山茱萸に明るき言葉こぼし合ふ 鍵和田秞子
庭先の山茱萸の固い蕾がようやく割れ、ぎっしり詰まった黄色い花瓣がのぞいている。浅間山麓の標高千、周囲にまだ花の気配はない。近くに三椏が一株あるのだが、こっちの方は、上に伸びないで地面に丸くなり、蕾なのか花なのか、灰色の球形を枝先につけ、俯いたまま、冬の終わりからこの方、一向に変化の兆しがない。
同じ山茱萸が、千曲川に近い里の方に下りると、春黄金の名そのまま、鮮やかな黄色が春をつげ、遠くからもよく目立つ。先月中旬、これは峠のこっちの方で、たまたま高尾山で、咲ききった三椏を見つけ、その見事な黄色にびっくりした。白濁した黄色の印象しかなかったのだが、日当りその他環境の違いであろうか。
花の印象は、土地や時期によって随分と異なり、花そのものを詠もうとすると結構難しい。山茱萸もよく詠まれているわりには、納得のいく句が少ない。「さんしゆゆの盛りの枝の錯落す」(富安風生) 「さんしゆゆの花のこまかさ相ふれず」(長谷川素逝) 詠んでいる本人としては、山茱萸はこのようなのであろう。
「山茱萸といふ字を教ふたなごころ」(西村和子) 山茱萸、そのまま読めば「さんしゅゆ」であり、ひとに教える時、きまったように稗つき節の「庭の山しゅの木に」が出てくる。山茱萸には、この唄のイメージも重なっているはずで、数年もすれば、ひび割れ、皮が捲れた白幹の、年古りた風情は独特で、やはり鈴をかけるならこんな木が似つかわしい。「山しゅ」は「山椒」だとする説もよく聞くが、それも悪くない。「山茱萸をいまの齢のよしとする」(山口誓子)
山茱萸の既に黄の濃き蕾かな 高浜年尾