なべさんは巣鴨からすぐ近くの十条の篠原劇場で歌舞伎を見る事も趣味で創作のインスピレーションの源であった。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=Ad0V2aG7baQ&fmt=18
そこで江戸っ子の知り合いができる。
下町の江戸時代からの老舗、伝統工芸の職人、和菓子作り。
下町にはまだ江戸からの徒弟制度・家内制産業の名残のようなものが息づいている・・・
なべさんもそういった職人世界への憧れみたいなものがあって、自分にあった工房があったら弟子入りしたいなとも思っていた。
浮世絵職人と知り合いになってその事を話してみたら、残念ながらなべさんはもう歳を取りすぎている。
若い頃から体ごと飛び込まないとプロの領域には到達しないと言われた。
そうか・・・ なら、自分は道教文士の分野でプロの職人になろう! と決意した。
その知り合いの中には、江戸初期からの漬物、什器を売る老舗の店員。
人形屋、紙芝居屋さんなどが居た。
そういう人達は江戸時代の街道沿いに住んでいる事が殆どだった。
江戸初期からの老舗は、元は大阪商人だそうで上方からやってきたそうだ。
人形は埼玉産のものが多いそうで、岩槻、鴻巣から運ばれてくる。
せんべいは草加・越谷辺りが多い。
旧日光街道沿いである。
人形屋は様々な部分を沢山の職人が分担していた。
岩槻、鴻巣周辺の職人が多く、元締めが統括していた。
みな10代後半にこの世界に入り10年位見習いの丁稚奉公をしてやっと一本立ちであった。
一流の職人達はもうこの道一筋20年から30年のベテラン揃いであった。
和菓子では浅草、巣鴨、大宮、川越が有名であった。
なべさんは下町の落語みたいなのは余り好きじゃなかった。
「関西人と東と西のお笑いの違いについて語りあった事がある。
俺は東は権威、秩序を破壊する笑いで、西は商人の笑いだと思うと言ったんだ。
これは江戸時代に江戸城を中心とした武家社会の秩序を下町の人が、お上に対する不満を、権威や秩序の矛盾をからかって笑いをとり精神的開放感を得ようとしたんじゃないか。
大阪は商人の街だったから、商人がお客に媚びたり、愛想を振りまいたり、客の気を惹いたり、不平不満をそらす誤魔化しだったりが元になっていると思う。
まあ、どちらも庶民がコンプレックスを解消する為の手段だったと思う。
よく東の人は吉本漫才が面白いと思わないとか、西の人が東のお笑いは分からないという。
関西の人は、西と東のお笑いの違いを分析するなんて初めて聞いたよ。
と驚いていたよ。 」
「 何故俺はこんな風になってしまったのだろう?
一体いつ頃から・・・
元々、こんな風になるなんて夢にも思っていなかった。
ただ道教の信仰を守ろうとしていただけだったのに。
周りの人達からは 何でこんな風変わりな生活をしてるんだ?
まともな生活をしてみたらどうだ!
なんて言われてしまうけれど、俺だって別にこんな生活をしたくてしている訳じゃない。
俺にはこんなアホな生き方しかできないんだ。
俺には普通の人の一生ってのに全く意味を感じられない。
皆、普通に大学出て、就職して結婚して家を建てて、子供を作って・・・ 老人になっても働き続けて・・・
こんなの人間一人が生きた事にはならないだろ?!
こんな奴等がいくら居たって居なくたって別に誰も困りはしない。
何も変わりはしないんだ。
世の人々はよく言う。 普通に暮らす事ができないと。
日本って国は昔っから普通に生きる事が許されていない国なんだ。
人間的に自由に生きようとすれば、社会から排斥されてしまう・・・ 」
ある欧米人の作家が言ったという言葉がある。
作家の病理学的進行を示した言葉だ。
作家ってのは初めは自分の為に書く、その後は他人の為に書く、最後はお金の為に書く。
なべさんも徐々に周囲の人や読者の意見などに左右されるようになっていったし、生活費の為に原稿を書いた事もあった。
読者の反応は自分が全く意図していない事を言われる事も多かった。
そういった意見を一々聞いていると、自分本来の意図とずれてくる事もあるが、逆にその方が面白い事もある。
だが、出版社の編集者は
「 余りファンだとか他の人の意見や感情を気にし過ぎない方がいいですよ。
ファンの心理なんていい加減なものです。
ちょこっとでも気に食わないとそっぽをむいてしまいます。
一々気にしていたら自分自身を見失ってしまいますよ。 」
と忠告してくれる。
なべさんは4作目にあたる詩と短編小説をまとめた本を小出版社から出版した後、しばらくスランプに陥る。
それまで暖めていたアイディアも使い果たしてしまった。
しばらく、創作活動を止めて旅にでも出てアイデアを練って来るか。
襤褸アパートを整理して、群馬から長野にかけて旅行して来た。
伊香保温泉、榛名富士、榛名湖、、草津、小諸城址 懐古園。
小諸城址 懐古園は近親相姦狂の文士、島崎藤村ゆかりの地である。
1899年(明治32年)から6年間過ごして、小諸を描写した「千曲川のスケッチ」を書き残した。
詩と短編小説のテーマ、アイデアを得てきた。
日本にも色々な地方がある。
これなら書こうと思う題材にも事欠かないな・・・
見聞を広めておくと、後々役に立ってくる・・・
その成果は作品として出来上がった。 ところが・・・
何と、特高警察からなべさんの本が発禁処分になったという。
理由は、なべさんの文は青少年を堕落させ、国家を弱体化させ、国益を損ねるという!
国家権力の正体、そいつは自分たちの権益の為ならどんな悪辣・卑劣な手段も合法化・正当化されてしまうという事さ。
これは世界中どこの国も同じだ。
日本の戦争だって結局はこれさ。
その証拠に、国家の上層部の連中が戦場の最前線に行ったなんて話は聞いた事がないだろう?!
奇麗事で駆り出されるのは、何も知らない純情で無邪気な若者達さ。
よく愚かな若者が危険な所に態々行ってストリート・ファイトやったりして生命のスリルや躍動感を味わったりする。
俺も若い頃、毎日平凡で退屈だから、吉原だとか闇市だとか怪しげな所をうろついたもんだった。
かと言って、喧嘩とかはしなかったけどな。
唯非日常的なスリルが欲しかっただけだ。
だが俺は愚かだった。 一番恐ろしいのは国家権力さ。
奴等は、とんでもなく卑劣で悪辣なことを合法的な正義として公然と行う。
多数派として少数派を排除していく。
監獄にぶち込んで行く。
これほど悪辣な連中は居ない。
こんな連中に比べたら街中のやくざやチンピラなんて可愛いもんさ。
森鴎外も1911年(明治44年)4月の「文芸の主義」の中で
「無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。
学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。」
と書いている。
この発禁処分は結局、終戦まで3年間続く事となる。
その間は、なべさんは肉体労働、雑役などでしのぎ、屈辱の中で密かに文章を書き溜めていく。
当時、金子光晴は一貫して反戦を唱え、息子には徴兵制を逃れさせていて、なべさんを感心させていた。
太宰治は逆に、軍国主義的な風潮を全く完全に無視し、自ら女性に扮した私小説を書いたりしていてこれもなべさんは内心、凄いと思っていた。
こうした先輩文芸人達の反骨精神や処世術に対して、なべさんはたいしたもんだと感心していた。
自分は発禁処分になってしまっているというのに・・・
知り合いの文芸人の中には成功している人達も居た。
そういう人達は皆、世間で偉いと思われている方向ばかりに行きたがっていた。
だが、なべさんは常に大衆の視点、庶民志向の姿勢を崩さなかった。
中央、権威、文壇などとは全く係わり合いを持っていなかった。
成功し有名になり金持ちになった文芸仲間とは自然と疎遠になっていった。
なべさんはいわゆる上流世界や上流志向が嫌いで、下町の庶民文化レヴェルでの交流を好んだ。
川端康成や三島由紀夫みたいな上流世界・上流志向は鼻持ちならないと感じていた。
なべさんの大好きな日本のことわざがある。「 馬鹿と煙は高い所に登りたがる。 」
なべさんの愛好している金子光晴にしても太宰治にしても魯迅にしても、その時代の異端であった。
当時の主流の思潮から外れ、世相を批判あるいは無視し、自分の思想に従って生き、文学を書いてきた。
何故、なべさんはこうした異端文士達を好んでいるのか?
それはなべさん自身がそうした異端文士であったからだ。
なべさんは世の中、大人の世界なんてはなから信用していなかったのだ。
本当の事、あるいは本当に価値のある事物とは常に世の中に知られていない。
常に主流からはぐれたような所に隠されている。
世間の人はそうした事物は金にならない、役に立たないとして振り向こうともしない。
そうした所にこそ本物は隠されている。
これがなべさんの直感であった。
なべさんが芥川龍之介はあまり興味が無いのも、芥川文学はいわゆるまとも過ぎるという理由からだった。
「 福沢諭吉がどっかにこんな事を書いていたんだ。
日本人ってのは普段は威権高だけど、こちらが反撃に転じようとすると途端に腰が低くなるってね。
これは侍文化の悪しき名残だろうね。
日本人って日本の旧世代の悪い点を言っている癖して自分も同じになっていっちゃうんだよ・・・
俺はあんな老人にはなりたかないね。。。
老子の教えで曲則全という教えがある。
つまり凹んだ状態、屈辱的な状態のままで居ればそれ程酷い事は起こらないという事だ。
皆いわゆる見栄のいい所へ行きたがるんだ。
そして余計な言動をして消えてゆく。
目立とうとして余計な事を言ったりやったりして災難にあう。
逆に皆から馬鹿にされるような立場に居れば災いは起こらずに自分自身でいる事ができるものさ。
世の中で華やかに成功している風に見える人々も舞台裏は悲哀や苦痛に満ちている。
こんなんだったら、最初からならなきゃ良かった。
子供にはこんな思いはさせたくないなんて思っているものさ。 」
戦争の最中、なべさんは日本の将来にも、自分の将来にも全く当ても見込みも無い様に思えた。
大本営発表では連日、連戦連勝の報道がされ、
「 日本は神の国だ。 いざとなったら神風が吹く。 絶対に負ける訳無い。 」
と言われていた。
実際、明治維新以降、日清戦争、日露戦争から日本は敗戦を喫した事が無かった。
だが、そんな世の中にも、日本のアジア侵略に反対したり徴兵を拒否したりする人々が居た。
世の人々はそういう人々を非国民扱いした。
なべさんは、そうした現実世界や人々に徐々に興味を失っていく。
そして益々、江戸情緒や創作活動に現実逃避するようになっていく。
ある時、ふとインド系の経典を読んでいたら
「 自分の運命に従って行くしかない。 」という文章を見つけ、
「 世の中も人生もどうせなるようにしかならないものさ。 」
と自分に言い聞かせる。
「 なべさんは日本より中国の文物の方が詳しいくらいですね。 」
「 多分、俺には華僑の血が流れているんだと思う。
先祖のどこかにね。 俺の華僑のDNAや血の記憶を辿っているんだと思う。」
なべさんは慢性的に貧乏であったが、なべさんはいわゆる贅沢には興味が無く、たまに大衆食堂でおかずを増やしたり、篠原劇場で歌舞伎を見ること位であった。
非常に簡素な生活に耐えられた。
普段は襤褸アパートに書斎があり、袴を着て文士暮らしをしていた。
そんな中で唯一趣味らしい趣味がある。
それは江戸の文物のコレクションである。
浅草や下町で江戸風情に富む小物を買ってきて書斎に飾っていた。
部屋には本や小物が散らかっていた。
だが、なべさんは部屋の中を完全に把握していた。
道教系の迷信的な呪術の本。
中国語で綴られたお経。
江戸末期の洒落本・黄表紙・・・
「 旧制中学の頃、友人がこんな事を言っていたんだ。
『 人生、金だ。 』ってね。
他の人もよくそんな事を言っていた。
だが、俺はそんな言葉を聞いても何か腑に落ちないモノを感じた。
金はいいけど、金を持ったらどうするのか?
人間、金だけで本当に満たされるものなのか?
俺はこんな世の中、生まれたくて生まれた訳じゃない。
生きようという意志が弱い。
何も無くなったら唯飢え死にするのを待つような人間だ。
俺は若い頃から、社会から外れてしまうような人に興味を持っていた。
殺人犯の張り紙を見ると、その精神性に共鳴してしまうような所があった。
大人になったら、人間は皆殺人犯だと思うようになったんだ。
皆、陰湿で狡猾な殺人犯なんだ。
殺人犯や狂人や自殺者ってのは馬鹿正直な人達なんだ。
人間誰もが、殺人犯、狂人、自殺者を内に秘めている。
だが、皆それを表に出さないだけだ。
皆、滅茶苦茶な世の中で生きていく為に、心をズタズタにしながら生きているのさ。
浅草や上野で浮浪者を見かけるとまるで自分の将来の姿を見るような気がする。
俺は人間として、いや少なくとも社会人としての素養が決定的に欠落している。
俺はよく思うんだけど、社会で役者程生き生きしている人達は居ないと思うんだ。
だが、役者達ほど軽視されている人達も居ない。
何故なら、体制側にとって金や国防の役に立たないどころか、妨げ撹乱する存在だからだ。
面白い事、楽しい事、本当に意義のある事柄は皆世間では悪とみなされてしまう。 」
ある中年男性が、なべさんが人間としての素養が欠落しているというのは、30にもなって女性とまともに付き合ったことが無いからじゃないかと言った。
なべさんはこの言葉にとても感銘を受けた。
成る程、そうなのかもしれない、イヤ、そうだったのか!
なべさんは早速、文芸志向の中国女性と付き合い始める。
魯迅研究サークル関連で知り合った女性である。
相手は貧乏臭い、なべさんにぴったりお似合いの女性だった。
古風で簡素な生活に耐えられるような女性だった。
名前を郭麗華( グオ・リーホア )いった。
なべさんの部屋は大分整理整頓されるようになる。
なべさんはたまに折角書いた原稿用紙50枚程を破り捨てたり、もう駄目だ!と自暴自棄になったりして、麗華( リーホア )を心配させた。
「いやいや、心配せんでいい。
たまにこういう時がある。
それは俺が天才であるという証だ。
凡人ならこんな事はしないだろ。」
「 中国の留学生と話していたんだ。
日本の四字熟語は殆ど中国から来たものだと言っていた。
日本独自のものは俺が知る限り、我田引水と青息吐息と針小棒大と千載一遇だけだ。」
なべさんの書斎には掛け軸が掛けてあり、そこには 細水長流 という四字熟語が書かれてある。
これはなべさんの座右の銘であった。
その意味は「 細々とした水は末永く流れ続ける。 」という意味である。
つまり一遍で流れてしまう水は長続きしないという意味も含まれている。
なべさんも才能やアイディアを一遍で流してしまうと、長続きしないという考えであった。
生活様式も又、同じである。
贅沢をせず、簡素に生きれば末永く続いていくというとても道教的な熟語である。
なべさんは早稲田の必修科目の体育の授業で教員が
「 太く短くか、細く長く生きるか? 」という話をしていて、すぐに「自分は細く長くでいいや。」と思った。
麗華( リーホア )はなべさんの家計簿をつけ、収入と支出を記録して管理していた。
たまに几帳面ななべさんがうるさる程、几帳面な女性であった。
なべさんは麗華( リーホア )と巣鴨の大衆食堂で、周囲に私服警官のスパイが居ないかどうか警戒しながら文芸作品の功罪について話している。
「 例えばドストエフスキー現象というものがある。
ドストエフスキーの文学作品を読むととりつかれたようになってしまうという現象だ。
俺を文学の世界に導いてくれた人もとりつかれた人で、自分がこんな風になってしまったのも半分はドストエフスキーの責任だと言っていた。
だが、その人はそれは作品の責任であって書いた人の責任じゃないなんて事も言っていた。
俺は自分の文芸作品に影響を受けた人、真似した人に何か問題が起こったとしても何も責任は持てない。
読者にも判断する能力や責任がある。
小説に書いてある事をそのまま真似したり、影響を受ける方がどうかしている。
所詮、虚構の世界だろ?!
読んでる方だってその位分かる筈だ。
書いている人がどういう人なのかも調べないし、どういう意図を持っているのかも知らずに平気で乗せられてしまう日本人の民族性にはホトホトあきれるよ。
善悪の判断も無しに周囲に流されてしまうのは、島国の農村の習性なのだろう。
世間で有名な文化人のイカサマ性には本当にあきれる。
いい加減な風潮や情報に乗せられて丸で自分のアイディアみたいな振りしている。
あいつ等は公然のペテン師だ! 」
「 天皇についてはどう思うの? 」
「 正直言って余り興味が無いよ。
俺はそういったものより庶民の文化に興味がある。
浮世絵・文楽・歌舞伎とかさ・・・
生きる事とはすなわち破壊する事である。
何を破壊するか?
過去の破壊。ルールの破壊だ!
破壊無しには真の生命を生きる事はできない。」
「 文芸創作に一生を賭ける人は沢山居るが、生活が成り立たず、世に知られる事も無く人生を終えてしまう人も多い。
いやむしろ、そういう人が大部分だろう。
だが、本人達はそれでも本望なのかもしれない。
自分の世界を創り出したのだから・・・
芸術とは一種の犠牲行為なんだ。 」
そんな事をしている間に特高からガサ入れがあった。
天皇制や軍国主義を妨げ攪乱する思想を広めているという嫌疑からである。
なべさんの襤褸アパートの書斎や本や江戸情緒の小物などを徹底的に調べたが、決定的な証拠は見つからなかった。
当時は治安維持法、国家総動員法などの制定が相次ぎ、軍国主義路線が以前にも増して露骨になってきた世相であった。
「 贅沢は敵だ。」
「欲しがりません。勝つまでは。」
「兵隊さんは命がけ。私達はたすきがけ。」
「パーマネントはやめましょう。」
などのスローガンが至る所で見聞きされるような風潮であった。
英単語の外来語を使う事も禁止であった。
そんな中で道教信仰を守りぬく事はそれこそ命がけであった。
鉄物はやかんから釘から徴収されて軍艦になっていった。
戦争の目的に貢献する事ばかり持てはやされ、役に立たない事は徹底的に排除されて行った。
芸術家や道教文士みたいな人々は退廃的な放蕩者で、戦争の役に立たないどころか、むしろ妨げる邪魔で消えうせるべき存在でしかなかった。
男で音楽をやるなどと言っただけで国賊扱いされる様な御時勢だった。
麗華( リーホア )は、家庭は余り豊かではなかったので、貧乏暮らしには子供の頃から慣れていた。
なべさんと同じく早稲田で国費留学で来たという。
国文科で 樋口一葉 を研究した。
麗華( リーホア )は、元々は中国湖南省長沙の生まれで、子供の頃両親と共に上海に行き、育ったという。
17歳の頃、魯迅の文学を読み、文学革命を志した。
そして、魯迅と同じく日本留学の道を辿って行った・・・
当時の同級生が尋ねて来てなべさんの襤褸アパートを見ると呆れ返っていた。
だが、麗華( リーホア )はなべさんとのそんな純文学・純愛的な生活に甘んじていた。
世間の目から見れば、そんな下らない生活に青春時代を賭けてしまうのは馬鹿げたように見えるかも知れないが、麗華( リーホア )にとってはそんな事は問題にはならなかった。
何故なら麗華( リーホア )は、宇野千代の恋愛至上主義や27歳で自殺してしまった悲劇の詩人北村透谷の近代的な恋愛観
「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という言葉に共鳴し、
『厭世詩家と女性』を地で生きるような生活に憧れていたからであった。
なべさんと麗華( リーホア )は、同じ文学志向でよく文学談義をした。
中国文学と日本文学の違いはあったが。
麗華( リーホア )は詩を手探りで模索していた。
詩を創っては、なべさんに評論してもらっていた。
そうこうしている内に、お互いの文学的嗜好が混ざり合い始め作風にも反映されるようになっていった・・・
江戸時代の漢学はやはり儒教・佛教重視で道教は軽視というより殆ど研究されていなかった。
そしてその頃は漢学の研究は京都帝大に集中しているそうである。
そうか・・・
学校の国語で習う古文・漢文も江戸時代の国学・漢学から来ていたのか・・・
日本社会は人や物事を全て一方的な価値観で見下し、自分の方が偉いんだとか上なんだという事を強調したがる。
だが、なべさんは皆自分の世界を持っているからそれなりに一理があるんだという見方をしていた。
むしろ日本社会から外れた人の方に興味を持った。
作家の目から見れば、日本社会の真面目な人・一般市民よりむしろ外れた人の方が余程面白い。
殺人犯ならそのまま一篇の小説となる。
なべさんは一般市民、社会人としての素質が全く欠落している代わりに、特殊能力が備わっていた。
普通の仕事や勉強は丸で駄目であったが、逆に普通の人には無い様な、情報源・イマジネーション・インスピレーションが備わっていた。
普通の人が思いつかないような、絶対に真似する事ができないような才能があった。
なべさんがそういう事をしている時は、周りの人達は驚いた表情をしていた。
なべさんが風変わりな生活をしていても、家族や周りの人々が文句を言えないのはなべさんが稀に見せるこうしたカリスマ的能力があったからなのだ・・・
なべさんは日本社会では屑みたいな存在ではあったが、そうした特殊能力によって何とか今まで、生き延びてきたのだ。
恐らく、道教の神様が御慈悲として屑みたいななべさんでも残酷冷徹な日本社会の中で生きのびていけるように、そうした特殊能力を恵んで下さったのだろう・・・
麗華( リーホア )の方も麗華( リーホア )だ。
詩や小説などを読んで、それをそのまま生活していって、生活を文学にするというトンでもない女性だった。
二度と来ない青春時代をたかが恋愛や文学なぞに賭けてしまう。
そんなアホなしかし風流なハイカラな女性がまだ残されていたのか?!
