大阪弁といっても、大きく分けてみると、大阪府のほぼ東半分で話されている方言を「河内弁」と呼ぶ。大阪市以北の「摂津弁」、堺市以南の「和泉弁」の三つであろう。なかでも、河内弁は「きたない」「喧嘩腰」というイメージがある。しかし、一見粗暴そうであるけれども、相手や状況によって、様々な「使い分け」があることを知ってもらいたい。私自身、河内弁を完全にマスターしているわけではないので、やや怪しいところもあるので、ご了承いただきたい。
「あい」は、暇、あいだの意。「あいさに」は、たまにの意。
「あかんたれ」は、弱虫の意。
「あいた」は、明日の意。
「あほんだら」は、馬鹿野郎の意。「あんだら」とも。
「あらくたい」は、粗暴な、荒っぽいの意。
「あるけぇ」は、ないよの意。例:「そんなもん、あるけぇ」(そのようなものはないよ)。「あらへん」「あらひん」とも。
「あわいさ」は、物と物との間の意。
「あんじょう」は、よろしく、よいようにの意。例:「わいら、なんも知らんよってに、あんじょう頼むわ」(私ら何も知らないから、よろしく頼みます)。「あんじょう言うといて」(よろしく言うておいてください)。
「あんにゃん」は、兄、親しい間柄で目上の人を指す。
「いけすかん」は、生意気で嫌な奴の意。
「あんてき」は、あいつの意。単に「てきゃ」とも。
「いちびる」は、悪ふざけの意。「いちびり」は、いたずら好きな人の意。
「いぬ」は、帰るの意。例:「ほたら、わし、いぬわ」(そうしたら、私は帰ります)。「いね」は、帰れの意。「いんだ」は、もう帰ったの意。
「いっこった」は、行ったの意。「いんだ」は、帰ったの意。
「いなす」は、帰らせるの意。「いにしな」は、帰り際の意。
「いわす」は、やっつける、負かすの意。例:「あんてき、生意気やから、いわしたった」(彼は生意気だから、やっつけてやった)。「いわしたろうか」(やっつけてやろうか)。
「うとい」は、愚かなの意。「うとい」は、詳しくないの意。
「えぐい」は、残酷な、いがらっぽい、ひどいの意。
「えげつない」は、ひどい、人情味がないの意。例:「えげつないことぬかしよる」(ひどいこと言う)。「えっげつなぁ」(ひどい!)。
「えろまんがな」は、大変なことですねの意。
「ええかげん」は、ほどほどに、だらしないの意。例:「ええかげんせぇ」(ほどほどにしなさい)。「あいつ、ええかげんなやっちゃなぁ」(彼はだらしないやつだなぁ)。
「「おいとく」は、中止(中断)するの意。例:「このへんで、おいとこ」(この辺でやめておこう)。「おいときなぁれ」(やめておきなさい)。
「おかん」は、お母さんの意。「おとん」「おとったん」は、父親の意。「おじやん」は、祖父。「おっじゃん」は、伯父。
「おっかし」は、おもしろいの意。
「おせる」は、教えるの意。例:「おせたろか」(教えてやろうか)。「おせて」(教えて)。
「おとろしい」は、恐ろしいの意。
「おとんぼ」は、末っ子の意。
「おひと」は、来客の意。
「おちょくる」は、馬鹿にする、からかうの意。例:「おんどれ、何おちょくとんねん」(お前、何を馬鹿にしているのだ)。
「おのれ」は、お前の意。「おんどれ」とも。
「おまん」は、饅頭の意。
「おもろい」は、面白いの意。
「がさ」は、落ち着きのない者。「がさっぱち」は、お転婆の意。
「かす」は、ばか者の意。
「かぶる」は、噛み付くの意。
「かまう」は、干渉するの意。
「かまひん」は、構わないの意。「かまんといて」は、構わないでくださいの意。「かめへん」は、大阪弁。
「から」は、身体、体格の意。例:「大きなからして」(大きい体、大人なのに)。
「かんとだき」は、おでんの意。関東煮。
「かんこくさ」は、焦げくさいの意。
「きしょくわる」は、気持ちが悪いの意。
「ぎょうさん」は、たくさん、大層の意。例:「ぎょうさんなこと言うて」(たいそうなことを言って)。
「きさんじ」は、気持ちのさっぱりしていること、手のかからない幼児の意。
「きてんきかん」は、気がきかないの意。
「ぎゃらし」は、いやらしいの意。
「きよった」は、来たの意。
「きんお」は、昨日の意。
「ぐいち」は、ちぐはぐ、互い違いの意。
「くっさい」は、臭いの意。
「ぐさぐさ」は、緩いこと。例:痩せたよって、ズボンぐさぐさや」(痩せたので、ズボンが緩くなった)。
「くわい」は、怖いの意。例:「あぁ、くわ」(あぁ、こわい)。
「ぐるり」は、周囲の意。例:「家のぐるり、掃除しとけ」(家の周りを掃除しておきなさい)。
「ぐる」は、仲間の意。
「けぇる」は、消えるの意。「けやす」は、消すの意。
「げすい」は、卑しい、下品の意。例:「げすいこと言うな」(下品なことを言うな)。
「けっかる」は、しているの意。例:「何してけっかるねん」(何をしているのだ)。
「げっつい」は、大きいの意。「げらい」とも。
「こぉこ」は、沢庵の意。「こんこ」とも。
「こうてくる」は、買ってくるの意。
「こしらえ」は、準備、支度の意。
「こち」は、自分の家の意。
「こそばい」は、くすぐったいの意。「こちょぼる」は、くすぐる」の意。
「ごっつい」は、大きい、スゴイ、力強いの意。
「こないだ」は、先日、先般の意。
「こまこい」は、小さい、節約、つつましいの意。
「ごんぼ」は、牛蒡の意。
「ごろた」は、石ころの意。
「ごんた」は、文句を言う人、手におえない子供の意。
「さいぜん」は、先刻、いまさっきの意。昔、河内の人が「さいれん」と言っていたのを聞いたことがある。「ざじずぜぞ」が「らりるれろ」になるのか。この点、和歌山弁との共通点か。
「さいなら」は、さようならの意。
「さきんちょ」は、先端の意。
「さぶいぼ」は、鳥肌の意。例:「さぶいぼたった」(鳥肌がたった)。
「さし」は、物差し、定規の意。
「さってる」は、‥しているの意。
「しばく」は、叩く、どつく、殴るの意。「しばきあげる」とも。
「じきに」は、すぐにの意。「じっきに」とも。例:「おかん、じきに戻ってきまっさかい」(お母さんがすぐに戻ってきますから)。
「じぶん」は、あなたの意。自分(第一人称)が、第二人称になるので要注意。
「じぶん」は、時分で、「じぶんどき」は、お食事時を指す。例:「えらい、じぶんどきに出まして‥」(ちょうどお食事時に参りまして)。
「しもとく」は、しまっておくの意。例:「ええもんやさかい、しもときや」(いい物だから、しまっておきなさい)。
「しもた」は、しまった(失敗した)、してしまったの意。花札遊びのとき、まずい手をして「しもた」と言うと、「しもたら、風呂いけ」(仕舞うたら、風呂へ行け)という。
「しゃぁけど」は、だけどの意。「しゃぁけんど」とも。
「じゃかぁし」は、やかましいの意。「じゃっかぁし」「じゃぁし」とも。例:「じゃかぁし、わかっとるるがな」(やかしい、わかっているよ)。
「しやしや」は、そうだそうだの意。
「しゃんとけ」は、するなの意。例:「いややったら、しゃんとけ」(いやなら、するな)。
「しゅむ」は、沁みるの意。
「じゅるい」は、道路などがぬかるんでいる様子。
