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さっちゃんの源氏物語

「源氏物語」の楽しみ方、お伝えします

かぐや姫の生誕地

2013-01-15 22:42:31 | 歴史話

 かぐや姫の故郷は月ですが、もうひとつの「生誕地」が推定されています。ちょっとおもしろそうなので、ご紹介します。(拠っているのは保立道久『かぐや姫と王権神話』

 竹取の翁は、根元が光る竹を発見して、それが発端ですが、「スズメタケ」という㎜単位のキノコは竹に寄生して、微光を発するといいます。従って、かぐや姫の発見は夜だろうと。

 『春日権現絵巻』に、大和川の北の辺りで、「夜光る竹」を発見した男の話があります。訪ねて行った男は、春日明神=十二単の貴女と出会い、そこに「竹林殿」を建立します。春日明神は、絵巻で2回竹林の上に降臨しますが、絵巻は黄(金)色の竹を描いているのが、手許の図録でも確認できます。

 大和川流域は、奈良時代以前、河内からの入り口だったそうで、そこを本拠地としていたのが忌部=齋部氏で、かぐや姫の名付け親、三室戸齋部の秋田は、その長老が考えられる由。私は、名前から、有名な陰陽師かとも思っていたのですが。

 さらに、竹取の翁は、実は「讃岐造」というのですが、この近辺に、古代から存在する由緒正しい「讃岐神社」まであるのですね。こんな所に讃岐?ですが、ルーツはあの讃岐です。大和の入り口に近いこの地域には、他にも西から移住させられた集団があり、竹も、その中の薩摩隼人たちが持ち込んだ、という研究があります。

 『竹取物語』の作者は、博識で表現力・識見の優れた人物と見なされていますが、場所も架空じゃなかったのね、と感心しています。


 ところで、江戸東京博物館は、今、「尾張徳川家の至宝」ですが、国宝絵巻も出ています。前期の分は終わってしまっているのですが、「柏木」で、光源氏が薫を抱いている場面でした。
 驚くほど空いていて??、あんなに側近く、レンズまで使って見られたのは初めてです。表情の柔らかなタッチが感じられて、感激でした。
 後期は1/29~2/11で、「東屋」です。今度も、空いていることを期待して、行ってみます。
 


末の松山 多賀城 

2012-09-11 09:37:25 | 歴史話

 以前、津波が来なかった、とのことで、歌枕の「末の松山」について書きましたが、8月の末に機会があって、行くことができました。

 候補地は他にもあるそうですが、仙石線「多賀城」駅そばの海側(それほど近くもないようです)、国府多賀城の近くですし、今回の津波も近くまで来たのですから、妥当な所だと思います。伝聞の地ですから、あたりの、小高い津波を免れた場所はそこに限られるものではないでしょうが。

 車を、動画で見た覚えのある駐車場に入れます。動画では、「沖の石」を通って、末の松山に到着していましたが、すぐ近くでした。

 ごくささやかなお寺があって、そこは少しも小高くはなく、本堂の床下に津波が達したとのことでしたが、もっと津波は高かったのでは、と思えたほどでした。

 お寺の横を坂道が通り、本堂の裏は小高く、大きな松がありました。

 貞観も今回も、ここを越さなかったというと、古代の地形も思われて、感慨に少し耽りました。暑くて、少しがせいぜいでした。

 多賀城は、東北線「国府多賀城」駅の北に広がっています。末の松山を訪ねる人はあまりいませんが、こちらはぼちぼちです。復元が進むと、観光客も増えるのでは。平城京並みの復元になるそうです。

 昨今、無知を感じることが多いのですが、あんなに広いとは思っていませんでした。少し北に行くと平泉もあるのですから、金の産出も多く、多賀城は、奈良・平安朝廷においては、財政を支える前線基地だったのでしょうね。現地での戦いも多かったはずです。

 道綱母の父、倫寧は、秋の娘の玉の輿結婚による(多分)情実人事で、その年の10月に陸奥守になり赴任しています。金の陸奥ですから、実入りは半端じゃなかったでしょう。『小右記』によると、毎年三千余両を都に送っていたことが分かりますが、本人の取り分もさぞ多かったことでしょう。

 その倫寧の金が、道綱母を飾ったのかな? など、変な近しさを感じたのでした。


六義園と北村季吟

2012-04-21 23:01:27 | 歴史話

 北村季吟という国学者がいました。若き芭蕉の俳諧の師でもあった人です。
 源氏物語に関して言えば、『源氏物語湖月抄』という、本文と注釈を一体化させたものを作り上げ、それが刊行されたことで、源氏物語の「大衆化」に寄与しました。

 どこがよかったかというと、
 それまでは、注釈だけの本だったのです。本文は別にあって(しかも写本で全巻揃えるのはなかなか)、それと照らし合わせながら読まなければならなかったのです。既に、源氏物語の文章なんて難解になっていたので、「言葉の壁」から、近づけない人がほとんど。有名な割には、一般の人にはせいぜい源氏絵で見るだけだったのです。
 本文と注が同じ頁、しかも現代の古典の本と同じく、本文の上に、頭注として置かれているのです。というか、現代の古典の本の体裁は、湖月抄の流れなのです。
 さらに、この本は、印刷・刊行されているのです。だから、源氏物語が、伝統文化・国学者だけの世界から、世間に出てきたのです。

