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【霊告月記】第七十五回  自分史の試み

2022年02月01日 10時00分00秒 | 霊告月記71~75

【霊告月記】第七十五回  自分史の試み

      埴谷雄高  1909-1997

【解説】20年ほど前に書いた早すぎた自伝を公開します。当時私は連句の同人誌に連載をしていて自分史を書いてみようと思ったわけです。その原稿を友人と共同で立ち上げたパソコン通信のBBSに投稿したところ、友人が感想を書いてくれました。その感想文も付記しました。いまこの自分史を読み返してみると、懐かしいというよりは、切ない気持ちになります。「書くこと」に向かい合う純な気持ちは、少しも変っていない。鏡を前にした自分の顔を眺めるような気分です。自分史を書く人が増えていると聞きます。早すぎた自分史の試み、何かの参考になれば幸いです。

ダンボール 【自分史の試み】

 学校を卒業してから五年間勤めた会社を辞め、私は文芸誌『群像』の評論の新人賞に応募しようとしていた。その応募作が私の処女作になる筈であった。筈であったと過去形で書くのは、それがじつは習作でしかなかったという事実を述べたいからなのである。処女作とは最初に書いた作品のこととは限らない。世間(もしくは自分自身)に最初の作品として認められたものをもし処女作と呼ぶこととすれば、処女作と区別して習作という概念もありうるだろう。習作とは処女作たりえなかった作品のことである。横浜にある広告代理店に就職し営業の仕事をやっていた。五年間勤めたが、営業はやはり自分に向いてないと思い、なんとか文筆で身を立てたいと願った。そこで文芸誌の新人賞への応募とあいなった。生活が足が地についていなかった。とほうもない非現実的な空想ばかりして、私は生活を失ってしまったのだ。言霊という美しい言葉がある。語られた言葉など抱いた思いのほんのわずかである、語ろうとして語りえなかった思い、それこそ言霊であるというかんがえ。私が今まで書いてきた作品など、思いの深さに比べれば氷山の一角だ。火事の煙にしか過ぎぬのだ。しかし言霊とは便利な言葉でもあって、作品の貧しさを弁解する方便に使うことも可能である。作品こそすべてである。それが文学の非情の掟である。

 なにしろ気持ちだけは五年間も準備したのだし、会社も辞めて背水の陣を敷いて書き上げた作品だったのだから、その時点では自分でも傑作が生まれたという思いがとても強かった。とにかく若すぎた。自分を客観視するにはほど遠かった。思い込みだけで突っ走って書き上げた百枚の『形而上派宣言』という作品。これが私の記念すべき習作である。結果は見事に落選であった。
 
 応募作がまさか落選するとは思ってもみなかったので、ショックは大きく、そうだ、尊敬する埴谷雄高に読んでもらおうと考えて、原稿を持って吉祥寺の埴谷邸まで出かけていった。呼び鈴を押してから、鍵もかかっていなかったので玄関をがらがらと開けて入り、大きな声で「すみません」と叫ぶと、しばらくして埴谷が出てきた。群像の評論の賞に応募したのだけれど落選した、しかし内容については自信があるので読んでもらえないだろうかと頼んでみたところ、埴谷は、最近眼が悪くなって新聞の見出し位の大きな字でないともはや読めないこと、生原稿を読むのは無理であることを説明した。いきなり押しかけて随分厚かましい要求をしたと今では思うのだが、その時は賞の選考に落ちて焦っていたので、読むことができないのなら私が評論の最初の部分を読み上げるので、それを聞いた上で感想を聞かせてほしいと頼んだ。気圧されたのか、それとも無限大の親切心からなのか、おそらく後者だと思うのだが、埴谷は私の頼みに応じてくれた。途中まで朗読したところで、埴谷は手をかざし、「わかった。あなたは〈私とは誰か〉という根本問題を考えようとしている」 と言った。「それはそれでいいのだが、そういうものはそう簡単に世の中に認められることを期待してはいけない。同人雑誌に掲載したりして、少数でもいいから自分の作品を認めてくれる人を増やしていくべきです。私の『死霊』だって最初は誰も認めてくれなかったんですよ」とアドバイスしてくれた。そして「作品を活字にしたら送ってきてもよい。そしたら読んであげよう」とも 言ってくれた。少しは気がおさまった私は、礼を述べて埴谷邸を後にしたのだった。まるで絵に描いたような偉大な作家と愚かな若者との対面の光景であった。『形而上派宣言』の全体はついに活字になることなく終った。したがって埴谷に読んでもらうこともなかった。『形而上派宣言』の第一章はその後俳諧同人誌『風信子』第十五号に発表している。埴谷雄高とは文字通り一期一会の出会いであった。

