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峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

峠越えれば(36) 老朽哀むべし

2016-04-12 | 峠越えれば
 戦災で焼け出された荷風の市川市での最初と次の寄寓先は、京成線の菅野駅にごく近く、次の引っ越し先は隣の八幡駅に近い。荷風の日記には、この八幡駅から五つ目の船橋市域の駅名海神が頻出する。途中駅に競馬場と法華経寺のある中山があるが、健脚の荷風を以てすれば、電車に乗らなくても歩いて行けないこともない。競馬帰りの混雑を嫌って、わざと手前の駅で下りたりもして、時に毎日のように海神に通っている。

 海神には知人の相磯凌霜の家があり、荷風は天敵のラジオを逃れて、ここを格好の避難場所として執筆その他の便宜を得ていたということらしい。相磯は鉄工所の経営者で余裕のある生活をしており、これはその妾宅ということのようなのだが、日記にはこの家を凌霜盧とするのみで、主人以外の家人については遠慮があってか何も述べられていない。

 敗戦の翌年一月に市川に越した荷風の、更にその一年後の昭和二十二年の日記から少し長くなるが書き写してみる。この年荷風散人六十九歳。

四月十二日。晴。藍碧の空澄渡りて鏡の如し。午後海神に至る。中山の競馬ある日なれば電車の雑沓をおそれ帰途葛飾の駅より県道を歩む。
四月十三日 日曜日 連日天気好晴。百花正に爛漫たり。午後海神に行く。
四月十四日。晴。午後海神。
四月十五日。晴。近巷の梨畠にその花まさに盛なり。菅野に移り住みて梨花見るも二度目となれり。……京成電車の各駅に四月廿一日同盟罷業の掲示あり。
四月十六日。晴。……真間川の桜花を看る。花季早くも過ぎ落花紛々として雪の如し。……選挙運動員路傍にマイクロフォンを立てゝ怒号するを見る。喧騒厭ふべし。
四月十七日。晴。暑気夏の如し。……午後海神。
四月十八日。晴。風あり。午後海神。
四月十九日。晴。四月になりてより今日まで殆雨なし。道乾きて塵埃濛々たり。午後海神に行く。京成電車同盟罷業中止の掲示停車場に出づ。米露開戦の風聞あり。米の配給依然途絶し里芋となる。……
四月二十日 日曜日 晴。……午後海神。凌霜子来る。帰途雨。
四月廿一日。雨。……午後海神。
四月廿二日。晴又陰。西北の風寒し。午後海神。
四月廿三日。晴。……海神に行く。
四月廿四日。晴。風冷。今日は海神に行かず。終日家に在り。
四月廿五日。午後鬼越の田間を歩みて海神に行く。到るところ新緑目を奪う。
四月廿六日。晴。午後須和田の村道を歩み国分村の丘陵に登る。林間に古寺あり。……田疇の眺望頗佳なり。ほ下(※「ほ」は日に甫、夕方)家にかへる。……市川駅前のマーケットに天麩羅饂飩を食す。
四月廿七日。日曜日。晴。……正午凌霜子来話。
四月廿八日。終日雨。午後海神。
四月廿九日。晴。烈風晩に歇む。選挙にて市中喧騒甚し。
四月三十日。陰。午後海神の凌霜盧に至る。書架に隨園詩話あり。取りて読む。……五月初一。晴。風あり。……ほ下(※前出)海神の凌霜盧に至る。主人帰り来り南畆自筆本杏園筆四巻を得たりとて示さる。晩餐を馳走せらる。夜十時辞してかへる。半月おぼろなり。
五月初二。陰。麦の穂少しく黄ばみ馬鈴薯南瓜の芽舒ぶ。藤躑躅牡丹花さく。午後海神に至り杏園閑筆をよむ。帰途細雨。新緑の田園更に青し。
五月初三。雨。米人の作りし日本国憲法今日より実施のよし。笑ふ可し。
五月初四。陰。午後海神にて読書。日暮にかへる。
五月初五。晴。暑。ほ下(※前出)海神。筍飯どぜう鍋を饗せらる。帰途満月昼の如し。
五月初六。晴。海神。
五月初七。雨。家に在り。小手鞠満開。
五月十五日。晴。午後凌霜子来話。
五月十六日。晴。夏服を着る。午後海神凌霜盧に至る。壁上柳湾の書幅をかく。短宵格〃苦催明。憐汝田間応鳴候。但恐農翁残夢裏。聴為租吏打門声。秧鶏。七十八老人柳湾館機。

 相磯は荷風より十四年下で、この年五十代半ば、隠居にはまだ早い。荷風とは対照的な世慣れた生活人で、荷風の葬儀を仕切ったのも相磯ということのようで、九十の生涯を終えたのは昭和末年のことになる。実在の人物ながら、前回触れた掃葉翁同様、これもまた荷風の分身と読んで間違いはない。日記もまた荷風の作品として読むなら、そこに描かれた「凌霜子」なる人物には、荷風なりのあるべき交友の形が当然にも投影されているはずで、掃葉翁亡き後、明治生まれの江戸人の面影を引き継いだのが相磯であっても何も問題はない。

 上に引いた日記の終わり、夏を迎え衣替えを済ませて凌霜盧を訪ねると、壁上に館柳湾の絶句が飾られている。秧鶏は水鶏(クイナ)、季節に合わせた気配りで江戸人の面目そのもの。

短宵格〃苦催明   短宵 格〃 苦(はなは)だ明を催(うなが)す
憐汝田間応鳴候   憐む 汝の 田間に候に応じて鳴くを
但恐農翁残夢裏   但(た)だ恐る 農翁 残夢の裏  
聴為租吏打門声   聴きて 租吏の門を打く声と為すを

 「格〃」は擬音で、同じ仲間のニワトリが低くコウコウと鳴くのに対し、クイナの鳴き声は甲高くコッコッコッとあたかも戸を叩くかにも聞こえる。戦後、除草剤やらの農薬散布が当たり前になる前、ことによると荷風の頃の真間川水域の水田でも珍しくなかったかもしれない。幼時の記憶の断片に、早朝鶏舎を覗くと、真っ黒なヒヨコが一羽、群れの中に紛れ込んでいて目を丸くしたことがある。水鶏の雛が親鳥から逸れて仲間と錯覚したものか、かほどクイナはかつて農家の庭先に接した田圃に珍しくもなかった。

 まだ未明の中から初夏の夜明けを促すかに頻りにクイナの声がしている。丈の伸び始めた稲田の中から季節を告げてくれるのは、それはそれで結構なのだが、寝惚けた百姓親父が、未納年貢の催促にまたまた村役人が来たかと首をすくめたりしていないといいのだがなあと、ごく常識的というか分かり易い詩で、当の柳湾は年貢を取り立てる側の勘定方を職掌としていたわけで、当時まだクイナの声が聞こたりすることもあったかもしれない実景の中に置いてみると、それなりの味わいはあるとしてよい。税と借金の催促は何時の時代でも庶民には厭わしい。荷風と凌霜の立ち位置もその点変わるところはない。

 他にも僅々一ヶ月の日記から、荷風が随園詩話やら杏園閑筆やらを、凌霜の書架から借りて読んでいる様が分かる。上では煩雑になるから省いたが、それぞれから長々と気に止めた箇所を日記に書き写しており、この時期荷風が何に傾倒していたかがよく分かる。随園は清朝の袁枚、杏園は太田南畝、荷風の南畝への傾倒は半端でないことは、同じ日記の一月の項を見ればこれもよく分かる。抄出してみる。

