野尻池で船遊びの最中溺死したとされる景勝の父、長尾政景。
謎に包まれた彼の死、諸説あるが昨今のはやりは下平修理犯人説なのだろうか。
『天地人』を読んだとき、なんで下平とちらっと思ったけど、学研M文庫の近衛龍春の『上杉景勝』でも下平が犯人だったので、思わず『天地人』を読み返してしまった。
出典が『越後古実聞書』で「―政景公を野尻ノ池へ沈め給う時、政景公水練に成られ御座候ゆえ、水中にて下平ずたずたに成らる。三十間ほど遠くへ浮かべうかい出て給い、岸へ寄り給うを鑓にて失い申すなり。と書かれている。」と『天地人』内に載っている。なまなましい事この上ない。(書かれていない―のこの部分には謙信が信州から帰ってきたとき、下平の力を借りて溺死させるみたいな謙信の関与を匂わせることが書かれていた気がするのだが‥)
NHKのWEBマガジン火坂氏の『直江兼続をめぐる人々』の中で謙信麾下の上野家成との所領争いで政景は自分の家臣下平の利益よりも、越後全体の治安回復を優先し上野に譲歩、以来下平は主君を深く恨むようになって船遊びの隙をねらって斬りかかった。と補足している。
『上杉景勝』では、例の上野家成との土地争いで下平方だった大熊朝秀が(領地争いが発端で本庄実乃、直江景綱等と対立、武田へ奔った)信玄の指示で下平から政景に寝返るように説得させたところ拒否られたので船遊び中宇佐美共々下平が殺害。
asahi.comのマイタウン新潟では小出町史に書かれているという記事で、酒宴の相手は千手城主の下平修理亮。魚野川に浮かべた舟の上で言い争いになり、2人とも転落して死亡した。というのが異説として載っている。
下平犯人説も小説の題材になるそれなりの史料があり、『北越軍記』ベースの宇佐美犯人説がどうもあやしいとなればそちらに行きたくなる気持ちはわかる気がする。
『異説もうひとつの川中島合戦―紀州本「川中島合戦図屏風」の発見 』などの本で軍師宇佐美定行、その資料集などは、紀州藩で越後流軍学を教授した宇佐美定祐のねつ造。しかも定祐自体「大関佐助」で紀州藩主徳川頼宣が宇佐美を再興させ子孫を名乗らせたとか。もしかしたら本当は越後大関氏(水原親憲の実家)の子孫で大ヒットドリーム本『北越軍記』を書いただけだったのかもしれないのに、紀州藩の大がかりな詐欺(将軍の後継者争いに敗れた紀州藩が自藩のアイデンティティ確立のため甲州流軍学に対抗し上杉流軍学を作り出したというのが昨今の説)の片棒担がされたのかもしれないけど、後、米沢藩に拾われ幕府に提出した『上杉将士書上』や『川中島五箇度合戦記』(どれも北越軍記ベース)にかかわっていたらしいし、それが公式文書として出されたとなればやっぱり彼も詐欺師だろう。こういう経緯を知ってしまうと宇佐美と名のつくものすべてがうさんくさく感じられる。
なにせ『北越軍記』の宇佐美定行は謙信の心と越後争乱の未来を慮って、自己犠牲のもと武田から接触を受けた政景を野尻湖の船遊びに誘い出し、あらかじめ船底に穴を開けておき、説得が無理とわかると穴の栓をぬき舟を沈め、政景の腰をつかみ溺死させる。ご丁寧に謙信の命令ではないことを匂わせるため宇佐美家を改易させてくれとの遺書つきで。こういくらドリームでもまばゆ過ぎる。
軍師定行はドリームだがモデルといわれる宇佐美定満は実在した。上条上杉の家臣で宇佐美房忠の息子といわれる。永正4年(1507)長尾為景が越後守護上杉房能を殺害、上条上杉定実を守護におしたてる。永正6年弟房能を殺害された兄関東管領上杉顕定が越後に攻め込む。このとき中心になり為景が一番頼りにしたとされるのが、宇佐美房忠。永正7年関東管領顕定戦死。永正の乱は終結みるが越後守護上杉定実は為景の傀儡でしかなかった。永正10年宇佐美房忠はこの状況を良しとせず、定実と実家の上条城主上杉定憲と相談し挙兵。為景は定実を幽閉、宇佐美房忠は小野要害岩手要害を落とされ一族討死に。このとき宇佐美定満がひとり逃れたとされる。