「じょうり」は、草履の意。
「しょっぱな」は、最初の意。
「しょんねん」は、しているの意。
「すかたん」は、失敗。例:「あいつ、すかたんばっかりしよる」(彼は失敗ばかりしている)。
「すかん」は、好きではないの意。例:「すかんやっちゃ」(好きではない奴である)。
「すかべ」は、音のないおならの意。転じて、黙って騙すことをいう。また、約束などをすっぽかすの意。例:「あいつ、すかべかまっしゃがった」(あいつ、黙ってだました)。
「すっからかん」は、無一文の意。
「すこい」は、悪賢いの意。
「ずっこい」は、ずるいの意。
「ずつない」は、息苦しい、具合が悪い、苦しいの意。
「せぇがない」は、病気などで力が落ちるの意。「せぇおとす」は、落胆するの意。「せぇない」は、張りあいがないの意。
「せぇだい」は、大いにの意。例:「嫁はんもろて、せぇだいきばりや」(嫁さんもらったんだから、大いにがんばりなさい)。
「せぇつぎ」は、踏み台の意。
「せせこましい」は、狭いの意。
「せせくる」は、弄る(いじる)、もてあそぶの意。
「せせる」は、魚の身を解すの意。爪楊枝で歯をつつく?のも「せせる」という。
「せんち」は、便所の意。
「せんど」は、何度も、多いこと、飽きるの意。
「そぉれん」は、お葬式の意。
「そげ」は、棘(とげ)の意。
「そこへさいて」は、そこのところへの意。例:「わいら立って話してたら、そこへさいて突っ込んできやがんねん」(私たちが立ち話をしていた、そこのところへ突っ込んできやがった)。
「そやけんど」は、そうだけれどもの意。
「そないに」は、そんなにの意。
「そんなん」は、そのようなこと、またはもの意。
「ちっとま」は、しばらく、チョットの間の意。
「ちみたい」は、冷たいの意。
「ちょか」は、おっちょこちょいの意。
「ちゃう」は、違うの意。
「ちゃぁしばく」は、お茶を飲みに行くの意。例:「よぉ、ねぇちゃん、ちゃぁしばきにいけへんけ」(そのこの娘さん、お茶でも飲みに行きましょうか)。
「ちょろこい」は、弱々しいの意。
「つずくる」は、服などの破れたのを修繕するの意。
「つついっぱい」は、ぎりぎりの意。例:「もうこれ以上はかまりまへん。つついっぱいだ」(もうこれ以上はまけられません、ぎりぎりのところです)。
「つめ」は、栓(せん)の意。
「つらくる」は、吊り下げるの意。
「つれ」は、友人、仲間の意。
「つれもていこか」は、ごいっしょに行きましょうの意。和歌山弁では、「つれもっていこら」となる。
「てぇする」は、手を加える、手段を講じるの意。
「てご」は、手伝いの意。
「てんご」は、いたずらの意。
「てんば」は、おしゃべりで、騒がしい娘の意。「おてんば」とも。
「でんぼ」は、出来物、おできの意。
「ど」は、強調するときに遣う接頭語。例:「どけち」、「どアホ」、「どぶた」(太っている人)、「どこんじょなし」(根性なし)。「どんがら」(体、なり、図体)。
「どない」は、いかがの意。例:「どないしてはりまっか?」(どうしていらっしゃるのか)。「どや」は、どうですか?の意。
「とぉど」は、ついにの意。
「どんだけ」は、どれだけ、どれほどの意。
「なんぼ」は、How much? または何度の意。例:「これ、はんぼ?」(これ、いくら?」。「なんぼ言うてもあかんわ」(何度言ってもだめだ」。
「なおす」は、直す、しまうの意。例:「つぶれかけた椅子、なおしてんか」(壊れかけている椅子を修繕してくれないか)。「大事なもんやよって、すぐなおしとけや」(大事なものだから、すぐにしまっておきなさい)。