 長いスランプの後、全力投球というよりは死に物狂いで書き上げたのが、長谷川如是閑賞授賞作の『歴史における保守と進歩』である。この論文が私の処女作ということになる。高校生の頃、将来は政治家になりたいと思っていた。だから大学も明治大学の政治学科を選んだ。だが、政治家になるということは立身出世をすることであり権力者を目指すということである。当時、学生運 動が激しくなっていて、そこに於て私の考えていた政治の概念は根底から覆されてしまった。政治とは、自己犠牲であり、モラルを根底から問うことでなければならないのだった。それが時代の常識であった。そのような時代精神を象徴する極め付けが三島由紀夫の割腹自殺である。『豊饒の海』四部作は二十歳の若者の輪廻転生の物語である。三島由紀夫の衝撃的な自死のニュースを聞いたのは私も二十歳のときだった。橋川文三の『日本浪漫派批判序説』を読んだのは、三島の自死があってから数日後である。橋川文三が母校明治大学の政治学科の教授だったのは知っていたが、この本を読んで初めてここに真の知識人がいると感じた。私は翌年の春から二年間、橋川文三の日本政治思想史のゼミに学んだ。長谷川如是閑賞が受賞できたのも、けっきょくは橋川氏に学んだことに大きく因っている。

 しかし、この授賞作品については、課題論文であり、自分で探したテーマではない為、自己表現をしたという思いからは程遠い。 論文での応募作ということから、審査員向けに書いたせいもあって文章もそうとう固い。受賞をとても喜んでくれた叔母さんから、 いっしょうけんめい読んだけれども難しくてだんだん腹がたってきた、と言われたことがある。長谷川如是閑賞の授賞式で別所真紀子さんと知り合ったのが、連句を始めるきっかけとなった。
  
 第三作目が『マクベス論』である。シェイクスピアの全作品を読んだ上で、シェイクスピアについて書くならば、その最高傑作である『マクベス』しかないと思っていた。そして幻視者マクベスを論ずるにふさわしく、私もまたある幻視を体験した。その幻視を核にして書いたのが、わが『マクベス論』である。とにかくこの作品は早く活字にしたかった。私の発見を形にしておきたか った。『マクベス論』は、窪田薫氏の『極私的俳諧年鑑一九九一・モーツアルトが俳諧を卷いたなら』に掲載して頂いた。窪田氏 にはとても感謝している。今もなお、いつかだれかに私のマクベ ス論が発見されることを期待しているからだ。

 窪田氏とはいちど旅の宿で両吟を巻いたことがある。そのとき窪田氏は、浴場に入る時まで紙とペンを持って行って連句を続けようとされた。私はびっくりしてしまった。私はお湯につかるときくらい句作りも忘れてのんびりしたかったので、なんとか説得してあきらめてもらったのだが、窪田氏はやや不満そうな顔をされた。ああ本当にこの人は連句が好きなのだなと思って心底感動した記憶がある。窪田氏みたく連句に無心に遊ぶ境地にいつ達することができるか。それは私の課題とするところである。『れぎおん』には、窪田氏の勧誘で同人となった。

 さて、その後の私の主要な作品はほとんどすべて俳諧同人誌『れぎおん』に掲載されている。じつはパソコン通信に発表した文章も多いのだが、それらはすべて改訂し組み替えて作品として形を整えた上で、最終的に『れぎおん』に発表している。したがって『れぎおん』のバックナンバーを繰っていただければ、上記三作品以外の私の全作品はほぼ網羅しているわけである。
 
 書くことにこだわった人生を送ったつもりでいるものの、実際に書いた作品の量は意外と少ないのに自分でも気付く。一作ごとに画期的な・新しい・前代未聞の文章を書きたいと願っている。そんなことはそう簡単にできる筈がないから、どうしても書く量は少なくなってしまう。残念だが仕方ない。

 アサヒネットのパスカル会議室で知り合ったメンバーと一緒に、草の根のダンボールネットを九四年に創設した。アサヒネットに匹敵する本格文芸ネットの構築を目指した。連句的精神に立脚した文芸ネットを謳い文句に。シスオペはそこでは連句における捌きの立場の役割というアナロジーでとらえられる。ネットの経営においては、大岡信の「うたげと孤心」の理論も大きなヒントに なった。同人には年額四千円の同人費を払ってもらい、個人ボードに自分の作品をすべて載せられるようにした。個人ボードは〈孤心〉の空間、そして〈うたげ〉の空間として「バーチャル公園」という会議室を作った。そこでは連詩、テーマエッセイ、読書会、百物語等の共同制作の実験を行った。

