奈良野英介の不思議体験

私の個人的な、不思議で神秘的な体験を綴ります。
合理性も論理性もない、低級な内容です。ご了承ください。

18)入院者のドミノ倒し

2009-05-06 20:39:16 | 日記
 私が会社づとめをしているときのことです。数十年前の私が三十代前半のことでした。私の職場のフロアは、通常の会社のように事務デスクが三つ、四つが向かい合わせで並ぶ、よくある一般的な配置です。
 それは私の位置から二つ机の島を超えたところで起こりました。具体的なことは忘れましたが、同僚の一人が病気になって入院したのです。会社というところの事務系の職場には、妙に村社会的なところがあり、結婚式も葬式も、村的な習慣やしきたりがあり、これを無視すると、村八分のようなことにもなります。
 ですから、だれかが入院すれば、義理でお通夜に行くように、その人との関係がどうであれ、一度はお見舞いに行く方が無難なので、私も関係ないのにとは思うことがありますが、義理的に行ってきました。
 と、それから何週間か経過したころ、また、すぐ隣の人が入院しました。もちろん何の病気だったか忘れました。胃潰瘍とか、そういうストレス性の病気だったろうと思います。このときも、お見舞いにいきました。
 それからまた、数週間か一か月か、またまた隣の人が、入院したのです。
 あれまと思うほど見事に、一人ずつ、机の順番にそって、入院する人がつぎつぎと出てきたのです。伝染病ではありません。入院の理由はさまざまなのですが、一週間とか二週間とか入院するのです。
 じつは私はこのとき、この現象をながめながら、正直、入院する人が羨ましくなってきました。なぜかというと、入院すると、関係ない人も含めて、同僚や上司などが見舞いに来てくれて、いろいろと気づかってくれたからです。
 普段、ふつうに仕事をしていたら、だれも人の面倒を見ることもないし、関心も寄せることはありません。しかし、一度入院という形ができると、人々の関心やら視線を一気に自分で受けることができるのです。病気で苦しむのはいやですが、人の関心を得るのはまんざらでもないと、そう思うようになりました。
 そう思うようになってからも、入院する人はどんどん私の机の島のほうに伝播してきました。そしてついに、私のすぐそばまでやって来たのです。
 これはじつに悪い言葉の意味ですが、オカルト的な現象でした。間に何人か飛び越えはしましたが、確実に入院者は時間の経過とともに私の席に向かってやってきたのです。
 そしてある日私は腹部に異常な痛みを覚えました。お腹の右半分に分厚い腫れ物が浮きだしていました。数日後、その腫れ物に水泡ができ、プツプツと不気味に火山が噴火したようになりました。皮膚科に行くと、ヘルペス・帯状疱疹でした。これは経口感染する伝染病です。どこで感染したか、思いだしてみて、ある建築現場の取材で飲んだお茶じゃないかと推測はしました。なぜなら、そのお茶を入れてくれた女性に、そんな感じの症状を感じたからです。いずれにしても、私の感染した病気は、入院してもおかしくない病気だったのです。
 「この病気は、通院でも治らないわけではないが、入院して点滴をして徹底的に治療したほうが良いですよ」と、医者からすすめられました。
 このとき、私はギクリとしました。ついに入院する番が、私にめぐってきたのだと。私は入院することに憧れを抱いていたのですから。
 私は心の底で、自分の願望、思っていたことが、実現しかかっていることに驚きました。「思いは実現する」というマーフィーの法則が、自分の体験として証明されたのです。
 それは一種の喜びでした。しかしまたそれは、恐怖でもありました。
 なぜなら、入院の順番が転々と私のところまで回ってきたのは、まるで悪霊が、転々と順番にドミノ倒しのように私のところにまでやって来たと言うことなのですから。


17)オカルトの意味

2009-05-05 14:59:34 | 日記
 オカルトというと、魔術、カルト的な信仰、人心をたぶらかす超常的な力、反社会的宗教組織などのイメージがつきまといます。たしかにそういうニュアンスがないわけではありません。むしろ、そういうイメージが社会に定着していると言ったほうがよいかもしれません。
 しかし、この言葉の語源を調べてみれば、このようなイメージやニュアンスは、「オカルト」または「オカルティズム(occultism)」の意味のほんの一部、しかも本来の意味とはかけ離れた派生的な部分における意味であることが容易に分かります。
 平凡社百科事典では、次のような意味だと記されています。

