奈良野英介の不思議体験

私の個人的な、不思議で神秘的な体験を綴ります。
合理性も論理性もない、低級な内容です。ご了承ください。

14)埋炭と電子水の実験施設

2009-04-30 00:27:13 | 日記
 ここは岐阜県加茂郡のとある町だったと思います。もう少し奥に行くと山岳地帶になるのでしょうが、ここはまだ土地が平で田園風景が広がっていました。
 埋炭の実験施設は、沿道にありました。実験施設とは言っても、すでに実用化されていて、一部はパンづくりなどの工場であり、一部は一般向けの販売所になっている普通の、郊外によくある店舗のようでもありました。
 最初は、期待をして行ってこともあり、建物に入るなりすぐに感じてしまいました。何を感じたかというと、つまり、その、「気」というか磁場というか、何だか生命力が強く刺激されているような雰囲気というようなものです。
 それが科学的に測定できるものではないと思いますので、期待が膨らんだための自分で捏造した「気のせい」だったのかもしれません。神社などに行くと、掌がジンジンするだとか、頭のてっぺんが抜けるような感じだとか、感じることがあるでしょうが、そんなようなものです。ですから、「気のせい」かもしれません。しかし「気のせい」だとしても、それが快感だったら、それはすばらしい体験でしょう。気持ちよいことに理由は要らないからね。しかし、私は理由がほしかったので、「なんだかんだ」と余分なことを持ち出すことになりました。
 さて、そこでは電子水という水を作る装置の説明をしていただきました。この装置は一時期かなり有名でしたが、今はどうなんでしょう? 大きな水槽の真ん中に電線に繋がれた備長炭が配され、これに高圧の電気を通電させて一昼夜置きます。すると水が、粒子のこまかいマイルドな美味しい水に変化するということでした。
 一般に備長炭に水を浸して長時間置くと、水が極めて美味しくなることは知られています。炭には電子を放出する作用があるので、土に炭を埋めたことと同様に、炭に触れた水は、プラス電化を与えると同時にマイナス電子を得て、水の中の不純な物質が分解されて変性する作用が起こるのだと思います。電子を得た水は、還元作用によって水としての本来の姿に近づいていくのだろうと思います。この炭が水に及ぼす力を、強力な静電気の力を炭に与え、炭の効果を電気の力で増幅させて大量の水処理ができるようにしたのが、電子水という装置だと、私は勝手に判断しています。
 この構造は単純ですが、高圧の静電気を流しているときに重要な点は、水槽の水にかけられた電荷がアースに逃げないように厳重な絶縁装置が必要だというところでした。
 こうしてできた水は、確かに美味かったです。この水を、この施設ではこれでもかというほど飲まされました。数リットル程度は飲んだでしょうか。それだけトイレも頻繁に行くことになりましたが、これほど飮めば、多少の病気は治る場合があるかもしれません。
 さて、この施設は、電子水の装置だけでなく、土地全体に埋炭されているとのことでした。そのため、ここのパン工場でつくるパンは、その工程で酸化する可能性が少なく、それだけ新鮮なまま、美味しいパンができるということでした。そのとおり、ここで食べる食事は、美味しかったです。埋炭の効果だということは、なるほどよく分かりました。
 もう一つ見せていただいたのは、牧畜施設でした。この周辺には、たくさんの農家が牧畜をしていましたが、車でその間を走ると、あのムッとするニオイがするものですが、そのニオイがする畜舎とニオイがまったくしない畜舎がありました。ニオイがしないのは、埋炭とともに、電子水を与えたり、電子処理した餌を与えているからという説明でした。たしかに、この畜舎の牛の糞尿にはある、糞尿のニオイがほとんどなかったのです。牛もとても愛らしく可愛らしい表情をしていました。飼われているストレスが少ないのだそうです。
 なるほど、これはやはり、マイナス電子の作用なのだろうと、納得した次第です。埋炭は、環境改善にたいへんな効果があります。もうずいぶん前の話なのですが、その後、この施設がどうなったのか、分かりません。たぶん同じ状態であるのだと思います。また、これほどの効果があるので、今のような環境問題が盛んになっている時代には、もっといろいろと話題になってもいいと思うのですが、あんまり話を聞きません。ただ、土地に埋炭する工事をする方は、全国あちこちにいらっしゃるようです。
 私は、やはり炭は人間の生活にとって燃料としてではなく、マイナス電子を呼び込む環境改善の道具として、もっと注目されてもいいと思います。土地に埋炭する方法などは、炭さえ手に入れば、じつに簡単な工事なので、もっと採り入れられるべきものだと思いますが、それほどの広がりはありません。
 私も十年ちょっと前に大手の住宅メーカーで家を建てたときに、埋炭と、床下に炭を敷きたい旨伝えましたが、メーカーからなかなか理解してもらえず、困りました。結局、大事なところは自分でやりましたが、炭がかなりポピュラーになり、備長炭などの値段がかなり下がった今でも、土の中に炭を埋めることを真剣に考える人はほとんどいませんね。

13)埋炭はマイナス電子を放出する?

