
なにかと騒がしい世の中。
必死に生きている人が、何かのために生きている人が、大きな虚像みたいなモノに支配されて、何かたいせつなモノが欠落してしまっているような、ぽっかりココロに穴が開いてしまったな、そんな気持ちになってしまいます。
どちらかが、正しい。
わたしたちは、正しいことをしています。
そのような事実を確認できませんでした。
これは、安全だとデータが証明しています。
もっと単純にものごとを考えてみるのはどうなのかなって思います。
たのしいと、つまらないは、どちらがいいか?
かなしいと、苦しいがあったら、人が、誰かが涙を流している。
そしたら、何か悪いことがある。
たのしいを、もっとたのしい!と、一人から二人、二人から大勢と。
ひとりが「これおかしくない?」があったら、よく内容を聞いてみる。
データはあくまでも、人が経験から平均を出したもの。
いろんな方向からものごとを見ることということは、すべてに言える。
「正しい」がないということ、「まちがってる」もない。
それが、十人十色。個性。その人らしさ。
泣いている人がいたら、じぶんができることをする。
こどもは、まだできることが少ないから、けど「大丈夫?」と声をかける気持ちを持つことはできる。
それは、きっとモノゴコロがつく前に、まわりの大人がそうやって声をかけてくれたから、自然にできるんだと思う。
もらったものをあげることができる。
もらって、うれしかったから、人にもしたいって思う。
けど・・・
もらったものが、痛いモノだったら?
泣く子もいる。
怒る子もいる。
やり返す子もいる。
ただ、やっぱり、もらって痛いモノは、つらかったから人にはしないようにしよって思う。
いろんな、複雑な思いをするようになると、それは「豊か」につながってくる。
さまざまなことに、いろんなことを感じることができるようになって、うれしいが多くなる。
反対に、鈍感になることも覚えてくる。
ただし、忘れちゃいけないこともわかってくる。
鈍感になることは、生き易くなることでもあるけど、泣くときはすぐ泣く!
怒るときは、人を傷付けないようにちゃんと怒る!
それは、人への礼儀や尊重につながる。
鈍感になるフリして、面倒だと黙るを選ぶと、じぶんのココロが苦しくもなるし、それは「見て見ぬふり」をすることになる。
たしかに、むかしのカミナリ親父のようなことはできなくても、「イイ人をする」をしていると、じぶんが行方不明になってくる。
それは、じぶんでじぶんをたいせつにするで、じぶんへの礼儀や尊重になるんじゃないのかな。
何が言いたいのか、わからなくなってきちゃったけど笑
なんかムカついてくるし、なんでわかんないかな?と、ひとりで誰に向かってなのかわからないけど、怒りたくなります。人間観察をしていると「親の顔が見てみたい」と思ってしまう中途半端なオトナをたくさんお見掛けすることが多いようなきがします。