「なげる」は、捨てるの意。
「なぶる」は、触る、いじる、ばかにするの意。例」「おんどれ、なぶってたら、どたま、かちまぁっせ」(貴様、馬鹿にしていると頭を殴るぞ)。
「にくそい」は、にくたらしいの意。
「にちりんさん」は、お天道様(太陽)の意。
「にんにゃか」は、賑やかの意。
「にぬき」は、ゆで卵の意。
「ぬかす」は、言うの意。例:「なんぬかす」(何を言う)。さらに「なんかす」とも。
「ねぶたい」は、眠いの意。
「ねぶる」は、舐めるの意。
「のんの」は、帰るの幼児語。
「はしかい」は、賢い、素早いの意。
「はたかる」は、またがるの意。
「ばったもん」は、贋物の意。例:「どない見ても、あら、ばったもんやんけ」(どう見ても、あれは贋物だ)。「ばった屋」は、大量に現金で仕入れて激安で売る店。現金問屋の意。
「ばっち」は、ものひきの意。「ぱっち」とも。
「ひがくれ」は、夕方の意。
「ひっぱり」は、仕事着の意。「うわっぱり」とも。
「ひね」は、古い、たけていることの意。
「ひょこたん」は、おどけ者の意。
「ひろーす」は、がんもどきの意。
「ぶっさいく」は、不細工の意。
「ぶっちゃける」は、洗いざらいの意。例:「ぶっちゃけた話」(ほんとうのことを語る)。
「べたこい」は、平べたいの意。「べちゃこい」とも。
「へぇこいてねたろ」は、別に屁をしなくても、大阪の人は、よくこう言う。「うどんくて(食って)、へぇこいて寝たろ」。
「へてから」は、それからの意。
「へたる」は、疲れ果てるの意。
「へちゃ」は、不美人、鼻の低い人の意。「へちゃげる」は、押しつぶすの意。
「べった」は、最後の意。
「べったり」は、べったり、始終の意。
「ほかす」は、捨てるの意。「ほる」は、放す、捨てるの意。
「ほたえる」は、ふさける、騒ぐの意。
「ほっちらかす」は、投げやりにするの意。
「ぼちぼち」は、徐々にの意。
「ぼっかぶり」は、ゴキブリの意。
「ぼったくり」は、ぼられる(法外な金を取られる)の意。
「ほな」は、それではの意。「ほんなら」とも。
「まいげ」は、眉毛の意。
「まかる」は、値段を安くするの意。例:「もう、まからんか」(これ以上、値引きしないか)。
「みぃさん」は、蛇の意。
「みみっちい」は、けちくさいの意。
「むいた話」は、ほんとうのところの意。「ぶっちゃけたところ」と同意。
「めぇて」は、見せての意。
「めめくそ」は、耳クソの意。転じて、ほんの少しの意。
「もみない」は、不味いの意。「もむない」とも。
「ものごっつい」は、ものすごいの意。
「やぁこ」は、赤ちゃんの意。「やや」とも。
「ややこし」は、面倒な、複雑なの意。
「やたけた」は、乱暴、考えなしの意。
「やるくい」は、柔らかいの意。
「ゆぅれん」は、幽霊の意。
「よぉ」は、軽い返事のことば。イントネーションなどが変ると、怒りを発したときの言葉になる。
「よぉさん」は、沢山の意。
「よして」は、仲間に入れての意。「よせて」とも。
「よさり」は、夜間の意。
「よんべ」は、昨夜の意。「よんべ」とも。
「よばれる」は、ご馳走になるの意。
「われ」は、お前の意。「わが」は、自分の意。大阪のシャレ言葉に「樽屋の職人」(輪が(自分が)悪い」。
「わや」は、ダメニなるの意。「さっぱり、わやや」と遣う。
今東光(こんとうこう)は、僧侶であり作家でもある。河内物と言われる一連の作品を残している。第一に挙げられるのは「悪名」シリーズであろう。今は亡き勝新太郎と田宮ニ郎の名コンビの演じる二人のヤクザが遣う「河内弁」はすばらしかった。
