ねこの気まぐれ散歩

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隅田川旧跡 梅柳山 隅田山 木母寺

2007-08-11 02:45:21 | Weblog
東武伊勢崎線鐘淵駅を下車、堤通りに出ると目の前に防災団地が防壁のように立ち並んでおります。団地の建物と隅田川の間に東白鬚公園があります。木母寺は、その公園の中にある。江戸時代は、江戸八景の一箇所で、訪れる人々が多いい寺でした。

梅若丸は、時の政権の降灰、世相乱れ、その中で仏教の布教をもって、人心の安定し福徳を授けなければならないと、多くの人々が危惧する中で、僧侶も乱れ、争い、動乱の状況で、梅若丸も犠牲者の一人です。また木母寺も同じく時代に翻弄されされてきました。現在は、歴史の影を感じさせぬ、静かな寺である。

掲載写真は、撮影が昭和初期で、当時の木母寺です。

貞元元年(976年平安中期)僧の忠円によって梅若丸の墓場が築かれ、翌年念仏堂が健立されたと言われております、梅若寺の起源とい言われています。文治五年(1189年鎌倉初期)源頼朝が奥州遠征の途中に参拝したと伝えられている。長禄三年(1459年室町中期)大田道灌が参拝し梅若塚を改修したといい、この頃、梅若寺が健立されたともいわれています。文明十七年(1485年室町中期)京都五山の僧で詩文のたくみな万里が、ここを訪れたことが彼の詩集「梅花無尽蔵」に述べられています。これは梅若塚を記したものとして、現存する最古の文献です。また翌十八年には、准三后の位にあった僧の道興も、ここを訪れたことが彼の紀行文「廻国雑記」に出ている。天正十八年(1590年桃山期)徳川家康が参拝し、梅柳山という山号を送られました、梅若伝説の中で里人が梅若丸の供養の為に塚を築き側に一本の柳の木を植えたとありますから、梅若丸の梅と植えられた柳の木の柳を取、梅柳山と号したといわれております。慶長六年(1601年江戸初期)徳川氏より五石の寺領を給せられました。ついで寛文十年(1670年家綱の時代)さらに二十万石を加増されています。慶長12年(1607年)前関白の近衛が参拝し、そのさい木母寺と改名されました。梅若丸の梅の字を木と母に分けて、木母寺となずけたとしたといわれています。寛永年間(17世紀中期家光の時代)当時の境内に隅田川御殿がたてられ、将軍その他の貴人がしばしば来る寺でした。延宝七年(1679年家綱の時代)上州高崎城主の安藤重治によって絵巻物「梅若権現御縁起」三巻が寄進されました。現存し寺宝です。宝永二年(1705年綱吉の時代)当時の堂舎配置のようすが石川流宣の「江戸案内巡見図鑑」詳しく示されました。元禄から享保年間(18世紀前半)梅若伝説に取材した一連の文芸作品「隅田川」の最盛期になり。木母寺は、この頃、貴人の寺からしだいの庶民の寺として、広く世人に親しまれるようになります。明治元年(1808年)維新と共に幕府の保護を失い廃寺となりました、寺の堂舎は取り除かれ跡地には梅若神社が創健されました。明治二十一年(1888年)仏寺復帰の願いが僧の光円によって実現され、翌22年、梅若神社が旧に復して梅若堂になりました。当時としては神社を再び仏寺とすることは、非常に困難な事業でこれを「明治中興」と称し増す。大正九年(1920年)東京府よって梅若塚は旧跡の指定をうけました、現在東京都旧跡の指定を受けています。昭和二十年(19945年)四月十三日米軍機の空襲を受けて本堂などを焼失するしかし、難を逃れた、唯一の念仏堂である梅若堂も四月十五日再度の空襲で損傷を受けました。昭和二十五年(1950年)元の位置に仮本堂を健立する。昭和二十七年には梅若堂を改修し梅若権現忌「梅若祭」が復活し、梅若忌は明治中興後は新暦四月十五日に行なわれております。
昭和五十一年(1976年)都市再開発法に基ずく防災拠点建設事業の実施により、現在の地に移転しました。なお現在跡地は梅若公園として残されいます。


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