2009-04-29 03:26:29 | 日記
 寺院や住居の敷地に炭を埋めたり、床下に炭を敷く方法は、かなり昔からあったようです。炭を床下に入れたりすると、湿気防止やシロアリ防止に効果があることも知られています。炭は住環境を快適にする昔から知られたアイテムだったのですね。
 楢崎皐月は、炭を土地の一定の深さに固まって入れる方法を開発しました。一定の直径、深さの穴を地面に堀り、そこに一定の高さまで炭を入れ土で埋めます。このような装置を、土地に複数一定の距離をおいて設置すると、それだけでその周辺の土地がイヤヒロチになると、本には書いてあったように思います。
 土地に炭を埋めるというのは、電池と似たところがあります。土地の中に炭があると、炭素の塊ですから土地の表面を流れる電流が炭に向かって流れる方向性が生まれ、土表面を流れる電流が一定のパターンを描いて安定化するのでしょう。
 埋炭装置を幾何学的に配置すると、地球が自転しているので、電流の流れに特殊なパターンが生まれるかもしれません(そんなことあるかな?)。土の中で電線のように絶縁するものが何もないので、意外なことが起こるかもしれませんね。正直、電気の知識は素人のレベルなので、専門的なことはわかりませんから、ひょっとしたら、私の考えは大笑いかもしれません。
 地中の電流があることは明白なことのようですが、微弱なので、工学的には無視されるのが通例のようです。「そんなもん、何の影響もない」というところでしょう。しかし、楢崎皐月は、そうは考えなかったのです。その実効性を証明しようとしたのでしょう。
 炭を土の中に埋めるということは、炭は炭素ですから、乾電池と同じような装置がそこにできるわけです。炭は自由電子(マイナス電子)をたくさん持っている伝導体なので、土に埋設された炭に向かって周辺の土の中の電流が流れます。
 さて、電気にはプラスとマイナスがありますが、電流の流れとはプラス電気の流れです。しかし、電流の流れと電子の流れとは逆になります。電流が右から左に流れるときには、電子が左から右に流れるのです。電流の流れと反対の方向に必ず電子が流れるわけです。
 つまり、土に埋められた炭に向かって土のなかのプラス電流が流れるときには、炭からマイナス電子が逆方向に流れていることになります。つまり、土に埋められた炭の周辺には常にマイナス電子が放出されているということになります。もちろんそのエネルギーは微弱でしょう。また、その電子はあっという間に土の中に拡散してしまうでしょう。しかし、それがずっと永遠に続いているとしたら、どうでしょう。まったく周辺の環境に、何の影響もないと言えますか? 
 おそらくは、土中に拡散しているマイナス電子ですが、その電子の一部は、地表から空気に洩れたり、水脈に流れたり、植物の根に吸収されたり、さまざまな影響があるはずです。つまり、土に炭を埋めると、それは電子の放出作用を永遠に繰り返す場となると考えられます。つまり、埋炭された土地は、バランス的にマイナス電子が豊富な環境に変化し、植物にも動物にも成長によい環境に変化したといえるのではないでしょうか。
 しかもその結果として、野菜や植物の成長が良くなり、住む人間にも心地良く感じるとしたら、埋炭が、実効性のある土地改良の優れたシステムであることの証の一つと言えるのではないでしょうか。
 正しく、埋炭には、マイナス電子を放出する作用による環境改善の十分な根拠があるように思えます。私は大変に興味を持ちました。それがほんとうかどうかを確かめたかったのです。
 ある人から、楢崎皐月の埋炭法を発展させた方法による実験施設が岐阜県にあると聞き、体験に訪れ、それが間違いないことを体験し、そしてまたその効果に舌を巻きました。

12)楢崎皐月著『静電三法』

2009-04-28 12:47:58 | 日記
 大阪の難波ちかくのお米屋さんのお話をする前に、岐阜県にあったある施設のことを書かく必要があります。あの地震があった年から一、二年前のことだったと思います。岐阜県加茂郡というところだったと思います。
 『静電三法』という不思議な著書を遺された、楢崎皐月という方がおられました。この著書は、けっして分かりやすくはありません。理解しがたい部分もありました。が、私が覚えている範囲でご紹介すると、土地という自然には電気の流れがあり、地面の中の電流の流れを測定することによって、その土地の善し悪しを判別する方法があるということです。
 地面に電気が流れているというと、怪訝な顔をする方もいらっしゃいますが、帯電した静電気の逃げ場は土です。クーラーの室外機などでは必ず漏電等を防止するためにアースをします。つまり、土の大地は電気の逃げる場なのです。土には水が含まれていますから、湿気が多い土では電線のように電気が流れます。ただ、どこにいっちゃうのか分からない。土の中であっという間に広がって、どこかにいっちゃう。
 電気は私たちの肉体(細胞)が活動するときにも活動しています。悩細胞の活動などは発電所のようなもので、脳波はこの電気の一部を測定しているわけですから、電気は物質を結合したり分断したりするときにやりとりされるエネルギーそのものです。
 それが地面に流れていても、ちっとも不思議ではないわけです。いったいどこで電気が発生しているのかというと、地球の大地の奥の奥にはマグマが流動しており、電磁気が渦巻いているわけです。それが動くことで、摩擦やら圧力やらが起こり地震となりますが、このような地球内部の活動は、絶えずエネルギーを放出しており、それが熱や電磁力と言われるものです。
 地震が起こる前兆として、マグマが大陸プレートと強い摩擦を起こしたときに、強烈な電磁波が地上で測定されます。この電磁エネルギーに異常を感知した動物が異常行動を起こすことがあり、地震を予知することができるわけです。犬や猫が訳がわからず鳴きわめいたり、水槽の魚が飛び跳ねたり、ネズミが集団で移動したり、ミミズがたくさん這い出してきたり、こんなことがあったら大地震を疑ってみることですね。
 因みに、地震雲というものをしたり顔の科学者は否定しますが、地球内部から大気圏にまで放出された電磁波エネルギーによって、大気圏に摩擦エネルギーなどが発生して、そこに大気の水分が吸いよせられたりして特殊な雲の形となって顕れるとされます。地震雲の形は、地球内部の活断層に相応しているのではないでしょうか。だから、形はさまざまなのです。しかし、活断層というものも山脈の稜線のようなものでしょうから、細長い線の雲となるのでしょう。また、活断層からの電磁エネルギーが、何度かに分かれて発生すれば、地震雲にもその時間差によって長い雲の形が波のように幾重にも波紋になって顕れるかもしれません。
 しかし、残念なことに、地熱発電は実用化されていますが、マグマから発生する電磁エネルギーを利用する方法は見つかっていません。大地は電気エネルギーを散乱して吸収してしまうのです。巨大な落雷があったとしても、その電気エネルギーを大地はやすやすと受容します。いったいどこに流れていってしまうのでしょうか。私たちの電気製品でも、アースが必要なものがありますが、万一漏電したときに、その危険な電気は大地の土にバイパスして吸収されます。土地は電気が拡散する伝導体なのです。
 しかし、この土地は電線のように電気の供給に利用できません。どこに行っちゃうか分からないし、たくさんの抵抗物質があるからです。土が通電性があることは十分に知られているわけですが、電気の逃げ道としてのアースとしての利用以外には利用する方法を、私たちは知らなかったのです。
 そんな土地の電気の自然な流れに着目したのが、楢崎皐月でした。彼の研究によると、作物がたくさん実る肥えた土地と、作物の実りが悪いやせた土地では、土地の表面の電気の流れが違うということがわかったそうです。肥えた土地は電気の流れが安定しているが、やせた土地では不安定なのだそうです。そして、肥えた土地は人が住んでも気持ちよさを感じ、やせた土地は気分が萎える場所だということも分かりました。彼はそれを、イヤシロチ(良い土地)とケガレチ(悪い土地)と表現しました。
 楢崎皐月のすごいところは、土地の善し悪しを判別できるだけでなく、悪い土地を良い土地に、つまりケガレチをイヤシロチに改善する方法を研究して後世に伝えたことです。
 その方法は、実に簡単でした。
 埋炭です。