宇佐美は琵琶島城奪還を試みるもうまくいかず、長尾房長に拾われ、上田長尾から知行を得ていたと言われている。享禄3年(1530年)上条定憲が揚北衆、上田長尾を味方に付け打倒為景の兵を挙げる(上条の乱)。天文5年(1536年)宇佐美定満等は府中を攻撃、為景四面楚歌になり息子晴景に家督をゆずる。翌年為景死去。謙信(8歳)は鎧に身を固め葬儀に出たという。晴景は幽閉していた定実を守護に戻し、長尾政景と揚北の加地春綱に妹を嫁がせる事で講和した。宇佐美定満はこの時、守護方に戻ったと思われる。晴景に力なく、謙信に人望が集まり、晴景VS謙信の様相をみせ、長尾房長、政景親子は晴景を支援した。天文17年定実は調停に乗り出し、謙信を晴景の養子にし守護代を相続させることで話をまとめた。上田長尾親子は反発。天文18年反乱を起こした。宇佐美は謙信側についた。
天文18年6月20日に本庄実乃より平子氏に宛てた手紙に
「宇駿(宇佐美駿河守定満)要害において火付けのこと仰せこされ候、以前宇駿へ差し越され候御書中披見申し候によりて、曲なくと存じ候、さて実儀に候はば、たとへご新造きはめての近き御しんるいにて候とも、一日も味方中の要害・たて火付け候はば御方の御沙汰たるべく候、もっともその見過ぎなく候は、宇駿の縄付け同前に当地へ差し越さるべく候、此方において景虎そのあつかいに及ぶべく候ゆえ、友昭向後においても過ぎめいはくにも御座候よし、その御あつかいしかるべく候、御目に懸けられ候間、存じ寄り候ところ、其のまま申しのべ候、金沢方とかく申され候につき、曲なくのよし申し候、相替わる儀候は、申し入れるべく候、恐々謹言」(「武州文書」三)
宇佐美定満の居城が何者かに放火された事件で、政景が疑われており、謙信の近い親類(御新造きはめての~)でも許されない。知っていることを話して欲しいとの手紙で政景の反乱に断固足る処置を執るという謙信側の表明文である。
政景側が宇佐美の居城に火を付けたと言うところに注目すれば、困っているところに知行を与え優遇してやったのに此の仕打ちかよ。という上田長尾の裏切られた気持が見えないか。もっとも天文20年政景が謙信に降伏したとき、謙信の家臣達が助命嘆願してくれたらしいがその中に宇佐美もいた気がするのだが。政景は謙信の家臣となり宇佐美とは同僚となるわけである。いろいろとお互い複雑な思いをもっていたのかもしれない。
宇佐美は宇佐美で自分は謙信に遠ざけられていると愚痴の手紙が残っており、謙信のためにお家断絶の自己犠牲をするとかちょっと考えられない。
謙信の命令でとなると何か子孫に対する約束なしには考えられないが、定満の子勝行は、上杉氏を去って佐々成政や小西行長に仕えたりしているわけで景勝の代の分限帳からは宇佐美の名は消えている。
下平修理はどうだろうか。下平氏は上田長尾麾下、妻有千手城主である。元は信州東筑摩郡で今井という地名から発した家で今井を名乗り越後の中魚沼上郷あたりに住み着いた。(上郷城もしくは今井城)そのなかで妻有下平付近に居城を構えた一族が下平を名乗ったとされる。
有名な上野家成との土地争いは天文23年(1554年)訴訟にと発展した。謙信の裁定で下平に理があると上野に土地の返還するよう判決が下った。しかし8月不満に思った上野の方から訴訟を起こした。この時謙信の奉行は本庄実乃と直江景綱、大熊朝秀でこの三人で文書を出したりしていた。上野を押す本庄と下平を押す大熊。本庄直江は守護代長尾家家臣であり、大熊は守護上杉の家臣であった。この所領争いは、2派閥の代理係争となり、嫌気の差した謙信は出奔。その間に大熊は孤立。越中に逃れた。武田、芦名の後押しがあり大熊は越後に攻め入るが先陣を買って出た上野家成に撃退され武田に奔った。結果上野側の主張が通ることになったという。
