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さっちゃんの源氏物語

「源氏物語」の楽しみ方、お伝えします

蓮の花 1 ー 二条院の紫の上

2011-07-22 11:09:58 | 源氏物語

 蓮の花は、夏の盛りの花です。平安時代も、勿論美しく咲いていましたが、仲のよいふたりが、極楽の「蓮の台の上」に生まれ変わることになっていますし、どうしても仏の香りがします。

 和歌にも、詠われてはいますが数は少なく、時代が下る方が目立つ気がします。
濁りにもしまぬ蓮の身なりせば沈むとも世を歎かざらまし (俊成
池寒き蓮の浮葉に梅雨はゐぬ野辺に色なる玉や敷くらむ (式子内親王)

 源氏物語で、蓮の花が効果的に使われているところを2例ご紹介します。
 今回は、光源氏と紫の上の心に映った蓮の花です。

 その年の4月の葵祭、光源氏が六条院の女三の宮を訪れた留守中に、二条院で療養中の紫の上の息が絶えるということがありました。急遽戻った光源氏は、加持祈祷を止めた僧たちに、再開することを命じます。彼には、自分のいないときに死ぬはずがない、という強い確信があったのです。こういう自信がスーパーヒーローたる所以のひとつかもしれません。

 夫の、必死の、僧たちを叱咤激励しての加持の結果、ようやく生き返った妻を、夫は力の及ぶ限り看護をしています。
 梅雨から暑さへ向かう中、妻が生きることを始めたのは、遺される夫への愛でしょう。薬湯も口にするようになり(平安時代の医療だって、拝むだけではないのです)、6月、少し起きあがった妻と夫は、庭の池に盛りに咲く蓮を眺めます。

 髪を洗い爽やかな様子の妻は、透き通るような美しさ。池は涼しそうで、一
面の盛りの蓮の花、青々とした葉、朝露がきらきらと玉のように見える。
 夫は、「あれをご覧。自分ひとりだけ涼しそうだね」と、起きあがり外を見ている妻に言う。「こんなあなたを見られるなんて夢のようだね。私まで一緒に死んでしまいそうだった」と、涙。
  妻は、「あの露の残る間は生きていられるかしら。露のように短い命だけれど」と思う。「約束しよう、あの世でも必ず同じ蓮の花の下に生まれよう」と、夫。

 蓮の花は極楽の象徴、などという知識を越えて、何十年もの長い時を共に生き、今この世を去ろうとする妻への哀惜が、しみじみと感じられる蓮の花です。

 紫の上は、「露の消えるように」亡くなり(「御法」)、翌年の夏、同じように咲く蓮の花を、茫然と眺める光源氏を物語は伝えます。(「」)   


紫の上の乳母

2011-07-01 20:27:59 | 源氏物語

ご承知のように、貴族たちのお子は、母が育てず、乳母が育てます。源氏物語の男君・女君たちにもそれぞれの乳母がついていて、様々な姿を見せてくれますが、紫の上の少納言の乳母は、最強かもしれません。

お姫様がひとり残されたとき、その人生を左右するのが乳母です。源氏物語には、そんな悲惨なことは描かれませんが、現実には、地方の豪族に妾として売られたり(飽きられたら下女に)、遊女に売られたり、乞食になってしまったりもとます。末摘花だって美形だったら危なかったし、召使いに目端の利く者がいたら、邸ぐるみ売り払われていたでしょう。

彼女は、祖母の尼上の同志でした。父宮のもとに孫を渡したくないという尼上の遺志をしっかり受け止めています。

光源氏の若紫拉致は防げたか? 少納言は、むしろ選択しました。あの夜、姫の新しい衣類を持ち、光源氏の車に姫と共に乗った時、姫の将来を光源氏に賭けたのですね。

彼女は現実を見据える人ですし、藤壺の「紫のゆかり」のことなど知りませんから、姫の将来を楽観視していません。単なる愛人で終わり、捨てられることもあり得るのです。可愛い少女が魅力ある女性に育つかどうかなんて、わかりませんしね。