11)大激震が教えてくれた人知を超えた現象

2009-04-27 13:51:13 | 日記
 大物社長のビルが全棟ほぼ無傷で残ったことも奇跡的ですが、極端に必要以上に構造を強化したとするなら、ある程度は可能性がないわけではないという推測ができるのですが、この同じ建物の一室だけが、被害がほとんどないというのは、どうにもこうにも理解ができません。理解できないものは、超常現象とか奇跡とか、そういう名称をつけて、肯定的な人は受け入れ、科学や論理にたずさわっている人は、証明できないというアホな理由で拒絶します。私はもっとアホなので、聞いた事実は事実として受け入れます。しかし、理由はかならずあるはずです。それが人知を超えているにすぎません。阪神・淡路大震災は、人知を超えたスケールで起こったではないですか。これは受け入れざるを得ないでしょう。同じように、ビルが残ったことも、一室だけが被害を被らなかったことも、事実であれば、受け入れるしかないでしょう。
 しかし、こんな話はやはり信じられないでしょうね。私も、地震の直後の現場に立ち会ったわけではありません。飽くまで震災から数カ月後に、現場を体験された方から聞かされた奇談です。現場を体験したのは、一流企業にも納品している立派な社長さんです。そんな作り話や嘘をつく人とは信じられないし、またそんなことをしても何のメリットもありません。私が「ひぇ~」とびっくり驚く反応くらいでしょう。みなさんもまた、ただ、「そんなことが……」と思うだけで、それ以上どうにもしようのないことです。
 しかし、事実だとしたら、そういう奇妙な事実はあるものだと言っておくことには意味があると思います。まあ、常識的には信じられないのがふつうだと思いますから、どのように受けとめられてもかまいません。
 因みに、香水を開発された女性は、お釈迦様の子供の頃をかたどった木像を、わが子のように大事にされていました。私には分かりませんでしたが、丸一日、この木像と会話をしたりしていたそうです。草木や石や岩、風とも会話をする能力があったようです。いわゆる、超能力者でした。このような方が開発に係わった香水なので、まったく考えられない奇跡が起こったという可能性はあります。
 大物社長のビルが崩壊しなかった理由のひとつに、直近で霊能者が係わったことが考えられます。そして損壊がなかった香水の部屋の件では、香水を研究・開発した方が超能力者でした。霊能者や超能力者とは、曖昧な概念です。社会性からはずれているという部分はマイナスイメージがあります。しかし、ふつうの社会人には伺い知れないことを知っていたり、論理的にできないことをやってしまう力は、プラスのイメージで見られています。
 大地震の災害で被害が少なかった理由の一つとして、霊能者や超能力者に震災の影響を打ち消す力があったと想定することはできます。それがどういう力学なのか、人知を超えているので証明することは困難です。しかし、そう想定するほうが、私は納得しやすいと思います。
 この地震で私はもう一つ、やはり地震の揺れの影響を受けなかったものがあったという話を聞きました。
 そこは大阪市内の難波の近くのところだったと記憶しています。阪神・淡路大震災で、震源地からは少し離れていますが、震度五くらいは揺れたそうで、不安定なものはたくさん倒れたようです。
 そこはお米の精米所でした。