 パソコン通信は活字とはまた違った独特の言語空間であって、そこでは〈肉声〉が生き返るように思われる。ゲストボードに出没した宇宙猫と名乗る謎の女性がダンボールネットに発表した 『天の半分』という作品は、レイアウト・内容・その空気、どれをとってもまったく新しいパソコン通信を前提とした、つまりディスプレイの中でこそ出会えるまったく新しい形式の文芸という 気がした。私の場合をとっても、パソコン通信ではダンボールというハンドルネームを名乗ったのだが、ダンボールという架空の書き手でしか書きえないものが続々と書けるようになったのだ。狛犬少女や、ビリリ署長、ピタリ・テレパスといったキャラクターも、パソコン通信の中からこそ生まれ出たのだった。 現在草の根ネット版のダンボールネットとホームページ版ダンボールネットの両方で営業しているのだが、一年以内にインターネットに一本化する予定でいる。その為の移行作業がいま進行中 である。大海のごときインターネットの世界でどのような新しい 文芸の可能性を開くことができるのか。そして書くことが人生の いかなる冒険たりうるか。夢の中の冒険者にこれからも問い掛けていきたい。電子ネットワーク戦士ダンボールの新たな冒険を開始すべき時は近付いた。
『れぎおん』と『ダンボールネット』が今の私の主戦場である。                              ダンボ-ル  *これは連句同人誌『れぎおん』に連載している「大空を行く四輪馬車」(第十五回)の掲載用原稿です。

 

■ダンボールネット同人による感想文

海神さんの感想
ダンボールさんの「自分史」は大変面白かったです。  たぶん、埴谷雄高に生原稿を読んで聞かせたところなどは将来の好機のために出さ ずに自分の中にしまっておいたのではないでしょうか。自分の「思いこみの強い性格」、そのために職を失い受賞すべき評論が「まさか落選するとは思わなかった」しかしそ の思いこみの強さがこれでつぶれていたら、その後の、100年に1回という「長谷 川如是閑賞」での入賞はなかったでしょう。
  で、感想文を何度も書きかけたのですが、どうやっても本文より長くなる(笑)それで、たったいま感想を書くのを投げ出したところなのです(笑)  なんと言ってもダンボールネットは、ダンボールさんの、お人柄と、連句における 「捌きの達人」としての「座の思想」が支えてきたのだと私は思います。パソコン通 信のような掲示板中心の対話型ネットが、WWWのような個人による情報発信型のネ ットに場を奪われるようなことは信じかねる、そういうショックから立ち直って、や っと積極的に歩を進める気持ちになれましたね。

並木たけひさんの感想
この間、ダンボールさんの投稿作品を読んではじめて知ったのですが、 ダンボールさんは埴谷雄高に会ったことがあるんですね。 驚きました。 埴谷雄高と言えば、第一次戦後派の有名な批評家じゃないですか。 僕も不勉強なので詳しくは知らないのですが……。 そんな人と会っているなんて。 僕もわりとミーハー(死語?)なので、まず、はじめに、いいなあーと 思ってしまいました。 僕もそんな大作家に会ってみたいものです。 そして自分の原稿を読んで批評してもらえるなんて……。 今だったら、大江健三郎か、中村真一郎か、小田実でしょうか? すごい大作家ばかりで、きっと会うことはかなわないでしょう。 でも、若いときにはダンボールさんのような強引さも必要かもしれませんね。

南風 一さんの感想
 ダンボールさんに似た話しです。 若者というのは全く怖いもの知らずで、私も大学に入学したての頃、 かの有名な加藤周一氏が大学に講演に来るというので勇んで聞きに行きました。
 そのときの演題は核廃絶についてだったと思うのですが、講演の内容が 余りに理想論に思えたので、講演後のパネルディスカッションで、加藤周一氏 に市民運動とか広範な普通の人たちの支持を得るように努力しない限り 理想論の実現はありえないと言って、例として、講演が行われている講堂 のすぐ隣りのテニスコートでは学生たちが暢気にテニスをやっているが こういう人たちが講演を聞きに来たいという説得的な議論を展開して いかない限り、核廃絶は難しいのではないか、と批判したところ、 あの温厚そうな加藤周一氏が怒ったのなんのって。
 テニスをする学生を飽食豚に喩えて、非難の舌鋒の鋭かったことと言ったら。 息巻いてしまって、主催者の学生自治会事務局が水入りを宣言する くらいでした。あのくらいの思想家でも、足元の弱いところを突かれると やっぱり怒ってしまうのですね。 若い頃の怖いもの知らずの思い出話しです。

