源氏物語について、お話ししたいことはたくさんあるのですが、ブログでわかりやすく興味深く、というのは実に難しかったと思っています。
特殊に面白いことなどは、しかたないですし…
また、まとめられることができたら、内容も幅広くして、などとも思いますが、ひとまず終わりにします。
源氏物語について、お話ししたいことはたくさんあるのですが、ブログでわかりやすく興味深く、というのは実に難しかったと思っています。
特殊に面白いことなどは、しかたないですし…
また、まとめられることができたら、内容も幅広くして、などとも思いますが、ひとまず終わりにします。
秀吉が工事を行うまでは、宇治川は巨椋の池の南端から流入していました。
「浮舟」巻で、匂宮が浮舟を舟に乗せ、用意した隠れ家で過ごす場面があります。
八の宮の山荘に擬せられている宇治上神社は、平等院の対岸にあります。京都から来ると、宇治川を渡らずに済むので、別荘としては、こちら側の方が、使い勝手がよさそうです。
平等院は道長の別荘で、宇治十帖では、夕霧右大臣の別荘です。
中の君に逢いに来たのに、お忍びでなくなって、山荘に来られなくなった匂宮の宴の音楽が、宇治の姫君たちに聞こえる、そんな位置関係です。
もっとも、今の神社は川から奥まっていますが、山荘は川に面して、船も着けられます。読んでいると侘びしいイメージで、小さいようにも思えてしまいますが、八の宮が祖父大臣から伝えられたものですから、相当な規模のもののはずです。
ありあけの月のもと、匂宮は、浮舟を抱いて、小舟を宇治川に出させます。急流を下り、巨椋の池の岸辺にある隠れ家に着きますが、宇治に向かう道のある山を見渡せているようなので、東岸でしょうか。
京から宇治への街道は、奈良へ向かう道であり、その先は、山の辺の道を経て、長谷寺、さらに先は伊勢です。そして、巨椋の池の東を通る街道は、山道でした。その山が夕日に輝くのを見ながら、匂宮は、昨夜の雪道の苦労を浮舟に語って、自分の愛の深さを誇示しています。
それにしても、あの大きな巨椋の池が埋め立てられて70年余、液状化、秀吉によって天井川にされた宇治川の治水、大丈夫なんでしょうか?
巨椋の池が気になりだしたのは、東日本大震災の後、埼玉県という内陸部の町で、液状化が起きてからです。川を埋め立てた跡が液状化すると知りました。
海岸近くの埋め立て地で起こるものだとばかり思っていたのです。阪神の時の印象が生々しかったのは勿論ですが、実はもう40年ほど前、浦安の近く、葛西に勤務先があったのです。多分、埋め立てて間もなくの土地に建てられた建物だったと思います。葛西の駅前も水はけが悪く、大通りにまで、木が渡されていました。尾瀬の木道みたいに。
埋め立てに六価クロムを使ったので、大問題になった敷地でしたが、建物そのものはそれなり基礎工事はなされていたと思われます。ところが、埋め立てた土地が沈下して、3年間で階段が1段増えました。
この頃、液状化という言葉を知ったのです。イメージとしては、地震が起きたら、土地がどろどろになって、吸い込まれていくんじゃないか、という恐怖でした。
それが大きな理由で、転勤しました。
その後しばらくして、階段の踊り場の天井が(幸いなことに日曜日)、落ちたということを聞きました。
ディズニーランドが開業し、浦安が脚光を浴びるのは、その後です。
私は、そのあたりに、あの建物のようなきしみが起きないことが信じられません。時たま小さな記事が出て、「やっぱり」と思うことがあったのですが、3.11の前頃には、出なくなっていました。
ともあれ、液状化というのは、内陸では起きないという感覚だったのです。
(考えてみれば、故のない思いこみでしたが)
ところが、川の埋め立てた跡などというなら、至るところではありませんか?
「ブラタモリ」で、「溜池」の名残の水溜まりを紹介していました。
あそこも?