10)大激震で外壁が崩壊した建物の一室だけは整然としたまま

2009-04-25 12:26:31 | 日記
 阪神・淡路大震災のときに、神戸のホテルで宿泊をしていた知人から聞いた話では、建物の揺れはキングコングに掴まれて揺さぶられたような衝撃だったと言っていました。テレビが一瞬反対側の壁に向かって放り投げられるように飛んで行ったというのです。激しく速い強烈な揺れは、まったく体験したことがない次元の恐怖だったそうです。
 事実、激震地ではほとんどの建物が崩壊しました。そのエリアにあって、無傷で残っている建物は、まさに奇跡的というしかありません。
 大物社長の数棟の建物は、すべてがほとんど無傷で残りました。そのうち半分が残ったというケースなら、そういうこともあるだろうと思えるのですが、この社長の建物だけはすべて残ったというと、前年の11月にビルの祓い清めを行った九州の霊能者の修法の力を考えないわけにはいきませせん。そして、建物がすべて残っていることを、九州にありながら、分かっていたという霊能者自信のことばにも、耳を傾ける必要がありました。
「なぜ、そんなことが起こり得る?」
 あの地震災害では、あと二つ、不思議な話を聞いています。
 一つが、神戸の激震地のほぼ中心に建物があった会社です。ここでは、業務のひとつとして特殊な香水を研究・開発していました。この香水は身心のチャクラを刺激するためにMさんという、感性の鋭い方(女性)が本物の香りを探究して作ったものです。そして、丹念に精魂をこめて作られた香水は、ビルの3階(と聞いて記憶があります)のある一室に慎重に保管されていました。
 震災のあった日、関係者は建物の惨状を見て愕然としました。一階の壁には穴が空くほど壞れ、室内もロッカーが倒れ、テレビは反対側の壁まで飛び、滅茶苦茶な状態だったのです。激震地の中心に建っていたビルですから、当然といえば当然のことです。幸い、建物の構造には大きな損傷がなく、なんとか使える状態で残ったことは、やはり奇跡的なことだったかもしれません。しかも、このビルは数十年以上も前のものでした。関東大震災の記憶から、柱や梁は必要以上に強化されていたことが幸いしたのでしょう。
 それでも、この建物が尋常では考えられない揺れ方をしたのは、室内の散乱した状態や崩壊した外壁が雄弁に物語っていたようです。関係者は、その惨状を見て、真っ先に貯蔵していた香水が台無しになったことを嘆きました。
 しかし、しかしです。そんな嘆きはたちまち賛嘆に変わりました。
 おそるおそる貯蔵室の扉を明けてみたところ、なんと、たくさんのガラスの容器に入っていた香水は、まったくそのままで、倒れていなかったというのです。
 隣の部屋は、テレビが反対の壁まで飛ぶびロッカーは倒れ、机や椅子はぐちゃぐちゃに乱れているにもかかわらず、壁を隔てた貯蔵室に貯蔵されていた香水は、何事もなかったかのように、そのまま整然としていたというのです。室内の壁を隔てて、滅茶苦茶になった部屋とほとんど地震の影響がなかった部屋があったということ、同じ構造体でのできごとなので、常識で信じられないことは当然です。超常現象とでもいうしかありません。しかし、私はその人たちが私をからかうために嘘を言っているとも、その人たちが共同幻想に囚われているとも思えません。事実、その丹念に抽出した香水の原料はその後も残っているわけですから、入れ物(ガラス)が割れて原料が台無しにはならなかった事実は確認できます。いったいどんな奇妙なことが起こったのでしょうか?

9)激震地でも崩壊しなかったビルの不思議

2009-04-24 13:46:28 | 日記
 私はテレビに映った高速道路がぐにゃりと倒れた光景にびっくりしました。大きな地震が神戸の街を襲ったということが分かりました。しかしその後、その被害が未曽有のものであることが、日を増すごとに明らかっになっていくことに、日本中、いや、世界中の人々は驚愕したに違いありません。
 自然の力の前に、人間が作ったものなどまったく通用しないことを思い知らされたわけです。しかし、被害の報告が詳細に聞こえてくると、被害の状況が場所によって極端に違うという事実には、腑に落ちないものがありました。なぜなら、より大きな被害を被ったのは、収入が少ない方々が集中したエリアだったからです。
 もし、神様というものが存在するなら、貧しきものを救い、奢ったものを制裁するのではないかと漠然と思ったからです。
 なぜなら、地震という天災には、どこかに天誅という裁きがあるように感じるからです。
 しかし、世界中の巨大地震や大災害の被害状況を見ると、いつもそこで被害を被っているのは、貧しき乏しき人々です。
 いったい何故なのでしょうか?
 貧しき乏しき人々は、天誅を下されるような悪いことをしているとでも言うのでしょうか? そして災害で被害を被り苦しむカルマを背負って生まれてきたのでしょうか? そんな運命ってあるのでしょうか?
 そんな思いが交錯しながらも、私には支援金を出すことくらいしかできません。
 それから何カ月か経って復興の兆しが見え始めたときでした。
 大物社長の神戸のテナントビルがどうなったか、本人から直に話を聞く機会がありました。
 驚くべきことに、全棟無事で、若干の被害はあったものの、ビル機能としては問題がなく、すべてのビルのテナントは満杯となっているとのことでした。
 大物社長のビルは、神戸の地震被災地の激震地にありました。が、回りのビルが甚大な被害を被っているにも係わらず、この社長のビルは、ほとんど構造的な被害はないということでした。ある新聞に、大きく崩壊したビルと、何事もなく立ちつくしているビルが報道されました。この不思議に立ちつくしているビルは、この大物社長のビルの一つだったのです。
 たしかに、有名建築家が設計したビルですから、構造的に強化されていた可能性はあります。しかし、激震地の大半の建物が崩壊したにもかかわらず、この社長のビル数棟だけ、ほとんど損害なく残っているというのは、不思議です。
 社長は、これはあの霊能者が祓い清めたからだと推論していました。というのは、あの災害があったあと数日して、九州の霊能者から社長に電話があったそうです。
「どうです、ビル、残っとるでしょう」
 彼は、社長のビルがすべて、損壊していないことを知っていたようです。
 そして、彼が言い残したとおり、1月にテナントが埋まらなく困っていたビルはすべて満杯になったことは言うまでもありません。

