【霊告月記】第三十八回 フェイスブックを始めました Angèleサイコー!
●私のブログのコンセプトは<いつも輝いて煌めいていましょう!>だが、そのコンセプトを体現するような人物を発見した。それが Angèleだ。ベルギー出身でこの10月に最初のCDを出したばかりだからまだ新人と言っていい。詳しい情報は知らない。WEBをさまよっている内に偶然に発見した。
ダリが描いたロートレアモンの想像画
このAngèleだがサルバドール・ダリの描いたロートレアモンの想像画に似ているような気がしてならない。この両者(ロートレアモンの想像画とAngèle)は共に天使の相貌を想起させる点に於いて共通するものがある。ちなみに天使は男でも女でもなく中性である。天使は人間ではないのだから男性・女性の性差の片方だけに偏ることはできないのである。
●フェイスブックを始めた。思想家の千坂恭二氏の投稿にコメントを付けた。千坂氏の投稿は短いものなので、その全文を引用し、私のコメントと併せて一括掲載する。
千坂氏:ファシズムやそれに類する思想や運動とは、その初発の動機は、第一次大戦の敗戦国における多くの、敗戦国であるがゆえに死の意味を奪われた戦死者たちの、死の意義を問い、その死を意味あるものにせんとする思想と運動の一環であったという側面がある。
私:然り。まったくその通りでありましょう。なぜファシズム思想が多くの若者や大衆そして知識人までも魅了したのか。その秘密はファシズムが「死の意味を奪われた戦死者たちの、死の意義を問い、その死を意味あるものにせんとする思想と運動」だったからに他ならない。アドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』の疑えない煽動力も死者への追悼をその本質的テーマとして描き得たことにある。
しかし、問題はその先に在る。果たして、「敗戦国であるがゆえに死の意味を奪われた戦死者たちの、死の意義を問い、その死を意味あるものにせんとする思想と運動」に対して、霊界に住まうその戦死者たち自身はどう見ていただろうかという問題です。この視点を欠くことがあるいは無視することが無智蒙昧で無学な「その後のファシズム」の在り方として問われてくる。
エルンスト・ユンガーは、第二次大戦後に、いや第二次大戦の末期に、すでにこの無知蒙昧で無学なファシズムを、原理的に批判する思想的境位に達していたと私は見ています。ユンガーこそは「総動員」の思想の創始者であった。だからこそ、その「総動員」の思想の超克者たりえた。
●子安宣邦氏の投稿にコメントを付けたくて始めたフェイスブックだった。著書の中国語訳が出版された際の子安氏の投稿の内容に感ずるところがあってコメントを付けた。これは私のフェイスブックにおける最初の発言である。
①「私の本は日本で見ることのない積極的な反応をなぜ中国で見出すのか」という問いについて考えてみました。先生の御本の内容を私はまだ熟知しているとはいえない段階ですので、設問を一般的な形に直して考察してみます。「優れた価値を持つ書物が地域や時代によって積極的な反応を見出されないということはあるのか」という問いに変換してみるのです。そうすると直ちに明らかになることは著者の同時代に高評価されても時代が変わればその評価が消滅するケーは数限りなくあります。逆に世界史的価値を持つような重要な書物が人々の記憶から完全に消えてしまうが後に復活を果たすようなケースもあります。ロートレアモンの『マルドロールの歌』などその典型的なケースです。シュールレアリストが再評価するまで同書は忘れ去られていたも同然でした。
②ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)などは写本が一冊残っているのみで1400年もの長い間世界から完全に消えていた。その書が再発見されルネサンスと近代科学の勃興に多大の寄与をした。文字通りの奇跡の書です。それらの事共をあわせ考えると先生の御本も5年10年の尺度で測れば確かに然るべき妥当な評価を得ていないという判断はありうるでしょうけれども、真実が広く行き渡るのに時間の要素を組み入れなければならない。そういう観点も必要になるのではないでしょうか。従って先生が現在感じておられるご不満は先生が健康で長生きするということでしか解決しない問題ではなかろうかと思う次第です。
※フェイスブック・アドレス:https://www.facebook.com/profile.php?id=100015965474424
】 Angèle の霊告 【 ワン・タイム。 ツー・タイム。 スリー・フォー・ユー。
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