一月廿五日。朝早く雪また少しふりしが忽歇む。午後八幡の牛乳店に少憩して田間を歩む。日脚長くなりてあたり何となく春めき来れり。井戸端の炊事もまた楽になりぬ。裏庭より見渡す諏訪田の水田に白鷺群をなして飛べり。
一月廿六日。日曜日。晴。……午後凌霜子来り日新録と題する無名氏の日誌六冊を貸与せらる。……共に出でゝ海神に至る途上葛飾駅の村道を歩む。一樹の老榎聳え立つ路傍に一片の古碑あり。また古井あり。碑面に葛羅之井の四字を刻す。側面に広告の紙幾枚となく貼られたる下に南畝の文字かすかに見ゆ。大に驚き井の水にてハンカチを潤し貼紙を洗去るに、下総葛飾。郷隷栗原。神祇□杵。地出醴泉。…… 南畝大田賈撰 文化九年壬申春三月 本郷村中世話人惣四郎 とあり。凌霜子携帯のカメラを取って撮影す。細流を渡り坂を上れば田疇の間に一叢の樹林あり。……田間の一路を東北に取り、海神の町に至れば日は早くもほ(※前出、夕方)なり。南風吹きて汗出づ。牛肉の馳走になり、夜十時菅野へかへる。
一月廿七日。乍晴乍陰。近隣の噂に昨日午後二時頃裏隣田中といふ戦争成金の人の屋敷に強盗四人押入りし由。正午小岩散策。闇市の物資今年更に暴騰せり。……牛肉百匁六七十円のところ百円となり居れり。
一月廿八日。晴。寒。終日日新録をよむ。筆者は遠山左衛門尉部下の与力か同心にて中島嘉右衛門といふ人なるべし。漢詩をよみまた和歌のたしなみあり。……又二月閏三日の記中 うは玉の闇の夜なれど一すじの仕への道はふみやたかへじ ちり方の風のまにまに吹きさそひ来て行袖にかをる梅かな 荷風曰く江戸時代も嘉永年間といへば徳川氏の世も末ながら警吏の中にさへ猶かくの如き清廉にして且ツ風雅の趣味ありし人物もありしなり。今日の警吏に比すれば世の中のいかに相違せるかを知るべし。
一月廿九日。晴。寒。……夜コロ柿食ふ際歯又一本折る。老朽いよいよ哀むべし。

 荷風は凌霜と一緒に散歩の途次、偶然南畝の碑文に出会ったのであり、別に記された文章には「傍の溜り水にハンケチを潤し、石の面に選挙候補者の広告や何かの幾枚となく貼つてあるのを洗い落して見ると」(『葛飾土産』)と、乱暴に貼り散らされた広告が折からの選挙にまつわるものであることもまたしっかりと見ている。

 荷風日記もこの先次第に先細りの印象はあるのだが、さすがにこの辺りは、戦中戦後の混乱が避けようもなく荷風の生活を直撃しており、日記の記述も簡潔要を得て精彩を放ち、明治生まれの江戸人の面目躍如としている。

 館柳湾やその同類の岡本花亭が、今の世なら一介のサラリーマンとして生涯目一杯働き、猶且つ風雅に遊ぶ余裕をこれも生涯持ち続けたことは既に触れた。太田南畝また然りで、持って生まれた下級武士の境涯を、七十四の生涯最後まで全うし、柳湾・花亭と変わるところはない。生前死後の文名は生活と一体の風雅から偶々生じたのであり、文筆は余技でしかない。荷風が凌霜子という分身を必要とするのも、この辺りから考えればごく自然であり、同業はもとより出入りの出版新聞関係者らと距離を置こうとするのも至極尤もという外ない。「今日の警吏に比すれば世の中のいかに相違せるかを知るべし」で、警吏ですらと言いたいのであり、荷風の慨嘆はこれに尽きる。彼等にとっては風雅こそが第一義なのであり、文名が風雅と相容れるわけもなく、通称や雅号はいくつでも自在に使い分ければよいだけのことでしかない。

 上に荷風の日記を敗戦の翌々年の四月から五月のほぼ一ヶ月、日と追って書き出したのは、この国に新たに憲法が施行される、その前後の荷風の立ち位置を確かめたいからなのだが、その日、五月三日の記述は「雨。米人の作りし日本国憲法今日より実施のよし。笑ふ可し」で、何とも素っ気ない。前日の「陰。麦の穂少しく黄ばみ馬鈴薯南瓜の芽舒ぶ。藤躑躅牡丹花さく。……帰途細雨。新緑の田園更に青し」とは好い対照で、知ったことかと言わんばかりなのだが、そのように読ませたいのが荷風で、これは深読みでも何でもない。

 この年、年明けから2.1ゼネストに向けた大きなうねりがあり、四月には前年に続き衆議院選挙が行われ、左派の躍進が目覚ましい。国民大多数は、敗戦と占領統治の亡国を顧みる余裕すら失ったまま、失業とインフレに苦しみ、辛うじて闇市と買い出しで露命をつないでいる。荷風の視野にはその全てが収められ、何も書き漏らしてはいない。問題は、あたかも広角レンズに収められたかのような、季節の移ろい他の自然事象をも含めて、身の回りの諸々を見据える荷風独自の遠近の距離の置き方であろう。この醒めた眼差しは、戦中から戦後一貫しており、そこに断絶はない。荷風の目には、相変わらず庶民は生活に必死で、政治は無知で暗愚でしかない。

 分かり易い例として、この前年春家を焼かれ、ついには敗戦に至る半年ほどの日記からも二三の記述を拾ってみる。

一月廿四日。晴又陰。……小役人らしき四十年輩の男四五人其中の一人帳簿を持ち人家の入口に番号をかきし紙片を貼り行くを見たり。……人家取払ふべき事を示すなり。……東京住民の被害は米国の飛行機よりも寧日本軍人内閣の悪政に基くこと大なりといふべし。……
二月廿五日 日曜日。朝十一時半起出るに三日前の如くこまかき雪ふりゐたり。……心何となく落ちつかねば食後秘蔵せし珈琲をわかし砂糖惜し気なく入れ、パイプにこれも秘蔵の西洋莨をつめ徐に烟を喫す。若しもの場合にも此世に思残すこと無からしめむとてなり。兎角するほどに燐家のラヂオにつゞいて砲声起り硝子戸をゆすりしが、雪ふる中に戸外の穴には入るべくもあらず、……窓外も雲低く空を蔽ひ音もなく雪のふるさま常に見るものとは異り物凄さ限りなし。平和の世に雪を見ればおのづから芭蕉の句など想起し又曽遊のむかしを思返すが常なるに、今日ばかりは世の終り、また身の終りの迫り来れるを感ずるのみ。……
三月初七。陰。正午近く警報あり。……隣組の媼葡萄酒の配給ありしとて一壜を持ち来れり。味ひて見るに葡萄の実をしぼりたるのみ。酸味甚しく殆ど口にしがたし。其製法を知らずして猥に酒を造らむとするものなり。これ敵国の事情を審にせずして戦を開くの愚なるに似たり。笑ふべく憫むべくまた恐るべきなり。
三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、……
三月十日、……嗚呼余着のみ着のまゝ家も蔵書もなき身とはなれるなり、余は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと数れば二十六年の久しきに及べるなり、されどこの二三年老の迫るにつれて日々掃塵掃庭の労苦に堪えやらぬ心地するに至しが、戦争のため下男下女の雇はるゝ者なく、園丁は来らず、過日雪の降りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、寧一思に蔵書を売払ひ身軽になりアパートの一室に死を待つにしかずと思ふ事もあるやうになり居たりしなり、昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや亦知るべからず、……
八月十五日、陰りて風涼し、宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、小魚つけ焼、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、……今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、