裁定には大熊本庄に調査をゆだね、謙信が判決を下しており、その後は本庄主導で判決がおりている。下平が恨むとしたら本庄実乃であり政景が大熊排除に動いたとしても全体の空気がそうであったのかも知れず、土地争いは入部以来の恒例行事で訴訟から8年もたって殺害動機となるかと言えば首をかしげたくなるがどうだろうか。
上野と争った下平修理は下平修理吉長、下平勘助吉長などの表記がみられる。永禄2年(1559年)に下平勘助吉長の名で長福寺への寄進状がある。彼の名前がわかるのは永禄2年までで其の後は弥七郎の名前が出てくるようになる。
弘治3年(1557年)第三回川中島上野原の戦いで政景は下平弥七郎に感状を出している。政景が亡くなった後の永禄7年(1564年)の関東侵攻佐野合戦では謙信から感状が出ており、彼がこの戦いで怪我をしたという記事もある。この下平弥七郎は一族なのか息子なのかわからない。
永禄13年(1570年)の佐野合戦の時は下平右近亮に謙信、景勝、長尾時宗から感状が出されている。
下平一族は宇佐美一族に比べ政景死後も第一線で活躍していることがわかる。
下平犯人説の状況証拠となるものがあるとすれば、上田長尾家臣であったにもかかわらず御の乱のとき三郎景虎側についたことだが、下平修理の息子とされる今井源右衛門国広は景勝側についてばりばり活躍、感状を貰い笹岡城を任されたほど信頼が厚い。樋口兼豊が直峰城主となるとき同心衆として下平彦兵衛の名があるのをみても、本庄繁長や河田長親のように一族内で両方に分かれて戦ったのではないかと思われる。あるいは上野が景勝に付くなら俺はこっちだみたいな(やはり土地争いをしていた揚北衆の有力者、中条(景勝側)と黒川(景虎側)はこうして分かれた。)ことだったのかもしれない。いずれにしろ景虎側に付いた下平氏は敗走し、本家のある今井氏の居城上郷城に逃れたことがわかっている。
以上下平と宇佐美の背景を書き出してみた。没落した宇佐美に比べ下平犯人説は弱いのではと思う。長くなったので次回溺死事件Ⅱにて。
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謎に包まれた彼の死、諸説あるが昨今のはやりは下平修理犯人説なのだろうか。
『天地人』を読んだとき、なんで下平とちらっと思ったけど、学研M文庫の近衛龍春の『上杉景勝』でも下平が犯人だったので、思わず『天地人』を読み返してしまった。
出典が『越後古実聞書』で「―政景公を野尻ノ池へ沈め給う時、政景公水練に成られ御座候ゆえ、水中にて下平ずたずたに成らる。三十間ほど遠くへ浮かべうかい出て給い、岸へ寄り給うを鑓にて失い申すなり。と書かれている。」と『天地人』内に載っている。なまなましい事この上ない。(書かれていない―のこの部分には謙信が信州から帰ってきたとき、下平の力を借りて溺死させるみたいな謙信の関与を匂わせることが書かれていた気がするのだが‥)
NHKのWEBマガジン火坂氏の『直江兼続をめぐる人々』の中で謙信麾下の上野家成との所領争いで政景は自分の家臣下平の利益よりも、越後全体の治安回復を優先し上野に譲歩、以来下平は主君を深く恨むようになって船遊びの隙をねらって斬りかかった。と補足している。
『上杉景勝』では、例の上野家成との土地争いで下平方だった大熊朝秀が(領地争いが発端で本庄実乃、直江景綱等と対立、武田へ奔った)信玄の指示で下平から政景に寝返るように説得させたところ拒否られたので船遊び中宇佐美共々下平が殺害。
asahi.comのマイタウン新潟では小出町史に書かれているという記事で、酒宴の相手は千手城主の下平修理亮。魚野川に浮かべた舟の上で言い争いになり、2人とも転落して死亡した。というのが異説として載っている。
下平犯人説も小説の題材になるそれなりの史料があり、『北越軍記』ベースの宇佐美犯人説がどうもあやしいとなればそちらに行きたくなる気持ちはわかる気がする。
