第二章 地方巡幸 天皇人気の証明
・・・・・奇蹟は、さらにその意味を深める。
地方巡幸は、前もって発表された時間表通り、ほぼ正確に行われたからである。
ヒトラーがこの話を聞いたら卒倒したろう・・・・・・
ヒトラーは言った。古来暗殺が成功したのは、被害者が時間に正確であったからである。
彼はこの真理を知っていたから、ヒトラー暗殺計画は何回試みられても成功しなかった。
ヒトラーは約束の時間を守った事がなかった。早すぎたり、遅くいつまでもこなかったり。
山本五十六は、あまりにも予定表どおり行動したため、暗号解読され待ち伏せされ16機のロッキードP38に「暗殺」された。
もし彼が一時間でも、いや30分でも狂わせていたら殺される事はなかった。
天皇は、全国くまなく、予定表どおり巡幸した。
一人でも暗殺者がいれば、ほぼ確実に殺される。
しかし、地方巡幸では石さえ投げられなかった。いや、しようと思ったものがいてもできなかった。
この地方巡幸によって、天皇と国民の「信」は確認され、不動のものとなった。
では、読者に問う。
なぜ今上天皇にこのような奇蹟が起こったのか。
カリスマの力である。
天皇の行くところ、戦争で肉親を失ったものも、そうでないものも、歓喜の絶頂。
徳島から洲本へ行く途中では、皇旗が空一面に輝いていた。
北陸の踏み切りで車が止まったとき、民衆は怒涛の如くおしよせてきた。
日本全国いたるところで日の丸が輝き、「君が代」が流れた。
東北のある工場では、従業員の家族の前をお通りのとき、遺骨箱の上に兵隊の写真をのせている若い女性に気付かれ、そばへ近づかれ「どこで戦死したの・・」と話しかけられた。彼女はこの一言で感極まり、かすかに「兄はマニラで戦死しました」と泣き伏してしまった。
陛下も感動され「大変お気の毒だが、明るい気持ちでしっかりやって下さい」と、腰を低く精一杯励まされたが、声も震えていた。
天皇の人格全体からにじみ出てくる誠意がうかがわれるではないか。
今上天皇は言葉で言い表せぬ魅力を持ち、その誠意が一つになって、直接に接する人を勇気づける。
この天皇の人柄が、いやがうえにもそのカリスマの力を助長し、総ての人に親愛と敬意の念をいだかせ、復興の決意をより新たにさせたのである。
これで第二章 天皇人気の証明 は終わります。
次は第三章 将軍は去り、天皇は残った を読みます。
第三章 将軍は去り、天皇は残った
これまで、天皇制は確固不動であり、歴史を通じてその体制はゆるぎないものであったように思っている方がおられたら、それは間違い。
今の天皇制は、幕末から明治維新にかけて日本中を覆った強烈なイデオロギー運動が下敷きになっているのだ。
「神国日本」のイメージは明治政府がはっきり打ち出したものだ。
天皇崇拝が日本社会の隅々まで浸透し、国民の間に根を下ろすようになったのは、「日清戦争」「日露戦争」の圧勝を通じてなのである。
天皇崇拝そのものは、古代すでに「古事記」「日本書紀」に見られた。
それが尊王思想の源流となり、日本史の中を静かに流れていた。
江戸時代になると、その尊王思想は、朱子学の方法論を持って再編成された。・・・・
※このあたりの事情は、「天皇恐るべし」に詳しいのでそちらを参照してください。
幕末になると、尊王思想は澎湃として日本全国にみなぎり、幕府自身でさえもその渦中に巻きこむほどとなった。
しかし、その熱気は武士と富農あたりまでを限度とし、一般庶民にまでは尊王思想は流通していなかった。
元寇の神風を最後に、天皇は将軍の陰に隠れた存在となっていたから、庶民には「天皇の存在感」が無くなっていたのである。
そして明治維新・・・・・
・・・・・奇蹟は、さらにその意味を深める。
地方巡幸は、前もって発表された時間表通り、ほぼ正確に行われたからである。
ヒトラーがこの話を聞いたら卒倒したろう・・・・・・
ヒトラーは言った。古来暗殺が成功したのは、被害者が時間に正確であったからである。
彼はこの真理を知っていたから、ヒトラー暗殺計画は何回試みられても成功しなかった。
ヒトラーは約束の時間を守った事がなかった。早すぎたり、遅くいつまでもこなかったり。
山本五十六は、あまりにも予定表どおり行動したため、暗号解読され待ち伏せされ16機のロッキードP38に「暗殺」された。
もし彼が一時間でも、いや30分でも狂わせていたら殺される事はなかった。
天皇は、全国くまなく、予定表どおり巡幸した。
一人でも暗殺者がいれば、ほぼ確実に殺される。
しかし、地方巡幸では石さえ投げられなかった。いや、しようと思ったものがいてもできなかった。
この地方巡幸によって、天皇と国民の「信」は確認され、不動のものとなった。
では、読者に問う。
なぜ今上天皇にこのような奇蹟が起こったのか。
カリスマの力である。
天皇の行くところ、戦争で肉親を失ったものも、そうでないものも、歓喜の絶頂。
徳島から洲本へ行く途中では、皇旗が空一面に輝いていた。
北陸の踏み切りで車が止まったとき、民衆は怒涛の如くおしよせてきた。
日本全国いたるところで日の丸が輝き、「君が代」が流れた。
東北のある工場では、従業員の家族の前をお通りのとき、遺骨箱の上に兵隊の写真をのせている若い女性に気付かれ、そばへ近づかれ「どこで戦死したの・・」と話しかけられた。彼女はこの一言で感極まり、かすかに「兄はマニラで戦死しました」と泣き伏してしまった。
陛下も感動され「大変お気の毒だが、明るい気持ちでしっかりやって下さい」と、腰を低く精一杯励まされたが、声も震えていた。
天皇の人格全体からにじみ出てくる誠意がうかがわれるではないか。
今上天皇は言葉で言い表せぬ魅力を持ち、その誠意が一つになって、直接に接する人を勇気づける。
この天皇の人柄が、いやがうえにもそのカリスマの力を助長し、総ての人に親愛と敬意の念をいだかせ、復興の決意をより新たにさせたのである。
これで第二章 天皇人気の証明 は終わります。
次は第三章 将軍は去り、天皇は残った を読みます。
第三章 将軍は去り、天皇は残った
これまで、天皇制は確固不動であり、歴史を通じてその体制はゆるぎないものであったように思っている方がおられたら、それは間違い。
今の天皇制は、幕末から明治維新にかけて日本中を覆った強烈なイデオロギー運動が下敷きになっているのだ。
「神国日本」のイメージは明治政府がはっきり打ち出したものだ。
天皇崇拝が日本社会の隅々まで浸透し、国民の間に根を下ろすようになったのは、「日清戦争」「日露戦争」の圧勝を通じてなのである。
天皇崇拝そのものは、古代すでに「古事記」「日本書紀」に見られた。
それが尊王思想の源流となり、日本史の中を静かに流れていた。
江戸時代になると、その尊王思想は、朱子学の方法論を持って再編成された。・・・・
※このあたりの事情は、「天皇恐るべし」に詳しいのでそちらを参照してください。
幕末になると、尊王思想は澎湃として日本全国にみなぎり、幕府自身でさえもその渦中に巻きこむほどとなった。
しかし、その熱気は武士と富農あたりまでを限度とし、一般庶民にまでは尊王思想は流通していなかった。
元寇の神風を最後に、天皇は将軍の陰に隠れた存在となっていたから、庶民には「天皇の存在感」が無くなっていたのである。
そして明治維新・・・・・