当時は現在の日本からは想像もつかない位、自由恋愛というのは大変不道徳ではしたない行為とみなされていたのである。
親達は自分の娘達が男と仲良くならないように常に目を見張っていた。
娘達が他の男と話していたりするだけで恋愛ではないかと疑った。
なべさんは言う。
「 人生でもし何か価値のあることを成し遂げたいなら、それは即ち、他の事柄は諦めなければならないという事である。
世の中の人々は何でもかんでも求めて、何でもかんでもやりたがる人が多い。
そんな事をしているから、結局は何も成し遂げる事ができないのだ。 」
なべさんは発行禁止処分を喰らっていたが、麗華( リーホア )と共作した、当時の日本ファシズムを批判し、世相を皮肉るような詩を地下出版する。
なべさんが当時の軍国主義的な風潮や、日本人達の劣根性・習性などの偽善・茶番を皮肉り、和歌・詩・短編小説にしていった。
二人で推敲・吟味を重ね、練り上げられた。
二人の文学的嗜好と美術的嗜好と東洋的情緒が随所にちりばめられた珠玉の傑作となった。
それらは次のような和歌である。
● 威張ってりゃ 尊敬されると 勘違い 日本固有の 哀れなジジイ
● 何十年 働き詰めで 得たものは ウサギ小屋での ブスな奥さん
● 大阪は いいトコだよと 言うけれど そこにあるのは 詐欺と泥棒
● 大阪人 友人ならば オモロイが 金がからむと 碌な事無し
● 大阪や 京都叙情を 求めても 見つかるものは ヤクザだけなり
名前は仮名にしてアングラ出版社から出版した。
費用は家の遺産をつぎ込んだ。
闇市や学生向け古本屋、などに置いた。
これは当時の軍国主義に反対する人々や学生に口コミで評判になり予想外のベストセラーとなり、なべさん達はかなりの印税を得た。
体制側は気が付くとすぐに取り締まったが、その時はすでに手遅れであった。
どうやらこんな世相の中にもなべさんと同じように軍国主義に反感を抱いている人達が沢山居るようだった。
なべさんとは、ばれない内にかねてから憧れていた下町、浅草合羽橋の安アパートへ移り、戦争の真っ最中にしばらくの間下町の江戸情緒の中で悠々自適の純文学・純愛生活を楽しむ事ができた。
しかし、巣鴨界隈の文芸仲間とは次第に疎遠になっていっていく。
なべさんは金遣いはとても鷹揚な人で、与えたものは自分にいつか返されるという宗教的な金銭感覚であった。
上野や浅草で浮浪者を見かけるとお金を渡してあげた。
普段は簡素であったが、金の価値と使い方を心得ていた。
無駄遣いはしないが、ここぞという時にはお金をケチらなかった。
一方、例のなべさんファンの美少女はそんな時代の中でもなべさんの動向を気にしていた。
次の本はいつでるんだろう?
なべさんは言う。
「 俺は世の中の美男美女を見ると可哀想になる。
何故なら世の中には美貌を見ると嫉妬心に駆られてなんとかして傷つけてやろうとする輩が出てくるからだ。
特に美女同士の嫉妬心程恐ろしいものは無い。
稀な美貌をひけらかす人が出てくると世の中は傷つけようとする。
俺は彼女の将来が心配でならない。
だが、俺には彼女を守る能力は無い・・・
この世で美男美女に生まれるというのは、本当は幸福な事だろうか?