南風一さんの感想に対するこがゆきさんの反応
 しんじられなーーい  温厚な文章の南風一さん。  その裏にそんな部分があったとは。

★朝目覚めるとすぐボサノバをかける。ボサノバは優しい朝を作ってくれる。

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【霊告月記】第七十四回  九鬼周造のエピソード二題

2022年01月01日 10時00分00秒 | 霊告月記71~75

【霊告月記】第七十四回  九鬼周造のエピソード二題

エピソードその1 九鬼周造とリッケルト

ハインリヒ・ヨーン・リッケルト(Heinrich John Rickert、1863 - 1936)は、ドイツの哲学者。新カント派・西南ドイツ学派の代表的な人物として知られています。九鬼周造全集の月報1に生松敬三氏が「ハイデルベルクの九鬼周造」というエッセイの中でヘルマン・グロックナーの回想記から次のような引用を行っています。
ある日グロックナーはリッケルトの口からこんな話を聞かされます。

「自分は今日、 一人の日本人のために私宅講義をしてやることに決めた。お伽の国の金持ちのサムライであるが、その男が自分にカントの 『純粋理性批判』をいっしょに読んでくれと頼むのだ。この常ならず高貴な物腰の紳士は他のどんな日本人ともまるで違って見える。背の高い痩せ形で、顔は割合に細く、鼻はほとんどヨーロッパ型、非常にしなやかな手をしている。その人の名はバロン・クキ。 ドイツ語では(彼が自分でそう言ったのだが)ノイン・トイフエル9人の悪鬼といった意味だそうだ」。

生松氏の感想です。「報酬として九鬼はリッケルトに高価なイギリス・ポンド紙幣で多額の金を支払ったから、インフレ時代はもとよりレンテン・マルク時代にいたるまでこれによってリッケルト家の経済がうるおったというのである。 具体的な金額までは記されていないから、どれほどの金を与えたのかは分らないが、それがレンテン・マルク時代まで経済的安泰を維持したというのは大変なものである。 このドイツのインフレ時代の日本人留学生の羽振りのよさは、あれこれの伝説的逸話として語り伝えられているところたけれども、「バロン・クキ」 はその点でも飛び抜けていたらしいことがうかがえる」。
九鬼がリッケルトにもたらした恩恵は三点あると生松氏は述べています。

一つは上にしめされた通りのリッケルト家に与えた経済的恩恵です。第二点です。九鬼はリッケルトの銅像の制作を二個依頼し、一個はリッケルトの六十歳の誕生日に贈り、その出来栄えの良さにリッケルトを大いに喜ばせました。もう一個は日本に持ち帰ります。これは現在甲南大学のアーカイブに保管されています。第三点。これがリッケルトへの一番大きい恩恵であったかもしれません。グロックナーの回想記から次のようなことが言えると生松氏は書いています。引用です。

「さて、リッケルトへの貢献の第三としてグロックナーが挙げているのは、この九鬼が依頼した私宅講義をきっかけに、その準備としてカントの原典を再読することになったリッケルトは、これにより日々新しい発見をすることができたということである。「カントこそこれまでに存在した哲学者のうちでもっとも偉大な哲学者だ」と、その当時リッケルトはグロックナーに大いに力説したという。「カントに比べれば、プラトンはほんの初心者でしかない。 ヘーゲルもショーペンハウアーも、カント主義の基底からあまりに浅薄に踏み出してしまっている。すべての近代の哲学者は、いやしくもなにかなすところある限りは、カントに立ち戻っているのだ。」 もしグロックナーの言うように、この九鬼への私宅講義がリッケルトのカント再発見にそれほど大きな刺激を与えたのであるならば、あの一九二四年のリッケルトの特色あるカント論、『近代文化の哲学者としてのカント』が書かれたのも直接にここから端を発しているのかもしれない。だとすると、この三つめの九鬼の貢献もたしかにやはり重要な意味をもつものであったとしてよいであろう」。

エピソードその2 九鬼周造と岡倉天心

         岡倉天心

九鬼が幼少の頃、岡倉天心は九鬼の母親のところをよく訪ずれ、九鬼は天心のことを「叔父さま」と呼んでいました。ある時、天心は九鬼を筑波山へ連れて行ってくれたのですが、その途中の茶屋のお婆さんが、天心と九鬼の顔を見比べて、「お子さんはお父さんにほんとうに良く似てらっしゃいますね」とお世辞を言ったそうです。天心はそれを聞いて笑っていたそうですが、このエピソードを九鬼は晩年のエッセーで二度も書いています。九鬼は天心に対して特別の思いを抱いていました。天心は九鬼家の家庭を破壊した人であるにも関わらず、心からの尊敬の念を抱き、いわばもうひとりの父の思いを持っていたようです。その思いは終生変わらなかった。

