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さっちゃんの源氏物語

「源氏物語」の楽しみ方、お伝えします

光源氏の祖父

2011-05-31 09:26:44 | 源氏物語

桐壺更衣の父、故按察大納言のことを、深読みしてみます。
この人は、若いうちに亡くなったために、入内した娘の身分が他の妃よりいまひとつ劣り、桐壺なんていう遠くの御殿に住むことになり、女御になれなかったことになっています。

この頃の政治といえば、摂関政治で
、入内させた娘の産んだ皇子が天皇となって、その祖父・伯父が外戚(母方の親戚)として摂政・関白となり、政治を動かしていく体制です。その典型が、四后・三帝を擁した「御堂関白」(就任していませんが、実質を表した敬称です)こと藤原道長です。

桐壺更衣の父の遺言は娘の入内ですが、死んでしまうのですから、権力を握るという目的は実現不可能です。更衣の兄は、多分僧侶です。スーパースター光源氏の誕生に母の悲劇は不可欠ですから、そんな境遇の妃がいて帝に熱愛されるという設定も、「こんな意味のない入内はあり得ないけど、ま、お話だからね…」と、納得してあげなければいけないのかもしれない、と一応の納得をしてみます。

でも、でも、です。この作者が、ここのところだけ、ウソっぽくするのかしら? と、贔屓は思ってしまうのですね。では、何が目的だったのか?

ヒントは明石入道です。彼は、若い日(もう40前後にはなっていたはずですが)に見た夢(=子孫に帝・后が生まれる)に一生を賭けた人です。自分自身の栄華は全く望んでいません。大臣の子に生まれながら、将来の見通しは暗く、その時に見た夢、続いての娘の誕生に賭けてみる気になったのです。恐らく、彼は源氏で、妻は中務宮の孫です。そして、桐壺更衣は、入道の従妹なのです。入道と同じ願望を更衣の父が持っていたというのは、むしろ自然です。

そして、この時代の現実においても、王権から離れた皇子たちが、「女の縁」で、皇統に復帰することを願い、時に実現したのも事実だったのです。藤原彰子の母は、宇多皇子敦実親王の孫、村上皇子為平親王(かつて東宮の本命と言われ、敗北したお方)は、甥の花山帝に娘婉子を入内させて宮中に入り浸っていたというので世間から誹られ、三条皇女の産んだ後三条即位で、女系で三条から繋がったと言われました。

物語の中では。藤壺の兄、紫の上の父君ですが、妹2人と姫を入内させています。この方が外戚として政治を行うつもりや力があったとは思えませんが、先帝の后腹の親王で、東宮になる資格は十分にあった方です。
按察大納言や明石入道の悲願と通じるものではなかったかと考えてしまうのです。

源氏物語は、たくさんの源氏たちの物語でもあるのです。


花の盛りの光源氏 2

2011-05-27 09:18:47 | 源氏物語

「花宴」
紅葉賀の翌々年、2月20日過ぎ、場所は紫宸殿、左近の桜の宴。光源氏、20歳。「春鶯轉」が舞われ、兄の東宮が光源氏に舞を所望します。この人は、ちっとも偉そうな所がない人ですが、この場面では、重々しい敬語などで、東宮という高い位と「命令」の感じがよく出ています。
ハプニングですが、こういうことはよくあるので、みんな心積もりはあるものなのです。「のどかに…ひとをれ気色ばかり」 つまり、ゆったりと無造作にちょっと、舞ったのです。(丁寧に全部、などというのは野暮で、高貴な方のなさることではない、これが当時の発想です) 観客は、また皆、感涙々々。朧月夜さんも、ご覧だったでしょう、東宮へのお輿入れ間近です。藤壺様は、礼によって、「こんな気持ちでなかったら」とのこと。

そして、3月20日過ぎ、右大臣邸での藤の宴。晩春ですが、名残の桜が2本、みごとです。右大臣の招待があり、でかけます。彼が来ると、盛り上がるのです。シュンですね。父帝からも、「お前の姉妹の皇女もいるのだからね」というお言葉。このきょうだいたち、顔を合わせたことないんじゃないでしょうか。