 湖月抄までは「旧注」とされ、真淵・宣長たちの新しい研究が進められていき、批判の対象とはなりましたが、源氏物語の最もわかりやすい底本として、近代以降も頼られていたようです。

 その他様々な研究で名をなした季吟が、文化の中心地京都から招かれたのが66歳、幕府の実力者柳沢吉保との出会いです。

 六義園は、吉保が、古典文化のエッセンスを具体化したものと言われます。そのブレーンとなったのが、季吟であり、吉保は、その構想を得て、自らを光源氏と見なし、六義園を六条院に見立てたと、『源氏物語ものがたり』の著者、島内景二さんはおっしゃっています。

 名前もちょっと似てますし、大きさも同じくらいです。
 散策しながら、王朝っぽくなるのもいいかもしれません。


末の松山

2012-04-01 21:11:11 | 歴史話

 歌枕というものがあります。広辞苑には、②古歌に詠みこまれた諸国の名所 とあります。『奥の細道』も、奥州の歌枕等を訪ねた旅でもあります。

 東日本大震災の被災地に多賀城市があります。そこにある歌枕の地が、「末の松山」「沖の石」です。

 『百人一首』にある清原元輔の
   ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは        
が一番有名ですが、10世紀初めの『古今集』にも、
   君をおきて あだし心を わがもたば 末の松山 波も越えなむ
があります。

 『古今集』は、「あなた以外に誰かを好きになったら、あの末の松山だって波が越えてしまう。そんなことは絶対ないんだから、信じてよ」
 『百人一首』は、その「常識」を受けて、「約束したよね。2人とも涙に咽びながら、末の松山を絶対波が越えないように、2人の仲は永遠だって」
 
恋心のことですから、末の松山は波が越えることがなくても、心は変わってしまうのですが。

 3月初めに日経新聞の朝刊の文化欄に、佐伯一麦さんが、「震災と歌枕」と題しての文章が載りました。
 それで、「末の松山」が被災地にあったのだと気がついて、ネットで見てみましたら、直後から注目されていたようで、動画もありました。

 末の松山は、小高いとも言えないようなちょっとした高台で、お寺が建っています。幾つかの「証言」を拝見すると、お寺の本堂の地下はかすめたようですが、松の生えている碑までは来ず、津波は、末の松山で、二手に分かれたということでした。
 貞観地震は869年、波が越さなかったということは、歴史的事実を言っていたのですね。

 実は、「歌枕」というものに、いまひとつかいつつ、すっきりしない感覚があったのです。あの、徹底した都中心主義者、地方・身分差別者たちが、なぜ辺境の地を「歌枕」に風雅な地として「上場」させたのか、と実感できなかったのです。エキゾチックな響きが珍重されたとしても。

 貞観津波が、今回の規模だったとすれば、都にも詳細な報告がなされたことでしょう。その際、国府の近くの「末の松山」も、驚きとともに伝えられたと想像できます。間一髪で免れた所は、たくさんあったことでしょうが、その代表として、「末の松山」は「歌枕」に昇格したのです。
 
 変わらぬ恋心の象徴として使われ、ちょっと軽いイメージさえ付加されてしまっていますが、深い記憶とともに存在したものだったと思われます。
 それならば、他の歌枕も、その記憶を持つでしょうし、平安の都人たちにも、地方と共感される感覚があったのだろうと、少し見直した気分です。

 
 


ねがはくは 花のしたにて春死なむ(西行1)

2012-03-01 09:44:15 | 歴史話

 そのきさらぎの望月のころ

 大変わかりやすい歌です。
 春、2月の望月の頃に、花吹雪の舞う下で死にたいというのです。しかも、出家の身として、お釈迦様のご命日に、という欲張りな歌です。

 実際、西行の死は翌16日。この歌は、辞世ではなく、もっと以前に詠まれたものですが、彼の一生を閉じるにふさわしいみごとな歌です。
 時に73歳。同い年の清盛に遅れること9年、源平の盛衰を見つつの一生でもありました。

 その出家の理由は、不明です。いろいろな説があります。 
 中で1番ドラマチックなのが、待賢門院璋子様への叶わぬ恋です。それを主題にした本もあります(小説ではなくて、研究者の書いたもの)。視聴率の上がらないので話題の「平清盛」も、その説で行くようですね。

 今年は、2月15日は3月7日にあたりますが、例年もう少し遅く、おととしなどは、3月30日、きれいな望月でした。今年に即すると、このブログの内容は、少し早いのですが、暦に近いので、「決行」しました。

 昔は、春の盛りは、きさらぎの望月! そして、芭蕉の言うごとく、弥生も末の7日、27日はもう晩春で、上野も谷中も、桜は影も形もありません。

 西行の桜好きは当時から有名だったようですが、何かに執するというのは、桜であっても(恋人間は当然。親子の情であっても)僧侶としてはあってはならないことです。
 桜を見るのではなく、山籠りの修行をする、それにふさわしいのが、吉野山でした。

 西行の私家集『山家集』の「春」の部には、桜の歌が玉石混淆(西行だって石屑歌は結構あるのです)で、100首ほど続きます。
 仏道にも関係する歌を次回に幾つか。