ですから、政所・家司などを決め、別会計にしてくれたことは、一安心だったでしょう。源氏物語は、そのへんのことがきちんと書かれています。(玉鬘の乳母の長男が家司に任命されて、よかったね、と思わせたり、光源氏に目をかけて貰いたい下家司が、末摘花邸に奉仕したりと) 

結婚も、いつのまにか行われていましたが、最低限のけじめ「三日夜の餅」はあったし、父宮にも知らされ、「裳着」を行うことで、妻としての世間への披露もありました。さらに興味深いことは、須磨退居に際して、財産の多くを紫の上の名義に書き換えているのですが、忠実な家司と共に、少納言乳母を後見に指定しています。

紫の上の教養・趣味は光源氏の教育ですが、主婦としての諸々は、少納言のお仕込みでしょう。物語は、彼女の晩年など記してくれませんが、心残りなく一生を終わったことと思います。

源氏物語の乳母の中で目立つ人は、他には、光源氏の大弐の乳母・玉鬘を育て上げる夕顔の乳母・対立する関係の夕霧と雲居雁の乳母たち・降嫁に活躍する女三の宮の乳母・母君と夢の実現に力を合わせた浮舟の乳母 があげられます。
乳母ばかり取り上げていくのも、華やかさに欠けますから(もっとも、このブログの内容は、そんなに華やかではありませんねぇ)、これもおいおい。
 


柏木の「若さ」

2011-06-18 10:16:36 | 源氏物語

平安時代の平均寿命は、男性30代前半、お産で死ぬことの多かった女性は、30歳に達しなかったそうです。結婚年齢の早かったことも、納得できます。元服=男子の成人式 も早く、特に天皇・東宮は、一条帝以後早くなり、一条・三条・後一条と、11歳です。数え年ですから、小学4年生、いくら昔でも若すぎる年齢です。ついでに言えば、すぐに結婚した相手の定子は、その時中学1年。
源氏物語では、光源氏12歳・冷泉院11歳・今上13歳で元服・結婚です。

貴族の師弟たちは、上流でももう少し遅かったようです。『蜻蛉日記』の作者の息子道綱は、16歳です。天皇家と違って、即結婚ではありません。それに、こちらは私的な行事ですし通い婚ですから、年齢を明らかにするのは結構面倒です。それで、父の何歳の時の子かを見て、結婚年齢を想像してみます。

道隆 兼家25歳  道頼 道隆19歳  彰子 道長23歳
夕霧 光源氏22歳  柏木 頭中将22~3歳?
一族の将来は、優秀な子供たちにかかっているのですから、早め早めに子供も生まれたのでしょう。

柏木は、太政大臣になった元頭中将の長男です。母は、弘徽殿女御の妹で、まさに藤原本家のトップを約束された、セレブ中のセレブです。
この人が女二の宮と結婚したのが、多分31~2歳。女三の宮降嫁になのりをあげた時は23~4歳、猫を抱いて寝たのは、25~6歳の時。死んだのは、32~3歳です。
この年頃の光源氏。23歳、父院の死。24歳、藤壺出家。26歳、須磨下向。28歳、政界復帰。31歳、藤壺と組んで政界支配確立。
柏木の父は、光源氏より5~6歳上ですから、柏木の死んだ年の頃には、光源氏との権力闘争が始まっていました。
今上帝は、15歳で父になっています。柏木の年で、孫がいる人だっていたのです。

柏木は、当時の権力を狙う人たちの中にあって、年齢のわりに、あまりにも行動が若く幼い。老齢の光源氏を追い上げる若い世代、というイメージにはそぐわない人物です。だから、作者もそんなダイナミックな役割をこの人に負わせていないのでは、と思っています。

光源氏に知られないうちは、嫉妬めいた細々としたラブレターを寄こすのに、知られた途端に心身共に崩れ、直接皮肉を言われ睨まれて、死んでしまうなんて… 街角の掲示板で見る「きっと誰かが見ているぞ…」という防犯ポスターを見て、ある時、この人のことを思い出しました。知られなけりゃ、平気だったんでしょうかね。
右大臣邸で、面の割れた光源氏が見せたふてぶてしさ、そんなのが、まぁ若さってもんじゃなかろうか…? と。


