
この当時、東北線上野口には3往復の客車組成の普通列車が設定されていました。下り列車で解説すると1本は上野駅を5時過ぎに発車する仙台行121レ、それに上野駅を11時過ぎに発車する一ノ関行の123レ、さらにこの写真の福島行の125レが設定されていました。一番魅力的な列車は東大宮など一部通過駅はあるものの一ノ関駅まで各駅に停車する123レでした。今みたいに旅番組があれば大垣夜行と共に取材の格好の対象になった事でしょう。一方、写真の125レは運転区間は上野→福島と3本の中で一番短いものの夕方に上野駅を出るため帰宅ラッシュの中での運転となり大混雑する列車で有名でした。上野駅ですでにほぼ満員で発車しているのにさらに赤羽と大宮では〝とても無理!〝と思える乗客が待ち構え無理を承知で乗り込んで来てドアなど閉まらず真冬でもドアからぶら下がって無理無理で乗っている乗客の姿を何度も見たい記憶があります。昭和30年代前半生まれの私なので戦後混乱期は知りませんが、何か戦後の混乱期に見えるこの光景が今も鮮明に覚えています。一方、牽引するEF58117号機は新幹線博多開業で大幅に削減された夜行列車の余波で米原機関区から宇都宮運転所に転属したその直後の写真です。この機関車は前後のパンタグラフが異なる(PS14とPS15)のが特徴でした。また、避雷器にカバーなくむき出しなのも珍しい機関車でした。今回の写真展出品にあたりゆっくり眺めたら転属直後にもかかわらず電暖(電気暖房=EG)改造されているのに気がつきました。多分、転属途中に大宮工場入場して改造を受けたのだと推測されます。写真は東北線ホームの青森方の跨線橋の階段から撮影していますがここは雨の日など(当時は雨の日でもカメラを持っていました)雨に濡れずに撮影が出来るので結構お気に入りでした。雨の日の写真は〝我が国鉄時代〝に発表しています。写真の左側にミルクスタンドの文字の半分が写っているのがミソです。あと、おばあちゃんがこちらに視線を向けているのもポイントかと思われます。また、右の赤羽線の103系が春闘直後ではスローガンの石灰を消したあとがあり時代をうかがわせます。 76,03,18 赤羽 125レ

東武鉄道の57型を追い掛けていた時代の写真です。この写真の前日から関東地方は大雪となり交通機関は乱れていました。当時、私は〝国労組合員だから輸送業務には就かせない〝と言う明らかな不当労働行為(会社側の説明は適材適所の一点張り)に晒されて新横浜駅構内で直営のハンバーガーショップの業務に従事していました。勤務体系は10時~10時の一交勤務でこの日はアケ番でした。〝こんなに降ったからウヤ?でも、もしかして?〝と言う思いで新横浜から新幹線で東京に出てダイヤが乱れていない地下鉄で鐘ヶ淵駅に向かいました。この日ゴーナナは下り列車で北千住団体客を乗せて鬼怒川温泉へ向かう行程だった記憶しています。回送で鐘ヶ淵まで来るのでそれを撮影するつもりでした。雪で団体客そのものがキャンセルになる可能性は大いにあり無駄足かも知れず鐘ヶ淵駅に降りると程なくしてほぼ定時で雪を屋根に乗せたゴーナナが中線に入って来ました。早速撮影していると既に行ってしまったはずの〝りょうもう号〝がゆっくりと走り抜けて行きました。とにかく現場に行かないと話が始まらない典型の一枚になりました。 90,02,01 東武鐘ヶ淵 5047レ TMX スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED

自分の鉄ちゃん人生の中で中国の現役蒸気機関車に出逢えた事は計り知れなきゃエポックメイキングになった事は間違いない事実だと今も信じています。昭和30年代前半に東京に生まれた身では現役蒸気機関車を肌で知る環境ではありませんでした。岡山あたりの地方都市生まれなら布原のD51三重連も親に頼めば車で連れて行ってもらえた距離だったでしょう。また、首都圏に住んでても田舎が北海道なら田舎に帰る途中で青函連絡船の接続が悪くても親にダダを言ってシロクニ〝ニセコ〝に乗ることも可能だったと思います。そんな恵まれた環境に無い私はせいぜい高島貨物線のD51をハーフサイズのカメラで撮影するのが精々でした。奥中山も、大畑も、ましてセノハチも知らない私にとって中国の現役蒸気機関車との出逢いは果たせぬ夢の中の恋人との出逢いの様でした。〝モノは試しで一度だけ中国の蒸気機関車を見て来る!〝と言うと当時、レールマガジン編集長だった名取さんに笑いながら〝あなたは一度足を踏み入れたらハマるの間違いなナシ!〝と太鼓判を押されたその通りになり幾度となく訪中するようになりました。その中でも開業直後に訪れた集通鉄路はあまりにもその壮大なスケールは腰を抜かすほどの感激でした。狩勝と大畑を足して二で割った様なロケーションと大先輩に称された景色はあまりにも魅力的で完全に魅了されてしまいました。
この写真の場所はロケーションのスケールは少し劣るものの朝の斜光線が美しい区間では朝のほんのわずかな時間しか光線が入らず列車が思った時刻にやって来ないと(中国の地方鉄道は時刻はあって無いようなモノ)無駄な時間を過ごすことになりかなりの賭けになりますがこの日はまさに〝この時間に来てくれ!〝と言う時に遠くからブラスト音が聞こえ始めまだ撮ってもないのに周りにいた同行者と握手した記憶があります。このカットはリバーサルでも撮影していますが今回はあえてモノクロ作品を出品した次第ですが出品した作品はサイズの関係で左側の煙が少し切れてしまったのが残念です 02,12,09 集通鉄路公司 哈達山―上店 通称:レンガ工場 ACROS スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED