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上条家と長尾家 林泉寺文書と高野山清浄心院「過去名簿」に見るその関係2

2010-05-11 09:07:15 | 直江兼続
前回、仙洞院の母は上条家出身であり、上杉景勝は長尾の血だけではなく上杉の血も引いていることを検証してみたのだが、高野山清浄心院「過去名簿」の注だけで御新造が天甫喜清を指しているというのは強引すぎるかもしれないと思い林泉寺文書の一つをあげてみたいと思う。

林泉寺文書は、景勝代より前の人たちの者だと思われる公族及び将士の戒名の羅列が何幅かにわかれているもののようだ。盂蘭盆会の時に城中に霊棚設置し合祀、法要した掛け軸みたいなものなのだろうか。最後のところに「…三幀今皆為林泉精舎什物」と読史堂主人の後書きがある。


(★この法名の上に卒した日付がのっていたのだが面倒で書かなかった。この日にちは清浄心院のものとぴたりと合い、多少法名の漢字に違いがあっても信用できると判断した。★霊位の上に字があったが読めなかったので省いた。おきまりの文だと思うが仏事はさっぱりなのでご容赦)


これは理圓祖芳禅定尼を供養したもののようだ。位牌の表と裏のように思える。

彼女が誰であるのかわからないが「六親眷属」を頼りに見ていきたいと思う。

まず上段ではじめに目に付いたのは高嶽正統、ぱっと見おお!!知っているとなった為景の父長尾能景だ。その左に玉江正輝清浄心院では玉江正禅 府中長尾老母の注がある。つまり為景の母ということになる。為景の父母、ご夫婦。
その右は前回書いてみた天甫御尊父と書かれている朴峰様である。彼は清浄心院では朴峰永浮。 更に右が為景御新造御腹様である春円慶芳。為景父母との並びで対比なのだから彼らが夫婦であるということがわかる。つまり天甫様の父母といえるだろう。
一番右の泰林安公は清浄心院によれば常泰泰林永安 上条播磨守である。天文五年卒、この時代の上条ハリマ守は上条定憲のことだろう。
左端に書いてある齢仙永寿は今までの系図では上条定憲に比定されていたが、上記の通り泰林安公が定憲なので彼が浮いてしまった形になった。しかしいままでの系図でも齢仙永寿の横の注に朴峰様御息安夜叉丸だの少弼入道などと載っていたわけで(朴峰様と注があるわりにはどの系図でも朴峰をのせてあるのをみたことがないが)、素直に彼は朴峰の息子であると判断したい。そうすればここに載っている意味が見てくる、天甫の兄弟というわけだ。朴峰の供養を依頼している上杉弾正少弼御新造様の、この上杉弾正少弼は齢仙永寿に比定できると思う。彼は大永二年に亡くなっているのだから、御新造様が供養依頼をしたのだろう。自分は齢仙永寿が天甫の時代の一家の長であったのでここに供養されているのではと思っている。
それでは泰林安公こと定憲についてはどう考えればよいのだろう。もし定憲が朴峰の息子だとしたら、彼は天文五年に亡くなっているので、天文四年卒の朴峰の供養するのは彼であるはず。しかも定憲の母は芳雲寺殿花芳公であると清浄心院名簿に載っている。この当時院号付きの戒名ならば身分が高いと見るべきで側室とは考えにくい。朴峰の息子としてこの並びにいるとするよりは、彼はこの理円祖芳の夫であると考えたい。

下段は道七沙弥為景とその御新造様天甫喜清が真ん中にいて、その横にはその子供達が取り囲んでいる。昌屋明玖は別の林泉寺文書のなかに載っていて注に崩し字なので自信はないが「なかざうのかみさま」と読める。大永6年に越後の国人達が為景に誓詞をを提出しているのだけれどその中の中条藤資のものは「ご縁家になりましたからには長尾為景どのの御子孫にたいし、弓を引き、不義致しません」(井上鋭夫著 上杉謙信より)とあるそうなので、中条家に嫁に行った人物だと考えてもよいのではないか。(なかざうのかみさまじゃなかったらごめんなさいだけど)他の子供達は前回みたので、親子関係を整理し、系図風に作ってみた。長尾政景夫妻像と比較してみたい。



六親とは自分に最も近い六種の親族。父・母・兄・弟・妻・子。または、父・子・兄・弟・夫・婦。と辞書にあった。系図からはみ出した人が夫という感じだなので定憲はやはり夫で、理円は仙洞院と同じポジションのようなので為景の子供であると考えられると思う。

政景夫妻像に載っている光室妙智大姉と理円祖芳大姉。この二人は上条に嫁ぎ、天甫喜清大姉は上条家からきた。晴景の嫁は上条出身の守護上杉定実の娘で定実には継室か側室かわからないが為景の娘が行っているという。

為景は定実を通じて上条家と婚姻を重ね、上杉家との関係強化を図っていた様子がこの文書や過去名簿によってよくわかると思う。










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26 Comments

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Unknown (波尾)
2010-05-13 16:15:55
初めまして。時々おじゃまさせていただいてました。鋭いご考察にいつもすごいなあと思っていました。
「越後国過去名簿」は、紹介された時からずっと私も疑問に思っていました。御年譜の「外姻譜略」には、長尾顕吉の法名が朴峰永諄 と書かれているので、百五十年後の年譜や謙信公御書集を編集した人間が、彼を栖吉長尾の人にしてしまったことが、すべての間違いのもとだった気がします。
近年、過去帳や過去名簿から新たな知見を得ることが少なくないですが、上杉氏(長尾氏)もしかりですね。
謙信の母を天甫ではないとされていますが、私はどうかなあと思います。通説の晴景の年齢から、異母兄弟とされるのだと思いますが、当初為景の後見が必要だったことから、当時晴景はかなり幼かったのではないでしょうか。通説の年齢では晴景は立派な大人ですが、下克上の時代を生きた為景は、そんな年になっても後見が必要なものを後継者とするほど馬鹿ではなかったと思います。一部の研究者は大永七年を晴景の生誕年にしていますが、可能性はあると思います。わざわざ三条西実隆が祝いの太刀を贈ったのは、京にまで噂が届いた待望の男子誕生だった可能性もあるんじゃないかと。
政景夫妻像に戒名がないのも、同じく戒名がない道五は、林泉寺文書では天甫の子とされているようですし。林泉寺文書と違って、政景夫妻像の戒名は、筆跡から素人目からみても、すべてが同じ時期に書かれたものとは思えないです。遺骸が米沢まで運ばれた謙信と違って、墓を越後に残さざるをえなかった人たちの戒名も書き加えて供養した可能性はないでしょうか。
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はじめまして波尾さん (rumix)
2010-05-14 03:37:35
コメントありがとうございます。そうですよね、編集した方が天甫さまごそんぷを見て、軍記物とかと照らし合わせ顕吉=朴峰にしてしまったのでしょうね。清浄心院でこの過去名簿を残して下さっていたおかげでこんな風に考えをめぐらせる事ができるって面白いですよね。

政景夫妻像が描かれたのは政景が亡くなってほどない頃ではないかといわれています。政景と共に逆修供養をしたのかもしれません。亡くなった身内もそれぞれの時期に供養していったのではと思います。
自分は娘の景虎室が書かれているのにそのすぐ前に亡くなった謙信が書かれていないことに違和感を感じました。なのでこれは仙洞院のプライベートなものだったのではと思ったのです。載っていないわけは生母が違うからではと。
公式な供養においてはその当時、当主に生まれた子供はすべて正室の子とされていたはずで、謙信や夫妻像に載っていない子供達が、天甫の子として載っていても不思議ではないと思いました。
晴景大永7年説は生まれた次の年に将軍の一字拝領があるとはとうてい思えないのできびしいのではないでしょうか。それに晴景と謙信の間に實芩一貞をはさむとすると更に苦しいのではないかと思ったのですが。でも晴景のことはまだろくに考えてはいなくて生年についてはよくわからないです。むしろ仙洞院の夫妻像から考えていったので色々な視点でみることを怠ったかなあと。謙信のは母天甫であるという視点からも考えて行かなくてはならないものでした。教えて下さってありがとうございます。
青岩院が栖吉長尾の娘というのも考え直さなくてはならないのでしょうか。(TmT)
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お久しぶりです (車懸)
2010-05-14 09:43:41
 いつも楽しく拝見しています。林泉寺文書は直接現地でご確認されたのでしょうか。その熱意には頭の下がる思いです。

 自分も波尾さん同様、「青岩院殿天甫輝清大姉」は一人の人物であると見ていますが、彼女の父が長尾顕吉とは別人であるとの見方にはもう一つ慎重でありたいと思うものです。
 しかし少し前から長尾顕吉が栖吉の上條氏の娘婿となり、「上條入道」と化した可能性を追求していますが、これといった確証には至っていません。顕吉は上田出身とも言われますね。青岩院と長尾房長の戒名がよく似ていますが、ここに傍証材料があるのかも知れません。

 後年、謙信が称した弾正少弼の官途がどこから継承されたかを考えると謙信の実母も上條方の血である可能性があるように思われます。というのも、能景・爲景・晴景が弾正少弼を称した明証が見当たらないんですよね……。彼らは信濃守か弾正左衛門尉、あるいは弥六郎止まりになっています。
 翻って当時の越後国内に「弾正少弼」を求めれば、上條上杉氏のみ。謙信は家督相続後、国主としての正当性を高めるためにこの上條氏から認可を得て朝廷に当官途の補任を奏請したのではないでしょうか。上杉頼房の逆修もこれに関連するかも知れません。

 そういう意味で、「青岩院が栖吉長尾」と緊密な関係にあるお考えには強く同意致します。
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Unknown (波尾)
2010-05-15 01:29:15
御返事ありがとうございます。また、詳しくご説明していただいてありがとうございました。

そもそも青岩院は江戸時代になって、為景ら長尾一族に院号が与えられた時に、天甫に与えられた院号だと思うので、謙信の母が天甫じゃないとしたら、通説の虎御前で区別して呼ぶべきでしょうか。でも、少なくとも天甫以外の為景の妻の存在は現在のところ、確実な史料では実証されないと思うのですが。
ただ、じゃあなんで母が栖吉長尾出身とされてしまったのかが、実をいうと私にもよくわかりません。軍記物はよくわからないのですが、北越軍記とかでも母は栖吉とされているんでしょうか。謙信が事実上古志長尾を継承し、権力確立に栖吉(古志)長尾が貢献したから、母もきっと栖吉だろうとされたのか、あるいは本当に母は栖吉であるという言い伝えがひそかに語り継がれていたのか。やっぱりおっしゃってるように栖吉長尾説も捨てられないような気がしてきました。

ただ車懸さんも書かれていますが、謙信の弾正少弼は「齢仙永寿」ゆかりのものだと思います。「越後過去名簿」で男性で院号があるのは、定実とこの「齢仙永寿」だけですよね。上条家当主と考えられる定明や定憲でさえも与えられていません。「齢仙永寿」は「過去名簿」では越後国主と同じ、あるいはそれに準ずる扱いを受けているんです。
永正の乱で定実の反抗を押さえつけた為景は、永正17年に水原氏に宛てた書状からわかるように、新しい守護を擁立する気満々だったことがわかります。じゃあ誰にするつもりだったのかと思えば、あくまでも想像ですが、妻の兄弟である「齢仙永寿」こと「上杉弾正少弼」だったんじゃないかと。彼はそれからまもなく大永2年に亡くなっているので若死にしたからか、あるいは系図に少弼入道と書かれてるので、為景の意に反して出家してしまったかで、為景の国主の首すげ替え計画はうまくいかなかったというのはどうでしょうか。「上杉弾正少弼」は定実の後継予定者であったと仮定すれば、謙信が定実死後この官途を名乗った意味もわかるような気がするのですが。あくまでも「過去名簿」からの妄想です(笑)

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お久しぶりです。車懸さん、波尾さんお返事ありがとうございます (rumix)
2010-05-15 04:40:48
熱意なんてとんでもない。何にもしていませんよ。林泉寺文書は伊佐早文書の中に収録されています。古文書は全く才能なしでそれでも仮名をようやく見分けられる程度になりまして、これについて書いてみたくなった次第です。

林泉寺文書の法名と清浄心院の法名と一致する名が多くてこれはすごい、さすが長尾上杉の菩提寺だと思いまして、更に感じたことは、それぞれの記録や文書に表れる為景の姉妹や娘達の嫁ぎ先がそれぞれの注に書かれていて、それらを裏打ちしてくれているということでした。
青岩院は栖吉の娘もいわれのないことではないと思えるのです。
この文書は三幅に分かれていてその一つに雲長院殿を供養した物があります。これには越後守護上杉家と長尾家ご先祖、為景関連、為景の子供達、為景の兄弟、親類が書かれているのですが、こしの○○(読めない)や自分にはくをほうしどのと読める栖吉系だなと思われる人物はいても上田長尾に比定できる人物は書かれていない。上田との繋がりは薄い様に感じます。

この為景の子供達はいっぱいいて、載っていない加治室や仙洞院、謙信を含めるととてもひとりじゃ産めないと思います。波尾さんのおっしゃる虎御前と青岩院をわけるは考えてみたい方向です。
「齢仙永寿」を守護にこれは面白いですね。手放しで賛成したくなります。

ですが弾正少弼はどうでしょうか。彼は実際は守護になっていない。守護をつぐという形での上洛でその官位をひきつぎたいとするなら定実の官位のほうが都の人にも越後国人たちにもわかりやすくないですか。当時の為景の思惑はどうあれ晴景は定実を守護に帰り咲かせた後のことなのですから。
官位は親から子へのほうが自分はしっくり来ます。
謙信の弾正少弼は従五位下に叙任されたからと単純に考えてはだめですかね。相伝されてきた弾正左衛門尉では六位で殿上できないからではないかとか。為景も霜台と呼ばれていましたし、謙信もですよね。官途は何がいい?じゃ霜台で。てな感じで。
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皆さんの投稿、よい刺激となります (車懸)
2010-05-15 19:02:06
 自分を含めて皆さんそれぞれ自説にはこだわりが感じられますから、無理に融合させようとしたり、押し付けあうことなく、よい影響を与え合えればよいかなあと思っています。管理人さんの発表された考察にも大いに考えさせられるところがありました。異論や反論など多くの反響があるやも知れませんが、ぜひ今後も考察の公表を続けて欲しいと思う者の一人です。

>波尾さん
 恥ずかしながら、青岩院の由来を初めて知りました。江戸時代におくられた名前だったのですね。いい勉強になりました。

> 水原氏に宛てた書状
 通説では「御屋形様が御定まりになったら」と読まれますが、実はこれ「守護から御定(御諚)をもらった上」と読む可能性はないかと思い続けていたんですよ。というのも定実に代わる守護候補で適切な人物がまったくないと思ったんですよね。しかし「越後過去名簿」を検討するようになってから、考えがあらたまりました。理由は波尾さんの推測に近い結論を見出したためです。自分のも実証に至らない推測の重ねがけですが、「上杉弾正少弼」の存在は謙信初期の権力基盤を考える上で欠かせないものだと思いつつあります。