 ラテン語の occultum(〈隠されたもの〉の意)が語源。隠秘論、隠秘学などと訳され、(1)自然や精神生活について、近代科学の体系に組み込まれていない未知の諸現象を探究して、そこから隠された秘密を抽出し、(2)こうして取得した秘密の知を媒体にして、宇宙、自然、人間の現実をより高次の現実へと変容せしめようとする信仰、理論、技術をいう。これらの現象は、特異な能力にめぐまれた霊媒や超能力者を通じて発現することがあり、その際当事者の感覚器官が高度にたかまるあまり、テレパシー、透視、念力のような不可思議が見られ、また特定の個人や場所に結びついたお化け、幽霊、分身の現実化を招き寄せたりもする。近代科学が忘れ去った古代以来の秘密の知、占星術、魔術、錬金術、神智学、降霊術、カバラなども多かれ少なかれオカルティズムの総称の下に包括される。現代では超心理学の別名の下に科学的なアプローチも行われている。(以上、引用)

 オカルティズムという概念には、こんな言葉が関係しています。

 エジプトやメソポタミアの占星術/ヘブライのカバラ/古代ギリシアのピタゴラス教/古代の秘密の知/薔薇十字団/フリーメーソン/秘儀伝授/ルネサンス芸術の理論的支柱/悪魔学/天使学/錬金術/薬草学/サン・ジェルマン伯/カリオストロ/メスマーの動物磁気説/魔術師/イェーツ/ブラバツキー夫人/神智学協会/シュタイナー/人智学協会/クローリー/グルジェフ/ドラッグ文化/ヨーガ/自然食運動/タントリズム/神秘主義運動/輪廻転生/秘密結社/神秘主義的世界観・知識体系……。

 オカルティズムを和訳すると、「神秘学」というのが近いようです。太古の昔から秘密に守られ隠されて伝承されている知識大系というところが、この言葉の核心ではないかと思います。そのため、宗教的問題のように取り扱われがちですが、じつはそうではなく、あらゆる現象、すべての出来事の背後に、オカルティズムが介在していると私は考えるようになりました。
 そこで私は、世界という現象を湧出させている背後のシステム全体をとらえる概念を、オカルティズムとするのが適当ではないかと考えるようになったのです。だとしたらなおさら、オカルト・オカルティズムという言葉には、ちゃんとした市民権を与えないといけません。だれもがこの言葉の意味を少しでも多く、また深く理解し、世界の認識に役立て、また人生の理解に参考することで、ほんとうの世界平和の道も、人間存在の意味も、より真実に近づいて見えてくるはずなのですから。


16)自然災害の原因

2009-05-02 21:26:31 | 日記
 地震にしても災害にしても人災にしても、社会的な災害には重要な意味があります。突然ビルが倒壊したりとか、橋桁が落ちるという、いわゆる手抜き工事はもちろん人災ですから、これは設計者なり工事を担当した会社なり、工事を認可した行政などに責任があります。
 しかし、地震や台風などは、自然災害と言われます。甚大な被害が出ても、だれかに責任を転嫁することはありません。自然の災害に人間はどうすることもできないのです。
 近年、地球規模の温暖化の問題が浮上し、同時に世界的に自然災害はますます猛威を振るうようになりました。そのため、自然の異常による災害は、人間社会が温暖化を促進したことが原因であるという考え方を、テレビなどのキャスターなどが煽るようになりました。その一つの大きな原因は、化石燃料の消費がもたらすCO2の排出だというのです。
 たしかに地球規模のエネルギー連鎖を考えれば、そういうことも言えなくはなく、自然災害の原因が、人間社会が生み出した地球規模の温暖化にあるという説も一般化しつつあります。
 しかし、ほんとうにそうでしょうか?
 いえ、ほんとうにそれだけが問題なのでしょうか?
 私も少しは考えました。その結果、というと大げさになりますが、自然災害にしても、家の中でおこる問題にしても、社会で起こるトラブルにしても、「原因は地球の温暖化である」というような表面的なレベルとは異なる、人間存在の隠された次元に、問題を引き起こす原因があるのではないだろうかと考えるようになりました。
 そういうと、何だかおどろおどろしく毛嫌いしたりする人々が大勢います。あるいは、せせら笑ったり、小馬鹿に見下すような人もいます。いずれにしても、こういう問題に人は、社会は、まっとうに向き合おうとしません。
 しかし、サブカルチャーとして飛ぶように売れているアニメやマンガ現象を支えているものは何だろうとあなたは思いますか? 人気を博しているもののなかに、たくさんのオカルティズムがあります。小説にも音楽にも絵画にもあります。いや、それは、オカルティズムではなくて多重な表現芸術だとあなたは言うかもしれません。しかし私は、芸術こそはオカルティズムの神髄であると思うようになりました。
 そして深刻な社会問題を引き起こす自然災害もまた、オカルティズムの作用で引き起こされるのではないかと思うようになったのです。

