幕末に長州藩邸があった場所は、現在、京都ホテルオークラのある場所だ。京都市役所の前の道を隔てた正面ないし北東にある。京都御所からもそれほど離れていない。
この京都ホテルオークラの敷地内に、現在、桂小五郎像がある。言わずと知れた、後の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに維新の3傑のひとりだ。
このホテルオークラのひとつ東側の道に入ってみると、幕末のにおいがプンプンする。
まず、佐久間象山、大村益次郎、遭難の碑が並んで建っている。
高瀬舟で有名な高瀬川と並んで通るこの通りには、桂小五郎と幾松の寓居
、
土佐勤王党の武市瑞山の寓居、
佐久間象山の寓居や大村益次郎の寓居
あるいは、土佐藩邸跡地
など、幕末京都のいわば「中心地」であるような感じがするほどだ。
もう一つ奥の道は、先斗町である。独身時代の「おりょう」の寓居あと、という表示も見えた。坂本龍馬もこの辺をよく歩いていたことだろう。
1864年6月(旧暦)の池田屋事件の「池田屋」もその道を西に入るとすぐにある。現在居酒屋になってはいるが、メニューも幕末にちなんだ名前をつけており、2階をガラス越しに見ると、池田屋事件を模したような武士たちの絵が見える。
ここで、前年の8.18クーデターで劣勢に立たされた尊皇攘夷派の巻き返しをはかるための会合が行われるのを新撰組が事前に察知して、鎮圧するべく踏み込んだ事件だ。
松下村塾の吉田稔磨や肥後の宮部鼎蔵などたくさんの志士たちが、自刃したり闘死などして死んでいる。
桂小五郎もそこにいるはずだったが、集合時間に早く着きすぎたため、別の場所にいたため、無事だったとも言われている。
同年(1964年)7月(旧暦)の禁門の変(蛤御門の変)は、この事件に憤った、長州の来島又兵衛江を中心とした武闘派で主戦派の勢いを、反対する桂や久坂玄瑞などが、止められずに、いわば巻き込まれる形で起こってしまった事件だと言えるが、しかし、戦うからにはということで、久坂玄瑞や寺島(作間)忠三郎、入江九一などは、果敢に戦う。
しかし力及ばず、自刃あるいは、闘死している。この事件では、京都が大火事に見舞われ、尊皇攘夷派が、次に述べる天狗党とともに、いわばほぼ壊滅状態になった事件と言えるのではないだろうか。
その後、長州藩は、高杉晋作、伊藤利助(のちの伊藤博文)の功山寺挙兵によるたった80数名の起死回生の快挙により、長州藩内の正義派が俗論派を退けて、新たな維新への道を開いている。その後は、下関戦争の体験も踏まえて、攘夷路線から軌道修正して、武備倒幕となっていった。坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介による薩長連合の道につながっていく。
水戸の天狗党の挙兵も1864年と、ほぼ機を同じくして並行的に起こっており、藤田小四郎が筑波山で挙兵後、はじめは反対姿勢だった武田耕雲斎が、ついには首領となり、中山道を敦賀方面へ行進している。ところが、田中愿蔵ひきいる別働隊が、栃木宿や茨城の真壁宿あたりで、金品の恐喝や村人の殺戮、大規模な放火などをしてしまったため、水戸の門閥派の幕府への強力な工作もあり、天狗党が、暴徒集団として認識されてしまう糸口を与えてしまっている。
しかし、武田耕雲斎率いる、天狗党は、宿では、きちんと支払いをするし、一糸乱れぬ行動をとっていた。無益な戦いを好まず、尊皇攘夷の思想を奉じて進軍していたのだった。
幕府からどう認識されているかもはっきり認識できぬまま、水戸藩主であった徳川斉昭の子である英明な徳川慶喜を頼って行進を続けていたのだったが、慶喜も次期将軍への微妙な時期であったこともあり、天狗党を守れず、いわば見放す形となって、武田耕雲斎、藤田小四郎など、敦賀で400人近くが処刑されてしまう事態となった。
かつて武田耕雲斎と親交のあった西郷隆盛は、非常に憤慨したという記録があるし、大久保利通も、幕府の終わりがはっきりした事件だというような認識だったようだ。
急いでの処刑を決したのは、田沼意次のひ孫にあたる田沼意尊とも言われている。
禁門の変や天狗党の話が長くなってしまったが、四条烏丸のバス通り沿いに、あの坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃されてしまった近江屋がある。龍馬33歳の誕生日、倒幕、明治維新のいわば分水嶺となった、1867年12月9日の「小御所会議」の直前、1867年11月15日であった。
近くの京都霊山護国神社には、幕末京都の池田屋事件や禁門の変で亡くなった者たちのたくさんの墓がある。そして木戸孝允(桂小五郎)、その妻である幾松(松子)の墓、そして坂本龍馬と中岡慎太郎の墓もある。
