(その2の続きです。)
中山道(美濃路)歩き旅2日目。
旅館・大黒屋のご主人が、昨夜の夕食時に「明日の朝食は何時にしましょうか?」と尋ねてくれたので、「朝7時に出発したいので、6時半ごろから朝食をいただけるとありがたいです。」と希望しました。朝になり、6時30分前に「朝食の用意ができました」と声をかけてくださった。おかげで、午前7時に、歩き旅2日目をスタートすることができた。感謝の言葉を述べて、大黒屋からスタートした。
一日目の歩数は、自宅から(合計歩数で)25589歩でした。約15km歩いたようでした。御嵩宿から細久手宿までは、約12kmの行程でした。
二日目、まず目指したのは、大湫宿。6.5kmほどの距離とのことで、「約2時間かな?」と予測しました。しかし、実際は峠道ゆえに3時間近くかかってしまいました。大湫宿・本陣跡に到着したのは、午前9時45分でした。平地なら(今までの経験から)時速3kmのペースで歩いているのですが・・・。坂の多いコースでは、時速2kmにダウンするようです。後期高齢者(=9か月後)に近づきつつあるのも、脚力不足の原因でしょうか?
大湫宿に観光案内所(旧森川訓行家住宅)があったので、入館(無料)、休憩させていただいた。
「この大湫宿に皇女和宮様が宿泊されたのですね。4000人ぐらいのお供の方々はどこに寝泊まりしたのですか?」とお聞きしたところ、資料を持ってこられて、説明してくださった。若い女性で、はっきりとした元気な説明だったので、わかりやすかった。お供の数は4000人ではなくて、5000人とのことでした。宿泊場所を確保するために臨時の住居(現代の仮設住宅のようなもの)を建てたようです。一度に泊まるのは無理なので、3グループに分かれて泊まったようです。皇女和宮一行をお世話するために動員された住民(大湫の村民だけでは足りないので、近郷の村人多数=延べ20万人とのデータが記載されていました。)は、膨大な数でした。何しろ江戸時代(幕府の命令の威力はすごかったらしい)だから、こんな行列が可能だったのでしょう。単なる参勤交代の大名行列のレベルをはるかに超えていたようです。大湫宿(標高500メートルの山の中の小さな宿場町)で宿泊せざるを得なかったようです。大湫宿の次の宿は、3里半(約13.5km)も離れているからです。次の大井宿からも多くの村民が、皇女行列のお世話係りの担当を(大井宿の役人から命ぜられたとのことで、皇女行列通過後、強引な役人命令に腹を立てていた村人が、殺傷事件を起こしています。(おそらく和宮様には、この事件のことは耳に入っていないのでしょうが・・・)
とにかく延べ20万人も動員されていたのですから、腹の立つ人間もいたことでしょう。(皇女和宮降嫁における民衆へのマイナス面のことは、歴史上かき消されていくことが多いにちがいない。)私も、この殺傷事件のことは(歩き旅をしたことで)初めて知りました。皇女和宮降嫁行列が、宿泊した宿場にどれぐらい(徳川幕府役人が村民に)無理難題を押し付けていたか・・・と、考える機会になりました。
今回の中山道歩きで困ったことは自動販売機が見つからなかったことでした。こんなに見つからない中山道は初めてでした。のどが渇いて、のどが渇いて・・・。ペットボトルの水、お茶は飲み切ってしまって・・・。大湫宿の宿内に入っても見つかりません。観光案内書を出る時に・・・「あのー、お茶や水の自動販売機はどこにありますか?」とお聞きしたところ、「一か所だけ置いてありますよ」と教えていただいた。(よかった!) その場所へ行く道順を教えていただけた。(あったぞ!)と大喜び。自販機を見つけて大喜びしたのは、人生で初めてだった。1000円札を入れて、お茶と水のペットボトル2本を手に入れた。さあ、これから13.5km先の大井宿を目指して、がんばるぞ! いよいよ十三の峠を越えていくのだ! と、奮起したしだいです。
大湫宿 中心部に近い街道の様子
細久手宿の標高は約400メートルでしたが、大湫宿は500メートル足らずの地。標高差約100メートルの上りの道だったようで、予想以上に時間がかかってしまいました。
大湫本陣跡の説明板 大湫本陣にどういう方々が宿泊したかの説明があった。最後のほうに「皇女和ノ宮が 十四代将軍徳川家茂へ御降嫁のため(文久元年1861)十月二十八日 その道中の一夜をすごされたのも この本陣です。」と書かれている。
大湫宿の家並が眼下に見える位置に、大湫宿の標柱があった。この標柱は、いわゆる十三峠の東の入口にあたる。いよいよ多くの峠があり、上り坂・下り坂の連続となる目印にもなっている。名称は13の峠らしいが、実際は小さな峠も数えれば20峠もあった。とにかく上り坂の後に下り坂があり、その繰り返しが嫌になるほどだった。なだらかな標高500メートルぐらいの山の稜線(木が生い茂って薄暗い山道が続いていた。)が街道になっていたようでした。とにかく長い街道でした。のどが渇いて、購入したペットボトル2本の水を飲み干してしまいました。
私にとって、十三峠道の終了(京を目指す人にとっては、始まり)の碑でした。ほっとしました。大井宿が近づいていました。
上記写真の十三峠碑の横にあった、小さな白い板に書かれた「告」(注意書き)を写真に収めておきました。書かれていた日本文の文章を書いておきます。(読みにくいので、活字にしておきます。)
【 告 中山道はここより御嵩宿まで約30km幹線道鉄道を外れ山間を行きます。途中 食堂や商店・宿泊所などありません。十分な準備、下調べで、前へお進み下さい。 】(その下に英文あり)
この内容はいつごろ書かれたのであろうか、と疑問に思いました。しかし、この内容とほぼ同じような状況の道だったので、それほど古い時代ではないだろう。現在は、宿泊所として一軒だけ、私が泊めていただいた『旅館・大黒屋』がありましたし、大湫宿には自販機のある商店がありました。食堂はなかったですが、細久手宿と御嵩宿の間にケーキ屋(喫茶店)は最近できたようで、私はケーキと紅茶をいただきました。「告」の内容と一致しない要素はありましたが、この「告」の内容のような道だったなあと振り返ってみました。なかなか厳しい中山道歩きでした。標高は大したことはないコースですが、(峠が多いので)厳しかったですね。
十三峠の碑から大井宿までは、なだらかな道でした。JR恵那駅に到着したのは、午後3時30分でした。恵那駅で中山道歩き旅は終了しました。
本日(9月9日)の歩数は、36834歩でした。約21km歩きました。帰宅は午後9時ごろになりました。
以上、1泊2日の中山道歩き旅の報告です。2日間で約33kmほど(中山道を)歩きましたが、足腰は50kmほど歩いたような疲れが出ました。(元に戻るまで3日間かかりました。)
冬には、木曽路の残り(3宿)を歩き切って、「木曽路完歩」を実現したい! がんばるぞ!