 これらの記述を、開戦から終戦に至る同時期の知識人、文学者その他物書き大多数の盲目に等しい右往左往振りと比べてみれば、荷風の立ち位置は突出して際立ち、希有としか言い様がない。問われるべきは、その視座を一貫して支えるものが何であったかであろう。文筆の才と雖も所詮一芸に秀でたにすぎず、時代を見据える教養、胆力はまた別と考える外ない。(つづく)

峠越えれば(35) 老愁ハ葉ノ如ク

2016-03-09 | 峠越えれば
 恒例の冬籠もり、藤村、漱石に続いて、この冬は永井荷風、雪の前に古い岩波版の全集を買い込み、徒然に拾い読みしている中、どうにか一冬を凌ぐことができた。布表紙の美麗本二十数巻、一冊にして値僅か二百円程に過ぎない。売れない旧漢字本、加えてデフレ、有難いことで、田舎のこととて置き場所に困ることもない。厄介なのはこれからで、暫くは荷風まみれで、啓蟄の虫よろしく穴の外、世の中の動きには春霞がかかって、当分焦点が合いそうもない。

 漢詩に興味を持つまでは、荷風がごく偏屈な人物であること以外、さして知る処はなかった。ただ長く市川市に住んでいたことから、文化勲章の大家らしくもない、巷間流布するその人物像に、それなりの親しみを感じたりもしていた。戦争末期、空襲で焼け出された荷風は、着の身着の儘各地を逃げ回り、漸くにして市川に縁者を頼り、残り十数年の生涯三度市内に住居を替えている。今地図の上をなぞってみると、その跡を追うかのように、二度までは同じ町内徒歩数分の所に荷風旧居が印されている。縁といえば縁には違いない。

 胃潰瘍の吐血で、翌日昼遺体を発見されることになる、専ら外食が頼りの荷風が最後の食事を済ませた蕎麦屋も健在で、京成線駅前にあって便利なのでよく利用させてもらった。市の北側京成線と平行に真間川が流れ、両岸に桜が植えられているのだが、都市化で生活排水が悪臭を放ち、川自体が淀んでどっちに流れているのか分からない有様であったのだが、本来が歴とした水田用の農業用水で、国府台で江戸川の水を取り入れ、船橋方面の湾岸に抜ける間に多くの田圃を潤していた様子は、散歩が趣味の荷風本人が見たままに記している。唯一高度経済成長前の荷風の頃の名残は、かつての湾岸の砂州由来の黒松の並木で、市内どこに引っ越しても、行く先々の道端に巨木となって車の通行を邪魔しながらも、当時はまだ伐られず残されていたのだが、今となってはどうなったものやら。焼け出された荷風は、松籟を聞きながら、食を求めて市川駅前の闇市に通い、帰りもまた松籟の中、歩きながらパンを囓ったりしている。片道十数分、道順は手に取るように思い浮かべることが出来る。

 荷風が、今の時代、どのように読まれているかについては全く分からない。一冬全集を拾い読みしただけの印象としては、個々の作品については面白いとも良いとも何とも言い様がない。当の本人が、老婆心に「拙著は宜しく学校を出て女房でも貰つて少し鼻についた時分にでも読み給はゞ正にその時を得たるものとや」(全集第十五)とか書いているのだが、女子供学生の如きが読んでも分かりはしないというのは、当時も今もその通りなのであろう。

 随筆の散文はさすが荷風で、達意の文は味わって読むに足る。昨今の阿るばかりのネット上の書き込みなどに慣れきった目にはどう映ったものか。雅俗それぞれの極みと言ったら分かり易いか。偶々生き永らえて戦後に至ったにしても、考えてみれば、荷風が漱石鴎外と同時代の文学者であることを、忘れてはならない。荷風程に明治の遺風を体現し、震災と戦災を生き抜き、戦後にあって尚文学を刻んだ例など外にあるわけもなく、その目に映ったこの国の戦後がどのようなものであったか、これ以上に貴重なものが外にあるはずもない。

 何はともあれ、日記の一部を引いて、改めてその一端を味わってみたい。荷風が市川に居を定めたのは敗戦翌年の一月十六日。この年荷風六十七歳。

一月廿二日。晴。暖気春の如し。……駅前の市場にて惣菜物蜜柑等を購ひ、京成線路踏切を越え松林鬱々たる小径を歩む。人家少く閑地多し。林間遙に一帯の丘陵を望む。通行の人なければ樹下の草に座し鳥語をきゝつゝ独り蜜柑を食ふ。風静にして日の光暖なれば覚えず瞑想に沈みて時の移るを忘る。……門外の松林深きあたり閑静頗る愛すべく、世を逃れて隠れ住むには適せし地なるが如し。……
二月初二。陰。午後より日輝きて稍あたゝかになりぬ。……雪後の泥路をいとはず露店の賑平日の如し。甘藷は禁止になりしとて売るものなし。菓子ぱん五六片を購ひ京成電車線路に沿へる静なる林下の砂道を歩みながら之を食(くら)ふ。家なき乞食になりしが如き心地して我ながら哀れなり。
二月初三。日曜日。晴。風寒し。午近く米飯の代りに片栗粉の汁粉啜りて飢を凌がむと、それを売る家まで至り見しに、二月中当分休の札を出したり。市川に移り住みてより数日の後、京成電車通にふと此店を見つけ、初は少しく悪臭あるに苦しみしが、寒さしのぐにもよければ、毎日のやうに行きて食ふやうになりしなり。何事も其日其場かぎり、長続きせぬは今の世の中是非なきことなるべし。
三月初二。陰。旧紙幣通用本日限り。銀行郵便局前に群集列をなすこと二三丁に及ぶ。駅前の露店雑貨を売るものばかりにて、飲食店は一軒もなし。肴屋八百屋も跡を絶ちたり。汁粉売るもの唯一軒目にとまりたれば一椀を喫して帰るに、恰も新聞をひろげ汁粉にて死したるものあり。甘味に毒薬を用ひしが為なり。予覚えず戦慄す。惜しからぬ命もいざとなれば惜しくなるものと見ゆ。
三月初四。陰。汁粉の毒にあたりはせぬかと一昨日より心配しゐたりしが、今日に至るも別条なし。身体何ともなく疲労す。
三月初六。毎朝鶯語をきく。幽興限なし。
三月初七。陰。鶯頻に鳴く。近巷の園梅到る処満開なり。農家の庭には古幹に苔厚く生じたる老梅あるを見る。東京には無きものなり。笆籬茆舎林下に散見する光景おのづから俳味あり。
 
 旧漢字を全て書き換えしまったので、その分興を殺いでいるかもしれない。それにしても如何にも荷風で、この日記だけでその名は不朽であるとしなければならない。日記体にしていささかの隙もない。簡潔要を得て、それでいて荷風その人が滲み出て余すところがない。荷風にとって、創作の備忘のようなものであった日記が、いつのまにやら作品と分かりがたい、創作そのものに化してしまったということかもしれない。実際に書き写してみると、読者を意識して書いているとしか思えない。

 前回、館柳湾らの江戸の漢詩の余慶がどこまで及んでいるかに触れて、そこに荷風の名も上げたのだが、改めて『葷斎漫筆』について、荷風の教養が何に基づくかを味わいつつ見てみたい。初出は大正14年(1925年)。この年荷風47歳。漱石没年は1916年48歳であることも参考にしなくてはならない。この場合、ネット上では使えない漢字があって、これが頭痛の種なのだが、ここでも「そくそく」が困る。草冠の敕、漱石の漱のさんずいを草冠に替えた擬音語で、かさこそ音を立てている、その様を言いたいだけなのだが、こと漢詩となると平仮名ではどうにも様にならない。取り敢えず「敕」で間に合わせる。大正昭和の境頃、まだこの国の文学が、このような作品を生むことができたことは記憶されてよい。

……館柳湾は江戸の詩人なり。そが秋尽の絶句に「老愁如葉掃不尽。敕々(そくそく)声中又送秋」の語あり。日々掃へども掃ひつくせぬ落葉を掃ふ中いつしか日は過ぎて秋は行き冬は来る。われは掃葉の情味を愛して止まず。年々秋は尽きて竜胆の花既に萎れ、郁子(むべ)の実の熟して裂けむとする時、隣家の庭には終日落葉を焚く烟の末のいつか暮靄に混ぜむとする夕なり。われも亦箒を把りて独暮れかゝる庭に佇立むや、或時は曾て読みたりし古人の句のおのづと思ひ出さるゝことあり。或時は思ひなやめる腹稿の忽にして成れるが如き心地することもあり。敕々たる落葉の響の詩興を動すこと、半夜枕頭に聞く雨の音にも劣らずといふべし。雪も亦庭につもりたる落葉と同じく心なき奴僕には掃はしむることなかれ。松の枝などの折るゝことを危ぶむ時を除かば、積もりし雪はそのまゝにおのづから消ゆる日を待つべし。鹿の子まだらの残雪にやゝ長くなりたる日影の照添ふ時、名もなき草の芽は梅花に先ンじて早くも春の来れるを告ぐべし。……

 柳湾の「秋尽(秋尽く)」もそのまま引いてみる。

静裏空驚歳月流  静裏 空しく驚く 歳月の流るるに
閑庭独坐思悠々  閑庭に 独坐し 思悠々たり
老愁如葉掃難尽  老愁 葉の如く 掃えども尽き難く
敕々声中又送秋  敕々(そくそく) 声中 又た秋を送る

 柳湾の詩を散文に書き直せば上の荷風のようになるわけで、現代語に訳すまでもないのだが、大意を述べればこんなところか。

 何事もなく日々平穏に過ぎ去って行く、その歳月の流れは驚くばかりで、ひっそりとした我が家の庭に佇み、あれやこれや由無し事に思い巡らしていると、老いの寂しさがひしひしと身に迫ってくる。その様は、掃いても掃いても尽きることのない眼前の落ち葉と変わるところはない。こうしてこの秋も又過ぎ去っていくのだ。

 柳湾ら江戸の詩人たちがそうであったように、荷風は、雪月花の佇まい、季節の気配、幽き風の音等々に当たり前のようにごく素直に反応している。日記には「月色清奇」「月くもる」「松林の間に弦月の沈むを見る」「月よし」「名月皎然」といった記述が頻出しているのだが、月齢で日を数えていた、曾ての時代が荷風の中ではまだ終わってはいない。

 荷風にとって天敵のような存在が実はラジオで、居候先や隣家のそれにスイッチが入るや、時を選ばず逃げだし、例によって街中を彷徨することとなる。巷の喧噪はまるで苦にならない。聴覚異常でも神経過敏でも何でもない。多分機械的に一方的に鳴り響き語りかける、その押しつけがましい不自然さが耐え難かったのであろう。今の時代ならテレビということになる。江戸人が、いきなり現代に放り込まれたら荷風と同様であろう事は間違いない。翻って、如何に私たちが時代に飼い慣らされてしまったことか。時にテレビを消しネットを切り、月を眺め風の音に耳を傾ける当たり前の余裕がもっとあってよい。老いたらば尚更とは言うまでもない。

 荷風の作品では、最もよく読まれているものの一つに違いない『墨東綺譚』(墨にはさんずいが付く)には作後贅言が添えられ、掃葉翁なる人物が登場し、荷風と浮世離れした遣り取りをしている。「いつも白足袋に日光下駄をはいていた。其風采を一見しても直に現代人でない事が知られる」とある通りで、尤もらしい来歴は語られていても荷風の分身であることは言うまでもない。

 荷風が隅田川を越えて玉の井に通い始めたのは昭和十一年、荷風五十七歳で、贅言脱稿の日付は「2.26」のあったこの年の暮になっている。掃葉翁は既に不遇な生涯を終え、ここでは荷風にその思い出を語らせている。四年前の昭和七年が「5.15」、そして満州国建国、この間軍の暴走に歯止めが効かなくなり、盛んにテロが横行する。一方で盛り場は、営業を延長し老若男女が集い何時にも増して夜半まで賑わっている。

 震災前、夜半過ぎて灯を消さないのは蕎麦屋くらいであったはずと、これは荷風。「何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫も、何があろうと眉を顰めるにも及ばないでしょう。精力の発展と云ったのは欲望を追求する熱情と云う意味です。スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬其他博奕の流行、みんな欲望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている、その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。」これは掃葉翁。

 荷風が言う。「何事をなすにも訓練が必要である。彼等はわれわれの如く徒歩して通学した者とはちがって、小学校へ通う時から雑踏する電車に飛乗り、雑踏する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに能く馴らされている。……こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。此努力が彼等の一生で、其外には何物もない。」

 いかにも「此努力が彼等の一生で、其外には何物もない」のであり、老いて尚わが生涯のその余韻に浸るのみで、その外にまだ何物かが存在する、存在すべきだとは思いもよらないのであろう。

 そう言えば「荷風」というその名からして、そこから、晩秋から初冬、風が吹き鳴らす、蓮の枯葉の蕭条とした響きが聞こえてくるような気がするのだが、「贅言」の終わりを抄出するとこうなっている。

 ……わたくしは毎年冬の寝覚に、落葉を掃く同じようなこの響きをきくと、やはり毎年同じように、「老愁ハ葉ノ如ク掃ヘドモ尽キズ敕々タル声中又秋ヲ送ル。」と言った館柳湾の句を心頭に思浮べる。……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感慨もまた変りはないのである。花の散るが如く、葉の落るが如く、わたしには親しかった彼の人々は一人一人相ついで逝ってしまった。わたくしもまた彼の人々と同じように、その後を追うべき時の既に甚しくおそくない事を知っている。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃らいに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう。

 生前葬よろしく、手回しよく分身の掃葉翁を葬り、その墓まで掃った荷風ではあるが、その後、天敵のラジオから流される大音量の軍歌に悩まされ、家を焼かれ、着の身着の儘戦火を逃れ、終には繁華の地を川向こうに見る都外の市川に余生を養うこととなる。下駄履きでどこまでも歩き回る身長六尺の偉丈夫、根が頑健な質なのであろう、明治生まれの江戸人、腰の据わらぬまま、いよいよ熾烈を極める戦後の「欲望を追求する熱情」「欲望の発展する現象」のただ中に尚十数年の生を保つこととなる。(つづく)

峠越えれば(34) 貧も味有り

2015-05-12 | 峠越えれば
  前回、岡本花亭の同類として館柳湾に触れ、そこでの漢詩の印象を一言で言うなら、今時の多くの定年適齢期のサラリーマンにとって「これは俺だ」ではなかろうか、としたのだが、続けてもう少し触れたみたい。

  柳湾の名は、その漢詩集『柳湾漁唱』による。生家は越後の信濃川河口とされる。柳の垂れた入江で、漁師の棹歌を聞いて育った、港町の町家の出であり、両親を早く亡くし、養子に出され、十三で学問を求めて江戸に出る。学問が成ったのであろう。勘定方の大身の幕臣の家臣となる。士分に取り立てられたのであり、養子縁組などを通じて、こうした例は珍しくない。主家が代官となるや、その手付として地方に赴いて、年貢徴収の実務に当たる。岡本花亭と同じ算盤人生ながら、任地が一定せず、時に野外に出て、検見他もこなさなくてはならない所だけが違う。