今東光は、昭和52年(1977)79歳 9月19日に死去。戒名は大文頴心院大僧正東光春聴大和尚(だいぶんえいしんいんだいそうじょうとうこうしゅんちょうだいかしょう)。
「あい」は、暇、あいだの意。「あいさに」は、たまにの意。
「あかんたれ」は、弱虫の意。
「あいた」は、明日の意。
「あほんだら」は、馬鹿野郎の意。「あんだら」とも。
「あらくたい」は、粗暴な、荒っぽいの意。
「あるけぇ」は、ないよの意。例:「そんなもん、あるけぇ」(そのようなものはないよ)。「あらへん」「あらひん」とも。
「あわいさ」は、物と物との間の意。
「あんじょう」は、よろしく、よいようにの意。例:「わいら、なんも知らんよってに、あんじょう頼むわ」(私ら何も知らないから、よろしく頼みます)。「あんじょう言うといて」(よろしく言うておいてください)。
「あんにゃん」は、兄、親しい間柄で目上の人を指す。
「いけすかん」は、生意気で嫌な奴の意。
「あんてき」は、あいつの意。単に「てきゃ」とも。
「いちびる」は、悪ふざけの意。「いちびり」は、いたずら好きな人の意。
「いぬ」は、帰るの意。例:「ほたら、わし、いぬわ」(そうしたら、私は帰ります)。「いね」は、帰れの意。「いんだ」は、もう帰ったの意。
「いっこった」は、行ったの意。「いんだ」は、帰ったの意。
「いなす」は、帰らせるの意。「いにしな」は、帰り際の意。
「いわす」は、やっつける、負かすの意。例:「あんてき、生意気やから、いわしたった」(彼は生意気だから、やっつけてやった)。「いわしたろうか」(やっつけてやろうか)。
「うとい」は、愚かなの意。「うとい」は、詳しくないの意。
「えぐい」は、残酷な、いがらっぽい、ひどいの意。
「えげつない」は、ひどい、人情味がないの意。例:「えげつないことぬかしよる」(ひどいこと言う)。「えっげつなぁ」(ひどい!)。
「えろまんがな」は、大変なことですねの意。
「ええかげん」は、ほどほどに、だらしないの意。例:「ええかげんせぇ」(ほどほどにしなさい)。「あいつ、ええかげんなやっちゃなぁ」(彼はだらしないやつだなぁ)。
「「おいとく」は、中止(中断)するの意。例:「このへんで、おいとこ」(この辺でやめておこう)。「おいときなぁれ」(やめておきなさい)。
「おかん」は、お母さんの意。「おとん」「おとったん」は、父親の意。「おじやん」は、祖父。「おっじゃん」は、伯父。
「おっかし」は、おもしろいの意。
「おせる」は、教えるの意。例:「おせたろか」(教えてやろうか)。「おせて」(教えて)。
「おとろしい」は、恐ろしいの意。
「おとんぼ」は、末っ子の意。
「おひと」は、来客の意。
「おちょくる」は、馬鹿にする、からかうの意。例:「おんどれ、何おちょくとんねん」(お前、何を馬鹿にしているのだ)。
「おのれ」は、お前の意。「おんどれ」とも。
「おまん」は、饅頭の意。
「おもろい」は、面白いの意。
「がさ」は、落ち着きのない者。「がさっぱち」は、お転婆の意。
「かす」は、ばか者の意。
「かぶる」は、噛み付くの意。
「かまう」は、干渉するの意。
「かまひん」は、構わないの意。「かまんといて」は、構わないでくださいの意。「かめへん」は、大阪弁。
「から」は、身体、体格の意。例:「大きなからして」(大きい体、大人なのに)。
「かんとだき」は、おでんの意。関東煮。
「かんこくさ」は、焦げくさいの意。
「きしょくわる」は、気持ちが悪いの意。
