
<体罰> 奈良の「熱血校長」小4男児に ご飯粗末にした Yahooニュース(毎日新聞)
何ともやるせないニュースを目にしました。
校長先生が振るった体罰に対するやるせなさなのか...いや、今回はちょっと事情が違います。
>奈良県三郷町の町立三郷北小学校で今月14日、給食のご飯を粗末に扱ったとして、岡本喜代治校長(59)が4年の男児の尻を強くたたいて転倒させるなどし、約1週間のけがを負わせていたことが分かった。岡本校長と同町教委は「行き過ぎた指導だった」として男児の家族に謝罪した。岡本校長は教育困難校の立て直しなどで実績があり、子どもと教師の心理についての著書も執筆。地元では「熱血校長」で知られている。
渦中の岡本校長は、記事にもある様に教育困難校の立て直しに実績があり、教育心理に関する本も出版し、地元でも名の知れた熱血校長として有名でした。
恐らく、今の学校教育の現場で一番求められているタイプの先生なのではないでしょうか―。
確かに体罰により生徒に怪我を負わせてしまった事に対しては非がありますが、その体罰に到るまでの経緯を見てみると、一概に校長先生ばかりに非があるとは言い難く、何ともやるせない気持ちになってしまいました。
>同町教委によると、男児の担任教師が13日、給食で茶わんに残った米を団子状にして天井に投げるのを目撃し、岡本校長に報告した。岡本校長は翌朝、登校してきた男児を校門前で見つけると、ほおをつかんで引き寄せ、尻を6~8回たたいた。男児は転倒し、足をすりむき、ほおにはつめ跡が残って血がにじんだという。男児はそのまま授業を受けたが、帰宅後、傷に気付いた家族が病院に連れて行き、全治1週間と診断された。岡本校長は同日夕、男児宅を訪れて謝罪。町教育長には15日朝、報告した。
「給食で茶わんに残った米を団子状にして天井に投げる」という行為は、学校教育の現場では決して看過してはならない行為でありましょう。
「熱血」という冠が付くぐらいの校長先生なので、きっとその行為を見過ごす訳にはいかなかったのだと思います。
>同小によると、岡本校長は「食べ物を遊び道具にするのは許されず、ここで指導しておかなければと強く思った」と説明したという。
「食べ物を遊び道具にするのは許されず、ここで指導しておかなければと強く思った」という当たり前の教育論が、なぜか先生の謝罪会見の場で示されてしまうこの違和感…

一体全体何がどうなってしまったのでしょうか。何かが狂っているとしか言い様がありません―。
日本はいつからこの様な窮屈な国になってしまったのでしょうか―。
別に体罰を容認する訳ではありませんが、その様な食べ物を粗末にする行為があったら、昔なら親も一緒になって我が子を叱っていたはずです。
それが先生の体罰にのみ焦点が当てられ、食べ物を粗末にした行為そのものは置き去りにされる現実は、学校教育の現場にありながら教育がなきに等しい現実を示している事に他なりません。
確かに生徒に怪我を負わせてしまった事に対する謝罪は成り立つのでしょうが、せめて謝罪を受けた親には、今回の先生の謝罪と我が子の行為(食べ物を粗末にした行為)には一線を引き、親の立場から我が子に対して厳しい躾を施して頂きたいものと感じます。
昔だったら、謝罪に訪れた校長先生に対して、親は謝罪を受ける以前に我が子の非を詫びていた様な気がします。
この謝罪が、本来あるべき教育の在り方に対する議論を歪めない事だけを願って止みません―。また今の世の中の風潮が、本当に教育熱心な先生方の萎縮に繋がらない事だけを願って止みません―。
まるで、教育熱心な先生達の自由に対するブルースが聞こえてきそうな今日この頃です。

【参考資料】
ブルース〔ポピュラー〕
一八六三年の奴隷解放後の人種差別主義、黒人排斥の社会機構を背景にして、労働歌(ワーク・ソング)や野良での叫び(フィールド・ハラー)といったアフリカ人的特質から生じた歌唱と白人社会に欧州経由で定着していたバラッドの形式というふたつの身近な音楽要素が融合されて一八九〇年代に生まれたといわれるアメリカ黒人特有の音楽。ブルースとは、辛く苦しい心理状態を指す言葉に由来し、音楽的にそうした気分を表現する楽曲が中心だったことからこの名称が用いられるようになった。当初メロディは即興的なものだったが、一九世紀末にギターが伴奏楽器として使用されるようになってから独特の三行形式一二小節という様式が一般化されたものと思われる。特に黒人労働者が多く居住していた南部では一九二〇年代には、数多くのブルース・ミュージシャンを輩出した。この時代に中心となった、地方の素朴で荒削りな表現はカントリー・ブルース、それに対して同時代だが、南部から北部の工業労働者の間で親しまれた洗練された表現はシティ・ブルース、と一般的に呼ばれる。カントリー・ブルースのほうは地域性を多少保ちながらひとつの民謡として残っていくが、シティ・ブルースは流行に敏感に反応しながら様々な変化を柔軟に吸収しつつ展開されていった。(『現代用語の基礎知識』2000年版より抜粋)
P.S.
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同じような意見を持って、私もログを書きました。
校長の体罰を容認するわけではありませんが、それ以上に、謝罪によって失われるものが大きいと思います。
食べものを粗末にしてはいけないという「あたりまえのこと」が、家庭で教えられなくなってきています。
この家庭もその中に入るのでしょうか。
偶然の一致でしょうか。
私もこのニュースを数日前に目にして、記事にしようとストックしていたものであります。
同じ意見をお持ちの方に共通している点は「体罰はいけない...しかしこのままで良いのか」という部分かと思われます。
それこそ悩ましい部分の問題ですね。
家庭の躾の崩壊が学校教育の崩壊を誘発していると言っても過言ではないと思います。
それにしても、その親の対応が気になるところです。
記事を見る限りでは、親が学校に抗議に行って謝罪が行われた経緯はなく、恐らく昨今の学校教育に対する風当たりから、学校側が自主的に両親のもとに謝罪に訪れたものと推測します。
しかし、親は謝罪を受ける以前に、まず息子の非を詫びるぐらいの姿勢は欲しいですよね。それで怪我をさせてしまった謝罪があり成り立つ話です。
体罰はあってはならないものですが、教育、躾にある程度の秩序は絶対に必要かと思われます。その悩ましい部分の問題と向き合いながら教育問題について考えていければと思っています。
久々、熱くなり、そして考えさせられたニュースでした。