九鬼周造は、アメリカから日本へ向かって、太平洋を二度航海しています。二度目は西欧での八年間の留学を終えての帰国の旅。一度目は胎児の時代です。周造を身籠った母に付き添った岡倉天心と一緒に太平洋を横断する周造。この周造の胎児時代の旅こそ九鬼のその後の運命を象徴するような航海であったと言えると思います。九鬼の実父は男爵九鬼隆一ですが、岡倉天心は九鬼の精神的な父といってもいいような存在でした。九鬼は天心の思想を受け継いだ後継者と位置付けるのが適切ではないかと私は考えています。

九鬼周造は岡倉天心の思想を受け継いだ真の後継者と位置付けるのが適切であると私は考えるわけですが、文献的な裏付けの例を若干上げてみます。例えば帰国後に書いた彼の論文「日本的性格」において次のような主張がなされています。

「日本的性格の構造内容に関して先ず問題となることは、いったい何に対して日本的性格なるものを特色づけるべきかということである。日本的性格は日本文化の性格として具体的に把握されるから、この問題は日本文化とは何に対していうのであるかという問題と結局は同じことになる。我々は出来るたけ現実に即して考えて行かなければならぬ。すなわち今日の我々にとって、いったい何が日本文化として浮き出ているのか。徳川時代の国民精神の自覚は、 一方に仏教の齎した印度文化に対し、他方に儒教の中に含まれている支那文化に対して、日本固有の文化を擁護するという形を取ったのであるが、それは過去に於ける歴史的意義は別として、今日においてはそのままでは厳密には妥当し得ない観念形態である。今日でもむやみに漢学や漢字を排斥して 「大和ごころ」といごときものを考えている人々もあるようであるが、それはむしろ抽象的な理念にとらわれているのであって、今日我々が日本文化というものを考える場合には印度文化や支那文化を摂取して津然としてーつに融合している日本文化を考えなければならぬと思う。日本文化は今日の現実の問題としては主として西洋文化に対して考えられているのである。西洋文化の浸潤によって醸された国民的自覚の衰退に対して日本文化の特色を強調し日本的性格の構造を解明して国民一般を自覚にもたらさなければならぬという歴史的危機に我々は立たされたのである。徳川時代に国学者の置かれた歴史的状況と今日我々の置かれている歴史的状況とは同一ではないのである。今日何に対して日本文化を考えるべきかという問題に当面した場合に、東洋全体を背景とする日本文化を西洋文化に対して考えるということが最も現実に即した考え方であるといわなければならぬ」。

滞欧中の最後の年に九鬼がパリ近郊のポンティニーで行った講演『日本芸術における「無限」の表現』は次のような語りだしで始まっていました。

「岡倉天心はきわめて正当に「日本芸術の歴史はアジアの理想の歴史となっている」 (『東洋の理想』 セリュイ訳、パリ、 一九一七年、三十六頁)と言った。事実、日本芸術は多くの点で東洋の思想を反映している。ところで、西洋において、ギリシア哲学とユダヤ教が、あるいは調和しあるいは対立しながらヨーロッパ文明の展開を規定してきたように、東洋において、インドの宗教と中国の哲学がわがアジア文明の歩みを条件づけてきた」。

岡倉天心の名をまず出して日本芸術の理念を語り始めようとするその姿勢は、天心の抱いた理念に九鬼が共振して動き出す方向性をはっきりと特徴づけていると思います。

★初笑い:ピカチュウが突然動き出すドッキリ★  

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【霊告月記】第七十三回 ソーシャル・ディスタンスという言葉への疑問

2021年12月01日 10時00分00秒 | 霊告月記71~75

【霊告月記】第七十三回  ソーシャル・ディスタンスという言葉への疑問


        宇宙人にしてビッグ・ボスの新庄剛志

近頃はやりの「ソーシャル・ディスタンス」の本来的意味とは?