この京都ホテルオークラの敷地内に、現在、桂小五郎像がある。言わずと知れた、後の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに維新の3傑のひとりだ。
このホテルオークラのひとつ東側の道に入ってみると、幕末のにおいがプンプンする。
まず、佐久間象山、大村益次郎、遭難の碑が並んで建っている。
高瀬舟で有名な高瀬川と並んで通るこの通りには、桂小五郎と幾松の寓居
、
土佐勤王党の武市瑞山の寓居、
佐久間象山の寓居や大村益次郎の寓居
あるいは、土佐藩邸跡地
など、幕末京都のいわば「中心地」であるような感じがするほどだ。
もう一つ奥の道は、先斗町である。独身時代の「おりょう」の寓居あと、という表示も見えた。坂本龍馬もこの辺をよく歩いていたことだろう。
1864年6月(旧暦)の池田屋事件の「池田屋」もその道を西に入るとすぐにある。現在居酒屋になってはいるが、メニューも幕末にちなんだ名前をつけており、2階をガラス越しに見ると、池田屋事件を模したような武士たちの絵が見える。
ここで、前年の8.18クーデターで劣勢に立たされた尊皇攘夷派の巻き返しをはかるための会合が行われるのを新撰組が事前に察知して、鎮圧するべく踏み込んだ事件だ。
松下村塾の吉田稔磨や肥後の宮部鼎蔵などたくさんの志士たちが、自刃したり闘死などして死んでいる。
桂小五郎もそこにいるはずだったが、集合時間に早く着きすぎたため、別の場所にいたため、無事だったとも言われている。
同年(1964年)7月(旧暦)の禁門の変(蛤御門の変)は、この事件に憤った、長州の来島又兵衛江を中心とした武闘派で主戦派の勢いを、反対する桂や久坂玄瑞などが、止められずに、いわば巻き込まれる形で起こってしまった事件だと言えるが、しかし、戦うからにはということで、久坂玄瑞や寺島(作間)忠三郎、入江九一などは、果敢に戦う。
しかし力及ばず、自刃あるいは、闘死している。この事件では、京都が大火事に見舞われ、尊皇攘夷派が、次に述べる天狗党とともに、いわばほぼ壊滅状態になった事件と言えるのではないだろうか。
その後、長州藩は、高杉晋作、伊藤利助(のちの伊藤博文)の功山寺挙兵によるたった80数名の起死回生の快挙により、長州藩内の正義派が俗論派を退けて、新たな維新への道を開いている。その後は、下関戦争の体験も踏まえて、攘夷路線から軌道修正して、武備倒幕となっていった。坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介による薩長連合の道につながっていく。
水戸の天狗党の挙兵も1864年と、ほぼ機を同じくして並行的に起こっており、藤田小四郎が筑波山で挙兵後、はじめは反対姿勢だった武田耕雲斎が、ついには首領となり、中山道を敦賀方面へ行進している。ところが、田中愿蔵ひきいる別働隊が、栃木宿や茨城の真壁宿あたりで、金品の恐喝や村人の殺戮、大規模な放火などをしてしまったため、水戸の門閥派の幕府への強力な工作もあり、天狗党が、暴徒集団として認識されてしまう糸口を与えてしまっている。
しかし、武田耕雲斎率いる、天狗党は、宿では、きちんと支払いをするし、一糸乱れぬ行動をとっていた。無益な戦いを好まず、尊皇攘夷の思想を奉じて進軍していたのだった。
幕府からどう認識されているかもはっきり認識できぬまま、水戸藩主であった徳川斉昭の子である英明な徳川慶喜を頼って行進を続けていたのだったが、慶喜も次期将軍への微妙な時期であったこともあり、天狗党を守れず、いわば見放す形となって、武田耕雲斎、藤田小四郎など、敦賀で400人近くが処刑されてしまう事態となった。
かつて武田耕雲斎と親交のあった西郷隆盛は、非常に憤慨したという記録があるし、大久保利通も、幕府の終わりがはっきりした事件だというような認識だったようだ。
急いでの処刑を決したのは、田沼意次のひ孫にあたる田沼意尊とも言われている。
禁門の変や天狗党の話が長くなってしまったが、四条烏丸のバス通り沿いに、あの坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃されてしまった近江屋がある。龍馬33歳の誕生日、倒幕、明治維新のいわば分水嶺となった、1867年12月9日の「小御所会議」の直前、1867年11月15日であった。
近くの京都霊山護国神社には、幕末京都の池田屋事件や禁門の変で亡くなった者たちのたくさんの墓がある。そして木戸孝允(桂小五郎)、その妻である幾松(松子)の墓、そして坂本龍馬と中岡慎太郎の墓もある。