学的な知見を下敷きに、こう述べている。

 弥生時代の青銅器文化圏として、九州を中心とする細型銅剣文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏に二分類する中で、そこに吉備を中心とする広形銅剣(矛)文化圏を入れる見解がある。その広型銅矛の鋳型が九州の博多や糸島から出ている。これは犬系天武の血統を金印国家・委奴国の流れとする先の見解を読むとき、博多はその金印が出土した志賀島の地で、糸島は伊都国の地で、私はそれを委奴国の中国側表記と見てきた。とすると、広形銅矛は九州から吉備に伝播し、それに倣い広形銅剣が製作されたとする見解があることは、委奴国から吉備への流れが弥生時代からあったことを実証するもので、私には興味深い。(同 二四七頁)

 また、兼川晋「『白江の戦』を考える」も、その直接のテーマとするところは「白村江の戦い」に関するものだが、これが従来の「白村江」論にはない画期を帯びるのは、破れた倭国側の勢力地図を、この「吉備」王朝というファクターを通して分析し直し、この戦争そのものの持つ歴史・政治的意味合いを、劇的に改変せしめた点にある。
 例えば『旧唐書』が「倭国」と「日本国」を別記していることは周知のことだが、兼川氏はさらに、この「倭国」は、「倭国A」と「倭国B」とに分けられるという。すなわち『旧唐書』「倭国伝」いうところの「古の倭奴(ゐぬ)国」(=金印国家)が「倭国A」で、これがその後、東に遷移して吉備王朝となり、また同書「百済伝」いうところの「倭国」を「倭国B」、つまり九州北部に位置し、『宋書』にいう「倭の五王」の国、また『隋書』には「俀(たい)国(=大倭(たいゐ)国)」として表記された、もう一個の勢力だとしたのである。そして、後者「倭国B」は百済の兄弟王朝であったがために、当然ながら百済滅亡の事態に際しては、これを復興させる意図が強固にあった。その結果が、他ならぬ「白江の戦」なのであった。しかし、列島各地からの混成軍であった「倭国」軍は、このように互いにその王統の出自も政治的利害も異なる集団であった。これらの事実関係から、兼川氏は白村江の敗戦の経緯を次のように描き出している。

 白江の戦の経緯には、唐、新羅の合意はもちろんのこと、吉備の倭軍にも合意があったのではなかろうか。九州の中軍が目の前で全滅するのを、吉備の後軍は何もせず見ていた。信じがたいことであるが、一つの条件の下ではあり得ることである。その条件とは何か。それは、百済の滅亡に続いて、九州の大倭(たいゐ)も滅亡すべきであるという唐のシナリオである。そのシナリオに三者(引用者注:唐、新羅、吉備の倭軍)が合意していたとすれば、九州の大倭も、ここに滅びた。白江で九州の大倭が滅びるのを見届けてから、残りの倭軍は引き揚げてきたことになる。(「『白江の戦』を考える」一一〇頁)

