蓮の花は、夏の盛りの花です。平安時代も、勿論美しく咲いていましたが、仲のよいふたりが、極楽の「蓮の台の上」に生まれ変わることになっていますし、どうしても仏の香りがします。
和歌にも、詠われてはいますが数は少なく、時代が下る方が目立つ気がします。
濁りにもしまぬ蓮の身なりせば沈むとも世を歎かざらまし (俊成)
池寒き蓮の浮葉に梅雨はゐぬ野辺に色なる玉や敷くらむ (式子内親王)
源氏物語で、蓮の花が効果的に使われているところを2例ご紹介します。
今回は、光源氏と紫の上の心に映った蓮の花です。
その年の4月の葵祭、光源氏が六条院の女三の宮を訪れた留守中に、二条院で療養中の紫の上の息が絶えるということがありました。急遽戻った光源氏は、加持祈祷を止めた僧たちに、再開することを命じます。彼には、自分のいないときに死ぬはずがない、という強い確信があったのです。こういう自信がスーパーヒーローたる所以のひとつかもしれません。
夫の、必死の、僧たちを叱咤激励しての加持の結果、ようやく生き返った妻を、夫は力の及ぶ限り看護をしています。
梅雨から暑さへ向かう中、妻が生きることを始めたのは、遺される夫への愛でしょう。薬湯も口にするようになり(平安時代の医療だって、拝むだけではないのです)、6月、少し起きあがった妻と夫は、庭の池に盛りに咲く蓮を眺めます。
髪を洗い爽やかな様子の妻は、透き通るような美しさ。池は涼しそうで、一面の盛りの蓮の花、青々とした葉、朝露がきらきらと玉のように見える。
夫は、「あれをご覧。自分ひとりだけ涼しそうだね」と、起きあがり外を見ている妻に言う。「こんなあなたを見られるなんて夢のようだね。私まで一緒に死んでしまいそうだった」と、涙。
妻は、「あの露の残る間は生きていられるかしら。露のように短い命だけれど」と思う。「約束しよう、あの世でも必ず同じ蓮の花の下に生まれよう」と、夫。
蓮の花は極楽の象徴、などという知識を越えて、何十年もの長い時を共に生き、今この世を去ろうとする妻への哀惜が、しみじみと感じられる蓮の花です。
紫の上は、「露の消えるように」亡くなり(「御法」)、翌年の夏、同じように咲く蓮の花を、茫然と眺める光源氏を物語は伝えます。(「幻」)