  年譜を見ると、二人の生涯は驚くほどよく似ている。花亭より五年早く生まれた柳湾は、六年早く83で亡くなっている。没年齢は一つしか違わない。柳湾の結婚は26、花亭も家督相続が28だから、その辺りで結婚しているはずで、二人共その頃から出仕し、一旦52で致仕したもの、再び71から77まで働いた花亭に対し、柳湾が致仕したのも66であり、どちらも目一杯仕えている。先妻と後妻の二人から子を恵まれ、後嗣を得て同居し、老後は孫に囲まれ生涯を終えている点も変わらない。

  前回引用した柳湾の詩に「徙樹幽居賁」、樹を徙(うつ)して幽居を賁(かざ)る、というのがあったが、花亭の詩にもこんなのがある。

自少江城厭閙嘩    少(わか)きより 江城に閙嘩を厭う
老懐今日好春華    老いて懐う 今日の好き春華を
曾為計吏算来熟    曾て計吏為れば 算来 熟せり
下半生身閑看花    下半の生身 閑(しずか)に花を看ん

  老後はせめて静かに庭の花を眺めて暮らしたい。計算通りには行かないのが世の常なのだが、そこは年季の入った計吏の計吏たる所以で、「算来熟せり」帳尻を合わせることは得意で、二人のささやかな夢は実現したとしてよい。

  柳湾には『柳湾漁唱』とは別に、農耕園芸の知識を、良辰佳節にちなむ詩例と共に紹介した、実用の漢詩歳時記風の『林園月令』があり、柳田国男が愛読していたらしい。代官所の実務に長け、山野を跋渉しての柳湾の知識は確かで、柳田は、その影響もあってか、庭に「がまづみやうめもどき、もち、なんてん、むらさきしのぶ、かまづかなどの、小さな実のなる小木を多く栽え」(『定本柳田国男集』23)、小鳥を遊ばせて楽しんでいたらしいのだが、偶然ながら、これらの山に入ればありふれた、実の生る雑木は、我が家の庭にもある。晩秋から初冬、葉を落とすと、これらの色鮮やかな実は、時に霜や雪に映え、例えようもなく美しいのであり、どうでもよいことながら、趣味の一致がどこか嬉しい。「徙樹幽居賁」柳湾がその「幽居」に移し植えたのも、多分この類であったに違いない。

  柳田国男が生まれたのは明治8年、柳湾の「閑庭独座思悠々 老愁如葉掃難尽」というような詩を愛読していた永井荷風が生まれたのは明治12年、「小諸古城辺 雲白遊子悲 緑繁縷不萌 若草藉無由」漢詩みたいな『千曲川旅情の歌』で知られる島崎藤村が生まれたのは明治5年、慶応年間の生まれである鴎外や漱石ほどでなくとも、明治初年生まれの彼らも又、漢詩の余慶を存分に享受していたことは間違いない。ということは、彼らの文学その他が読み継がれている限りは、漢詩も又、形を変えてどこかで生かされているということなのであろう。

  花亭と柳湾のものをもう少し取り上げてみたい。

草木風霜惨    草木 風霜に惨たり
乾坤歳月深    乾坤 歳月深し
半生将白首    半生 将に白首(白髪を頂く歳に)ならんとするも
一寸尚丹心    一寸 尚 丹心(世に役立ちたい純真を失ってはいない)
官豈疎慵耐    官は豈に疎慵(無精)に耐えんや
年徒老病侵    年は徒(た)だ老病に侵さる
厭聞時事話    聞くを厭う時事の話
囂爾説黄金    囂爾(やかましく)として黄金(金儲け)を説くを

  これは花亭、ごくごく分かり易い。歳取って何が耳障りかといって、時事と金、政局と市場の成り行き程、喧々囂々の「囂爾」たるものはない。右にぶれ、左にぶれ、上がったかと思えば下がり、下がるかと思えば上がり、止むところがない。半生の中には、政権交代もバブルもデフレも見てきたのであり、右往左往、一喜一憂、躍らされてばかりもいられない。それなりの知恵はいやでも身に付く。「閙嘩を厭う」のは生まれつきかもしれないが、そうはいっても田舎に住みたいとも思わないし、野心も金儲けも、無縁と言い切るほどには達観しているわけでもない。老い先の不安を思えば、小金に不自由しないに越したことはない。要するに、世の中とは程々の距離を置いて、世に役立ちたい気持ちはまだ失っていないと、そう言いたいのであろう。

  今時の、大方の定年適齢期のサラリーマンの心境と、大して変わるところはないように思えるのだが、難しいのは、この世の中とは程々の距離を置く、その身の処し方であり、花亭や柳湾の漢詩から得るべきはこれに尽きよう。この場合、備前神辺の茶臼山や、豊前稗田村の仏山の麓に住む菅茶山や村上仏山よりは、その「閙嘩を厭」いながらも「江城」の地にあった、この二人の方が参考になりそうな気がする。次も又花亭で、76才の花亭はこの年勘定奉行に就いている。

人情翻覆世滔々    人情は翻覆し 世は滔々たり
走奉明時亦一労    走(この私)は明時(良い時代)に奉ぜんとして 亦一たび労す
堪笑燕居猶美服    笑うに堪えたり 燕居(寛いでいる時)には猶美服せるに
在朝却着敝温袍    朝(公の場)に在っては却って敝温袍を着る

  前に触れたように、精勤とは言い難い仕事ぶりが却って清吏をみなされ、改革の時流に乗って勘定奉行に抜擢されるのだが、天保の改革は既にその実質を失っており、家では絹を纏い、外に出れば、人目を憚って綿服を着るという体のもので、改革の当事者であっても笑うしかない。そうではあっても「亦一労」、老病の身で「官豈疎慵耐」不精者に勤まるはずもないとぼやきながらも、「一寸尚丹心」お役に立てるならと、それなりの役割はそつなくこなしている。

  この現実を突き放し、覚めた目で眺めながらも、世に在る限りは、その現実に関わることを当然の努めと割り切る、その世慣れた、現実との間合いの取り方がどのようにして培われ、この時代に根を下ろすことになったかが問われてよい。「人情翻覆世滔々」無役の小普請入りも三千五百石の大身も、所詮巡り合わせであり、それがどうしたと言わんばかりのこの気概は、何も花亭に限られた話ではない。

忙中了事便無事    忙中事を了(おわ)れば 便(すなわち)事無く
塵裏偸閑即有閑    塵裏閑を偸(ぬす)まば 即(すなわち)閑有り
塵事閑忙何用説    塵事 閑忙 何ぞ説くを用いん
出門一笑対春山    門を出でて 一笑し 春山に対す

南窓暇日払塵床    南窓 暇日 塵床を払い
哦句啜茶坐夕陽    句を哦し茶を啜りて 夕陽に坐す
世事飽嘗貧有味    世事飽くまで嘗めれば 貧も味有り
機心已息拙何妨    機心 已に息み 拙も何ぞ妨げん
江山幽夢家千里    江山 幽夢 家千里
風月閑懐詩一嚢    風月 閑懐 詩一嚢
随分自知多適意    分に随えば 自ら知る 適意多きを
向人不復説窮乏    人に向って 復(また)窮乏を説かず

  この二つは、どちらも柳湾の詩で、最初のは少し格好が良すぎるが、口に「哦し」(吟じ)ていると、ついそんな気になってしまう所が、漢詩の漢詩たる所以で、実際にこれをやってのけるには、相当な年季とそれなりの覚悟を要するであろうことは間違いないにしても、今時のサラリーマンにしたところで、本来はこうあってほしいわけで、漢詩が夢であるなら、格好良すぎて何も悪いことはない。