「ぎょうさん」は、たくさん、大層の意。例:「ぎょうさんなこと言うて」(たいそうなことを言って)。
「きさんじ」は、気持ちのさっぱりしていること、手のかからない幼児の意。
「きてんきかん」は、気がきかないの意。
「ぎゃらし」は、いやらしいの意。
「きよった」は、来たの意。
「きんお」は、昨日の意。
「ぐいち」は、ちぐはぐ、互い違いの意。
「くっさい」は、臭いの意。
「ぐさぐさ」は、緩いこと。例:痩せたよって、ズボンぐさぐさや」(痩せたので、ズボンが緩くなった)。
「くわい」は、怖いの意。例:「あぁ、くわ」(あぁ、こわい)。
「ぐるり」は、周囲の意。例:「家のぐるり、掃除しとけ」(家の周りを掃除しておきなさい)。
「ぐる」は、仲間の意。
「けぇる」は、消えるの意。「けやす」は、消すの意。
「げすい」は、卑しい、下品の意。例:「げすいこと言うな」(下品なことを言うな)。
「けっかる」は、しているの意。例:「何してけっかるねん」(何をしているのだ)。
「げっつい」は、大きいの意。「げらい」とも。
「こぉこ」は、沢庵の意。「こんこ」とも。
「こうてくる」は、買ってくるの意。
「こしらえ」は、準備、支度の意。
「こち」は、自分の家の意。
「こそばい」は、くすぐったいの意。「こちょぼる」は、くすぐる」の意。
「ごっつい」は、大きい、スゴイ、力強いの意。
「こないだ」は、先日、先般の意。
「こまこい」は、小さい、節約、つつましいの意。
「ごんぼ」は、牛蒡の意。
「ごろた」は、石ころの意。
「ごんた」は、文句を言う人、手におえない子供の意。
「さいぜん」は、先刻、いまさっきの意。昔、河内の人が「さいれん」と言っていたのを聞いたことがある。「ざじずぜぞ」が「らりるれろ」になるのか。この点、和歌山弁との共通点か。
「さいなら」は、さようならの意。
「さきんちょ」は、先端の意。
「さぶいぼ」は、鳥肌の意。例:「さぶいぼたった」(鳥肌がたった)。
「さし」は、物差し、定規の意。
「さってる」は、‥しているの意。
「しばく」は、叩く、どつく、殴るの意。「しばきあげる」とも。
「じきに」は、すぐにの意。「じっきに」とも。例:「おかん、じきに戻ってきまっさかい」(お母さんがすぐに戻ってきますから)。
「じぶん」は、あなたの意。自分(第一人称)が、第二人称になるので要注意。
「じぶん」は、時分で、「じぶんどき」は、お食事時を指す。例:「えらい、じぶんどきに出まして‥」(ちょうどお食事時に参りまして)。
「しもとく」は、しまっておくの意。例:「ええもんやさかい、しもときや」(いい物だから、しまっておきなさい)。
「しもた」は、しまった(失敗した)、してしまったの意。花札遊びのとき、まずい手をして「しもた」と言うと、「しもたら、風呂いけ」(仕舞うたら、風呂へ行け)という。
「しゃぁけど」は、だけどの意。「しゃぁけんど」とも。
「じゃかぁし」は、やかましいの意。「じゃっかぁし」「じゃぁし」とも。例:「じゃかぁし、わかっとるるがな」(やかしい、わかっているよ)。
「しやしや」は、そうだそうだの意。
「しゃんとけ」は、するなの意。例:「いややったら、しゃんとけ」(いやなら、するな)。
「しゅむ」は、沁みるの意。
「じゅるい」は、道路などがぬかるんでいる様子。
「じょうり」は、草履の意。
「しょっぱな」は、最初の意。
「しょんねん」は、しているの意。
「すかたん」は、失敗。例:「あいつ、すかたんばっかりしよる」(彼は失敗ばかりしている)。
