Dandelion~美容師の生活~

ヒトのために地球のために自分ができること

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はじまり・・・。

2019-10-25 11:18:00 | ひとりごと

昨年の今日。

わたしはこの日、史上最悪で最低な日のはじまりを迎えた日。
しかし、いままでほしかった最高のモノを手に入れたと手ごたえを感じた日でもありました。

調子にのってはいけない。
これは、ただの妄想の世界だとも感じていました。

けど、現実に1年経って、また10月23日を迎えたんです。


世の中たまにありえないことが起きるとは言うけど、じぶんの身に起きるとは...。

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あんしんということ。

2019-10-24 21:44:23 | ひとりごと

30歳を過ぎたあと、数年のおやすみをしました。
もう社会復帰ができないのかもと、はじめての失望感でした。
何も考えることができなかった日もあったくらい。

けど、魔女修業をしている女の子にしたアドバイスは、いつもじぶんにも語りかけていたんです。
「書いて、書いて、書きまくる。できなくなったら、やめる。そこから離れる。そして書きたくなったら書けばいい。」

生きている限り、生きていかないといけない。
社会のせいや、会社のせいや、政治のせいにしたくなるときもある。
けど、それでも生きていかないといけないのが人生というものだと思っています。

だから、やってみたんです。

ただね、生きるはリアルだから、映画のようにカンタンにいかない。
そのくらいわかってるのに「おまえはこどもだからな」というような、そんなニュアンスをする人たちを負かしたいわけじゃない。
わたしは、その映画が語っていることは、こども夢をあたえ、生きるに希望を与えていることなのに、そのこと叶えようとすることに否定的なのはよくわからないだけ。

30歳までのその夢が叶ってなかったら、おしまいなんてルールはどこにもないはずだから。
夢なんて、一生かけても叶えられないものだと思うんです。

どんなにひとりでがんばったって「世界平和」なんて叶わないでしょ?
だからって、おとなになって夢を語ることをやめていいのかなって思います。

おとなはこどもの見本。
ずっと夢を語っては、しっかり社会に生きることをしていないと、それは見本になるのかな?

人類、みな兄弟。
血をたどって、たどって、ずっとずっとむかしむかしに遡って行けば、はじまりはひとつだったということは、やっぱり映画とかで小さいときになんとなく知ってるはずなのに、おとなになると忘れてしまう。

すごく輝いている人は、ずっとこどもゴコロを持っている。
忘れることもあるけれど、それを忘れちゃ、こどもに何を教えられるんだろう。

反面教師とは?
どんなおとなでも、良いところと、悪いところ、よくわかならいことがある。
良いところだけ真似して、悪いところはわたしが指導するということ?・・・それはなんか違う気がする。
どんな悪いところやよくわからないところがあったとしても、いちど先生となったおとなに、わたしが指導するなんて絶対にできない。

そんな大人を見つけたら、離れない。
そして、いつかわたしもいつかだれかのそんな存在になれるように。

あんしんは、ヒトがつくっているということを、ありえない組織にいて、すごくすごくわかったんです。


おとな先生は、絶対に見えてる世界を尊敬できると思えるからこそ。わるいもよくわからないも、意味がある。


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どの先生に。

2019-10-23 22:42:18 | 美容師のわたし

美容師は、下積み時代というモノがあります。

わたしが資格を取る前はインターンという仕組みがあって、それから国家試験を受けることができたのですが、わたしはその制度がなくなってすぐ資格を取得したので、きっと受け入れる側も送る側も、まだ手探りのときだったのだと思います。

問題があったからこそ、すぐに変更しないともっと問題が大きくなるであろうという措置だったのかな。

それはさておき、その下積み時代は制度が変わる前も変わってからも、とにかく時間とお金と睡眠が足りないくらいになります。
なのに、勤務は知ってのとおり、華やかにみえてそうでない世界。

だけどうれしいことは、きちんと「先生」と言われる人が存在することです。

振り返ってみるとその「先生」の種類は本当にたくさんあるんです。
この授業であったら「あの先生からが全体イイ!」と思うけど、それが必ずしもそのお気に入りの先生の授業にならなくて、いろんな先生が登場してくるんです。
先生によって、得意分野が異なってくるから。

