【霊告月記】第七十五回 自分史の試み
ダンボール 【自分史の試み】
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【霊告月記】第七十四回 九鬼周造のエピソード二題
エピソードその1 九鬼周造とリッケルト
ハインリヒ・ヨーン・リッケルト(Heinrich John Rickert、1863 - 1936)は、ドイツの哲学者。新カント派・西南ドイツ学派の代表的な人物として知られています。九鬼周造全集の月報1に生松敬三氏が「ハイデルベルクの九鬼周造」というエッセイの中でヘルマン・グロックナーの回想記から次のような引用を行っています。
ある日グロックナーはリッケルトの口からこんな話を聞かされます。
「自分は今日、 一人の日本人のために私宅講義をしてやることに決めた。お伽の国の金持ちのサムライであるが、その男が自分にカントの 『純粋理性批判』をいっしょに読んでくれと頼むのだ。この常ならず高貴な物腰の紳士は他のどんな日本人ともまるで違って見える。背の高い痩せ形で、顔は割合に細く、鼻はほとんどヨーロッパ型、非常にしなやかな手をしている。その人の名はバロン・クキ。 ドイツ語では(彼が自分でそう言ったのだが)ノイン・トイフエル9人の悪鬼といった意味だそうだ」。
生松氏の感想です。「報酬として九鬼はリッケルトに高価なイギリス・ポンド紙幣で多額の金を支払ったから、インフレ時代はもとよりレンテン・マルク時代にいたるまでこれによってリッケルト家の経済がうるおったというのである。 具体的な金額までは記されていないから、どれほどの金を与えたのかは分らないが、それがレンテン・マルク時代まで経済的安泰を維持したというのは大変なものである。 このドイツのインフレ時代の日本人留学生の羽振りのよさは、あれこれの伝説的逸話として語り伝えられているところたけれども、「バロン・クキ」 はその点でも飛び抜けていたらしいことがうかがえる」。
九鬼がリッケルトにもたらした恩恵は三点あると生松氏は述べています。
一つは上にしめされた通りのリッケルト家に与えた経済的恩恵です。第二点です。九鬼はリッケルトの銅像の制作を二個依頼し、一個はリッケルトの六十歳の誕生日に贈り、その出来栄えの良さにリッケルトを大いに喜ばせました。もう一個は日本に持ち帰ります。これは現在甲南大学のアーカイブに保管されています。第三点。これがリッケルトへの一番大きい恩恵であったかもしれません。グロックナーの回想記から次のようなことが言えると生松氏は書いています。引用です。
「さて、リッケルトへの貢献の第三としてグロックナーが挙げているのは、この九鬼が依頼した私宅講義をきっかけに、その準備としてカントの原典を再読することになったリッケルトは、これにより日々新しい発見をすることができたということである。「カントこそこれまでに存在した哲学者のうちでもっとも偉大な哲学者だ」と、その当時リッケルトはグロックナーに大いに力説したという。「カントに比べれば、プラトンはほんの初心者でしかない。 ヘーゲルもショーペンハウアーも、カント主義の基底からあまりに浅薄に踏み出してしまっている。すべての近代の哲学者は、いやしくもなにかなすところある限りは、カントに立ち戻っているのだ。」 もしグロックナーの言うように、この九鬼への私宅講義がリッケルトのカント再発見にそれほど大きな刺激を与えたのであるならば、あの一九二四年のリッケルトの特色あるカント論、『近代文化の哲学者としてのカント』が書かれたのも直接にここから端を発しているのかもしれない。だとすると、この三つめの九鬼の貢献もたしかにやはり重要な意味をもつものであったとしてよいであろう」。
エピソードその2 九鬼周造と岡倉天心
岡倉天心
九鬼が幼少の頃、岡倉天心は九鬼の母親のところをよく訪ずれ、九鬼は天心のことを「叔父さま」と呼んでいました。ある時、天心は九鬼を筑波山へ連れて行ってくれたのですが、その途中の茶屋のお婆さんが、天心と九鬼の顔を見比べて、「お子さんはお父さんにほんとうに良く似てらっしゃいますね」とお世辞を言ったそうです。天心はそれを聞いて笑っていたそうですが、このエピソードを九鬼は晩年のエッセーで二度も書いています。九鬼は天心に対して特別の思いを抱いていました。天心は九鬼家の家庭を破壊した人であるにも関わらず、心からの尊敬の念を抱き、いわばもうひとりの父の思いを持っていたようです。その思いは終生変わらなかった。