「すかん」は、好きではないの意。例:「すかんやっちゃ」(好きではない奴である)。
「すかべ」は、音のないおならの意。転じて、黙って騙すことをいう。また、約束などをすっぽかすの意。例:「あいつ、すかべかまっしゃがった」(あいつ、黙ってだました)。
「すっからかん」は、無一文の意。
「すこい」は、悪賢いの意。
「ずっこい」は、ずるいの意。
「ずつない」は、息苦しい、具合が悪い、苦しいの意。
「せぇがない」は、病気などで力が落ちるの意。「せぇおとす」は、落胆するの意。「せぇない」は、張りあいがないの意。
「せぇだい」は、大いにの意。例:「嫁はんもろて、せぇだいきばりや」(嫁さんもらったんだから、大いにがんばりなさい)。
「せぇつぎ」は、踏み台の意。
「せせこましい」は、狭いの意。
「せせくる」は、弄る(いじる)、もてあそぶの意。
「せせる」は、魚の身を解すの意。爪楊枝で歯をつつく?のも「せせる」という。
「せんち」は、便所の意。
「せんど」は、何度も、多いこと、飽きるの意。
「そぉれん」は、お葬式の意。
「そげ」は、棘(とげ)の意。
「そこへさいて」は、そこのところへの意。例:「わいら立って話してたら、そこへさいて突っ込んできやがんねん」(私たちが立ち話をしていた、そこのところへ突っ込んできやがった)。
「そやけんど」は、そうだけれどもの意。
「そないに」は、そんなにの意。
「そんなん」は、そのようなこと、またはもの意。
「ちっとま」は、しばらく、チョットの間の意。
「ちみたい」は、冷たいの意。
「ちょか」は、おっちょこちょいの意。
「ちゃう」は、違うの意。
「ちゃぁしばく」は、お茶を飲みに行くの意。例:「よぉ、ねぇちゃん、ちゃぁしばきにいけへんけ」(そのこの娘さん、お茶でも飲みに行きましょうか)。
「ちょろこい」は、弱々しいの意。
「つずくる」は、服などの破れたのを修繕するの意。
「つついっぱい」は、ぎりぎりの意。例:「もうこれ以上はかまりまへん。つついっぱいだ」(もうこれ以上はまけられません、ぎりぎりのところです)。
「つめ」は、栓(せん)の意。
「つらくる」は、吊り下げるの意。
「つれ」は、友人、仲間の意。
「つれもていこか」は、ごいっしょに行きましょうの意。和歌山弁では、「つれもっていこら」となる。
「てぇする」は、手を加える、手段を講じるの意。
「てご」は、手伝いの意。
「てんご」は、いたずらの意。
「てんば」は、おしゃべりで、騒がしい娘の意。「おてんば」とも。
「でんぼ」は、出来物、おできの意。
「ど」は、強調するときに遣う接頭語。例:「どけち」、「どアホ」、「どぶた」(太っている人)、「どこんじょなし」(根性なし)。「どんがら」(体、なり、図体)。
「どない」は、いかがの意。例:「どないしてはりまっか?」(どうしていらっしゃるのか)。「どや」は、どうですか?の意。
「とぉど」は、ついにの意。
「どんだけ」は、どれだけ、どれほどの意。
「なんぼ」は、How much? または何度の意。例:「これ、はんぼ?」(これ、いくら?」。「なんぼ言うてもあかんわ」(何度言ってもだめだ」。
「なおす」は、直す、しまうの意。例:「つぶれかけた椅子、なおしてんか」(壊れかけている椅子を修繕してくれないか)。「大事なもんやよって、すぐなおしとけや」(大事なものだから、すぐにしまっておきなさい)。
「なげる」は、捨てるの意。
「なぶる」は、触る、いじる、ばかにするの意。例」「おんどれ、なぶってたら、どたま、かちまぁっせ」(貴様、馬鹿にしていると頭を殴るぞ)。