「アメリカの社会学者パークが提唱した概念。空間上の二つの地点の関係を表す距離という長さの物差しの考え方を借りて、個人と個人との間や集団と集団との間にみられる親近感とか敵対感といった感情のレベルでの親近性の程度を表すための物差しである。([本間康平]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)」・・・という記事を昨年フェイスブックに引用した。

そうしたら、Mさん(仮名)から、「で今の使われ方は正しいのでしょうか?」とのお尋ねがあった。以下は、その回答と、その後に続く対話の再録である。

私: 正しくない、と思います。理由。知恵蔵miniの解説によれば、
「感染性の病原体の拡散や、人への感染拡大を防止したり、感染ペースを落とすために人と人の間の物理的な距離を保つ公衆衛生戦略のこと。単純に人との距離を空けるということだけでなく、人が集まりそうなイベントの中止、社交イベントの中止なども含まれることから、英語では「Social distancing」という用語が使用されている。近年ではインターネットの普及により物理的に人が集まらなくても交流が可能になったことから、WHO(世界保健機関)などでは同戦略を「Phyiscal distancing」と表記するように変化してきている。」とのことのようです。しかしどちらでも同じことです。

適切な日本語を見出して説明しようとせず、為政者が知ったかぶりの外国語を振りかざして、国民を領導しようとするのは不正行為そのもの。戦中戦前は高齢者の多くは経済的理由その他で小学校教育しか受けていない。英語の単語を持ち出されても理解は困難です。どうしても然るべき日本語が見つからない場合は、次善の策として英語を借用するのは仕方ないかもしれない。その場合でも適切な日本語に翻訳してその言葉を使用すべきです。アメリカ従属を問題視し、その克服を主張する論者もいますが、まず日本語の語彙を増やし、国民誰もが自分の言葉で、彼らの生活語で政策の妥当性を議論できる環境を作る。それが知識あると自負している人の課題です。ですから、そのような意味で、私ははっきりと正しくないとお答えしました。異論あれば聞かせて下さい。

Mさん : そうですね。外国語や難しそうな言葉を使って、自分だけ分かったつもりでいるのは、昔から、実際には優秀でない為政者や偽インテリだという、悪しき伝統がある。

私: 同感です。大衆は「優秀でない為政者や偽インテリ」を毛嫌いしている一方、「優秀な為政者や本物のインテリ」を尊敬しその登場を期待しているのだと思います。偶然とは恐ろしい。いや、喜ばしいのかもしれないが・・・
なぜそう感じるか。簡単に説明します。今朝六時頃に<近頃はやりの「ソーシャル・ディスタンス」の本来的意味とは?>という記事を書きました。すぐ、そのあと、Mさんの質問を目にしました。しかし、私は大澤真幸著『社会は絶えず夢を見ている』を読みたかったので、そのまま読み続け、出勤時間になったので、家を出ました。

で、その質問に、帰宅してすぐ回答しました。で、読みさしの上記書物を読み続けたのですが、なんとも摩訶不思議なことに、私の述べたこととほぼ同じことを、はるかに適切に大澤氏は語っているではありませんか。オドロキ、モモノキ、サンショノキです。引用します。

「日本語で、母語で、つまり人が普段考えるときに依拠している言語で表現できなければ、その思想はほんものにはならない。この点は、今日の講義からも理解していただけたと思います。むろん、受け手として、あるいは読者として、日本人だけではなく、すべての公衆を想定しなくてはなりません。もっと端的に言えば、日本国内とか、その他小さな集団の中でならば通用するけれども、英語等に翻訳した途端に意味をなさなくなるようなことを語っても仕方がない、ということです。しかし、繰り返せば、母語で考えればよいし、またそうすべきです。」(大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』)

こういうのを、共時性(シンクロニシティ)」というのかな? どうなんでしょう? 

Mさん : 権力や権威がある人間がそんな当たり前なことをやろうとしないという不幸。
 
※以上です。ちなみに大澤真幸著『社会は絶えず夢を見ている』は、以前に読んだことがあり、今回は再読です。読み方は少し工夫して、全四章四回分の講義を、第四章つまり終わりから順に読んでいき、最後に第一章を読み終えたのがきのうでした。名著です。再読してそのことは確かめましたので、皆さまにも同書はお薦め致します。ご参考までに同書の目次を掲げておきます。

【目次】
はじめに なぜ講義なのか?そして何を講義するのか?
第一講 「日本語で考えること」を考える
第二講 社会主義を越えて コミューン主義へ
第三講 リスク社会の二種類の恐怖
第四講 今のときに革命について語る
あとがき

★宇宙人新庄剛志 伝説の敬遠球打ち 


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【霊告月記】第七十二回 九鬼周造の偶然論

2021年11月01日 10時00分00秒 | 霊告月記71~75

【霊告月記】第七十二回   九鬼周造の偶然論

                       