8)霊能者の問題解決の方法

2009-04-23 12:21:12 | 日記
 一九九四年十一月のころだったと記憶しております。不動産業界の大物社長のテナントビルが神戸にたしか五、六棟ありましたが、有名建築家設計のビルのためテナント料が少し高く、テナントの稼働率がよくはなかったそうです。
 そこで大物社長は、ある人から紹介された霊能者に神戸のテナントビルの祓い清めを依頼しました。
 この霊能者は、九州でアパレルなどの仕事を展開していた事業者でしたが、仕事に失敗し、人生を振り返っていたところ、九州のあちこちの神社とおぼしきところから、さまざまな霊的呼びかけを受け、それに従って供養や参拝を繰り返すうちに、だんだんと霊的力が身について、次第にその力をもって、悩める人々の問題解決をするようになったそうです。
 この霊能者のやり方は、相談事に対して、まず白紙のなかに自分で問題を想起しながら、自問自答をするようにして、問題とその分析を行っていました。飽くまで、その霊能者の知識や経験に応じて設問を設定し、回答を導くときには手や指が自動書記のように動いて導き出された結果を元に、また問題を分解したり、掘り下げていくという方法を繰り返します。
 回答をするときの自動書記のように動く手が示す反応は、自分でも分からないことがあるらしく、それだけ、その回答には自分という意識のフィルターの色が少ないので、だれも知らないようなことでも導き出されることがあり、その正解度は極めて高い人でした。
 ふつうの人は、自分自答をする場合でも、問うている自分と答えている自分の間には、考えてたり推理している論理的な判断があり、自問自答の間は分断されていません。そのため、自分で推論した答は、自分のとうい人間のレベルの枠を出ることはないわけです。
 しかし、霊能者のレベルになると、自問自答をしていても、聞いている自分と答えている自分とが、顕在意識としては繋がっていないようです。聞けば、自分の手がこのように書いたとか、自分の手がこのように反応したというのが体験的な事実です。その霊能者が、自分の都合のよいようにシナリオを書いたり、考えたりしたものではない可能性が高いということを感じました。
 さて、問題の分析は分析として、対処法として何をどうするかが問題です。
 神戸のテナントビルで稼働率が悪いのをどう改善したか? 聞く話によると、御神酒と塩(大量)を準備して、シンプルな形で神様を呼び出し、祓い清めを行ったそうです。祝詞は奏上しません。ただ、子供が親に頼むように、神様という存在にふつうの言葉で願い事を依頼したようです。もちろん九州弁で、けっして丁寧ではなく、むしろ荒々しい感じだったでしょう。
 塩をフロア一杯に撒くとか、お神酒を礎石や柱、屋上にたっぷりと注ぐとかされたと思います。その修法している姿は、素朴で真剣そのもの。すごい迫力があったはずです。
 数棟の修法がひととおり終わると、霊能者は親しげないつもの口調で、「来年の一月には一杯になるでしょう」と言い残して九州に帰ってしまいました。
 そして翌年、一九九五年一月十七日を迎えました。

7)家相と鬼門ライン・霊能者との出会い

2009-04-22 12:13:48 | 日記
 阪神・淡路大震災のニュースが駆けめぐったのが、一九九五年一月十七日のことでした。都市の密集地を揺るがしたこの災害は、衝撃でした。それが日本の都市部で起こり、高速道路がアメのようにぐにゃりと曲がってしまった光景は、まさに未曽有の出来事でした。
 震源の断層は淡路島から京都に走ることが確認されましたが、この方角は、南西から東北に走る鬼門ラインにあることは、偶然ではありません。日本列島自体が鬼門ラインに隆起しています。鬼門という方位性には、日本列島が位置する地球の表面のエネルギーの方向性があると考えるのは無理はないでしょう。
 そのころ鬼門は、私のなかのテーマの一つになっていました。鬼門に関心をもったのは、家相というものを学んだからです。
 私は運命学を少し勉強しましたが、その関係で、住宅誌の編集者をしているときに、家相の担当になりました。当時は、多田花外という家相の先生が、無料家相相談というものをやっておられましたが、明治生まれの高齢の先生でしたので、文章が古めかしく、一般化のために書き直しが必要でした。家相では、陰陽道の理論を使っていましたので、私には理解が容易でした。この家相の担当をしているうちに、多田先生のところに何べんも出入りし、いろいろと教えていただいたお蔭で、ほぼ家相というものについて、マスターすることができました。さらに先生の家相理論にはむずかしい用語が使われていましたので、これを自分なりにリニューアルしてシンプルに再構築もしました。もちろん多田先生の了解をとっての上です。
 家相というと、気学とか風水とか入り交じり、脅し文句ばかりが気になり、インチキ臭いもののように受け取られているでしょう。たしかにたくさん枝分かれした占いとして伝承されたものは、金儲けのためのものであることがほとんどのようでした。
 多田先生が残した家相は、そういうおかしなものを排除したものでした。ですから、シンプルで分かり安かったのです。しかしここに一つだけ理由の分からないものがありました。それが鬼門と裏鬼門という方位の問題です。多田先生も、これだけは統計的に見て影響があるというのです。しかし、なぜ影響があるのか、その答えは聴きだせませんでした。
 それが私のテーマになっていったのです。
 そんな興味を抱いていたころです。ある人から、大阪のビルデベロッパーの社長さんを紹介されました。この方は、当時大阪を中心に全国に二十棟以上もビルを持つ、不動産業界の大物でした。割腹よく、陽気で、スケールが大きく、そして神事好きでした。私が紹介された理由は、神事好きなところがあったからだと思います。
 大阪に出張してこの方が開催するパーティに出席したときのことです。
「紹介したい人がいるから」
 そう言われて、いわゆる霊能者の方を紹介していただきました。
 この霊能者の方は、土地や建物の祓い清めを得意としていたようです。紙に不思議な文字や図形をまるで自動書記のように書きながら、いろいろと人の関係とか、人生の運気の状態とか説明をしてくれました。人柄は素にちかく、親しみがあり、なかなか良い人に感じました。
 じつは、デベロッパーの社長が言うには、先般の阪神・淡路大震災で、この霊能者の祓い清めた数棟のビルすべてが、実質的に崩壊しなかったという奇跡的な出来事が起こったということでした。

