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さっちゃんの源氏物語

「源氏物語」の楽しみ方、お伝えします

重陽の節句 2 (『紫式部日記』から) 

2011-10-21 22:21:27 | 紫式部

 寛弘5年9月9日。
 
 菊の着せ綿を、同僚の兵部のおもとが持ってきて、
「これは、殿の北の方(道長正妻源倫子)が、特別にあなたに、『これでしっかり念を入れて、老いを拭い捨てなさい』とおっしゃって、くださったのよ」と言うので、

 菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむ
   私はたいした年ではありませんので、少しばかり若返る程度に袖を触れるにとどめて、千年の
   命はこの花の露とともに、もとの持ち主にお返しいたしましょう。

と返歌を詠んでお返し申しあげようとするうちに、
「北の方はあちらにお帰りになりました」
ということなので、無用なことになってしまい、やめにした。

 『紫式部日記』に記載されています。
 
 びしばしと、火花が飛んでいるようでしょう。この時、倫子様は45歳、式部は多分10歳位年下です。45歳といったって、前年四女の嬉子を産んだくらいです。道長は43歳。この記載は、2人にと男女の関係があった後だと、研究者は推測しています。

 源氏物語でも、身分の低い相手に嫉妬を見せるのは普通です。
 これも、「もう年なんだから若い女のように夫の気を惹くのは無理、せいぜい若作りでもすれば」と倫子様。「ご心配は無用。若返りの薬は、千年も生きようとするあなた様にこそひつようでございましょう」というところでしょうか。
 「女房のくせに」売られた喧嘩の買いすぎです。実際に返歌をする気はなく、「日記の上だけのうさばらし」説もあります。 
         


「若紫やさぶらふ」

2011-05-20 09:14:31 | 紫式部

前回の、紫式部・藤原公任の心理バトルについて一言、です。

1008年9月11日、後の後一条帝の「五十日の祝い」が道長邸で盛大に行われました。大宴会のさなか、泥酔状態で女房にからみつくお偉いさんもいる中、公任様(当時左衛門督、あの柏木は右衛門督)が、式部さんの近くにに来て、「恐れ入りますが、このあたりに若紫の君がおいでですか」と言ったのです。
これに対して式部さんは、後に『紫式部日記』に、「源氏の君に似ていらっしゃる方もいないのに、あのお方(若紫)はましておいでのはずがないと、その言葉を聞いていた」と書きました。

公任様は、当然式部さんをなめています。この自分が、女子供の喜ぶ源氏物語なんかを読んでいて、しかも女房風情を若紫なんかに喩えて(でも若くもない彼女を若紫なんて呼ぶのは実は嫌味になることを意識してたのかな? 不明・疑問)、さりげなく花を持たせたつもりでしょう。道長家の看板女房ですからね。

同僚の女房が「あの方の前に出ると、歌を詠むのは勿論、声使いまで緊張して…」という、後には「三船の才」・「和漢朗詠集」で知られる、あの知のカリスマから、「源氏物語の作者がいるんだね。読んでいるよ、さぁ若紫よ、出ておいで。褒めてあげたいね」というお言葉をかけていただいた、という場面です。

式部さんの思いは、「あなた様は、源氏の君のおつもりかしら。とてもとても…。 そんな方はいらっしゃらないのですよ、この世には。理想ですもの」と、冷たく黙って御簾の向こうに座っていたのです。こういう沈黙って、どちらにとっても怖い時間でしょうが、式部さんは作家の目で見てたんですね、きっと。

このエピソードはよく話題にされ、公任に対しての紫式部の識見等、後世の評価はなかなか高く、さすがの公任もかたなし、と言われています。

それはそうですけれど、主家のコンパニオンでもある女房としたら、これでは務まりませんね。お歴々には、少納言さんみたいに、発止! と受け止めなくては。主家の評判にかかわります。