それらは往々にして不幸・悲劇をもたらす事となってしまう。
本当に世の中は矛盾だらけだ。 」
以前、地下出版した詩集が新たな交流をもたらす事となる。
その詩集を読んだ左翼系反日帝団体から声がかかる。
その日本ファシズムを皮肉るような詩は我々も大いに共感したという。
杉並区方南町にある、左翼系団体の集会に参加してみませんかと言う。
余り興味は無かったが、詩に共感してくれたというので合羽橋からワザワザ行って見る。
そこではマルクスの共産主義の視点から見た日帝の資本家の搾取・日本ファシズムによる亜細亜侵略の横暴性などを批判するという主張である。
社会主義・共産主義という思想は元々、産業革命を果たして勃興したイギリスの資本主義に対抗する理念として産まれたものだという。
資本家が資本を投資し資本を産み出し、農村の農民を囲い込み、工場へと追い込んで働き、永遠に搾取され続ける事に対抗する理念だったという。
だが、なべさんは日帝に反対するのは賛同できるが、その共産主義の説く理念や理想はとても信じる事ができなかった。
その理由は、なべさんはそもそも労働者ではなかったからである。
なべさんは資本主義も共産主義も信じられなかった。
なべさんは世捨て人だったのである。
資本主義も共産主義も共に人間が考え創り出したものである。
人間が創ったものはいつかは壊れてしまうものだ。
力のあるものは力によって滅ぶ。
金を持つものは金によって滅ぶ。
徳によって立つもののみが永遠であるという言葉を信じていたのだ。
大正デモクラシーの頃から、日本でも社会主義・共産主義などを理想とする人々が増加していった。
だが、なべさんはそっちの方には殆ど興味が無く、周りにもそういった人々は居なかった。
麗華( リーホア )は尋ねてみる。「 あなた、道教信仰とか言っているけど、出家したりお坊さんになる事は考えた事無いの? 」
「 鋭い質問だね。 実は若い頃、仏教のお坊さんになろうかなとも思った頃が一寸だけあった。
ところが、そんな事を考えている頃、丁度おじいさんが亡くなったんだ。
そして葬式に来たお坊さんに、日本の仏教の座禅の事を質問してみようと思ったんだ。
ところが、その時に来たお坊さんが本当にテンションが低い人で、こんな人に座禅の質問をしても仕方ないと思った程だった。
その人はお経を形式的に唱えて、お酒を飲んですぐに帰ってしまった。
その余りのテンションの低さに驚いて、俺はお坊さんになったり出家なんかしないで、自分の考えでこの世の中で生き抜いて行こうと密かに決意したんだ。
それ以外にも、完全に俗での生活を断とうと思って試してみた事があったが、様々な事情から俗の生活を断つことができないでここまで来たんだ。
俺はこれらの事は、多分神様が俺は完全に聖なる世界・生活に行ってしまわないで俗の中で普通の暮らしをしながら、俗との関係を断たないで生きていけという天命があるんだと思っている・・・ 」
麗華( リーホア )とはよく下町の散歩をした。
幸田露伴が生まれたという江戸下谷三枚橋横町(現・東京都台東区)やその後移ったという浅草諏訪町。
儒教を祭る湯島天神、商売の神様、神田明神、御徒町のアメ横、湯島天神、上野公園。
戦時中でも下町の商店街は庶民の活気に満ち溢れていた。
多彩な江戸情緒の名残になべさんは日本人として生まれた事を喜ぶ。
麗華( リーホア )はアメ横で食材を買ってきては中華料理を作ってなべさんと食べていた。
戦前戦時中の日本人達は神社の前を通りかかると必ずお辞儀をするような信心深い民族であった。
「 日本社会では政治イデオロギーというとすぐに右翼か左翼かに分類されてしまうが、俺は右でも左でもない。
強いて言えばスピリチュアリズムだろう。
皆すぐに右だとか左だとかなびいたり、レッテルを付けたり、分裂をしたりするけど、人間の思想なんてそんなに簡単に分類して割り切れるものなのだろうか?
右も左も元々は誰かが考えてそれに乗せられた人々の伝統から成り立っている。
右だとか左だとか同士で分裂して内ゲバに明け暮れている姿を見るとこの世の地獄かと思うよ。
右だって左だってようするに理想的な社会を目指しているんだろう?
日本社会を暮らしやすくしたいと思っているんだろう?
共通の目的を持っているのならお互い協力し合ったほうがいいに決まっているじゃないか?!
だが、俺は政治には興味がない。 俺は政治的にはアナキストに近い。
俺は若い頃から、自分の人生のイメージは少年か仙人しかなかった。
純情無垢な少年か、枯れた老人の仙人か?!
途中の青春時代や中高年の脂ぎった働き盛りの自分っていうイメージがどうしても湧いて来なかったんだ。
その後、アナキスト系の芸術系の人と知り合ったんだけど彼は批判分析能力にとても優れていたんだ。
様々な文芸作品や作家などに関して独特の視点から鋭い奥深い批評を下していた。
だけどその人はアナキスト系芸術家ばかり『 頭いい。 』と評価していたんだ。
俺はその頃はまだ日本的な古い感性が残っていたんでアナキストという言葉には悪い印象しかなかった。
だがあれ程鋭い批評分析力がある人が『 頭いい。』と言うのならそれも又、一理があるんじゃないかって思ったんだ。
その後、別の人にアナキストの話をしていたら『 ああ、俺元々アナキストよ。』と平然と答えたんで驚いた。
その頃の俺にとって自分をアナキストと呼ぶ事は自分が犯罪者であると言っている事と同じような事だったんだ。
だがその後から、自分は別にアナキストでもいいんだと開き直るようになっていった・・・ 」
なべさんは若い頃からお金に余裕があって気が向くと、しばしば横浜中華街へと出かけていった。
そこで中華民国系グッズを手に入れていた。
書物もここから手に入れていたのだ。
その他、華僑系の知人、大陸系の知人なども居た。
中華街のある横浜・神戸・長崎は昔からの国際港であった。
華僑系の知人が教えてくれた事がある。
「 海外で華僑が沢山居るかどうかを知るには、中華系廟があるかを見ればすぐに分かる。
廟には初等教育の中文学校がセットになってある事が多い。
華僑は廟でよく結誼・契兄弟と呼ばれている儀式を執り行う。
正式には
納投名状,結兄弟誼,死生相托,吉凶相救,福禍相依,患難相依。
外人乱我兄弟者,恃投名状,必殺之!
