平安時代の平均寿命は、男性30代前半、お産で死ぬことの多かった女性は、30歳に達しなかったそうです。結婚年齢の早かったことも、納得できます。元服=男子の成人式 も早く、特に天皇・東宮は、一条帝以後早くなり、一条・三条・後一条と、11歳です。数え年ですから、小学4年生、いくら昔でも若すぎる年齢です。ついでに言えば、すぐに結婚した相手の定子は、その時中学1年。
源氏物語では、光源氏12歳・冷泉院11歳・今上13歳で元服・結婚です。
貴族の師弟たちは、上流でももう少し遅かったようです。『蜻蛉日記』の作者の息子道綱は、16歳です。天皇家と違って、即結婚ではありません。それに、こちらは私的な行事ですし通い婚ですから、年齢を明らかにするのは結構面倒です。それで、父の何歳の時の子かを見て、結婚年齢を想像してみます。
道隆 兼家25歳 道頼 道隆19歳 彰子 道長23歳
夕霧 光源氏22歳 柏木 頭中将22~3歳?
一族の将来は、優秀な子供たちにかかっているのですから、早め早めに子供も生まれたのでしょう。
柏木は、太政大臣になった元頭中将の長男です。母は、弘徽殿女御の妹で、まさに藤原本家のトップを約束された、セレブ中のセレブです。
この人が女二の宮と結婚したのが、多分31~2歳。女三の宮降嫁になのりをあげた時は23~4歳、猫を抱いて寝たのは、25~6歳の時。死んだのは、32~3歳です。
この年頃の光源氏。23歳、父院の死。24歳、藤壺出家。26歳、須磨下向。28歳、政界復帰。31歳、藤壺と組んで政界支配確立。
柏木の父は、光源氏より5~6歳上ですから、柏木の死んだ年の頃には、光源氏との権力闘争が始まっていました。
今上帝は、15歳で父になっています。柏木の年で、孫がいる人だっていたのです。
柏木は、当時の権力を狙う人たちの中にあって、年齢のわりに、あまりにも行動が若く幼い。老齢の光源氏を追い上げる若い世代、というイメージにはそぐわない人物です。だから、作者もそんなダイナミックな役割をこの人に負わせていないのでは、と思っています。
光源氏に知られないうちは、嫉妬めいた細々としたラブレターを寄こすのに、知られた途端に心身共に崩れ、直接皮肉を言われ睨まれて、死んでしまうなんて… 街角の掲示板で見る「きっと誰かが見ているぞ…」という防犯ポスターを見て、ある時、この人のことを思い出しました。知られなけりゃ、平気だったんでしょうかね。
右大臣邸で、面の割れた光源氏が見せたふてぶてしさ、そんなのが、まぁ若さってもんじゃなかろうか…? と。