青春の終焉(光源氏・薫・柏木)

2011-06-11 01:46:57 | 源氏物語

藤壺宮が出家したとき、光源氏は24歳でした。このことで、光源氏の恋は終わった=青春は終わった、と考えていいのではと思っています。

当時は、現在と年齢の感覚がかなり違います。全年齢についてあてはめるのは乱暴ですが、大体現在の年齢の7掛けかな、というところです。還暦にあたるのが、40歳で、「若菜上」で、光源氏は、初老のお祝い「四十の賀」を大きいもので4回行ってもらっています。まだまだとても若く見えるというのも、還暦の若々しい方とダブります。

それで、24歳というと今の33~4歳で、まずまず青春の終わり頃にしてもよいでしょう。ただし、終わったというものの、荒れて荒れて、朧月夜の邸で、父右大臣に発見されるなどという、破滅一直線を進んでいきます。(現実世界でも、藤原伊周が、花山院に矢を射かけた不敬事件を起こして失脚したのが23歳。こちらも政治的敗北プラス女性がらみの事件ですから、いい勝負です)
明石から帰京した時はもう28歳、したたかな政治家としての復活です。深読みはまたのことにしますが、驚いたことに藤壺様まで、政治家光源氏の協力者となっての復活でした。

同じく24歳の薫は、宇治の大君を失います。この恋は、まさに「観念の恋」、結ばれることなく終わります。この後の薫は、誰を見ても大君と比較してしまい、今の恋に熱心になれず、そのことでまた後悔するという、迷いの世界を彷徨いつつ、次第に普通の男になっていきます。

ところで、柏木が女の三宮(21~2歳)に忍び、思いを遂げた時、何歳だと思われますか? 多分、かなり若い年齢を想定なさっていると思います。(実は物語中には、彼の年齢は書かれていません。しかたありません、源氏物語ですから、藤原の嫡男の年齢なんていらないのです。でも、いろいろ勘案して)女三の宮より10歳位上だとされています。

女三の宮降嫁が13~4歳ですから、その時もう24歳位。事件を起こしてしまった時は、31~2歳です。さっきの7掛けをやると、かなりの年齢になりますね。
「若い柏木は」という表現は無理なのではないかしら、と思えてしまうのですが。(もう少し加えたいのですが、次回)

 


光源氏の祖母

2011-06-04 07:14:15 | 源氏物語

桐壺更衣の母、故按察大納言の北の方は、「いにしへの人の由ある人」と、紹介されています。しっかりした財産のある旧家の出身で、しかも趣味・教養・センス・さらに実務能力も長けた人ということでしょう。明石入道の北の方と同じく、皇族か源氏の出身かもしれません。

入道夫妻が娘による「家の復権」を目指し、実現したように、大納言夫妻も娘による皇統への復帰を目指したと言えるでしょう。藤原系大臣が摂関を狙ったのとは違います。

当時の名家の女性は、財産を持ち夫と独立した経済力を持っていましたが、それも父や夫などの有力な男が控えていないと、なめられて領地からのあがりも不十分です。
妃たちの経費は、日用品・召使い雇用費をはじめ、すべて実家持ちですから、並大抵のことではありません。いくら人件費が安い時代といっても、例えばあの十二単一式(現在では数千万円かかるらしい)を、おつきの女房の分も含めて年に何回も新調するだけでも大変なものだと、おわかりになると思います。

この母君、時には、帝のご寵愛をちらつかせての離れ業をしたかもしれません。亡き夫の悲願=孫皇子の即位に向かってのすさまじい努力だったでしょう。娘が死んで、孫の東宮への道は遠のきます。帝も、周りの協調を図って現実的対応をし始めます。一の宮立坊の後、崩れるように彼女は死にます。

「娘にあんな死に方をされたこのしっかりした女性が、孫の即位を望んだはずがない」という見方もありますが、そうは思えません。母君は、孫の敗北によって、最後の力がつきたのでしょう。
家の意志を体現する女性たちは、弘徽殿女御だけでなく本当に強い。
受け身一方に見える桐壺更衣だって、父の意志を体現して戦い抜いた、と言えないこともありません。