それで、巨椋の池です。
昭和の初めに干拓された、大きな、湖みたいな池だったそうです。
平安時代には当然存在していて、陸路宇治へ行くには、池の東岸の道を行くことになり、それが、今のJRや京阪のルートです。山道でもあり、そこを薫や、匂宮は通ったのです。
近鉄は、秀吉が巨椋の池に架けた堤防、言ってみれば、奈良へのバイパスです。
次回に続けます。
『無名草子』の内容をよく」取り上げるのですが、その理由は、女性の考えがわかることが大きいのです。
源氏物語は、男の学者さんたちの研究対象に早くからなってしまって、圧倒的多数だったはずの女の声は、あまり残っていないのです。孝標女のような少女時代が伝わっているのは、僥倖みたいなものです。
鎌倉時代初めの『無名草子』、確かに筆者は女性です。
彼女(たち)は、登場人物の好き嫌いや評価を、遠慮無くやってくれています。光源氏にだって、「こんな所は嫌い」とやってくれます。柏木に関しては、「睨み殺し」たどうしようもない「けしからぬ御心」と言っています。
ところで、人気が大変高いのがその柏木です。現代から見れば、そして私見では、妄想の中に生き、女三の宮を巻き添えにしてしまったストーカー的存在とも感じられ、しかも、上司の妻を寝取ったものの、ばれた途端に心の病になるというかぼそい神経の持ち主をこれだけ賛美するのは、???です。30過ぎなんて青年とは言えず、孫だっているかもしれず、40になると、初老のお祝いの時代です。
そして、被害者としか思えない女三の宮には辛辣です。
あの、柏木の手紙を光源氏が発見したことについては、「こんな秘密がある時には、泊まりたいと言っても何とか帰すべきなのに」「色めかしい態度で引き留めたりするから」あんな大事になった、と言います。こういう人は、子どもっぽくおっとりしているからこそ可愛いので、そんな色めいたお気持ちがついてはね、そのこと。
女三の宮が夫を愛していたかどうか? 考えたこともなかったでしょう。保護者が父から夫に代わっただけで、大事にしてくれる、けれど少し恐いそんざいだった。「叱られる」のが心配だった。夕霧たちに見られた時も、柏木に見られたことの不安感など全くなく、夕霧から夫に告げられたら、叱られる…?
紫の上だって、自分を大切にしてくれる優しい大人だったことでしょうが、その発病以来、保護者から何ヶ月も放っておかれ、その間に、女三の宮の環境は最悪になりました。最側近の小侍従は、勝手に柏木を導きます。柏木は、我慢できなくなると会いに来ます。懐妊らしい…
『無名草子』系女達には非難されていますし、柏木の恋を素敵だと思い非難しないのは、小侍従感性の持ち主が多かったと思われますが、彼女は、夫に側にいてもらいたかったのでしょうね。
その夫が、間もなく、最も自分を責める存在に変わろうとしています。
玉鬘の夫となった鬚黒大将には、れっきとした北の方がおいででした。紫の上の姉にあたる人です。式部卿の宮の大君で、妹君が冷泉院の女御ですから、本来、玉鬘に求婚するなんて、誰に対しても非礼な行為です。
これが受け容れられたのは、北の方が心を病み、時に思いがけない「発作」を起こしたりするからでした。
例えば、玉鬘のもとに、お洒落をして出かけようとする夫に、
北の方は、落ち着いて可憐にも見える様子でいらしたはずが、突然起きあがっ て、使用中の香炉を引き寄せて、大将の後ろに寄って、中の灰を肩からおかけに なった。細かい灰が空中に舞い、髪に散り、目にも鼻にも入って、息も出来ないほど。着物には焼け焦げも。
これも、「物怪が夫に嫌われるように企んでいるのだろう」と、周りは同情しつつ、鬚黒は愛想をつかしつつ、加持祈祷が行われます。
物怪調伏には、「よりまし」という多くは若い女性をたてて、その人に物怪を移し、退散させます。一族に固有な物怪、個人的な恨みを持つ人など、大抵は周知されていますから、物慣れたよりましには、すぐ物怪が憑き、それを聞く病人も心落ち着き、快方に向かうわけで、納得できる過程です。
ところが、この北の方から物怪は移らない … 加持のさなか、大声で喚く北の方に、大将は、嫌いぬいてしまわれた。一晩中数珠で打たれ、引きずり回され、泣き騒ぎなさって … さすがに疲れてうとうとし静かになると、「物怪が去った」とされたようです。
ヨーロッパのかつての精神病院の劣悪さがよく知られていますが、日本も、上流貴族の場合でもこうですから、推して知るべしという状態だったでしょう。