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直江兼続は湯沢町出身だとこっそりと思う。

2008-08-07 14:04:42 | 直江兼続
「直江兼続は、永禄3年(1560年)越後国南魚郡上田庄の坂戸城下で生まれました。」とか「直江兼続公生誕の地 南魚沼市」とかよく見るけど、湯沢だって上田庄なんだし、坂戸城が上田長尾の主城なら湯沢で生まれても坂戸城下で生まれましたでもかまわないと思う。
お気に入りのHPにも『御館の乱で景勝側について活躍した樋口主水助の知行地は南魚沼郡湯沢町にありました。「主水屋敷」という地名はJR越後湯沢駅の近くにあり、主水助の居館跡は現在、公園になっています。』とあるように、叔父さんの知行地が湯沢にあった→一族の知行地がここにあった。だと思うんだけど、どうだろうか。

城平城主樋口主水守の名が主水大岳寺の縁起にあるという。
樋口家の系図にある兼久が主水助で兼豊の兄弟ではないかと言われている。兼続の叔父さんというわけだ。
主水助は御舘の乱で北条に攻められ、荒戸城で戦死している。
上記のHPの中に『景勝は「坂戸城を死守するように」との厳命の文書を出しています。その宛名には登坂与五郎、樋口主水助、深沢刑部、栗林政頼らの名前があります。』とある。つまり兼続が世に出る前にすでに城平城主であり、坂戸城代で景勝の後見人でもある栗林と並列で名前が記される地位にあったということだ。

役場の近くにある魚沼神社の社伝に樋口伊予守の屋敷がこのあたりにあったと伝えられているそうだ。天正六年(1578)、上杉景勝家臣樋口伊予守元兼の社殿造営の棟札があるという。樋口伊予守は父兼豊のことでしょう。主水公園のあたりから城平地区、魚沼神社のあたりまで樋口家の知行地だった、もしくはそこの土豪だったのではないかと思っている。
お屋敷があるのなら樋口与六兼続はここで生まれたと思うのが自然ではないか。
兼豊が御家老で城詰めしていたとしても奥方は自分の屋敷で子供を産むと思う。

仙桃院は常に樺沢城にいたと言われているし、胞衣塚もあるように景勝は樺沢城で生まれたが主流のようだ。父政景も春日山城に一番近いので情報を得やすく、動きやすいことから、セカンド政庁として樺沢城にいたのではないかという研究もあるらしい。
喜平次&与六が幼少期を母親が側にいる樺沢城で過ごしていたらいいなと思う。
坂戸城でももちろんいいんだけど、雲洞庵‎でお勉強しなくちゃならないし。





よく見る『仙桃院に見いだされ』も、父の身分が低かったが念頭にある言い方に思えてちょっといやだ。別に仙桃院に見いだしてもらわなくても、上田衆の上級家臣で年が近いなら、ご学友、御近習に選ばれるのはむしろ当然のことではないか。ご学友、御小姓は他にもいっぱいいただろうし。むしろその中で目をかけられたというのならわかる。なにせまだまだちびっこだけど美貌でかしこいんだからね。




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