九鬼は何度も偶然性について書いたり語ったりしています。帰国後すぐに大谷大学で偶然性について講演したのを手始めに、大学での講座での講義録が残っていますし、博士論文も偶然性をテーマにしています。そして集大成的な『偶然性の問題』を著しました。九鬼の「短歌ノート」にはこの書にことよせて三首の歌が残されています。

『偶然性の問題』を著して
●わくら葉のものの「はずみ」をかたくなの論理に問ひて一巻をなす
●偶然論ものしおはりて妻にいふいのち死ぬとも悔ひ心なし
●一巻にわが半生はこもれども繙く人の幾たりあらむ

『偶然性の問題』はここで九鬼が言う通り極めて抽象的で形而上的な議論が展開されておりとても難しいのですが、九鬼が一般向けに語ったラジオ講演「偶然と運命」は比較的分かりやすい内容です。「偶然と運命」は昭和十二年一月二十三日午後六時二十五分から三十分間行ったラジオ講演です。

九鬼によれば偶然性には三つの性質があります。第一に何か有ることも無いこともできるやうなものが偶然である。第二に何かと何かとが遇ふことが偶然である。第三に何か稀れにしかないことが偶然である。さうして人間の生存に至大な意味を有つてくる偶然を特に運命と呼ぶ、と九鬼は言っています。第一の性質の例。サイコロを墨壺に落としてから振れば必然的に黒の面が出る。白が出るのは不可能です。六の面を持つサイコロを振って、三の面が出たら、それは有ることも無いこともできるものがたまたま出たのであって、それが偶然です。第二に何かと何かとが遇ふということが偶然の持つ性質です。たとえば病人の見舞に行くとして、その病人に遇ふことは偶然ではない。わざわざ遇ひに行つたのですから偶然ではない。然しそこへ見舞に来合はせた誰それに、思ひがけず遇ふことは偶然です。その人に遇ふといふことには何等の必然性がない。遇つたとすればそれは偶然です。すなはち必ず遇ふにきまつていない、遇ふことも遇はないこともできるやうな遇ひ方をするのが偶然です。第三の性質の例。「わくらば」という万葉時代からある古い言葉があります。「わくら葉」は「病葉」と書く場合もあれば、「邂逅」と書いて「わくらば」と読ませるケースもあります。夏の青葉にまじって赤や黄に変色しているめったにない葉を「わくら葉」というのですが、めったにない稀なケースなので「病葉」とか「邂逅」とか表記されるわけです。偶然といふことは稀れな場合に特に浮き出て来て目にとまる。稀れな場合といふのは可能性の少ない場合です。可能的ではあるけれども不可能に近いやうなことが、どうかした「はずみ」で実現された場合に偶然が特に鋭く目立つて来て認識され易い。さて、人間の生存に至大な意味を有ってくる偶然を特に運命と呼ぶわけですが、運命について九鬼はこんな例をもって説明しています。引用です。

「私共はアメリ力人でもフランス人でもエチオピア人でも印度人でも支那人でもその他のどこの国の者でもあり得たと考えられるのであります。我々が日本人であるといふことは我々の運命であります。蟲にも生れず鳥にも生れず獣にも生れず人間に生れたといふことも我々の運命であります。人間に生れるといふ賽ころの目がヒョッコリ出たのであります。日本人に生れるといふ賓ころの目がヒョッコリ出たのであります。三つ口に生れついた者、せむしに生れついた者にとつてはさういふ賽の目が出たのであります。

ニイチェの 『ツァラトゥストラ』 の中にかういふ話があります。 ツァラトゥストラが或日、大きい橋を渡つてゐいたところが、片輪だの乞食だのがとりまいて来た。その中にひとりせむしがゐてツァラトゥストラに向つて、だいぶ大勢の人があなたの教えを信じるやうになつては来たが、また皆とは行かない。それにはーつ大切なことがある。それは先づ私共のやうな片輪までも説きふせなくてはだめだと云つたのであります。それに封してツァラトウストラは 「意志が救ひを齎す」 といふことを教えたのであります。せむしに生れついたのは運命であるが意志がその運命から救ひ出すのであります。「せむしに生れることを自分は欲する」 といふ形で 「意志が引返して意志する」 といふことが自らを救ふ道であることを教えたのであります。このツァラトウストラの教えは偶然なり運命なりにいはば活を入れる秘訣であります。人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。それが人生の第一歩でなければならないと私は考へるのであります」。

このラジオ講演には後日譚がありまして、九鬼は短歌ノートにその際のできごとを短歌連作に残しています。九鬼の繊細な心が感じ取れると共に九鬼の文学的表現力も明かしてくれる印象深い歌です。