舞などするはずもありませんが、皆正装した中での略装。制服の中に私服、という感じ。桜がさね(裏地の赤紫が表地の白に透けて見えます)の上着に、赤みがかった紫の長い裾を引いています。藤の花の宴ですからね。正装は、黒や赤、濃い色彩の中、目立ちますでしょう。こんな目立つ格好で、宮中で知り合った右大臣家の姫を探し当て、几帳越しに手を握るのです。

ところで。
それから19年後、初恋が実って、内大臣家に招かれる夕霧を迎えるのも、藤の宴です。読者は、夕霧の姿に時の流れを感じることになります。

「葵」
朱雀帝が即位し、賀茂の斎院も弘徽殿の産んだ女三の宮に代わります。祭の行列に加わった光源氏は、この時22歳。5月、新緑の美しい季節です。美形の貴公子が勢揃いするというので、ものすごい評判、人出です。

葵の上と六条御息所の「車争い」も、その行列の直前起きています。争いどころか一方的に見物の多くの車の奥に押しやられた御息所の前を、光源氏が通っていきます。

の上側からプライドを踏みにじられ、涙も出てしまうのだけれど、御息所の今見る光源氏は、いつも邸で会う時より、ずっと美しいのです。プライベートな場での男しか女は見たことがないから、晴れの場の男の美しさに目が眩む思いなのです。

しかし、奥に押し込まれてしまった御息所の車には気づかず、知った女にはそしらぬ風に笑みを投げる。葵の上には、敬意! お供の男たちも、主人に倣う。
切ないですね。物怪になっちゃいそうです。

 


花の盛りの光源氏 1

2011-05-24 09:07:05 | 源氏物語

「紅葉賀」「花宴」「葵」の連続した3巻は、青春の絶頂期の光源氏を見せる巻でもあります。

「紅葉賀」 
10月10日過ぎ、紅葉の美しい朱雀院に、桐壺帝の行幸があります。朱雀院には、桐壺帝の父院がお住まいと推察されますが、そのあたりを物語は語りません。
その日と、宮中での試楽(当日は参加できない妃たちのために宮中で行われた予行。勿論本番並み)で、18歳の光源氏が、伝説にもなりそうな美しさで「青海波」を、葵の上の兄で、藤原ナンバーワンの、頭の中将と共に舞います。
いつもよりもさらに「光る」というその美しさに、皆感涙です。当時は、感動したら泣きます。泣かないのは、美やみやびを理解できない野蛮人です。

敵役の弘徽殿様だって、その美しさを「鬼神などに魅入られそう。気味悪いほどの美しさ」と、嫌味を言いつつも認めます。お付きの若い女房たちは、美の崇拝者ですから、ご主人の嫌味は不満です。

 藤壺様は、「おほけなき心」が無かったら、もっとすばらしく見えたかもしれないと、夢のようなお気持ちです。ほんとは、この心があるから、さらに美しく見えましたのにね。

後で、「…あはれとは見き」という歌をいただいた光源氏は、その書かれた紙を持経のようにありがたくひろげた、とあります。「あはれという言葉だけでもかけてください」とは、ずっと後になって、柏木が女三の宮に何度も哀願した言葉です。光源氏にとって、将に仏のお言葉のように響いたことでしょう。

ところで、「おほけなし」について。
身の程知らずだ・恐れ多い・もったいない等と訳されますが、身分上・立場上あってはならないと自ら思う時の感じの表現です。光源氏の藤壺への自分の気持ち、柏木も女三の宮への気持ちを「おほけなし」と認識しています。
下の者から感じる気持ちのようにもとれますが、藤壺様もそうだったんですね。「おほけなし」という言葉が、微妙な感情を伝えてくれています。


桐壺帝の愛 2 

2011-05-13 09:26:53 | 源氏物語

2人の別れの場面、これは、ほんとにラブシーンです。

物語のラブシーンって、恋人たちが「男・女」って書かれているのですぐわかります。光源氏だって、「男」って書かれるんですよ。これが原文の光ってるとこのひとつ。「ここそうかな~」と思って読んでると、文字が浮き上がってくる感じです。恋物語の王道を行く『伊勢物語』、「昔、男ありけり…」で殆どの話が始まるのは、そういうことです。