 古代の東アジアにおける大事件でありながら、これまであまりに謎の部分が多かったこの「白江の戦」のリアリティは、こうして「吉備」=「倭国A」という座標軸を設けることで、一気に高まるのである。
 これまでに触れたもの以外にも、じつに刺激的な論考が、この『越境としての古代[5]』にはいくつも収録されている。
 大芝英雄「『編史』の構想」は、ひとことで言うなら、中国歴代王朝における「編史」の思想を、残された歴史書の数々から丁寧に説き起こし、ひるがえって記紀に集約されるわが国の歴史書を、根本のところで編み上げたであろうところの編纂思想を問題とする。そして、ついに「日本書紀」には失われた「もと本」があったはずだとして、それを「日本書紀」に唯一書名の挙がっている「日本旧記(ひのもとくき)」に比定しつつ、実はこれこそ名前を変えられた「日本本記(ひのもとほんき)」ではなかったかと、仮説するのである。大芝氏は、さらに倭国本朝と兄弟王朝だった「豊」の正史「豊国本記」が実在した可能性にもふれ、今に伝わる「古事記」こそが、まさにそれではなかったか、と構想するのである。これらの思考は、記紀の内容のみならず、それらが成立をみた歴史背景としての非似リアリティを、意外な角度から根本的に相対化していく発端となっていくに違いない。
 また、古銭や刀剣、さらには王家の神宝といった、これまで古銭学や考古学が主に対象としてきたところの様々な文化的遺物に、ひとつひとつ丁寧に触れながら、そこから古代の新たな歴史像を浮き彫りにしていくというモチーフに貫かれた、いくつかの鋭い論考があった。
 越川康晴「銭のなる木(榎)の秘密―古代銭と朴市秦―」は、民俗学的関心から古代銭とその歴史にアプローチした、異色の論である。「榎の木に榎の実はならずに銭がなる(稲がなる)」という古い歌謡を入り口に、往時において「榎」がもったであろう独自な位相に言い及び、わが国の古代の銭貨である「無文銀銭」や「富本銭」さらには「和同開珎」等を考察するのだが、とりわけ興味をひいたのは、この榎という木と蛇との深い関わり、さらに蛇は「足がなくて走る」ものとの意から古来「銭神」と同一視されていた事実である。越川氏は、そうした幻視のなかで、あの丸い小円盤の中央に小さく穴の穿たれた無文銀銭の形状をして蛇の目のすがたと捉え、これを「榎市蛇銀銭」と名づける。そして、その製造に関わったのが物部氏や大伴氏で、一方、古和同銀銭の成立には秦氏が関わったのではないかと仮説している。いずれ、これまでほとんど研究がなされていない分野であり、さらなる展開を期待したいところだ。 
 まだ十分に光が当たっていない分野ということでいえば、まつろわぬ民「蝦夷」をめぐるそれも忘れられてはならないだろう。日本列島をめぐる時空間に、「蝦夷」と呼ばれた人々の足跡を大胆に考察した白名一雄「井真成の証言―列島に蝦夷を追って―」は、文字通りわが国の古代史において必ず避けては通れないこの「蝦夷」=「愛瀰詩(えみし)」をめぐる、壮大なパノラマ図といった感のある論考である。 なかでも「日本刀の源流は縄文の蝦夷刀に遡ると愚考される。」という部分は、それが縄文時代の骨角器にまで淵源するという実証を、縄文時代の骨刀、鯨骨刀、石刀、さらには東北地方で出土する蕨手刀、またアイヌ人の蝦夷刀といった数々の遺品の、豊富な図版使用による比較検証に根拠をおいたもので、非常に説得力がある。悠久の歴史の巨視的な本流といえども、その実体はじつはこうした微視的な細部にこそ隠されているかもしれないことを、改めて私たちに教える内容である。
 もうひとつ、今回、私が関心したのは高橋一平「『四種』の神器考」だった。筆者が高校生であるということもそうだが、ここには実は古代史研究一般において最も枢要な初心の姿勢、すなわち素朴な疑問から始まって、それを解明していくのに有効な方法の探究、さらにそうやって掴みとった自分の方法というものを、今度は足を使って実践する行動力といった要素が、ぎっしり凝縮されているからである。 「三種の神器について調べているとき、私たちは十種神器 と言う単語を見つけました。この十種神器と言うのは、歴史上蘇我氏と対立したことで有名な物部氏の祖神である饒速日命(以下ニギハヤヒ)が伝えたとされる十種の神宝であるとされています。」―冒頭のこの言葉は、天皇家の「三種の神器」に比べてその三倍もの神宝を有した物部氏について、高橋氏が抱いたそもそもの疑問の所在を言い当てているだろう。そして、この「十種の神器」に含まれる神宝のうち「蛇比礼」「蜂比礼」「品物比礼」に注目し、これら「比礼」とは何か、について具体的な考証に則って探求を実践していくのである。その結果、「比礼」には女性の装身具としての意味と、儀式の矛などにつける小さい旗の意味とのふたつがあり、石上神社などに伝わる「比礼」の形状の図版などから、神宝としての「比礼」はおそらく後者で、さらに太陽神とされるニギハヤヒは、実は製鉄と関係があったのではないかとの仮説まで提示するに至っている。私は、過去の歴史像に対する固定概念に囚われることのない、こうした若い研究の徒が現れてきたことに、大いに気を強くした。しっかりとした方法意識と、探求への情熱さえあれば、年齢に関係なく水準の高い研究をものすることができることを、この論文は伝えている。
 さて、この文の冒頭で私は壁にはう蔓草の比喩で、史的実証にむかう論理の脈動を言い当てたつもりだが、しかし論理はその外部からくるものに無防備では決していられない宿命をもつ。特に歴史上の根本資料に対して、それが信ずべきものか否かといった問題は、つねに自律する論理の外側から、史的な探求そのものを脅かすものだと言ってよい。偽書問題として一括することができる一連の議論も、まさにそうした脅威のひとつに違いないだろう。西村俊一「『東日流外三郡誌』の世界―東北学の原点を探る―」は、一般に和田家文書として知られるこの文字資料群に対して、これまで浴びせられてきた偽書説、その悪質なキャンペーンの経緯を素描しながら、当該資料の「寛政原本」や「明治写本」をめぐる偽書派と真書派双方のやり取りの内容を整理したものだ。西村氏は無論これを真書とする立場であるが、その背景には長年にわたってこの歴史文書を実地検分してきた経験が横たわっている。そして、偽書説をとる人々にはこうした具体的根拠が一切ないことを批判している。私のような、現物に接したことのない者でも、いずれの主張がより説得的に響くかは、おのずと明白だろう。歴史は人がこれをつくるが、歴史を捏造するのもやはり人であるという背理のうちに、そもそも記紀の持つ偽書的性格をつよく意識してきた私などは、逆にこの「東日流外三郡史」をめぐる真偽論争を前に、また改めてみずから居住まいを正す必要を痛感した次第である。(了)