徒然音楽夜話

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徒然音楽夜話 シューマンの指を痛めた真相

2013年08月26日 | 徒然音楽夜話
シューマンが過酷な練習のために薬指を痛めた、との話は随分昔から、あるい学校でそう習ってきたため、今でもほとんど刷り込み状態で、つい口に出てくる。まさに歴史はファンタジーで創るものだとも言われる所以だ。
この痛めた指にまつわる諸説の1つとして意外な事実が浮かび上がってくる。
この事実に近いと思わざるをえない内容が、アラン・ウォーカーの「シューマン」横溝亮一訳 東京音楽社に出てくる。
そういえば昔習った学校の音楽室に掲げられている古今の作曲家の肖像画は、どれも「音楽への理想のあこがれ」を満たしてくれるものだった。シューマンの「指」にまつわる話も、音楽への美化の形跡なのだろうか。

「この百年間、学者たちはシューマンの手の疾患について頭を悩ませてきた。昔からの決まりきった解説はよく知られている。すなわち、シューマンは指の動きを均等化”させるために、無鉄砲な試みを企て、自らある機械装置を考案した。これは一種の吊り道具で、他の指は使いながら、一本だけはその動きからはずしてしまうというものである。この装置による練習の結果として問題が起った。右手の第四指、第五指の腱を治る見込みなく痛めてしまい、このためピアニストとしての経歴は計らずも諦めざるを得なくなったと思われる……。
だが、このお定まりの解説は果して真実であろうか?

シューマン自身が自分の手の故障についてこのように説明している記述はどこにもない。彼の「自伝的覚書き」(一八三一年)にも「テクニックの練習をし過ぎて、右手がだめになってしまった」と、ごく簡単に記述されているだけである。その後の彼の手紙にも、傷ついた右手については曖昧な表現がなされているのみで、彼自身、この悲劇の原因をつきとめられず、途方に暮れているかのように見受けられる。
 
誰がシューマンの傷ついた指についての公式”見解を発表したのだろうか? 実はそれはヴィークだったのだが、間もなくその理由がわかる。風説は最初にヴィークの著書「ピアノと歌」(一八五三年)にあらわれている。この中でヴィークは次のように述べている。「その指の訓練器は私のある有名な弟子が私の意に反して発明し、ひそかに使っていた。そして当然のこととして、第三、第四指を痛めてしまったのである。」
 
ここでヴィークはどこにもシューマンの名前を出していない。けれども後世の解説者たちはそれほど注意深くはなかった。数年のうちに、この話は途中でいろいろと面白く手が加えられて、辞典類や文献などに取り入れられていった。シュピッタ(グローヴ「音楽、音楽家事典」第一巻)によると、シューマンが装置”を製作し、この装置の不吉な性質が、読者の熱意ある想像力に印象づけられたとしている。更に想像を逞しくした例として、ワシレフスキは。手の込んだ装置の操作”のために友人の学生テプキンの助力を仰いでいたと述べている。いろいろな説があるものである。

この馬鹿げた説を最後に認め、判を押したのは、自説をもって登場してきたオイゲニー・シューマン、つまり作曲家シューマンの娘であった。彼女によれば、父親は第三指を縛って吊り上げ「その間、他の指で鍵盤を弾いた」という。何ともシューマンはこの奇怪な事件を不明確なままに残したのであった。
 一八八九年、シューマンの研究家であったフリードリッヒ・ニークスは、シューマンの痛めた指にまつわる疑惑をいっさい明らかにしたいと考えて、クララーシューマンに会った。
クララは極めて率直に、シューマンの具合の悪かったのは右手の人指し指だったと語り、更に、堅い無音鍵盤で練習したのが原因だと付け加えた。この彼女の証言は、明らかにそれまで知られていた説と矛盾する。ニークスはクララの言を信じなかった。結局のところ、ニークスは七〇歳にもなっていたクララの違い昔の思い出などあやういものだと主張した。ニークスがはるばるフランクフルトまで出掛けて行ったのは、当時、すでに世事にうとく、かなり老け込んでいたクララに問いただしてみるためであったが、彼の推察は当らなかった。こうしてクララの証言を受入れなかったニークスは大失策を犯すことになった。なんといっても、クララは十五年間シューマンと毎日の生活を共にし、最も親密な間柄にあっ
た人である。彼女の発言のはじめの部分、つまりシューマンが主に患っていたのは右手の人指し指であったことは、後に全くの真実であったと判る。

こうしてみると専門家たちの判断がいろいろに乱れたのが少々不思議にも思える。最近になって、ようやく説得力のある医学的な診断が可能になった。現在、我々は「シューマンの手の病いは何であったか?」という問いに答えるには、かなり良い状況に達している。
 