「にくそい」は、にくたらしいの意。
「にちりんさん」は、お天道様(太陽)の意。
「にんにゃか」は、賑やかの意。
「にぬき」は、ゆで卵の意。
「ぬかす」は、言うの意。例:「なんぬかす」(何を言う)。さらに「なんかす」とも。
「ねぶたい」は、眠いの意。
「ねぶる」は、舐めるの意。
「のんの」は、帰るの幼児語。
「はしかい」は、賢い、素早いの意。
「はたかる」は、またがるの意。
「ばったもん」は、贋物の意。例:「どない見ても、あら、ばったもんやんけ」(どう見ても、あれは贋物だ)。「ばった屋」は、大量に現金で仕入れて激安で売る店。現金問屋の意。
「ばっち」は、ものひきの意。「ぱっち」とも。
「ひがくれ」は、夕方の意。
「ひっぱり」は、仕事着の意。「うわっぱり」とも。
「ひね」は、古い、たけていることの意。
「ひょこたん」は、おどけ者の意。
「ひろーす」は、がんもどきの意。
「ぶっさいく」は、不細工の意。
「ぶっちゃける」は、洗いざらいの意。例:「ぶっちゃけた話」(ほんとうのことを語る)。
「べたこい」は、平べたいの意。「べちゃこい」とも。
「へぇこいてねたろ」は、別に屁をしなくても、大阪の人は、よくこう言う。「うどんくて(食って)、へぇこいて寝たろ」。
「へてから」は、それからの意。
「へたる」は、疲れ果てるの意。
「へちゃ」は、不美人、鼻の低い人の意。「へちゃげる」は、押しつぶすの意。
「べった」は、最後の意。
「べったり」は、べったり、始終の意。
「ほかす」は、捨てるの意。「ほる」は、放す、捨てるの意。
「ほたえる」は、ふさける、騒ぐの意。
「ほっちらかす」は、投げやりにするの意。
「ぼちぼち」は、徐々にの意。
「ぼっかぶり」は、ゴキブリの意。
「ぼったくり」は、ぼられる(法外な金を取られる)の意。
「ほな」は、それではの意。「ほんなら」とも。
「まいげ」は、眉毛の意。
「まかる」は、値段を安くするの意。例:「もう、まからんか」(これ以上、値引きしないか)。
「みぃさん」は、蛇の意。
「みみっちい」は、けちくさいの意。
「むいた話」は、ほんとうのところの意。「ぶっちゃけたところ」と同意。
「めぇて」は、見せての意。
「めめくそ」は、耳クソの意。転じて、ほんの少しの意。
「もみない」は、不味いの意。「もむない」とも。
「ものごっつい」は、ものすごいの意。
「やぁこ」は、赤ちゃんの意。「やや」とも。
「ややこし」は、面倒な、複雑なの意。
「やたけた」は、乱暴、考えなしの意。
「やるくい」は、柔らかいの意。
「ゆぅれん」は、幽霊の意。
「よぉ」は、軽い返事のことば。イントネーションなどが変ると、怒りを発したときの言葉になる。
「よぉさん」は、沢山の意。
「よして」は、仲間に入れての意。「よせて」とも。
「よさり」は、夜間の意。
「よんべ」は、昨夜の意。「よんべ」とも。
「よばれる」は、ご馳走になるの意。
「われ」は、お前の意。「わが」は、自分の意。大阪のシャレ言葉に「樽屋の職人」(輪が(自分が)悪い」。
「わや」は、ダメニなるの意。「さっぱり、わやや」と遣う。
今東光(こんとうこう)は、僧侶であり作家でもある。河内物と言われる一連の作品を残している。第一に挙げられるのは「悪名」シリーズであろう。今は亡き勝新太郎と田宮ニ郎の名コンビの演じる二人のヤクザが遣う「河内弁」はすばらしかった。
今東光は、昭和52年(1977)79歳 9月19日に死去。戒名は大文頴心院大僧正東光春聴大和尚(だいぶんえいしんいんだいそうじょうとうこうしゅんちょうだいかしょう)。