九鬼周造は、アメリカから日本へ向かって、太平洋を二度航海しています。二度目は西欧での八年間の留学を終えての帰国の旅。一度目は胎児の時代です。周造を身籠った母に付き添った岡倉天心と一緒に太平洋を横断する周造。この周造の胎児時代の旅こそ九鬼のその後の運命を象徴するような航海であったと言えると思います。九鬼の実父は男爵九鬼隆一ですが、岡倉天心は九鬼の精神的な父といってもいいような存在でした。九鬼は天心の思想を受け継いだ後継者と位置付けるのが適切ではないかと私は考えています。
九鬼周造は岡倉天心の思想を受け継いだ真の後継者と位置付けるのが適切であると私は考えるわけですが、文献的な裏付けの例を若干上げてみます。例えば帰国後に書いた彼の論文「日本的性格」において次のような主張がなされています。
「日本的性格の構造内容に関して先ず問題となることは、いったい何に対して日本的性格なるものを特色づけるべきかということである。日本的性格は日本文化の性格として具体的に把握されるから、この問題は日本文化とは何に対していうのであるかという問題と結局は同じことになる。我々は出来るたけ現実に即して考えて行かなければならぬ。すなわち今日の我々にとって、いったい何が日本文化として浮き出ているのか。徳川時代の国民精神の自覚は、 一方に仏教の齎した印度文化に対し、他方に儒教の中に含まれている支那文化に対して、日本固有の文化を擁護するという形を取ったのであるが、それは過去に於ける歴史的意義は別として、今日においてはそのままでは厳密には妥当し得ない観念形態である。今日でもむやみに漢学や漢字を排斥して 「大和ごころ」といごときものを考えている人々もあるようであるが、それはむしろ抽象的な理念にとらわれているのであって、今日我々が日本文化というものを考える場合には印度文化や支那文化を摂取して津然としてーつに融合している日本文化を考えなければならぬと思う。日本文化は今日の現実の問題としては主として西洋文化に対して考えられているのである。西洋文化の浸潤によって醸された国民的自覚の衰退に対して日本文化の特色を強調し日本的性格の構造を解明して国民一般を自覚にもたらさなければならぬという歴史的危機に我々は立たされたのである。徳川時代に国学者の置かれた歴史的状況と今日我々の置かれている歴史的状況とは同一ではないのである。今日何に対して日本文化を考えるべきかという問題に当面した場合に、東洋全体を背景とする日本文化を西洋文化に対して考えるということが最も現実に即した考え方であるといわなければならぬ」。
滞欧中の最後の年に九鬼がパリ近郊のポンティニーで行った講演『日本芸術における「無限」の表現』は次のような語りだしで始まっていました。
「岡倉天心はきわめて正当に「日本芸術の歴史はアジアの理想の歴史となっている」 (『東洋の理想』 セリュイ訳、パリ、 一九一七年、三十六頁)と言った。事実、日本芸術は多くの点で東洋の思想を反映している。ところで、西洋において、ギリシア哲学とユダヤ教が、あるいは調和しあるいは対立しながらヨーロッパ文明の展開を規定してきたように、東洋において、インドの宗教と中国の哲学がわがアジア文明の歩みを条件づけてきた」。
岡倉天心の名をまず出して日本芸術の理念を語り始めようとするその姿勢は、天心の抱いた理念に九鬼が共振して動き出す方向性をはっきりと特徴づけていると思います。
★初笑い:ピカチュウが突然動き出すドッキリ★
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【霊告月記】第七十三回 ソーシャル・ディスタンスという言葉への疑問
【霊告月記】第七十二回 九鬼周造の偶然論
九鬼は何度も偶然性について書いたり語ったりしています。帰国後すぐに大谷大学で偶然性について講演したのを手始めに、大学での講座での講義録が残っていますし、博士論文も偶然性をテーマにしています。そして集大成的な『偶然性の問題』を著しました。九鬼の「短歌ノート」にはこの書にことよせて三首の歌が残されています。
『偶然性の問題』を著して
●わくら葉のものの「はずみ」をかたくなの論理に問ひて一巻をなす
●偶然論ものしおはりて妻にいふいのち死ぬとも悔ひ心なし
●一巻にわが半生はこもれども繙く人の幾たりあらむ
『偶然性の問題』はここで九鬼が言う通り極めて抽象的で形而上的な議論が展開されておりとても難しいのですが、九鬼が一般向けに語ったラジオ講演「偶然と運命」は比較的分かりやすい内容です。「偶然と運命」は昭和十二年一月二十三日午後六時二十五分から三十分間行ったラジオ講演です。