たとえば歴史の先生であっても、戦国が得意な人、明治維新を熱い人、平安時代をいやというほど語る人がいるように、同じ実技の授業であってもメイン先生が変ってくるんです。
当初は、夜間だしなとも思ってたんですが、そうゆうことだったんだなと思うようになりました。

これはわたしだけだか、それはわかりませんが、「この人の下で一人前になりたい!」と思うことができる店ではたらきたいと思って、いちばん先の就職先を探したものです。

そして、学生時代は美容師資格以外は取るまいと思っていたけど、先に会っちゃったんです。

その人は着付の授業で会った方で、専門学校にいる先生でなく、ほんまもんの先生でした。
立ち姿や着物の着方、まわりにいる先生方の姿、本当にこの先生の授業でよかったと思える、これを逃してはいけないと感じたんです。

実際、口を開くとその立ち姿とは違い、田舎のヤンキーなおばさんで、ちょっと扱いに困るくらいでもあるんですが、しかし、あの先生から着付をされると明らかにほかの先生とはちがうんです。

そのくらい技の差をカラダに感じたのは、はじめてでした。

そして、学校を卒業して、就職して、美容から離れて、ふたたび門を叩いた時に教えてもらいました。

「つよく願っていれば、その状態がまえからやってくる」


わたしたち美容師は、技術を身につけてからやっとスタート地点なんです。
それは「あのスタイルにするために」と技術を身につけます。
そして、今度は「スタイルを生み出す」側になると、技術がじぶんの後ろ側になる感じになります。
それを自由自在に操れるようになると、じぶんの美容というものをお客様に提供できるようになるんだと思います。

そこまでに到着するまで、とにかくたくさんのものが必要になります。
じぶんの城をつくるために、そこをイメージし続けて、とにかく目の前のくりかえし作業をほかのことを考えながらでも、目をつぶってでもできるくらいまで、カラダに刻み込んで染み込ませて・・・。

ある店であった店長が言っていました。
「苦しみの先にたのしいがある」と、このひと言でお店を辞めることを決めたんです。
だって、わたしは「たのしいから苦しいを乗り越える」だから。

街にある美容室ではたらいている人は、みな先輩です。
しかし、それは「先生」ではない。


だから、いつも問うようにしています。


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儀式。

2019-10-22 15:54:21 | 生活のこと

本日から行われている「即位の礼」。
あいにくの雨模様になってしまったけど、なにやらそれを祝うかのように皇居に虹がかかったとか。
つぶやき情報だからそれは定かではないんですが笑。

時代を昭和~平成~令和とわたってきたわたしですが、こうして「時代の儀式」というものを感じたのははじめてかもしれません。

パレードは災害の被害に合った人を・・・ということで延期という形になったものの、「お金」という観点でみてしまうと、予算をかけてまでする必要のあるものなのかどうかと、きっと思う人もいらしゃるのではないのかなと思うのです。

しかし「儀式」というものは、日本だけでなく、たぶん、人間だけでもなく、何かトクベツなことがあるとき、何かしらの「儀式」というものを行っていると思います。

それは「カタチ」ではなく、きちんと「意味」があり、そこに「敬意」や生きとし生けるものとしての「感謝」に似たようなものがあるからではないのかなと思います。

赤ちゃんが産まれてから1年間に行われる、いろいろな「儀式」。
たった1度だけなのに、まだその子は理解できるものでもないのに、最初の1年は人が成長するうえで、いちばん成長がある、その証を乗り越えることができたことに「おめでと!」だけど、きっと大昔はその1年を乗り越えるのが本当に大変だったことから「儀式」として、いまもまだ残りつづけているような気がします。

それから七五三のお祝い、成人式と、子孫を残せる身体と経済力、知性や感性などを備えられるようにと、いろんな「願掛け」もそこには含まれています。

お着物や髪型、お飾りや小物、お食事なども、そこには何かの「意味」があって、お遊びパーティーをするためではなくて、その「儀式」をたくさんの人で囲み合い、お祝いをしたり、「平和」というものを感じるためのかもしれないと思います。