という誓いがなされる。
三国志の三結義という玄徳・関羽・張飛の義兄弟の契りがこれだ。
多くは三人で道教系の神に線香を3本斜めに立てて、不求同生 求同死 と義兄弟の契りがなされる。
この意味は我々は生まれた日付は違っても、同じ日に死ぬ事を願いますという意味だ。
そして困った時はお互いに助け合いますと誓い合う。
海外では華僑はお互いに助け合わなければ生きていけないからだ。
華僑の団結力はこの契りによっているのだ。
つまり華僑の団結と繁栄には宗教の求心力が非常に重大な役割を担っているのだ。
義兄弟の契りは韓国人達もするそうだ。 」
なべさんが初めて横浜中華街を訪れたのは19位の頃であった。
拳法衣の上衣だけ買って帰ってきた。
話によると、同じ中国でも大陸と香港・台湾・東南亜細亜の華僑では文化が全くと言ってもいい位に相違がある。
香港や中華民国グッズの方が、信仰・言論の自由がある為か、中国の伝統的な道教迷信や占いが残されておりとても魅力がある。
大陸では封建制の為に、こうした迷信的な信仰は殆ど残されていない。
なべさんは中華民国系グッズの亜細亜的迷信世界が大好きだ。
「 華僑と大陸系と日本人との違いはありますか? 」
「 そりゃ大有りだよ。
華僑系の知人が居たんだけど一言で言えばとてもシタタカな連中だね。
自分達の伝統文化に誇りを持っているし、人格的な面も見せる。
人間的には普通の日本人より遥かに上手だね。
華僑でも中国語を殆ど喋れない人も多いよ。
もう一人の華僑の人は、家では中国語だけで日本語を話す事を禁止されていた。
だけどそいつは人間的には日本人に同化していて殆ど変わりが無かった。
大陸系の女性はそいつの写真を見ると一目で
『 この人は日本人じゃない。中国人でしょ? 』
『 何でわかったの? 』
『 直感。 』って言ってたよ。
でもそいつは大陸系の学生と話していると冷笑的な態度を取るのでとてもむかついていた。
そいつは日本人には中国人と見られるが、中国人にもやはりよそ者と見なされてしまうと嘆いていたよ。
見た目では、中国人は男でも女性的な柔和な表情をしていてなで肩の人が多いのが特徴やね。
日本人はやくざみたいな顔つきをしている。
台湾系はおかまみたいな女性的な男が多いね。
俺、中国人と話していていつも思うんだけど、中国人ってのは常に客観的事実より、自分達の利権に都合のいい風に話を作り変えるんだよね・・・
日本人はまだ客観的合理科学的なモノの見方をするんだけど、中国人の話は明らかな事実誤認・曲解が見られる。
そして認識の過ちを指摘されても認めようとしない。
そして歴史的事実も自分の独特の中華思想・中華民族の利権に都合のいい風に並び替えて自分達に都合のいい未来像を作り上げる。
しかも、そんな訳の分からない代物を他の民族にまで押し付けようとしてくる。
中国人といっても、中国共産党、国民党、大陸、世界の華僑・華人・客家等色々居て分裂している。
だが中華民族の権益という点で他の国家・民族と対峙した時には同じ中華民族としてまとまるんだ。
世界の何処に行っても、中国五千年の伝統というアイデンティティーは無くなる事は無い。
中国人はどんな人でも骨の髄まで中華思想に毒されている。
中国人の中華思想は世界中の何処へ行っても、何千年後にまでも永遠に無くなる事は無い。
表面ではそんな事は無いよと否定していてもだ。
そしていつか必ず世界中を中国の朝貢国とする事を夢見ているのだ。
中国人達の生きる意味というのはこの点だけにあるといっても過言ではない。
逆に言えば、そうやって過去の栄光にしがみついて、アイデンティティーとしてまとまって、虚ろな夢でも見ていなければ生きていけない可哀想な人々なんだ・・・ 」
「 以前、宗教が信じられないとなると信じられるものなんて何もないという話をしたけど、こんな世の中にもただ一つだけ信じられるものがある。
それは大衆文芸作品などの、自分の夢想を表現・実現したいという純粋な欲求と、その為に払う自己犠牲の精神・行為だ。
地獄のような世の中でも、こういったものだけは信じることができる。」
「 日本は江戸時代から士農工商という厳しい身分制度が成立していた。
だが、世の中にはどうしても世間のルールからはみ出していってしまう奴が出てくる。
社会の掟を守れない奴は容赦なく村八分にされたり首チョンパにされてきた。
『ベロ出しチョンマ』という民間説話も残されているほどだ。
その中でも悪知恵の発達した奴、才能を伸ばしていった人は退廃文芸・芸能の方向へ行った。
日本のデカタニズムもここいら辺に発祥しているのだろう。
そういった知恵や才能が無くても、体力や勇気のある奴はやくざになって食いつなごうとした。
だが、そういった世界も生存競争は過酷かつ熾烈だ。
そういった世界からもあぶれてしまう奴は、日雇い労働者となる。
だが、それらさえやる能力・気力も無い奴もいる。
そうした奴は犯罪でもやるしかない。
だが犯罪もする勇気も無ければ、もう自殺するしかない。
だが、自殺するのさえ勇気がいる。
その勇気も無い奴は、成り行きに流されるままどこかで野垂れ死にするしかない。
このように社会のアブレものでも様々な階層があり、行く末もまた様々である。
だが最後まで取り残された奴等に一つだけ突破口がある。
それは一揆・反乱だ! 」
なべさんは華僑系の知人から教えてもらった、太歳星君という道教系の神様を奉じ始める。
太歳星君には道符というおまじないの御札があり、書斎の壁に貼り付ける。
書斎の一角に小さな祭壇を設けて神像を置く。
太歳星君とは毎年を設けて管轄し、人間の事務を観察する神将だという。
太歳は全部で60位もの神祇がおられるという。
これだけの神祇がひきついでこの一つの神職を統括しているので、毎年の太歳は違う。
なべさんと麗華( リーホア )は、下町の和食の食堂で鰻を食べながら文芸談義をしている最中だ。
「 以前俺はある人に、君は社会に対して何か発言する資格も無いんじゃないかと非難されたんだ。
つまり一人前の社会生活もできない癖して偉そうに世間や人々を批判なんかするなという事さ。
俺もたまに筆を折るべきじゃないか?
