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上条家は謎だらけⅡ 系図から

2010-12-07 01:34:14 | 直江兼続


浅羽本上条家の部分を抜粋してみた。特徴は房実の子供が上杉頼房・某兵庫頭と書かれている事。越後守護家の方に書かれている定実(養子にいった子供は養子先のみの掲載)の註に兵庫頭、猶子実房実子と載っているので3兄弟ということになる。
それと清方の嫡男と思われる定顕がのっていること。彼も兵庫頭である。
この兵庫頭のオンパレードは何か意味することはあるのだろうか。
はじめ某が兵庫頭と書かれているのは定実との混同だと思った。同時期に兄弟で兵庫頭はないだろうと思ったからなのだが、清方兵庫頭-定顕兵庫頭-定実兵庫頭-某兵庫頭と言う風に並べるとこれは上条宗家を指しているのではないかとちらりと思った。しかし某には上条少弼入道の註があるので、弾正少弼である可能性が高いと思う。この件は後で検証してみたい。

定実はともかく下記に載せた天文系図や清浄心院に出てくる十郎定明や朴峰の年代がすっぽりぬけているのはなぜだろうか。
彼らは房能と同年代であろうからそのとき立て続けに起こった房能、顕定、宇佐美、上条定憲との争いの混乱で、後世史料を確認する段階でわからなくなってしまった事が考えられる。この浅羽本の成立時期は、幕府提出のため、定勝が林羅山に系図作成を依頼したものか、それ以降のもの。深谷上杉の系図を参照に作られたのものが基礎になっているという。(参考片桐昭彦氏「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」)
武蔵の深谷上杉に越後の分家庶家の系図までわかれというのは酷な話で、それでもこの浅羽本は上条上杉最後の人物頼房と兄弟某が載っている。清浄心院名簿において、大永年卒の彼の名前はわからず某、天文二十二年卒の謙信だと思われる人物春日山平三が供養した頼房の記録はかろうじてというところなのだろうか。





こちらも上条家(最勝院殿御家と房実(朝日寺殿)の御息だという定実のみ(当国太守次第=越後守後家)をピックアップしてみた。上記系図と比較するとその違いは陽谷院殿天祥祖晃である十郎定明が新たに加わり、文字だけだが朴峯が出てきたことである。そして浅羽本の某が、上条少弼入道の事也と書いてあることで長福院殿齢仙永寿が彼の事だとわかる。上記浅羽本では頼房が上に書いてあったが実は某=長福院殿で頼房は御舎弟だということ、このぐらいだろうか。
頼房は定実の御孫これはないだろう。長福院は朴峰の息子だから頼房の父も朴峰ということになる。すると定実は朴峰の父と言うことになり、御曹司定実は文亀3年に初嫁を貰う予定だったのだから、朴峰は文亀4年(1504年)に生まれて、しかも嫁のいる大永2年(1522年)に没っした息子長福院を持っていなければならないのは物理的に無理がある。この長福院が15才で結婚しその年に亡くなったとして1507年生まれ。定実が頼房の祖父になるには最短で考えても朴峰3才ぐらいで嫡男を生まなくてはならなくなる。普通に考えれば頼房は房実の御孫ということになるだろう。

天文上杉長尾系図の制作時期は、こちらも片桐昭彦氏の「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」を参考にさせていただくと、定実の所に死没日時が天文十九年二月二十六日が註として載っているので、制作された時期はこれ以降で、御当方御系図の山内上杉において誤りも多く、諱がわからず法名しか記載されていないものもあることから、上杉憲政が系図その他を謙信に譲る前に作成されたもの。更に狭めれば、後ろに代々の長尾氏の法名が記載されているのだが、景虎の箇所は明らかに後筆で、長尾晴景の法名は書かれていない。このことから晴景死亡前、天文二十二年二月(清浄心院は天文二十年)より前に作成された可能性があるという。
山内上杉に連なる最勝院殿御家の最後の当主頼房の法名が載っており越後守護家とその血縁上条家の断絶迄を記していることから、長尾景虎が定実の死を受けて幕府より国主として正式に認めて貰うための一環として作成されたものではないだろうか。 

この天文系図で気になるのは長福院の諱が記されていないことと上条当主であったと思われる定憲がのっていないことだ。
上杉系図、米澤家譜などはがこれ幸いと二人を併せてしまったが清浄心院越後過去名簿では長福院と定憲は別々にのっているのでこれはありえない。ついでにその米沢家譜も上げてみる。



米澤、上杉系図とも定憲を頼房の兄として載せている。房実の子定実と定明は兄弟で、定明の跡継ぎとして定憲が載っている。顕定の項目では顕実、憲房、定憲を養子とし定憲の所の註に「実は十郎定明子、顕定の養子、後定明の家督を継ぐ。」とある。定明の方の定憲の註は、日付がおかしいが「初め民部大輔顕定養子後定明の家督を継ぐ。永正六年七月二十八日顕定と同じく長森原に於いて討死す。」頼房は兄定憲養子だそうだ。頼房の註は「実定憲か弟定憲嗣なし故に頼房を以て家督と為す永正四年十一月十二日卒」この死亡日時も清浄心院名簿によりありえない。清浄心院名簿でなくてもありえないわけだけれど。享徳天文の乱(上条の乱)より前に死亡してしまっているし。『平氏山吉系図』第十四代秀計のところに「永正七年路月十二日、於越後椎谷、上杉顕定公ト長尾為景合戦、長尾方勝利、上杉方敗軍、同年七月二十日、上杉民部大輔顕定公、上条弾正少弼氏定公親子、併せて御味方之もの討死」というのがある。この上条弾正少弼氏定公親子というのは聞いたことがないが、もしかしたら本当にいた人物でこの定憲の没年の不思議は、忘れられたこの人の記憶との混同なのかもしれない。ただし山吉系図の信憑性はわからないが。

こちらの系図での疑問は天文上杉長尾系図では、無御息と書かれている十郎定明だが、この米沢家譜の系図では定憲が息子で彼が継ぎ、弟の頼房がその後を継いだことになっている。

新潟県史のは微妙に違う。系図纂のものに似ている。こちらも上条家のみ上げてみる。



ここで生年死没がわかっているのは房定の永享3年~明応3年(1431年~1494年)、定実の卒年天文19年(1550年)、頼房の卒年天文22年(1553年)。房実は房定の弟なのだから1432年以降、父清方が死亡が1445か6年、この間にうまれたことになる。この時から定実・頼房の卒年天文20年頃まで約100年間、普通世代周期は25年から30年で計算されるから、例外はいつの世にもあるが別家族が二人そろって例外で、似たような歳に亡くなるのはまれだろう。この表では頼房は房定の兄の子であることから、1430年より前、120年のスパンになってしまう。二世代目がはさまる方が自然だ。定実もしかりだが、房実が清方卒年と同時期にうまれたとして1445年誕で、定実が二十才で結婚したと想定すると彼の誕生が1480年前後になり、35前後で父となるならこちらはあり得る。だが房実が1430年代前半生まれだとしたらこちらも一人はさまったほうが自然だと思う。



以上これらの系図と前回の「上条家は謎だらけ」で書き抜いた清浄心院越後過去名簿の上条部分と上条某と書いている書状などを踏まえて考察してみたいと思う。


長くなったので次回に。                                
                        …To Be Continued

Comments (2)
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