
戦争中はこの地に陸軍の演習場があり、その視察で武蔵高萩までお召列車が運転されたと言う事は後になって知りました。この時は駅舎が立派でビックリした記憶があります。 83,02,19 武蔵高萩 1481レ
とりたてて気を引く団臨等の情報もなくかと言って30年前では、まだ映画などに付き合ってくれる女気もなかった時代で、本当に鉄一筋でした。言い方を変えれば鉄しか休日と言うか毎日を過ごすしかすべを知りませんでした。ある土曜日、天気が良いのに被写体になる臨時列車もなくどうするか悩みました。そこで気ままに一日かけて列車を乗り継いで首都圏を一周する事にしました。ただ一周するのでは芸がないのでダイヤを眺めて適当に撮影を織り交ぜる事にしました。
記憶は定かではないのですが早朝に家を出て当時は東海道線と供用していた横須賀線で東京まで出て上野から東北線(又は高崎線?)で大宮まで行き、そこからキハ30に乗って武蔵高萩へ向かいました。武蔵高萩駅に着いた所からおぼろげに記憶があり、駅から大宮よりに歩いて戻って高麗川行のセメントの空車列車を撮影しました。現在の様に宅地化される事なく辺りは茶畑が広がって武蔵野の光景そのものでした。
このセメント列車は川越線に1往復だけ残った列車でその昔は大宮機関区の9600が牽引していた列車です。このDE10も大宮機関区所属で無煙化で配置された機関車だと記憶しています。なおこの当時、このDE10は高麗川では間合い運用で八王子まで足を延ばしていました。

この時代の金子駅は蒸機時代とあまり変わらない光景が続いていました。タブレットは廃止となっていましたが駅員がいて土曜なので貨物列車が運転されるかわからなかったので調べてもらった記憶があります。 83,02,19 金子
その後は高麗川に出て八高線に乗換えて金子の駅構内でDD51のセメント列車を撮影しています。まだ電化の話も出でいなかった時代ですのでここも宅地化もほとんどされておらず駅前に一軒だけ商店があるだけの寂しい駅でした。川越線は車掌車の省略がなされていましたが、八高線は貨物列車にはヨが連結されていてそれなりに貨物列車らしい風格があったと記憶があります。
撮影後、何気に駅前に眼をやると西武狭山駅行の西武バスが止まっていました。衝動的にそのバスに乗り、狭山市へ出て帰る事にしました。狭山市駅に近づくとマンションが建ち並び、金子駅周辺とは別世界の様相だった事を鮮明に覚えています。
狭山市から西武線でそのまま帰るつもりでしたが所沢駅構内でE851の姿を見つけて、急遽降りる事にしました。駅の人に所沢車両管理所の事務室の行き方を教わり、アポなしで訪れると快く対応していただけ、撮影に便宜を図っていただいた事を今でもはっきり憶えています。
なんのアテもなくぶらりと出掛けても、それなりに収穫のあった良き時代の一日の思い出です。

土曜日だからでしょうか?当日は貨物列車が全面運休で作業もほとんど無いと言うことで検修の方が丁寧に対応していただきました。パン上げどころがE851が影になっていので少し引き出してもらいました。 83,02,19 所沢車管