俺みたいな社会の屑は世間に対して偉そうな事を言える立場じゃないと思う事がある。
ところが、太宰治も丁度それと同じ事を考えたというんだ。
太宰が世間からデカダンだとか非難されるのも、太宰がいわゆる社会的にきちんとした生活をしていないからじゃないか? とね。
そして太宰は井伏鱒二の紹介によって結婚をしいわゆる社会的にきちんとした生活をし、作家としての地位と名声を確立すべきだと考えた。
そうすれば、自分の書きたい事を書き散らしても、社会は非難しなくなるだろうと考えたんだ。
ところが、家庭を持っても結局は世間の非難は収まらなかった。
それどころか、家庭の幸福は諸悪の根源だとすら考えるようになった。
そして逆に井伏鱒二を逆恨みするようになったんだ。
つまり、社会に気に入られようとしても、嫌われようとしても結局何しても何を言っても、世間は相変わらず非難してくるものなのさ。
だから、そんな社会なんて一々気にしないで、逆に嫌われるような言動だとか、全く無視して自分のやりたいようにやりゃいいって事なのさ! 」
なべさんには3歳上の兄が居る。
いわゆるまともな仕事をしていて結婚もして子供も居る。
その子供達には「 大人になってあんな生活をして、あんな文章を書いている。」と馬鹿にされていた。
たまに会ったりするとドウシヨウモネエといった表情をしていた。
もちろん言葉には出さないが・・・
なべさんはとても強い信仰心と信念を持っていたが、兄の子供達にまでこんな態度を取られるとは少しショックを受けた。
日本では、すでに子供の頃から社会から外れた少数派を排斥していくという偏見が植え付けられるようである・・・
日本の風土とは恐ろしいものである。
社会の良識に嵌らない人間は問答無用で排除していく・・・
たとえ社会の風潮がどれほど間違っていようともどれほど狂っていたとしても・・・
しかも何も教えられていない子供にもこの公式は既に植え付けられているのだ !
青年の頃は信念と確信と理想に満ち溢れていても、どうせ厳然たる現実にぶち当たり失望していく・・・
青年の理想主義より老人の経験である。
現実を無視した理想主義者達程、有害で恐ろしい存在は無い。
日本ファシズムの信仰・言論の自由に対する迫害は凄まじかった。
信仰の自由に対する迫害の最悪なものは大本事件であろう。
1920年前後から始まる第一次大本事件。
1935年から始まる第二次大本事件。
治安維持法とはもともと共産主義運動を壊滅させる目的で施行されたものであった。
第二次大本事件は、この治安維持法を宗教団体に適用したものであったという。
これらによって日本ファシズムの天皇崇拝・軍国主義を強化させる事が目的であったと見られている。
これらの事件の理由は、実質上の信教の自由を許さず、天皇崇拝による国家の統合・統制を志向していた当時の日本ファシズムにとって、大本の存在や信仰が皇室の尊崇とは相容れないものであったことがである。
逮捕の後に大本の建造物は破壊された。
取り調べの際には厳しい拷問が行われて、獄死者や発狂者も沢山出て、王仁三郎も度々病院に入院したという。
山本有三は内務省の検閲を批判したが、1934 年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』の連載中止に追い込まれるなど軍部の圧迫を受ける。
山本有三の代表的な小説である『路傍の石』(ろぼうのいし)は、1937 年に『朝日新聞』に連載を開始。
翌1938年には『主婦の友』に「新篇」として連載していったが検閲もあり、1940 年には断筆。結局は未完のまま終わる。
戦時中には織田作之助の長編小説「青春の逆説」が発禁処分を受ける。
文芸銃後運動と言う、文芸作家の軍国主義礼賛を目的とした創作活動が菊池寛の提案で行われている。
横光利一等多くの文芸作家がこれに参画する。