九鬼によれば偶然性には三つの性質があります。第一に何か有ることも無いこともできるやうなものが偶然である。第二に何かと何かとが遇ふことが偶然である。第三に何か稀れにしかないことが偶然である。さうして人間の生存に至大な意味を有つてくる偶然を特に運命と呼ぶ、と九鬼は言っています。第一の性質の例。サイコロを墨壺に落としてから振れば必然的に黒の面が出る。白が出るのは不可能です。六の面を持つサイコロを振って、三の面が出たら、それは有ることも無いこともできるものがたまたま出たのであって、それが偶然です。第二に何かと何かとが遇ふということが偶然の持つ性質です。たとえば病人の見舞に行くとして、その病人に遇ふことは偶然ではない。わざわざ遇ひに行つたのですから偶然ではない。然しそこへ見舞に来合はせた誰それに、思ひがけず遇ふことは偶然です。その人に遇ふといふことには何等の必然性がない。遇つたとすればそれは偶然です。すなはち必ず遇ふにきまつていない、遇ふことも遇はないこともできるやうな遇ひ方をするのが偶然です。第三の性質の例。「わくらば」という万葉時代からある古い言葉があります。「わくら葉」は「病葉」と書く場合もあれば、「邂逅」と書いて「わくらば」と読ませるケースもあります。夏の青葉にまじって赤や黄に変色しているめったにない葉を「わくら葉」というのですが、めったにない稀なケースなので「病葉」とか「邂逅」とか表記されるわけです。偶然といふことは稀れな場合に特に浮き出て来て目にとまる。稀れな場合といふのは可能性の少ない場合です。可能的ではあるけれども不可能に近いやうなことが、どうかした「はずみ」で実現された場合に偶然が特に鋭く目立つて来て認識され易い。さて、人間の生存に至大な意味を有ってくる偶然を特に運命と呼ぶわけですが、運命について九鬼はこんな例をもって説明しています。引用です。
「私共はアメリ力人でもフランス人でもエチオピア人でも印度人でも支那人でもその他のどこの国の者でもあり得たと考えられるのであります。我々が日本人であるといふことは我々の運命であります。蟲にも生れず鳥にも生れず獣にも生れず人間に生れたといふことも我々の運命であります。人間に生れるといふ賽ころの目がヒョッコリ出たのであります。日本人に生れるといふ賓ころの目がヒョッコリ出たのであります。三つ口に生れついた者、せむしに生れついた者にとつてはさういふ賽の目が出たのであります。
ニイチェの 『ツァラトゥストラ』 の中にかういふ話があります。 ツァラトゥストラが或日、大きい橋を渡つてゐいたところが、片輪だの乞食だのがとりまいて来た。その中にひとりせむしがゐてツァラトゥストラに向つて、だいぶ大勢の人があなたの教えを信じるやうになつては来たが、また皆とは行かない。それにはーつ大切なことがある。それは先づ私共のやうな片輪までも説きふせなくてはだめだと云つたのであります。それに封してツァラトウストラは 「意志が救ひを齎す」 といふことを教えたのであります。せむしに生れついたのは運命であるが意志がその運命から救ひ出すのであります。「せむしに生れることを自分は欲する」 といふ形で 「意志が引返して意志する」 といふことが自らを救ふ道であることを教えたのであります。このツァラトウストラの教えは偶然なり運命なりにいはば活を入れる秘訣であります。人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。それが人生の第一歩でなければならないと私は考へるのであります」。
このラジオ講演には後日譚がありまして、九鬼は短歌ノートにその際のできごとを短歌連作に残しています。九鬼の繊細な心が感じ取れると共に九鬼の文学的表現力も明かしてくれる印象深い歌です。
・ラヂオにてわが講演を聞きしとか訪ひ来し乙女子未知の乙女子
・うるはしき見目の乙女よ「運命」といふ題の話の何に感ぜし
・貧しくて女学校へも行かざりし運命をなげく十九の乙女
・昼も夜も刺繍をさして世過ぎする雇ひ女なりとみづからをいふ
・勉強がしたかりしとて聲くもらす乙女の前にわれ力なし
・面曾が叶ひし上は他に望みあるにあらずと立ち去らむとす
・人間の生きの苦しみしみじみとわれに思はせて乙女は去りぬ
★偶然 -- 蔡琴 演唱 徐志摩 詩詞
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【霊告月記】第七十一回 九鬼周造とサルトル
九鬼周造のプロフィールを2021年1月2日付でツイッターに掲載しましたので、まずそれから引用します。
「九鬼周造とは何者か?→九鬼はリッケルト・フッサール・ハイデッガー・ベルクソン・サルトル等から直接に学び西欧現代哲学を摂取した上で、偶然論という哲学の根本問題を解明したのみならず、日本文化の根本理念を世界的視野で闡明した20世紀日本を代表する哲学者です」。
→これは私が今年1月の時点で抱いた九鬼周造の原イメージです。現時点でもこのイメージに基本的な変化はありません。
若き日のサルトル
Q:九鬼周造とサルトルは面識があったのですか?