・ラヂオにてわが講演を聞きしとか訪ひ来し乙女子未知の乙女子

・うるはしき見目の乙女よ「運命」といふ題の話の何に感ぜし

・貧しくて女学校へも行かざりし運命をなげく十九の乙女

・昼も夜も刺繍をさして世過ぎする雇ひ女なりとみづからをいふ

・勉強がしたかりしとて聲くもらす乙女の前にわれ力なし

・面曾が叶ひし上は他に望みあるにあらずと立ち去らむとす

・人間の生きの苦しみしみじみとわれに思はせて乙女は去りぬ

★偶然 -- 蔡琴 演唱 徐志摩 詩詞

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【霊告月記】第七十一回 九鬼周造とサルトル

2021年10月01日 10時00分00秒 | 霊告月記71~75

【霊告月記】第七十一回 九鬼周造とサルトル

九鬼周造のプロフィールを2021年1月2日付でツイッターに掲載しましたので、まずそれから引用します。

「九鬼周造とは何者か?→九鬼はリッケルト・フッサール・ハイデッガー・ベルクソン・サルトル等から直接に学び西欧現代哲学を摂取した上で、偶然論という哲学の根本問題を解明したのみならず、日本文化の根本理念を世界的視野で闡明した20世紀日本を代表する哲学者です」。

→これは私が今年1月の時点で抱いた九鬼周造の原イメージです。現時点でもこのイメージに基本的な変化はありません。

     
             若き日のサルトル

Q:九鬼周造とサルトルは面識があったのですか?

A:九鬼がフランスへ留学した時に担当教授にフランス語の家庭教師の紹介を依頼しました。その時にやってきたのがサルトルでした。サルトルがまだ学部の学生の頃です。約半年ほどの期間九鬼とサルトルは交渉があったことになります。サルトルが来日した際に九鬼にはフランス哲学の歴史を教えたのだと言っています。いっぽう九鬼はサルトルにハイデッガーの哲学を教授しました。後にサルトルは九鬼の紹介状を持参してハイデッガーに面会しています。九鬼は偶然性の哲学をサルトルに伝えたことは確実です。偶然性こそ実存主義の要をなすアイデアです。

映画「サルトルー自身を語る」の録音テープを文字起こしたものが書籍になって出ていますが、その中でサルトルの思想のエッセンスと思われる文言が引用されています。誰かの手によって次の文章が書き写されます。
根源的であるとは、必然性も弁明も理由もなくそこにあるということだ。それは実存する権利なしに実存するということだ」。

さらにサルトルの小説の代表作である『嘔吐』において、サルトルは主人公ロカンタンの口を借りこの偶然性の発見の瞬間すなわち実存主義の生誕の光景をみごとに語っています。

実存するものはすべて理由なく生まれ、弱さから生きのび、たまたま死んでいくのだ。大事なのは、偶然性ということだ。つまり実存は定義上、必然性ではないということ。実存するとは、そこにあるということだ。ただ単に。実存するものは出現し、邂逅させられるが、これを演繹することはできない。すべては無償なのだ、この庭も、この街も、わたし自身も、そういうことをふと理解してしまうと、胸がむかむかし、一切のものが漂い始めるのだ。わたしは、ベンチの上でぼおっとしていた、起源のないものどもの充満に茫然とし、圧倒されて、いたるところに孵化があり、開花があり、わたしの耳は実存でぶんぶんうなり、わたしの肉体自身、ひくひくと痙攣し、口を開き、宇宙のぶんぶんとしたざわめきに身を委ねていた。
(ジャン‐ポール・サルトル著『嘔吐』 鈴木道彦訳)

九鬼周造文庫には九鬼とサルトルの交渉を記録したノートも残されています。これら諸資料を踏まえ諸状況を勘案するならばサルトルの実存主義の生みの親は九鬼周造であったかもしれないという推測も成り立ちます。アメリカで九鬼とサルトルの関係を取り扱った書物も出されているそうです。

Q:九鬼周造文庫とは何ですか? その中のサルトルとの交渉を記録したノートとは?
A:死期を悟った九鬼はドイツ留学時代からの親友である天野貞祐に自分の原稿やノート・蔵書など一切を預けました。この資料を天野は甲南高校(後の甲南大学)に委託。甲南大学はこの資料を整理し九鬼周造文庫として管理運営しています。九鬼の原稿やノート等諸資料はネットで公開されています。語句検索「九鬼周造文庫」で検索可能です。サルトルの記録は「九鬼周造文庫 1.ノート 4.フランス留学中のノート サルトル氏」をご参照ください(但しフランス語)。

 サルトル『嘔吐』に出てくる曲「Some Of These Days」


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