>管理人さん
> 謙信の弾正少弼は従五位下に叙任されたからと単純に考えてはだめですかね。
 もちろんアリですよ! ただ、こうした可能性もあるんじゃないか、自分はこちらで考えてみていますと表明しているだけであって、お考えを否定するつもりはありません。
 諸説ある謎は、どれが正しいかなんてはじめからわかるものではないですから、各論者が自分の目星に従って追求するという手も大いに有効だと思います。例えば謙信の後継者問題もそうですね。両者並立説があり、景虎説があり、景勝説があり、と議論が議論を呼んで発展しています。
 これについては自分ももう少し考察を重ねた上で、どこかで提示していきたいと思いますw
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車懸さんありがとうございます。 (rumix)
2010-05-16 02:32:57
いつもやさしくフォローしてくれて本当に感謝しています。

林泉寺文書のたぶんメインの雲長院殿を供養した物。
この雲長院殿は誰なのか。横の注はじょうじょうさまともじょうじょうさま上ともじょうはさまとも読めます。御やしきやおしんぞうさまと読める人物などわからないことがたくさんあって、皆さんと共に考えていけたら心強いのにと心底思いました。ずうずうしいけれど、もしよろしかったらお願いできませんか。
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挑戦してみました (波尾)
2010-05-16 08:21:46
おはようございます。
実は、rumixさんが伊佐早文書であると書かれていたので、もしかしたらと思い、東大史料編纂所のデータベースで検索してみたら、ありました。
それで昨日一日、自分もPCとにらめっこしながら解読しようと頑張ってみました(自分の古文書読解力はゼロに近いのですが)。
雲長院殿は憲政のことだと思います。この院号は年譜の系図にも書かれていたので間違いないと思います。じょういさまと読める?、彼は確か出家して成悦あるいは成怡と名乗っています。
御やしきは長尾御屋敷小四郎のことだと思います。實~門の左隣の女性の法号は「越後過去名簿」のもありました。彼女は長尾御屋敷小四郎の母親です。天文23年に供養しているので、この長尾小四郎は椎名小四郎の父親に当るのでしょうか。だとするとこの女性は、能景の側室だった人、椎名小四郎の父と為景は異母兄弟ということになりますか?
あとは私のやまかんです。長尾小四郎の母親の隣の女性は、たかなしとのご老母?中条夫人はもしかしてかぢどのかみさま?その下の段為景の兄弟と思われる人たちでは、一番左の女性はかきざきとの御かみ?右から二人目はさんぽうじ殿ご老母?あとはよくわかりません。私のやまかんも間違ってる可能性大です。おしんぞうさまってもしかして定実夫人のことなんでしょうか?
最後の一幅に政景がいますね。ここに書かれてる笑山常喜は「過去名簿」にも記されていて大石源助が供養した人です。注もおおいし~と読めますか?だとすると政景は公族ではなく将士の一人として供養されていることになりますか。あくまでも府中長尾家の菩提寺だから当然なのかもしれませんが。そして最後の月窓妙心禅定尼の注が自分には御つぼ子(ね)と読めます。実は「過去名簿」に長尾殿御つぼ子が大納言殿娘を逆修供養したのがありましたけど、もしかしてこの人こそが為景の側室?なんて妄想しておりました。
以上あまり信用しないで下さい。
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成怡様!!! (rumix)
2010-05-16 13:47:33
波尾さんありがとうございます。

憲政ですか。
憲実をはさんで顕定、彼は房定の息子だからともかく、憲房があるのが不思議だったんですよね。憲政なら納得です。自分の憲政メモは「憲当、成悦、光哲、光徹、光巌、臨川寺殿立山光建、慶雲院殿泰公宗栄大禅定門」だったので最初から除外しておりました。定実の嫁御かなとぼんやり思っていたりして。本当に心強い。