A:九鬼がフランスへ留学した時に担当教授にフランス語の家庭教師の紹介を依頼しました。その時にやってきたのがサルトルでした。サルトルがまだ学部の学生の頃です。約半年ほどの期間九鬼とサルトルは交渉があったことになります。サルトルが来日した際に九鬼にはフランス哲学の歴史を教えたのだと言っています。いっぽう九鬼はサルトルにハイデッガーの哲学を教授しました。後にサルトルは九鬼の紹介状を持参してハイデッガーに面会しています。九鬼は偶然性の哲学をサルトルに伝えたことは確実です。偶然性こそ実存主義の要をなすアイデアです。
映画「サルトルー自身を語る」の録音テープを文字起こしたものが書籍になって出ていますが、その中でサルトルの思想のエッセンスと思われる文言が引用されています。誰かの手によって次の文章が書き写されます。
「根源的であるとは、必然性も弁明も理由もなくそこにあるということだ。それは実存する権利なしに実存するということだ」。
さらにサルトルの小説の代表作である『嘔吐』において、サルトルは主人公ロカンタンの口を借りこの偶然性の発見の瞬間すなわち実存主義の生誕の光景をみごとに語っています。
「実存するものはすべて理由なく生まれ、弱さから生きのび、たまたま死んでいくのだ。大事なのは、偶然性ということだ。つまり実存は定義上、必然性ではないということ。実存するとは、そこにあるということだ。ただ単に。実存するものは出現し、邂逅させられるが、これを演繹することはできない。すべては無償なのだ、この庭も、この街も、わたし自身も、そういうことをふと理解してしまうと、胸がむかむかし、一切のものが漂い始めるのだ。わたしは、ベンチの上でぼおっとしていた、起源のないものどもの充満に茫然とし、圧倒されて、いたるところに孵化があり、開花があり、わたしの耳は実存でぶんぶんうなり、わたしの肉体自身、ひくひくと痙攣し、口を開き、宇宙のぶんぶんとしたざわめきに身を委ねていた。」
(ジャン‐ポール・サルトル著『嘔吐』 鈴木道彦訳)
九鬼周造文庫には九鬼とサルトルの交渉を記録したノートも残されています。これら諸資料を踏まえ諸状況を勘案するならばサルトルの実存主義の生みの親は九鬼周造であったかもしれないという推測も成り立ちます。アメリカで九鬼とサルトルの関係を取り扱った書物も出されているそうです。
Q:九鬼周造文庫とは何ですか? その中のサルトルとの交渉を記録したノートとは?
A:死期を悟った九鬼はドイツ留学時代からの親友である天野貞祐に自分の原稿やノート・蔵書など一切を預けました。この資料を天野は甲南高校(後の甲南大学)に委託。甲南大学はこの資料を整理し九鬼周造文庫として管理運営しています。九鬼の原稿やノート等諸資料はネットで公開されています。語句検索「九鬼周造文庫」で検索可能です。サルトルの記録は「九鬼周造文庫 1.ノート 4.フランス留学中のノート サルトル氏」をご参照ください(但しフランス語)。
★サルトル『嘔吐』に出てくる曲「Some Of These Days」
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