6)宗教団体の矛盾した仏教の教えと運命学

2009-04-21 23:56:03 | 日記
 三十代のころ、私は出版社で編集の仕事をすることができるようになりました。最初は雑誌の編集でしたが、もともとやりたかった仕事なので、やりがいがありました。雑誌は文字ばかりの専門誌からカラーページがふんだんにある住宅誌の担当となり、企画、記事作成、レイアウトや色校正から写真撮影まで幅広く勉強ができ、このとき編集の大半の技術を習得しました。
 このときに、私は密教系の宗教団体に所属していましたが、このころこの宗教団体はバブル景気にまみれたのでしょう。言論統制が始まりました。もともとは超能力を養うための行法が中心だったのですが、急に守護霊などといういかがわしいことを標榜するようになり、外に出て布教を強要されるようになったのです。
 私は布教をするということが大嫌いでした。そういうことをしている人を見ると、哀れに思ったり、バカに見えたりしましたから。しかも布教をする論理というか根拠というものは、どれもが耐えがたいほど説得性に欠けています。
 密教といえども仏教です。この教団は、仏教のなかでも阿含教に光を当てたところはすごいと思っていた矢先、いきなり守護霊なとど言い出す。どうして阿含教という優れた教えが、守護霊などという低級な教えと共存できるのか? しかも、その低劣な守護霊で布教をするというのは、なんとも情けない団体に成り下がったものだといやけがさしていました。
 それで私は、いつも団体の仲間とそんなことを話していたものです。が、そのうち、私の発言は団体の風紀を乱す者として、ブラックリストになったようでした。いつの間にか、会費を払っているにもかかわらず、私のところに通知が来なくなったのです。
 しかし私は仕事がおもしろかったので、だんだん守護霊などと言っているおかしな宗教団体なんかはどうでもよくなり、そのままフェードアウトしました。
 しかし、この宗教団体では仏教とともに、運命学というものも勉強しました。
 だいたい運命学というようなものに関心をもったのは、自分が不運だと思っていたからです。最初は、どうして自分はこうなのだ、というところを知りたかったのでしょう。
 この団体で教えてくれたのは、九星の観方でした。これはたいへんにシンプルで、しかもよく当たりました。いわゆる周期があるということなのですね。今でもこれはときどき使っています。すぐれた知恵ですが、元はというと中国の陰陽道です。
 もう一つ学んだのが、四柱推命です。いくつか本がありました。どれもがバラバラで、けっこういいかげんなことが書いてありました。そのままでは使い物になりません。そこで私は、自分なりのやり方を考えました。四柱推命は、人生というものや人間関係というものにある程度深い見識がないと判断することができないものでした。星がめぐってくるときの年齢や運気の状態で、それがどういうことに展開するか、推理をすることが大事なのです。その推理の根拠となるのが、人生の経験であり、人間というものの洞察なのです。四柱推命は、そういう人間や人生経験によって、判断が全く異なるものになります。それだけ、これはおもしろかったので、会社ではいろいろな人を見て、楽しく遊びました。
 しかし、そんな私も四十代になると、だんだんと精神世界への興味が湧いてきて、あるときに九州の高千穂の奥にある神社に詣でたときに、不思議な体験に遭遇することになったのです。

5)瞑想のまねごと

2009-04-20 22:21:13 | 日記
 1973年、昭和48年に日本は第一次オイルショックにみまわれました。私が大学を卒業し、会社勤めをしたのはその年でした。同時に私は今の妻と同棲生活をはじめ、翌年はじめに結婚式をあげましたが、会社の仕事は営業でつまらなく、家に帰ると嫁姑問題でゴタゴタして、私は自分の安全な場所がほとんどなくなってしまいました。今から考えると、じつにくだらない事柄に人生の足を取られて躓いていたといったらいいかもしれません。
 ノストラダムスの予言書が飛ぶように売れたのは、そんなときだったと思います。世界が破滅するというシナリオを、快感に感じたこともあります。
 私は大学にはすばらしい人間がいると期待していましたが、それはとんでもない勘違いでした。自分を差し置いていいますが、どの人も平凡か平凡以下、または異常に思え、友達は多くはありませんでした。
 会社というところに入ると、ますます人間がつまらなく見えました。サラリーマンが居酒屋で酒を飲んで話してることほど虚しいことはないと思いました。いったい何が楽しいのか、私には分からなくなっていたのです。
 そんな私が希望を見出したのは、ある宗教団体でした。
 子供のころは、神様というものがなんとなくありましたが、物心ついたころになると、なぜか密教系の行法に感じるようになっていました。なぜかと考えると、おそらくそこには、超常的力を現実化する方法があると錯覚したからでしょう。
 私が関心をもった宗教団体は、当時はひどくマイナーな組織でした。組織化が甘かったので、比較的自由に勉強もできました。また、何でも好きなようなことを話し合うこともできました。私ははこのとき、仏教というものを表面的でしょうが、ほぼ把握しました。
 この団体では、瞑想も奨励していましたので、家ではよく瞑想のまねごとをしました。ただ座って、呼吸法などをしていただけです。ここで奇妙な感覚を何べんとなく味わいました。体がなくなってしまった体験や、感覚が極限にまで肥大した体験、宇宙を放浪しているような感覚、体中に鉛が入ったように重くなる感覚、尾てい骨のあたりからメラメラと白く気持ちのよいエネルギーがふわりと上昇して意識が天に飛び抜けるような快感、いろいろありました。一番奇妙な体験は、真冬の寒い時期なのに、目の前十センチくらいのところに蚊のようなものが飛んでいるのが見えたときです。「冬なのにまだ蚊がいるなんて何かへんだぞ?」と思ってよく見ると、なんとそれは蚊ではなく、私の目頭あたりから糸のような、角のようなものが飛び出して、その尖端がちょろちょろと動いていた光景でした。
 そう気付いた瞬間に、その奇妙なものは見えなくなりましたが、あとで、ヨガの解説書を読んでいたときに、そういうものがあるということを知り、少し安心しました。
 もう一度見てみたいと瞑想しましたが、一、二度見えたと思いますが、それっきりです。光を見たり、包まれたりすることはたびたびでしたが、だからそれがなんなのだというと、あんまり意味がないのですね。
 ただ、自分が瞑想してちょっと楽しかったという程度のことにすぎなかったのです。
 しかし、このような瞑想で異常な感覚を楽しむことができるのは、三十代前半まででした。だんだん年をとって、社会人としての責任が出てくると、瞑想のまねごとをしている暇もなくなってきて、同時に瞑想して楽しい感覚を味わえるゆとりもまたなくなりました。