 「世事飽嘗貧有味 機心已息拙何妨 随分自知多適意 向人不復説窮乏」世間をよくよく知ってみれば、貧しさにもそれなりの味がある。今更人を出し抜こうとは思わないし、世渡りは下手で構わない。自分に与えられた、分相応に生きればよいのであって、殊更に人に我が身の貧を説いてみても始まらない。

  意訳すればこんな所なのであろうが、説明しようとした途端に詩ではなくなってしまう。やはり「貧有味」そのままの方がよい。「貧」は「貧しさ」でも「貧乏」でもない。富貴の中にも貧はあるであろうし、味わうほどの貧であるなら、それは既にして貧とは別の何かであるかもしれない。それを人に説いても、多分理解しないであろうと、上の詩では言っている。
  
  二人に限らないのだが、自らをして「痴」とも「頑」とも「愚」とも称したりするのが漢詩なのだが、それは卑下でも自虐でもニヒリズムでもない。この貧と同じで、世に向けられた覚めた目は、同時に我が身にも向けられているのであり、同じ漢字一文字が、時に矛盾した多義を引き受けざるをえない。世の中も、そこに生きる人も、本来多義であり、文字はそれを写し取っているに過ぎない。時代錯誤と言われかねない漢詩を、今敢えて読む意義は、どうもその辺にありそうな気がする。(つづく)

峠越えれば(33) 野性痴頑在り

2015-05-08 | 峠越えれば
  前回、村上仏山の「牽犢試耕何作累」を引用しながら、ふと「逐犢入青山」という詩句を思い出した。「犢」は子牛、こっちの方は、気骨の会津人広沢安任の漢詩にある。広沢は、新宿の都庁の西隣あたりだと思うのだが、かつての角筈村に牧場を開き、牛を飼っていた。位置的には対照的な、東京の東の外れの江東区で、伊藤左千夫がやはり自ら牛を飼い「竪川に牛飼う家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり」と歌っていた頃に当たる。どちらも乳牛で、いち早く洋風化した、一部の東京市民の需要に応えたものであろう。

  村上が生まれたのは1810年、広沢のそれは1830年、会津の藩校日新館、江戸の昌平黌と秀才で鳴らした広沢は、当然村上の漢詩を愛読している。広沢の「逐犢入青山」は、村上の先に引用した「牽犢試耕何作累」と「宿世良縁身住山」を踏まえたものとしてよい。東京のど真ん中で「入青山」もないのだが、広沢は、戊辰戦争後敗れて本州の最北端、下北半島へ追いやられた会津藩士と共に、斗南藩領とされたこの地に入植し、長年子牛を育ているのだから「逐犢入青山」の詩句に偽りはない。

  下北で牧場経営に失敗して上京した広沢には、その行政や経営の才を生かした、新時代に相応しい別の身の振り方もあったであろうが、我が道を行き、惜しまれて生涯を終えている。この詩句の前後はこうなっている。

無心於隠逸    隠逸に心無し
逐犢入青山    犢(こうし)を逐(お)いて青山に入る
一夢十年過    一夢 十年過ぐ
始知隔世間    始めて知る 世間の隔つるを

  別に「心」が「意」になっていたりもするのだが、世を隠れたこの私には、最早世間並みの野心などかけらもないよ、ということなのであろう。この漢詩に、地の果てに追い遣られ、会津二十三万石を斗南三万石に減封された、会津人の想像を絶した現実を重ねてみれば、漢詩に読まれた理想、夢、非現実が如何なるものかがよく分かる。村上仏山が、繁華の地と対極に置かれた自らの境涯を恃んで、「身住山」と読んだ、それとは又別の、村上には思いも寄らない現実を踏まえた「山」が広沢のそれであり、そこを墳墓の地とする覚悟も又込められているかもしれない。単純な文字一つに、様々な意味を込め、重層化させることのできるのが漢詩であり、和歌や俳句などとは異なった器の大きさなのであろう。

  村上から広沢へ、漢詩がこのように読み継がれていくのは、実は漢詩本来のごくあたりまえの姿であり、既にしてよく知られた詩句を踏まえない漢詩というのは本来あり得ないし、あってはならない。古典を知悉して始めて読むことができるのが漢詩であり、これが現代では漢詩が成り立たない理由でもある。現代では、漢詩を成立させる共通の教養が既にして失われているのであり、村上の「牽犢試耕」にしても、当然何らかの古典を踏まえているのであろうが、多くは、それとは無関係に手前勝手な解釈をして、それでよしとしているだけのことであろう。文字や言葉、それを駆使しての表現というのは、そもそもが融通無碍なもので、誤解や意味の取り違いも又あり、という言い方もあってよいようにも思えるが、漢詩の贈答、遣り取りを通じて直接人と人とが交流し、人の輪が可能であったことを考えると、連歌や連句が成り立たなくなったのと事情は同じということになる。

  会津人広沢のことなど、いつの間にか、すっかり忘れていたのだが、「逐犢入青山」だけは頭の隅に残っていたところをみると、この「逐犢」は詩句として余程に優れているのであろう。村上の「牽犢」よりは分かり易い。これを読んだ、その時、広沢は満面に笑みを湛えてはいなかったか。次の菅茶山とは同時代の、岡本花亭の漢詩から、その辺りの雰囲気は何となく想像できそうな気がする。前回触れた蠣崎波響描くところの黄葉夕陽村舎真景図には、この岡本が絶句四首の讃を書いている。

一字未穏寤寐思    一字未だ穏ならざれば 寤寐(寝ても覚めても)にも思い
利害到前我不悟    利害 前に到るも 我悟らず
一句未安思輾転    一句 未だ安んぜざれば思いは輾転
緩急在後我不顧    緩急(まさかの場合)後ろに在るも 我顧みず
神思疲兮精力費    神思(こころ)は疲れ 精力費え
身太痩兮食忘味    身ははなはだ痩せ 食は味を忘る
天地万物究其情    天地万物 其の情を究め
鬼神造化捜其秘    鬼神造化 其の秘を捜す
尽日不得時自来    尽日(朝から晩まで)得ざるも時に自ずから来たれば
拍手或驚妻子寐    手を拍ちて或いは妻子の寐(眠り)を驚かす

  岡本は特別に苦吟するタイプなのだろうが、何ともユーモラスで、こうなると俳句に苦吟する、よくある光景と変わらないのだが、それに輪をかけて徹底している。この一連の直前では「不甘百美甘吟苦」などと言っている。苦吟が楽しみなのであり、それ程に漢詩を読むことは面白いのであろう。「語不驚人死不休」とも言う。それが漢詩人というものなのであろう。

  岡本花亭とその漢詩に少し触れてみたい。菅茶山や村上仏山が、野にあって私塾を営み、晴耕雨読を夢見たとしても、それはそれで自然なのだが、漢詩人の一方には、蠣崎波響のように一国の家老職を全うし、官にあって尚且つ詩でも画でも一家をなす例が少なくない。文字を知ることがそのまま士大夫を意味する、漢字文化の本来の伝統からは、むしろこちらの方が主流であり、江戸時代のようにそれが官、武士以外に及んだのはごく新しい事態としてよい。

  岡本花亭、通称忠次郎が生またのは1767年、28才で家督を相続し、幕府の勘定方を務める。役高150俵、典型的な下級武士で、52才で致仕し、小普請入りするまで算盤一筋に働く。その日常は、今時のありふれたサラリーマンのそれを想像してほぼ間違いはない。ただ上の漢詩にあるように、いささか惚けた持ち味を隠れ蓑に、漢詩に打ち込む姿勢は並ではない。岡本花亭というと、必ず引き合いに出されるのが次の漢詩で、一旦致仕した時の心境をこんな風に読んでいる。