それで、元に話が戻りますが、いくら何でも帝を「男」とは呼んでいません。大体、帝クラスは、主語を明らかにしません。あの敬語で分からせるのです。(敬語が分かって読むと古文はもっと生き生きしてきます。これは、またね) でも、更衣は「女」です。
ちょっと紹介します。「あの世にも、一緒に旅立とうと約束したのに。私を捨てて行けるもんか」と帝。「女」も、とても悲しく、お顔を見て、「あの世への道なんて行きたくないのです。もっと生きていたい」という意味の歌を息も絶え絶えに言います。ここで帝は、このまま最期まで見届けようと思ったのです。そこへ、実家から、「祈祷を始める」という使いがやってきて、宮中で死ぬことを免れたのです。

更衣は、肺結核ではないかと言われています。2人とも若いのです。
この当時、帝・東宮は、12歳前後で元服し、すぐに、大抵の場合年上の最初の妃が決まります。最初の御子が、16、7歳のことも多く、一条天皇は17(今なら16)歳で父親になっています。
桐壺帝の場合、弘徽殿の女御が最初の妃で、数歳年上です。一の皇子(朱雀帝)が生まれた後、桐壺更衣は入内したのでしょう。桐壺帝はせいぜい20歳、更衣16歳位でしょうか。寵愛、光源氏誕生、更衣の死まで、3、4年のことです。桐壺帝にとっても、初恋でしょう。

第一皇子が生まれて、右大臣派も気を緩めた後の帝の行状です。それでも、母の身分で後継者が決まるはずなのですが、この帝は「非常識」ですから、更衣の子を東宮にするかもしれないと、「政治問題化」し、弘徽殿女御自ら荷担しての後宮ぐるみの苛めとなりました。

 更衣の死後、帝は、その面影を求めて、何人もの妃が入内しました。そして最後に、先々代の帝の姫宮が迎えられ、藤壺宮と呼ばれます。この時、帝は30歳を過ぎています。さすがにもはや、さばけた大人です。似ていることに満足し、最愛の息子の母に擬します。

 でも、まだ14、5歳の藤壺宮にとってはどんなものでしょうか。いつも自分の後ろにいる誰かを見ている気がする、けれど優しい年上の夫と、突然息子になった、憧れの目で自分を見る美しい少年。5歳しか違わないのです。ドラマを予感する設定ですね。


桐壺帝の愛 1

2011-05-10 09:31:36 | 源氏物語

 源氏物語は、愛する人を喪った男たちの悲しみを描きます。光源氏は、夕顔・葵の上・藤壺宮との別れが語られ、人生の最後に紫の上を喪い、その後の1年余を描くのに、「幻」1巻があてられます。薫のあてどない彷徨が始まるのも、愛する宇治大君を喪ったからです。愛する人を亡くした女君の物語は、語られません。

 そんな物語は、桐壺帝と更衣から始まっています。

 これは、「愛」の物語です。
 帝は、更衣が死にそうになるまで、実家に帰るのを許しませんでした。更衣は妃といっても臣下ですから、許可されなければ帰れません。「ここで死なせよう」とまで帝は思いますが、更衣の母は、祈祷を理由に急ぐように退出させ、実家に着くとすぐに亡くなります。もう途中で死んでいたのかもしれません。

 夫が愛する妻を看取るというのは、当たり前のことですが、帝だけは、この時代、許されませんでした。宮中、つまり皇居で死ぬことのできるのは帝だけだったからです。なぜなら、この時代の信仰(神道につながる古代の信仰)では、「けがれ」を忌む、そして最大のけがれは、「死」だったからです。奈良時代より以前では、天皇の御殿でさえ一代限りだった位です。一般貴族の邸でも、死を間近にした召使いたちは邸を出され、ある者は生きているのに捨てられました。

 桐壺帝は、「非常識」な帝でしたから、このタブーを破ったかもしれません。この方は、「身分より愛」なんていう行動でしたから、周りはハラハラものでしたでしょう。
 特に困惑したのは、更衣の母君です。そんなことになったら、若宮(光源氏)の将来はまっ暗です。「加持祈祷」で病を治すというのは本音でしょうが、とにかく退出させるのに必死だったことでしょう。

 では、なぜタブーは破られなかったか。
 本当につまらない答えになってしまいますが、源氏物語は、桐壺帝・更衣の物語ではないからです。なんたって、主人公は光源氏なのですから、急がなくては。