4)学生時代の精神異状

2009-04-19 23:52:24 | 日記
 学生時代は消極的で暗い性格でした。音楽を聴くことだけが大好きで、チャイコフスキーの悲愴交響曲とか、そういうメランコリーな情緒に溺れているのが快感でした。イギリスからビートルズがやってきて流行りましたが、ちょうどそのころ、私の音楽の趣味はクラシック一辺倒になってしまったために、ビートルズの共有ができなかったのです。
 それは中学校三年年から高校に通うころでしたね。私はどんどん自分のなかに引きこもって行き、その反動のようにへたくそな詩文を書いて同人誌に投稿するようなことをしていました。本当は小説家になりたかったのでしょうが、自分で文章の才能がないことが分かっていたので、短文ですむ詩になったのかもしれません。しかし心というものはどんどん寂しく枯れていき、この世の中というものには嫌悪を覚えるようになりました。
 たぶん一種の精神疾患なのだと思います。病院に行くほどではないのですが、寝入りのときに奈落の底に落ちていく夢、この現実と異なる、もう一つの別の世界の現実があって、夢でそのつづきをずっと見るというようなこと、大学に行っているころには、ある数カ月の記憶が欠落しているとか、麻薬をやっていたわけではありませんが、異常な感覚や異次元に住んでいる連続した夢など、それも鮮明ではなく曖昧模糊として何がなんだか説明ができないのですが、そういう混濁した意識を何年間か経験してきました。しかし、外見では生活はふつうにしていたはずです。
 このころも、大好きなのは音楽を聴くことで、音楽の趣味は、だんだんチャイコフスキーは飽きてきて、モーツァルトやベートーベンも飽きて、ブルックナーのシンフォニーを深く愛好するようになっていました。
 クラシックの愛好家は、音楽を聴くときに二つのスピーカーの真ん中で身じろぎもせず聴くのが建前になっていました。私も音楽を聴くときには身じろぎせず、集中して聴いていたのです。こんなことを毎日繰り返していると、だんだん意識も奇妙になってきます。体がどんどん膨張したようになったり、意識が宇宙まで広がったように感じたり、惑星のイメージが見えてきたり、光に全身をなでまわされたり、そんな異常な感覚が起こることが愉しみにもなりました。

3)脱サラで出版社を起業したころ

2009-04-18 16:20:31 | 日記
 今私は、五十歳どころか六十の大台に乗ろうとしています。子供のころを思い出すと、五十歳というのはジジイのはじまりで、六十歳というのはほとんどよぼよぼのじいさんでした。しかし今、自分がそんな歳になっているのに、実感がまったくありません。これは少し困ったことかもしれません。鏡に映った外見は、禿げかかった頭髪や白髪(染めたりヘタに隠している)は隠しようがありませんが、顔色や体の肌(見せるわけにはいきませんが)は十分奇麗です(自信)。酒やタバコの嗜好もなく、今通勤のストレスなく、食べ物は淡白ですから、健康診断なんて十年以上したことがなくても、すこぶる健康であることは自分でわかります。若干腹メタボであったり、体のあちこちが痛いとか、呼吸器系の微かな持病とか、そういうものはありますが、歳を経るごとに、元気が衰えるということはありません。かえって元気になっています。大きな声では言えませんが、精力も衰えてはいませんよ(相手がいないけど)。
 そんなことはどうでもいいことです。「歳なんか関係ね~」。そういことではなく、私は四十七歳でいわゆる脱サラをしました。正直、そのときは年齢を考えました。五十になったら独立する気力がなくなるに違いない、そう思っていたのです。
 それまで私は、専門分野の出版社に大学を出てから二十四年間も勤めていましたので、もし私が会社の役員とかになれる可能性があったら、独立しなかったかもしれません。しかし私はここの家族経営者に好かれていないことが分かってました。
 それから私の仕事は出版関係で、販売経験と雑誌・書籍等の編集経験がありました。編集の評判はすこぶるよかったのです。そんな私に、四十六歳のときだったでしょうか? 奇妙なことを体験しました。それはまたあとで書きましょう。
 ともかくこうして私は長年勤めた会社を辞め、退職金をすべてつぎこんで、自分の会社をつくりました。それが何と、出版社だったのです。
 はじめはもっと会社の展開は簡単だと思っていました。しかし、やってみてそれはたいへんな壁にいくつもつきあたりました。所詮がサラリーマンの経験しかなかった私です。一人で一から会社をはじめ、それも出版社を成し遂げていくという事業のむずかしいこと。私が味わってのは、恐怖でした。
 当時はお金を持っていたのですよ。銀行にたっぷりとあった。しかし、毎月お金が減っていきます。で、「あと何カ月でこれだけなくなってしまう」という計算をしてしまうのです。
 このとき、駅で電車に飛び込んでしまう人の気持ちが、なんとなく分かった気がします。もちろん私には、そんなつもりも勇気もありませんが、こんな恐怖を毎日、毎日四六時中味わっていることがつづくと、耐えられなくなってもおかしくはなかったのです。
 その恐怖は、もちろん幻想や妄想であることを知っていました。それは分かっていたのですが、恐怖は、体の皮膚と体との間にリアルに入ってくるのです。それは皮膚ではないかもしれません。神智学で言う、エーテル体と肉体の癒着を切り裂いて恐怖が入るというのが正しいのではないでしょうか。ぞわぞわと体が感じるのです。しかし、それはただ、耐えるしかなかったのです。恐怖にひたすら耐える日々が、何日続いたか。いつか忘れる時期もありましたが、また恐怖のサイクルはめぐってくる。何度もそんなことが繰り返す日々でした。そのときの私が、どんなに不健康だったか。病気や怪我で倒れなかったのは、気力が残っていたからでしょう。後で気付いたのは、コケたら後がないときは、絶対に入院するような病気や怪我はしないということです。