先生老病去官時    先生(この私はといえば)老いて病し 官を去る時
無復余金嫁女児    女児(娘)を嫁がす 余金(貯え)とて復(また)無い
堪笑卅年為計吏    笑ってしまうではないか 三十年間計吏を為し
未曾一算及家私    未だ曾て私家のためには一度も算盤を弾けないとは

  致仕に到ったのは、職を賭して二分金の改鋳に異議を唱えたからとされている。漢詩故の気骨であったのかもしれない。結果として、無役の小普請入りで、いよいよ趣味に没頭できたはずで、そこまでが算盤の中に入っていたかは分からない。

  三十年間は大げさで、実質二十数年間算盤を弾き続けて、娘を嫁がせる金も残せなっかったというのだが、同僚の多くは、その程度の小金は、役人生活の当然の余禄で、せっせと貯め込んでいたのかもしれない。岡本の役人生活は、実はここで終わってはいない。後にこの詩が世に出て、清吏であるということで天保の改革で抜擢され、七十を過ぎて勘定奉行に就任し、役高は三千五百石まで増え、老年まで勤仕した功で、従五位下近江守に任じられている。77才で槍奉行を最後に役人生活を終えるのだが、その間も84才で卒するまで趣味の漢詩を楽しんだとすると、これはこれで見事という外ない。

  岡本の年譜をみると面白いことに、68才時に五男四女を抱えており、先妻を亡くしているので、歳の離れた娘が三人、歳は19と16と7であり、逆算してみれば後の二人は致仕後に出来ている。娘を嫁がせる貯えすら残らなかった所の話しではない。算盤を弾きそこなったのは、金についてではなく、我と我が身ではないか。後妻との間には、他に13と11の息子ももうけている。惚けた親父で、この余裕も又漢詩のなせる業の中かもしれない。

  岡本の年譜で、もう一点面白いのは、勘定奉行に就く前に、先ず信州中野の代官に充てられている。直後に江戸城西の丸が炎上し、全国の天領に普請助成のための課金がなされ、高齢を理由に任地に赴かなくてもよい扱いの岡本が、居ながらにして檄を飛ばし、どこよりも早く大金の拠出に成功している。代官所支配下の村々の名主、村役人層に、岡本の漢詩も人柄も既によく知られていたのであり、漢詩の趣味の輪がそこまで拡がっていたことになる。岡本は、この年の晩秋から初冬、信州に出向し、任地の視察を済ませているのだが、村廻りの途次、村人が度々狼に襲われ、難儀しているのを耳にして、早速得意の漢詩を読んでいる。

毛属蕃生国土恩    獣類が蕃生するのも国土の恩
住山何得害山民    山に住み 何ぞ山民を害するを得ん
拆看字狼是良犬    狼の字を拆(ひらい)て看れば是れ良犬
諭汝自今知愛人    汝に諭さん 今より人を愛するを知れ

  ユーモアのセンスはなかなかのもので、以下は伝説に決まっているが、この漢詩を村の所々に張り出すや、以後狼の害は途絶えたという。善政の象徴とされたのであり、大陸伝来の、教養豊かな士大夫による文人統治の善き伝統がここまで及んだと、そう解してよいのであろう。

  中年になって、漢詩をよく読み込み、頼山陽や蠣崎波響について大部の評伝を残した中村真一郎が、狼までをも諭そうという、上の漢詩を評して「どうもこの官僚は庶民に上から臨むという行政官的感覚を、終生、脱せられなかったように見える」、高名な割に岡本の詩には「どうも素直にポエジーが感じられるものが少ない」と、どうやらあまりお気に召さなかったらしい。

  確かに茶山や仏山のように、終生野にあって、悠々自適というような羨ましい境涯を、誰しも願うには違いないとしても、茶山や仏山からしてそうなのだが、人の境涯は、望んで得られるものではない。七十を過ぎた老人が、霜を踏んで信州の山奥に赴くというのは尋常でない。ましてそこで、狼にまで教訓を垂れんとするに及んではであり、それを敢えて引き受ける、公に殉じる処世は岡本個人のものではなく、それこそが士大夫の伝統、これ又漢詩のなせる業と言う外なかろう。

  中村は、岡本を称して「この官僚は」などと、こともなげに呼び捨てているが、江戸の文化の多くは、教養と暇を持て余した、小普請入りの無役の下級武士によって支えられて来はしなかったか。彼らこそ、今のこの時代の、公務員というような夥しい大衆を含めて、大方のサラリーマンの原像ともいうべき存在ではなかったのか。

  岡本の同類に館柳湾がいる。通称雄次郎、1762年の生まれ、岡本とは五歳違いでしかない。岡本は、晩年抜擢されて代官になったが、館は、その代官の下で、天領の村々を回って、検見などの実務に当たっている。身分的には村役人とも境の分かちがたい代官所の手代であり、下級武士もよいところなのだが、漢詩人として名高い。一例上げてみる。

野性痴頑在    野性(田舎育ちで) 痴頑(愚かで頑な所)在り
不知身計疎    身計(世渡りの術)の疎なるを知らず
鋤蔬称老圃    蔬を鋤きて(野菜畑を耕し) 老圃(百姓)と称す
徙樹幽居賁    樹を徙(移)して 幽居を賁(飾)る
病減帰閑後    病は減ず 閑に帰する後
貧同遊宦初    貧は同じ 遊宦(地方に赴任した)の初に
行年逾七十    行年七十を逾(こ)ゆるも
猶欲買新書    猶新書を買わん欲す ※鋤は正しくは金偏に且

  「鋤蔬称老圃 徙樹幽居賁 病減帰閑後」年齢さえ少し動かせば、これは俺だであり、そんな定年適齢期のサラリーマンは今時世に溢れている。(つづく)

峠越えれば(32) 山に住む

2015-05-05 | 峠越えれば
  昨年の冬籠もりは、専ら漱石の漢詩に付き合っていたのだが、今年もその延長で、江戸の詩人達と、気が向けば付き合ったりしている中に、気付いてみれば、春を通り越して早、初夏、周囲の山々の新緑が目に染みる。お馴染みの雉子の夫婦も、挨拶のつもりか、一時我が家の庭を我が物顔に闊歩したかと思うと、今は又、その辺の休耕地をあちこちケンケン鳴き回っている。閑居もほどほどにしたい。

  前にも触れたように、近世では詩といえば漢詩であり、この時代最大の詩人は芭蕉ではなく、菅茶山であったという言い方もある。詩とは口に唱え、吟じるものであり、本来親しみやすいものであったはずなのだが、漢詩とは不可分の経学、儒教の教えが時代に取り残され、ついには漢詩も漢文も、私たちの教養から完全に抜け落ちてしまったのであり、文化の継承、連続性という点からは不幸この上ない。和歌や俳諧が今なお親しまれ、その裾野を拡げていることを考えると、漢詩に限っては、肝腎の裾野が嘘のように消えてしまったのであり、この意味については、もう少し真剣に考えてみる必要がある。

  岩波の『江戸詩人選集』の月報に、現代中国の専門家の感想が紹介されている。
 ……はるか昔に、外国の詩を学んで模倣しようとするのに、その国へ行ったこともなく、またその国の話し言葉も解さず、ただ文字だけによって学び、模倣し、創作しようというのは、実際容易なことではなかった。ことに中国の古詩のような、格律が厳格で複雑な形式をもつものは、文字の発音と単語の意味をマスターし、字義と音韻の両面で一定の水準に達して、はじめて比較的自由に使いこなすことができるようになる。ところが、日本人はこの方面においてきわだった才能を示し、すでに一千年余りも前に、かなり高い水準の漢詩を創作していたのである。これは実に驚嘆にあたいする奇跡であるといえよう。……(第七巻月報1990年)