以下別筆とかかれているおつぼね「月窓妙心禅定尼」は越後供養帳第二の中に同じ法名があります。寛永7年4月21日に西明寺で大量供養してるっぽいので、亡くなった日とかわからないし、同一人物かもわからないですけど。下田のお寺のようです。

それと将士の方の二番目の楽翁は加治春綱のことですから注はかぢあきのかみと読めます。だから昌屋さんはかぢではないと思います。

御やしきの一峰さんなんですが、すると彼は椎名小四郎なんですか。おしんぞうさまが彼の妻
ということですよね。
この人父親の方とかはないでしょうかね。為景御舎弟という。林泉寺過去帳の中に一峰の下は違うんですけど、火事で他の寺から来たみたいなことが書いてて為景舎弟だという人。この一峰が共通していることが気になっているんですよね。でもそうすると小四郎母がこの並びだと浮くかなあ。高梨母は為景娘ですよね。

真ん中にその代の偉い人が来ている感じなので、一峰さんの並びのさんぽうじどの御ろうぼとかきざきどの御かみは能景の子供達だからそういう並びなのかと思ったのです。
でも御やしきとおしんぞうさまが逆修で自分たちも含めて供養している物だと思うので、身内の並びとかは少し自由にできたのかなあとも思ったり。

読み解けていくと面白いですね。

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Unknown (波尾)
2010-05-17 17:58:19
こんにちは。
確か憲政は位牌を作り替えてて、その時に新しい院号が与えられてたような気がします。確認してないんですが、雲長院は古い院号なのかもしれません。
月窓妙心さんの情報ありがとうございます。下田のお寺ということは、下田出身なんでしょうか?あくまでも同一人物としたらですが。
長尾御屋敷小四郎は自分も下の段の御やしきと同一人物だと思い、椎名小四郎の父かなあと思ったんですが、よくわかりません。
為景母が上の段に書かれてるので、御やしきの母のほうは一段下に書かれのかなあなんて妄想したりしたんですが。
ただ自分はこれは、御やしき夫婦の逆修供養ではない可能性もあるんじゃないかなあと思います。
憲政が書かれていることから御館の乱後、仙洞院の名もないことから、彼女が死ぬ前に書かれたものじゃないかと思いました。
長尾家の法名を見てみると、重景院号が与えられてますが、能景以下は与えられてません。
直江兼続が死後貶められたとする説で、死後百年たってようやく院号が与えられたことを理由にする人がいますが、自分は本当にそうだろうかと思っています。むしろ当時国主以外の階級に院号が与えられるほうがおかしかったのではないか?
そういった人たちには、兼続と同じように江戸時代の追善供養の際に院号が与えられたのではないのかと思っています。
だから長尾家の人たちも、おそらく百回忌に院号が与えられたんじゃないかと仮定して、重景の百回忌の1582年以降、能景の百回忌である1607年前に記されたものかなと想像しました。
やはり謙信の名前がありませんが、謙信様は別格扱いということで。

車懸さん、というわけで青岩院がいつ贈られたかは、なんの裏付けもないあくまでも自分の想像です。すみません。


「越後過去名簿」が紹介されてから、すでに二年以上がたちます。通説を否定する論考が次々発表されるかもとすごく期待していましたが今までのところ未だみたいですね。
自分は早々と青岩院天甫の父は栖吉じゃなく、上条入道朴峰と結論して、自分では大発見したつもりだったんですけど、研究者が沈黙されてるので(自分が論考を読んでいないだけなのかもしれませんが)、自分の妄想がおかしいのかなあと不安に思ったりもしてました。
rumixさんも同じように考えておられたんだと、思わず嬉しくなってコメントしてしまいました。結構皆さん気づいてられたんですね。これからいろいろ発表されるかもしれませんね。

林泉寺文書ももっと時間があれば、もっと読めそうな気がするので、時間のある時に再チャレンジしてみようと思います。
rumixさんのすばらしご考察も期待してます。
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