『異説もうひとつの川中島合戦―紀州本「川中島合戦図屏風」の発見 』などの本で軍師宇佐美定行、その資料集などは、紀州藩で越後流軍学を教授した宇佐美定祐のねつ造。しかも定祐自体「大関佐助」で紀州藩主徳川頼宣が宇佐美を再興させ子孫を名乗らせたとか。もしかしたら本当は越後大関氏(水原親憲の実家)の子孫で大ヒットドリーム本『北越軍記』を書いただけだったのかもしれないのに、紀州藩の大がかりな詐欺(将軍の後継者争いに敗れた紀州藩が自藩のアイデンティティ確立のため甲州流軍学に対抗し上杉流軍学を作り出したというのが昨今の説)の片棒担がされたのかもしれないけど、後、米沢藩に拾われ幕府に提出した『上杉将士書上』や『川中島五箇度合戦記』(どれも北越軍記ベース)にかかわっていたらしいし、それが公式文書として出されたとなればやっぱり彼も詐欺師だろう。こういう経緯を知ってしまうと宇佐美と名のつくものすべてがうさんくさく感じられる。
なにせ『北越軍記』の宇佐美定行は謙信の心と越後争乱の未来を慮って、自己犠牲のもと武田から接触を受けた政景を野尻湖の船遊びに誘い出し、あらかじめ船底に穴を開けておき、説得が無理とわかると穴の栓をぬき舟を沈め、政景の腰をつかみ溺死させる。ご丁寧に謙信の命令ではないことを匂わせるため宇佐美家を改易させてくれとの遺書つきで。こういくらドリームでもまばゆ過ぎる。
軍師定行はドリームだがモデルといわれる宇佐美定満は実在した。上条上杉の家臣で宇佐美房忠の息子といわれる。永正4年(1507)長尾為景が越後守護上杉房能を殺害、上条上杉定実を守護におしたてる。永正6年弟房能を殺害された兄関東管領上杉顕定が越後に攻め込む。このとき中心になり為景が一番頼りにしたとされるのが、宇佐美房忠。永正7年関東管領顕定戦死。永正の乱は終結みるが越後守護上杉定実は為景の傀儡でしかなかった。永正10年宇佐美房忠はこの状況を良しとせず、定実と実家の上条城主上杉定憲と相談し挙兵。為景は定実を幽閉、宇佐美房忠は小野要害岩手要害を落とされ一族討死に。このとき宇佐美定満がひとり逃れたとされる。宇佐美は琵琶島城奪還を試みるもうまくいかず、長尾房長に拾われ、上田長尾から知行を得ていたと言われている。享禄3年(1530年)上条定憲が揚北衆、上田長尾を味方に付け打倒為景の兵を挙げる(上条の乱)。天文5年(1536年)宇佐美定満等は府中を攻撃、為景四面楚歌になり息子晴景に家督をゆずる。翌年為景死去。謙信(8歳)は鎧に身を固め葬儀に出たという。晴景は幽閉していた定実を守護に戻し、長尾政景と揚北の加地春綱に妹を嫁がせる事で講和した。宇佐美定満はこの時、守護方に戻ったと思われる。晴景に力なく、謙信に人望が集まり、晴景VS謙信の様相をみせ、長尾房長、政景親子は晴景を支援した。天文17年定実は調停に乗り出し、謙信を晴景の養子にし守護代を相続させることで話をまとめた。上田長尾親子は反発。天文18年反乱を起こした。宇佐美は謙信側についた。
天文18年6月20日に本庄実乃より平子氏に宛てた手紙に
「宇駿(宇佐美駿河守定満)要害において火付けのこと仰せこされ候、以前宇駿へ差し越され候御書中披見申し候によりて、曲なくと存じ候、さて実儀に候はば、たとへご新造きはめての近き御しんるいにて候とも、一日も味方中の要害・たて火付け候はば御方の御沙汰たるべく候、もっともその見過ぎなく候は、宇駿の縄付け同前に当地へ差し越さるべく候、此方において景虎そのあつかいに及ぶべく候ゆえ、友昭向後においても過ぎめいはくにも御座候よし、その御あつかいしかるべく候、御目に懸けられ候間、存じ寄り候ところ、其のまま申しのべ候、金沢方とかく申され候につき、曲なくのよし申し候、相替わる儀候は、申し入れるべく候、恐々謹言」(「武州文書」三)
宇佐美定満の居城が何者かに放火された事件で、政景が疑われており、謙信の近い親類(御新造きはめての~)でも許されない。知っていることを話して欲しいとの手紙で政景の反乱に断固足る処置を執るという謙信側の表明文である。