2)子供心に感じた神様という言葉

2009-04-17 10:47:02 | 日記
 私はこのとき、幻を見たのかもしれません。神社の社の壁から人が飛び下りるというのは、常識ではありえません。家に逃げ帰った私は母にそのことを訴えましたが、笑ってとりあってくれませんでした。
 今から考えれば、子供のころの記憶なので、夢とか幻が現実の記憶のように定着して大人になってしまったと考えるのが合理的です。
 しかし、どうしてこの記憶が定着してしまたのでしょうか? ことあるごとに、この記憶だけがときどき思い出していました。それだけは、合理的な説明がつきません。
 この記憶で一つ奇妙なことは、目の前に飛び下りてきたその人間が「私は神様だよ」と言ったことです。
 もう一つ奇妙なことは、白装束のオジイさんでもなく、光輝く天使でもなく、煙を吐く竜神でもなく、右肩を露わにした埃にまみれた赤い服をまとった顔の浅黒い若い人間だったということです。当時、浮浪者というか乞食というか、ときどきさまよったり物乞いに来たりする人たちがいました。私は一瞬、浮浪者だと思ったのです。
 その浮浪者が「私は神様だよ」と言ったのです。
 私はたぶん五、六歳だったと思います。神や仏という概念を知らないはずです。しかし、直感というか、なんというか、神様というのは変だと思ったと思います。
「神様?」
 私の祖母は、信心深い人でした。私はほとんど祖父母に育てられたのですが、そのときに子供のころから恐い地獄を絵をみせられたり、悪いことをすると恐いめにあうよと教育された記憶があります。
 その家には深く暗く重たい雰囲気の仏壇がありました。祖母はそこでいつも拝んでいたものです。ですから、仏様とかご先祖様というものも教育されたはずです。しかし私は、仏壇の前を通るのが怖かったのです。しかし、神様というの言葉を、ふつうに受け入れていたと思います。
 朝、目覚めると天上の木目模様に人が座っているように見えるところがあり、それを恍惚と見つめていると、私の頭の右のほうから、直径十センチくらいの白く光る円い輪が出てきて、それがしずかにゆっくりと天井のその人の模様があるところまで登っていく光景を、毎日のように見ていた記憶があります。
 それが奇妙な体験だと思うようになったのは、物心というものがついたころであることは言うまでもありません。
 そんなことの他に、奇妙な夢や、虎の毛皮をまとっていたころの夢をいつも見ていたとか、今から思えば、変な体験はたくさんしたようです。おそらくこれは私だけではなく、人間はだれでもがそういう体験をしているはずなのですが、ただ、今は必要ないので、忘れているだけなのでしょう。
 しかし、当時の記憶で、ずっと忘れずに繰り返すものには、人生に特別な意味があるのではないでしょうか。
 産土神社の壁から私の目の前に飛び下りてきた、薄汚れた槐(えんじゅ)の服の人間は、ミャンマー僧侶のそれだったと知ったのは、私が五十歳になったころでした。

1)神社の壁から飛び下りてきた赤い服の人間

2009-04-16 11:07:50 | 日記
 子供のころというのは、誰でも不思議な体験をしているものだと思います。ただそのときは、不思議でもなんでもなく、ふつうのことなので、いつの間にか大人になるにしたがって、忘れてしまうものなのでしょう。

 私が生まれた家は、田舎のふつうの大家族の家でした。すぐに近くに東武日光線が通っていて、子供のころは、電車が行き過ぎたときにレールの継ぎ目を車輪が刻む音が大好きで、そのリズムが自然と体のなかに入ってきていると思います。が、それはふつうのことですね。

 子供のころ、というと、もちろん記憶があるのは5、6歳くらいからです。その前は、体に紐をくくられ、大黒柱にその紐が繋がれていて、私は鎖につながれた犬のように、大黒柱の回りをハイハイしていた記憶がなんとなくあります。ほんとうにそんなことがあったほど、よく動く子供だったようです。

 さて、家から少し離れたところに、氏神を祭る神社がありました。おそらく産土神社にあたるのでしょう。よく遊んだところです。今になって知ったことですが、ここは、漫画家美水かがみさんのマンガ「らき☆すた」の舞台になり最近急激に有名になった埼玉県の鷲の宮神社の分社で、鷲神社という神社でした。夏の旧盆のお祭りのときには、奇妙で刺激的な獅子舞に魅せられたものです。獅子の動きにゾクッとする怖さと魅力があったのです。もう数十年も前のことです。

 この神社で、私が一人で遊んでいるときのことでした。
 田園地帶の大河の側にある村の神社ですから、社殿はぼろぼろだったと思いますが、奥には拝殿があります。私がそこまで歩いて行ったときのことでした。
 私の目の前数メートルのところに、奥の拝殿の社の天上近くの壁から大きな赤い飛翔体が落ちてきたと見ると、それは、薄汚れた赤い服を着て右肩を出したままの、浅黒い肌の若者でした。
「わたくしは、神様だよ」
 なんとその、社殿の壁を突き破り眼前に飛び下りてきた浅黒い顔が手招きしたように思えました。
「ヤバイ」
 とっさに私は後ずさりし、家に逃げ帰りました。