  その国の話し言葉も解さず、ただ共通する文字だけ、文字についての教養のみを頼りに、異国の詩を真似て創作し、それを彼の国とは全く異なる文法と訓によって、自国流に読み下し、言うならば翻訳し、その特異な文体を高吟することを得意とする。「驚嘆にあたいする奇跡」には違いない。

  古代においては、雲の上のごく限られた一部特権層の趣味であったものが、中世には、その裾野が五山の僧達にまで拡がり、更に近世に入ると、官僚化した武士層のみならず、都市の富裕層、地方の村役人層にまで、その輪がどこまでも拡がっていったことは間違いない。

  近世、木版刷りで刊行された漢詩集の類は夥しい数に上るはずで、その裾野の程を物語っている。文化なるものは、何時の時代でも憬れより生まれたのであり、漢詩がこの国では最も強い憬れ、雅の頂点に常にあったことは間違いないし、和歌や俳諧に与えた影響も計りしれない。

  いかにも「驚嘆にあたいする奇跡」には違いないのだが、そもそも漢字という文字自体が、そのような可能性を秘めたものだとすれば全ては辻褄が合う。

  一文字一文字の中に、信仰も民俗も、世界観や処世の術までが含まれているのであり、数千年の知恵と経験のすべてが、文字と融合して後世に伝えられ、後世を動かしてきたのであり、アルファベットの類と同列に置くわけにはいかない。

  江戸の詩人達が、漢詩を通じて大陸文化、あるいはこの国も含めて東アジア共通のどのような文化に憬れていたのか、文化とは全て斯く在りたいという憬れであり、憬れである以上、現実には幻影に過ぎないにしても、漢字という文字には、そのような憬れを喚起する途方もない力が、既にしてその中に備わっているのであり、漢字が単純な表記上の記号と化しているとしたら、大方が漢字をそこまで読み込もうとしなくなったというだけのことで、単なる無知にすぎない。

  漢詩を読むことは、今でも実はそれほど難しいことではない。創作の意味での読むということになると、これは今や不可能に近い。次の菅茶山のものなどどうであろうか。難しいのは木偏に龍の、連子窓くらいで、後はほぼ読める。無理に読み下そうとしないで、日本語に翻訳しようとしないで、四字熟語みたいな感覚で、ごろごろ転がった五文字から喚起されるイメージを、次々に連ねていって、そこに現れてくる世界にどの程度に共感できるか、漢詩を読むとはそれで十分であろう。

吾家世業農   吾が家は世々農を業とし
樸素守祖風   樸素(素朴) 祖風を守る
隣並皆親戚   隣並(隣近所) 皆 親戚
有無互相通   有無 互いに相通ず
衣食雖不足   衣食 足らずと雖も
所安存其中   安んずる所は其の中に存す
時得茅索暇   時に茅索(農事)の暇を得て
詩書授児童   詩書 児童に授く
嗟余鹵莽資   嗟(ああ) 余は鹵莽(粗雑)の資 
肯望琢磨功   肯(あえ)て琢磨(修学)の功を望まんや
茅堂春睡足   茅堂 春睡足り
朝暾上竹叢   朝暾(朝日) 竹叢に上る
吾伊時断続   吾伊(読書の声) 時に断続し
嬉戯喧簾龍   嬉戯 簾龍(窓)に喧(かまびす)し※龍には木偏が付く
負暄手煎茗   暄を負うて(日向で) 手ずから茗(茶)煎ずれば
楽意自融融   楽意 自ずから融融

  茶山には別に「我本農家子 生長事躬耕」という一連を含むものもあり、その拠り所が何であるかはごく分かり易い。茶山は三十代中半以降、故郷の山陽備後国神辺で私塾を営み、子弟を教育することで八十年の生涯を終えている。その黄葉夕陽村舎は、この時代、農村、都市を問わず全国に簇生した私塾、藩校、寺子屋等々を支える者たちの多くには、斯く在りたいと願う理想の結晶の如きに見えていたのかもしれない。蠣崎波響描くところの、黄葉夕陽村舎の真景図にはそんな神韻が漂うかに見える。茶山の高名を慕って神辺を訪ねる者は、その生涯と通じて絶えることがなかったという。

  それにしても漢字とは何と便利な文字であることか。これでたった九十字、そこにどれほど広大無辺な世界が包み込まれていることか。

  この詩から、よく知られた『老子』の次の一節へと連想を拡げたとして、そこには何の不自然もない。これもまた詩として読むべきなのであろう。こっちの方は七十五字、使われている漢字は更に易しい。「小国寡民 使有什伯之器而不用 使民重死而不遠徙 雖有舟輿 無所乗之 雖有甲兵 無所陳之 使民復結縄而用之 甘其食 美其服 安其居 楽其俗 隣国相望 鶏犬之声相聞 民至老死 不相往来」 無理に読み下そうとしたり、現代語訳などという小細工を敢えてしない方がいい。漢和辞典片手に一文字一文字の意味を確かめ、あるだけの知識を総動員して想像を逞しくすれば、意味は自ずから通じる。そこに二千数百年の時間が横たわっている、驚きはそっちの方になくてはならない。

  「甘其食 美其服 安其居 楽其俗」人として、如何なる境涯を以て是とするか、この詩を越えるものは、この間ついに現れなかったのであり、茶山のそれは、漢字文化の古典中の古典を、単に自身の身辺に置き換えたに過ぎない。

 茶山といい、老子といい、何を浮世離れした世迷い言をと読んだとしたら、詩とは無縁な言い掛かりというべきであろう。夢であり、理想であるからこその詩であり、慣れ切った現実に亀裂を生じさせる程の力を持ち得ないなら、それは詩ではない。茶山や同時代の文字を知る程の者達には、漢字とはそれほどの力を宿すものとしてあり、その力を自在に引き出すことのできる者のみが詩人であったのであろう。

  もう一つ、茶山より数十年後れ、九州豊前国稗田村で、似た境涯にあった村上仏山の漢詩を上げてみたい。七言の律詩で第三四句と第五六句が対句をなす。ここでもごく平明な漢字しか使われていない。
農業兼儒跡自安   農業 儒を兼ねて 跡自ずから安し
朝名市利不相関   朝名市利(朝廷に名誉を、市場に利得を争う)相関せず
一生清福眼知字   一生の清福 眼 字を知り
宿世良縁身住山   宿世の良縁 身 山に住む
牽犢試耕何作累   犢を牽きて 耕を試む 何ぞ累を作さん
呼童授読未妨閑   童を呼びて 読を授くる 未だ閑を妨げず
今朝最有会心事   今朝 最も会心の事有り
煙雨西疇得句還   煙雨 西疇(田圃) 句を得て還る

  詩であり、何と羨ましい、いいなあという感想があれば、それでよい。同時代の梁川星巌の「儒(学者・知識人)と称し、舌を売って、活をなす者」「豈能く愧死(恥じて死ぬ)せざんや」という評が伝えられているが、この時代に限るまい。昨今猶更であろう。「一生清福眼知字」字を知り、知識を得たのは一生の清福(精神的幸福)であり、問題はその納まり所、落ち着き先、何のための知識かを問い直すことで、そこだけは数千年変わるところなく現代に及んでいる。

 「朝名市利」我関せず、政争や金儲けとは一線を画す、それを時代錯誤の文人気質などと言って済ますべきではなかろう。野心、金まみれに一生を棒に振って、人は数千年の歴史を刻んできたのであり、人が人である限り「朝名市利」とは縁が切れない。趣味でも教養でもよい、詩を吟じることの意味はそこにあるのであり、漢詩以上にそれに相応しいものは他にありそうもない。(つづく)