政景側が宇佐美の居城に火を付けたと言うところに注目すれば、困っているところに知行を与え優遇してやったのに此の仕打ちかよ。という上田長尾の裏切られた気持が見えないか。もっとも天文20年政景が謙信に降伏したとき、謙信の家臣達が助命嘆願してくれたらしいがその中に宇佐美もいた気がするのだが。政景は謙信の家臣となり宇佐美とは同僚となるわけである。いろいろとお互い複雑な思いをもっていたのかもしれない。
宇佐美は宇佐美で自分は謙信に遠ざけられていると愚痴の手紙が残っており、謙信のためにお家断絶の自己犠牲をするとかちょっと考えられない。
謙信の命令でとなると何か子孫に対する約束なしには考えられないが、定満の子勝行は、上杉氏を去って佐々成政や小西行長に仕えたりしているわけで景勝の代の分限帳からは宇佐美の名は消えている。
下平修理はどうだろうか。下平氏は上田長尾麾下、妻有千手城主である。元は信州東筑摩郡で今井という地名から発した家で今井を名乗り越後の中魚沼上郷あたりに住み着いた。(上郷城もしくは今井城)そのなかで妻有下平付近に居城を構えた一族が下平を名乗ったとされる。
有名な上野家成との土地争いは天文23年(1554年)訴訟にと発展した。謙信の裁定で下平に理があると上野に土地の返還するよう判決が下った。しかし8月不満に思った上野の方から訴訟を起こした。この時謙信の奉行は本庄実乃と直江景綱、大熊朝秀でこの三人で文書を出したりしていた。上野を押す本庄と下平を押す大熊。本庄直江は守護代長尾家家臣であり、大熊は守護上杉の家臣であった。この所領争いは、2派閥の代理係争となり、嫌気の差した謙信は出奔。その間に大熊は孤立。越中に逃れた。武田、芦名の後押しがあり大熊は越後に攻め入るが先陣を買って出た上野家成に撃退され武田に奔った。結果上野側の主張が通ることになったという。
裁定には大熊本庄に調査をゆだね、謙信が判決を下しており、その後は本庄主導で判決がおりている。下平が恨むとしたら本庄実乃であり政景が大熊排除に動いたとしても全体の空気がそうであったのかも知れず、土地争いは入部以来の恒例行事で訴訟から8年もたって殺害動機となるかと言えば首をかしげたくなるがどうだろうか。
上野と争った下平修理は下平修理吉長、下平勘助吉長などの表記がみられる。永禄2年(1559年)に下平勘助吉長の名で長福寺への寄進状がある。彼の名前がわかるのは永禄2年までで其の後は弥七郎の名前が出てくるようになる。
弘治3年(1557年)第三回川中島上野原の戦いで政景は下平弥七郎に感状を出している。政景が亡くなった後の永禄7年(1564年)の関東侵攻佐野合戦では謙信から感状が出ており、彼がこの戦いで怪我をしたという記事もある。この下平弥七郎は一族なのか息子なのかわからない。
永禄13年(1570年)の佐野合戦の時は下平右近亮に謙信、景勝、長尾時宗から感状が出されている。
下平一族は宇佐美一族に比べ政景死後も第一線で活躍していることがわかる。
下平犯人説の状況証拠となるものがあるとすれば、上田長尾家臣であったにもかかわらず御の乱のとき三郎景虎側についたことだが、下平修理の息子とされる今井源右衛門国広は景勝側についてばりばり活躍、感状を貰い笹岡城を任されたほど信頼が厚い。樋口兼豊が直峰城主となるとき同心衆として下平彦兵衛の名があるのをみても、本庄繁長や河田長親のように一族内で両方に分かれて戦ったのではないかと思われる。あるいは上野が景勝に付くなら俺はこっちだみたいな(やはり土地争いをしていた揚北衆の有力者、中条(景勝側)と黒川(景虎側)はこうして分かれた。)ことだったのかもしれない。いずれにしろ景虎側に付いた下平氏は敗走し、本家のある今井氏の居城上郷城に逃れたことがわかっている。
以上下平と宇佐美の背景を書き出してみた。没落した宇佐美に比べ下平犯人説は弱いのではと思う。長くなったので次回溺死事件Ⅱにて。
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