本日が、令和元年(2019年)だけの祝日というのは、それだけ何か特別なことが行われているからこそ、ふつーに暮らして、ただのお休みになっているような感じでも、何かひとつ、その時代に合わせて「じぶんオンリーの儀式」をしてみるのはいかがですかね。

ポイントは、ご褒美的なモノと購入したとしても、ふつーに購入しているものとはちがう取扱い方をしてみましょう。
ご馳走をつくったとしても、ちょっと高めのシャンパンに、TVをつけずに音楽をかけて、その一つ一つを今日選んでみるんです。

これを「ひとり」でやってしまうと、ちょっとさむっ!と感じてしまうこともあるかもしれませんが、それなら、隅から隅までそうじでもするのはいかがですか?

「儀式」というものを行うときは、そこの「空気」というものを整えて、清めて、気持ち良い空間にして、それを行うじぶん自身の「心」というものに「儀式」を埋め込むようなものかと思うんです。

本日行われているのは、国代表になる、日本の顔にもなる人の、この日をふつーのお休みとして過ごしてしまうわたしなんかにはわからない、大きな大きなものを継承する「儀式」なわけで、本当に同じ時間にそれが行われていると思うと・・・ちょっと考えてしまいます。


なんとなく過ごしてしまう毎日でも、小さな「儀式」をしてたりしませんか?その「儀式」を決めた日のこと、それを続けていることなどを思い出したりしてみてください。毎日していると「意味」を忘れて、なんとなくになってたりしますからね。


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モノを購入される側として。

2019-10-21 19:30:39 | はたらくこと

モノを購入するとき、その場所をどのように選んでますか?

いまは、同じモノを購入するにしても、さまざまな方法・ところ・場所などなど、購入する人が選べる時代になっています。
そのため、購入される側は「より便利に!」「どこよりも安く!」「早く!」「気軽に!」といったようなうたい文句をつけながら、付加価値をつけていろいろな広告を見出しにつけちゃったりします。

しかし、その購入される側の人も、購入する人でもあって、本当にそのうたい文句で選んでいるのでいるか。
ちょっと疑問を感じてしまうのですが・・・。

わたしはこう考えています。

ひとつは『損得勘定』。
通信販売やネットでの購入、家に届けてくれる、パソコンのクリックひとつでモノを購入できる方法。
重たいものや手で触って確かめないでも大丈夫なもの。
交通費をかけるなら、送料で、その「便利」というものを利用しよう!

たぶん、ピンキリのモノで、お試しで買うモノや使い捨て感覚のモノ、消耗品もこの辺になるのかな。

もうひとつは『あなたから買いたい』の感覚。
会社やお店、店員さんや雰囲気とかで、実際にその店に出向いて購入するモノや何かにこだわって購入する場所を選んでいるもの。
好きなモノやたいせつなモノ、同じものがいろんなところで購入できるけど、じぶんだけの付加価値がつけれる感じ。


では、今度は購入される側に立ってみましょう。
どちら側に選んでもらいたいですか?

たぶん、いま手元にある仕事。
それは必ずどこかに「購入する人」=「消費者」=「利用する人」がいるわけです。

仕事をしているということは、必ず相手がいて、その人の何かに役に立つものとしてうまれている仕事であって、そこへつながっています。
関係ないと思うようなことでも、その仕事に携わっている以上、関係ないことはひとつもないと思うと、その関係なさそうな仕事でも、やる意味が変ってくるような気がするんです。

流れ作業のようなものでも、意味のない面倒なものでも、必ず意味があるからこそ、面倒でもやらないといけないんですよね。

考えたことがない人は、ちょっとだけヒマなときにでも、ボーとしているときにでもいいから、考えてみてください。

ふだんはいいんです笑。
そんなこと考えてたら、イヤなことがさらにイヤになって、面白くなくなりますからね。

モチベーションが下がるときは、これでボーナスがもらえると思えればいいってこと♪

こうゆうことがたいせつだということは、そのことを知っていると知らないとはそのやることの意味が違ってきて、あなたのはたらき人としての魅力が変ってくるから。


何年はたらいても、いろんな人に会っても、じぶんよりできる奴に会うし、じぶんはまだまだだって思ってしまうけど、周りの人の目が変りますよ。いつだって隣の芝生は青くみえちゃうから。


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