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向島子育地蔵

2007-08-16 16:00:48 | Weblog
地域で、子育地蔵さんと親しまれている、向島子育地蔵です。昔は、縁日の夕方になると、地蔵坂通りを水戸街道から歩行者天国に開放して、屋台がずらっと並び、商店も縁日の為に店前に商品を並べ大変賑やかな縁日でした。地域の人々に親しまれ、守られて来たお地蔵様なのです。

これから向島子育地蔵の由来を紹介します。

そもそも当地蔵尊は、文化年中角田川堤防修築の折、土中より出現し給いし石造の御尊体を御神興の如くかつぐことを常とせしが、戒時当所植木屋平作の雇用人某夫婦が堤外の田地にて殺害されし時、地蔵尊この中の児童によりて犯人を御告げありければ、尊崇やむことなく御尊体を当所に安置し朝夕供養し奉りけり。
その後平作の家運に繁盛におもむきしが天保三年四月時の十二代将軍徳川家斎公当地に御鷹狩ありし時、平作の家に御少憩あり庭内に唐楓を御手継ぎあり。「この樹は今堂畔の邸内にあり、大正四年東京府より天然記念物にされた」その折地蔵尊の由来を聞召され御帰城の時参拝遊ばせけり。平作は之を記念せん為始めて御堂を建立せしかば、郷人等も皆競いて敬仰信奉し、毎月四の日には念仏供養をなし、おのが子女をば必ず地蔵尊の御弟子となすこととはなせり。その後、霊験いよいよあらたかにで川に溺れし者を堂前にかつぎ来れば蘇生し出産眼病その他諸病の平癒又は開運を祈れば霊験たちどころに現れければ、遠近伝え聞いて来り拝するもの日に多く。尊前には香華盛塩の絶ゆる間なかりけり。さらば当時俗間に子育地蔵戒いは塩地蔵又は平作地蔵とも称え奉るに至りぬ。
始め御堂は堤の坂の中腹にありしが明治四十四年堤防修築際土盛修繕して縁日を始め、その頃よりこの坂も地蔵坂とは呼びならわしけり。

(昭和八年の百年祭に建立した御由来記念碑より抜粋)

上記は、向島子育地蔵尊御由来の印刷物から写し掲載いたしました。

江戸時代は、白鬚神社の辺りで南に下り本所方面が大川堤、北方向が隅田川堤と呼ばれていたようです。堤には、桜並木で安藤広重などが多く描いており、江戸八景の一つで、観光名所であったようで、木母寺境内には、徳川家の御殿があり貴人がよく訪れていました。近辺の神社仏閣の周囲も変貌し昔の面影の一片もありませんが、この御地蔵様には、素朴な昔をを感じます。

周辺は、昔から映画のロケ地に使用されています、子供の頃親と見た映画で、タイトルも記憶に無いのだが、庶民の生活を描いたファミリー物語だった、吾妻橋から白鬚橋の界隈や向島百花園がロケされていた。特に、地蔵坂街並みは、当時の庶民生活をリアルに、描き出されていた、私も墨田区に育ち、見覚えがある風景に、なぜこんな所を映すのだろうと、思ったのである。しかし映画の中で見た、下町庶民の生活のイメージは、心に焼きつき。今マスコミや町おこしで、下町の言葉を使う、確かに、時代が変われば、意識も解釈も変わるが、下町にも哲学がある、軽率に下町の名称付ければ良い、と言う気風が広まっているようで、虚しさを感じる。何年ごろの映画かは、不明確ではあるが、昭和30年代の乗用車でダットサン・フジ号と言う乗用車が、使用されていた事を記憶している、映画が撮影された当時は、たしかに地蔵坂界隈には、庶民の下町が存在していた。


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