15)倒れなかった細い三本足の巨大水槽

2009-05-01 14:33:20 | 日記
 大阪に電子水を無料でくみ取りできるところがあると聞いたのは何年前だったか覚えていません。電子水や埋炭法は、一九九〇年代ごろに盛んに聞いたように思いますが、もう今では話題をほとんど聞かなくなりました。
 しかし、私は埋炭法もその方法を応用した電子水なるものにも、興味がずっとありましたので、大阪の実験施設を訪れてみたいとずっと思っておりました。
 そしてそれが実現したのは、阪神・淡路大震災の数カ月後でした。
 私はかなり心配をしておりました。あの地震の振動で設備が壞れてしまったのではないかと思ったのですが、大丈夫でした。
 その施設はなんと精米所でした。
「精米所に電子水の装置? どんな関連があるのでしょう」
 アポなしでふいに訪れた私に、担当の方は気さくに教えてくださいました。ここにはまず、埋炭がされているそうです。その上、精米の過程に、電子を放射する装置を組み込んであるそうなのです。そのためかどうか、ふつうの精米には不釣り合いの、白い大きな碍子があちこちの施設の土台に何段にも重なって置かれていました。
 聞けば、床下に電気(静電気らしい)が逃げないように、厳重に絶縁しているというのです。精米は、この厳重に絶縁された空中で行なわれます。なぜこんな施設が必要なのかというと、精米の過程では、もみ殻が剥がれてお米がむき出しになった時点で、お米の酸化がどんどん進み、新鮮味をどんどん失うので、それを防止するために、マイナス電子を特殊な機械で帯電させるためだそうです。
 岐阜の実験施設でも分かったことですが、目には見えませんが、電子が物質に与えられると、酸化が防止でき、食物などは新鮮な状態を長く保てるメリットがあるということです。今日では、マイナス電子の還元効果を言う人は多くなりましたが、当時は、新鮮な話として私はききました。この精米所でも、あえてこのような装置を導入したのは、精米すると味が落ちるのは酸化をするからで、常時電子を与えながら精米をすると、常に還元状態がたもたれ、たいへんに美味しいお米を精米できるということでした。
 しかし、この装置の絶縁の白い数段重ねの碍子は異様に見えました。これは発電所などで見かける光景そのままです。ここまで厳重な絶縁が必要なのでしょうか。
 私の疑問に、担当の方はテスターのようなものを取り出して、この装置にどれくらい電子が流れているか、見せてくれました。たしかに装置のスイッチを入れると、精米装置のあたりは、テスターの針がビンと触れます。しかし、担当の方が装置の一部に手を触れたとたん、テスターの針はゼロになりました。人が手を触れると、そこに帯電している電気が一気に人の肉体を介して地面にアースされてしまうということを、目の前で見せてくれたのです。厳重な絶縁体が必要な理由が分かりました。どうやら仕組みは複雑ではなく、大きな静電気を電気的に発生させ、マイナス電子を帯電させる装置のようです。
 こんな仕掛けで美味しいお米が食べられたら、すばらしいことです。
 さて、私が興味をもっていた電子水の装置は、お隣の部屋にありました。
 そこは六畳くらいの小さな空間でした。その真ん中に、直径二メートル以上、高さが一メートル数十センチ程度の円筒状の金属の入れ物がありますが、この円筒の巨大な入れ物の下に、たった三カ所、さきほど精米所で見た白い絶縁のための碍子が数段建てに重なって、金属の円筒を支えていました。つまり、この狭い空間に、三点で支えられた巨大な金属の円筒の入れ物がほぼ一メートルの高さで浮いているという感じなのです。
 これが、電子水を作る装置でした。中を覗き見ることはできませんでしたが、水で満杯になった水槽の中央に炭素棒代わりの備長炭があり、ここに電線を繋いで巨大な電気を帯電させ、一昼夜寝かせておくと、美味しい水ができあがるという装置なのです。
 私が驚いたのは、こんな大きくて水を入れると一トンは超えるであろう水槽が、たった三本の絶縁のための不安定な碍子の土台に乗っていることの不安でした。屈強な人が手で強く押したりしたら、ぐらりと土台の絶縁の碍子の足が倒れてしまいそうな危ういもので、とても気になったのです。事実、あの巨大な震災では、担当者の方が真っ先に思ったのは、この電子水の水槽が倒れてしまっただろうという心配でした。
 しかし、なんと、この装置は、震災前もその後の今も、このまま無事に存在していたのです。それには、担当者の方が一番驚かれたそうです。周囲はけっこういろいろと被害があったそうですから。
 たまたまこのあたりだけ、揺れが少なかったのかもしれません。あるいは、揺れでくずれかけても微妙なバランスでまたもとに戻って落ち着いたのかもしれません。明け方のことですからその現場を誰も目撃していませんから、どういう経過をたどったか、分からないのですが、倒壊して当然のものが、そのまま残っているというのは、やはり不思議な現象ではないでしょうか。