一九七一年、イギリスの音楽学者エリック・サムスは、少くとも一般的に知られているような形のシューマンの指の事故”はなかったと提言している。その代わり、彼はシューマンが水銀中毒のために運動機能に回復不能の症状をきたしていたのではないかと仮定している。これはかなり奇抜ではあるものの、綿密に調べてみるに値する推論ではある。

水銀中毒の結末は誰でも知っている。指やつま先の麻痺はその初期の症状である。シューマンがなぜ水銀を使ったかを知るためには、二十五年後、死因となる病気について理解する必要があろう。彼は大人になってからかかった奇妙な病気の数々について、非常に豊富な資料を我々に残してくれている。(それらの中には、麻痺、言語障害、けいれん、めまい、視力減退、耳鳴りなども含まれている。)これらの症状は常にシューマンの伝記作者たちを混乱させたばかりでなく、医学の分野でも同様に困惑の種となり、過去七〇年の間に、脳腫瘍から精神分裂病まで、さまざまな診断が下された。
 
一九五九年、二人の医師エリオット・スレイターとアルフレッド・メイヤーは共同論文を発表し「あらゆる症状からみて梅毒以外には考えられない」と結論づけた。一九世紀当時、すでに梅毒の治療には広く水銀が使われていて、類似の療法が進歩しても、水銀療法が基本とみなされていた。

シューマンが治療を受けた多くの医者たちの中に、少なくとも二人の類似療法の医師、そして何人ものにせ医者がいた。
 
ある時、シューマンは、母親への手紙に「家中がまるで薬局のようです」と書いている。こうした中で、シューマンが水銀を使わないほうが不思議であろう。その頃はごく少量の服用でも深刻で長期的な悪影響を及ぼすことはあまり知られていなかったのだ。さて、こうした解説は状況証拠に基いたものとして、大方、風説によっている伝統的な解釈と同様程度には、医学的証拠なるものも含めて、支持できようかというほどのものである。
 
ところが、この物語には驚くべき後日談がある。それは、それぞれ勝手な理屈をつけて、シューマンの悪い指を決めていた。専門家”たちの証明を、明白な根拠をもって粉砕してしまうものであった。そして、この話は、クララだけが真実を語っていたことを示してもいた。

一九六九年、ドイツのある学者がライプツイヒ市の資料室を調査した折に、シューマンと軍司令官との間に交された未公開の書簡をたまたま発見した。この書簡によると、シューマンは一八四二年に軍隊に志願したものの、手の疾患により兵役が免除されているのである。この書簡にはシューマンの主治医ロイター博士の著名人診断書が添えられており、それには右手の人指し指と中指が悪いと記されている。これではシューマンはライフルの引き金をひくことも出来なかったであろう。こうして、この不可解な物語の結論が出るまで、130年もかかったという次第であった。

ヴィークはシューマンの指の疾患について不安を感じていた。おそらく彼はピアノ教師としての名声に傷がつくのを恐れ、彼が弟子に強制した”からだという噂がたつのを防ごうとしたに違いない。
彼は自分の著作「ピアノと歌」の中で、「指訓練装置」を批判することによって、自らの立場を世間に明らかにしようとしたのであった。彼が文中でシューマンの名を慎重に伏せておいたのは、次のようなひとつのことを意味している。つまり、ヴィークにはシューマンの名を記すだけの根拠がなかったのだ。というのは、機械装置の助けをかりているとして、名指しでシューマンを批判するには、それなりの明白な証拠を挙げなければならなかったからである。

これまで述べてきたように、シューマンの伝記作者たちはこの問題に関して疑いを持たなさすぎたといえる。シューマン自身にしても、この疾患が決定的にひどくなるまで、かなりの時間を過ごした筈である。この間、医者たちは様々な怪しげな治療法”を試みた。ある医者は動物の血に手を浸す方法を勧めた。(それは殺したばかりの牛の胴体に手を突っ込んでいるというようなものもあって、シューマンは牛の動物性が自分の中に入り込んできはしないかと恐れて、この治療法を嫌っていた。)また別な治療法では、夜、手に薬草の湿布をして寝るというのもあった。シューマンはきわめて控えめに「こうした治療は決して快適なものとはいえなかった」と述べている。さらに、シューマンは一八三一年に、オットー博士の電気療法を受けるためにわざわざシュニーベルクという町まで出掛けているが、これは事態を更に悪くしただけであった。こうして、一八三二年の末には希望が断たれ、ピアニストとして立とうとした希望はごく短くして終ってしまったのである。」

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