奈良野英介の不思議体験

私の個人的な、不思議で神秘的な体験を綴ります。
合理性も論理性もない、低級な内容です。ご了承ください。

2)子供心に感じた神様という言葉

2009-04-17 10:47:02 | 日記
 私はこのとき、幻を見たのかもしれません。神社の社の壁から人が飛び下りるというのは、常識ではありえません。家に逃げ帰った私は母にそのことを訴えましたが、笑ってとりあってくれませんでした。
 今から考えれば、子供のころの記憶なので、夢とか幻が現実の記憶のように定着して大人になってしまったと考えるのが合理的です。
 しかし、どうしてこの記憶が定着してしまたのでしょうか? ことあるごとに、この記憶だけがときどき思い出していました。それだけは、合理的な説明がつきません。
 この記憶で一つ奇妙なことは、目の前に飛び下りてきたその人間が「私は神様だよ」と言ったことです。
 もう一つ奇妙なことは、白装束のオジイさんでもなく、光輝く天使でもなく、煙を吐く竜神でもなく、右肩を露わにした埃にまみれた赤い服をまとった顔の浅黒い若い人間だったということです。当時、浮浪者というか乞食というか、ときどきさまよったり物乞いに来たりする人たちがいました。私は一瞬、浮浪者だと思ったのです。
 その浮浪者が「私は神様だよ」と言ったのです。
 私はたぶん五、六歳だったと思います。神や仏という概念を知らないはずです。しかし、直感というか、なんというか、神様というのは変だと思ったと思います。
「神様?」
 私の祖母は、信心深い人でした。私はほとんど祖父母に育てられたのですが、そのときに子供のころから恐い地獄を絵をみせられたり、悪いことをすると恐いめにあうよと教育された記憶があります。
 その家には深く暗く重たい雰囲気の仏壇がありました。祖母はそこでいつも拝んでいたものです。ですから、仏様とかご先祖様というものも教育されたはずです。しかし私は、仏壇の前を通るのが怖かったのです。しかし、神様というの言葉を、ふつうに受け入れていたと思います。
 朝、目覚めると天上の木目模様に人が座っているように見えるところがあり、それを恍惚と見つめていると、私の頭の右のほうから、直径十センチくらいの白く光る円い輪が出てきて、それがしずかにゆっくりと天井のその人の模様があるところまで登っていく光景を、毎日のように見ていた記憶があります。
 それが奇妙な体験だと思うようになったのは、物心というものがついたころであることは言うまでもありません。
 そんなことの他に、奇妙な夢や、虎の毛皮をまとっていたころの夢をいつも見ていたとか、今から思えば、変な体験はたくさんしたようです。おそらくこれは私だけではなく、人間はだれでもがそういう体験をしているはずなのですが、ただ、今は必要ないので、忘れているだけなのでしょう。
 しかし、当時の記憶で、ずっと忘れずに繰り返すものには、人生に特別な意味があるのではないでしょうか。
 産土神社の壁から私の目の前に飛び下りてきた、薄汚れた槐(えんじゅ)の服の人間は、ミャンマー僧侶のそれだったと知ったのは、私が五十歳になったころでした。