向日葵の一茎一花咲きとほす 津田清子
梅雨が明けたと思った途端、向日葵と出会った。炎天にこれほど似合う花はない。近世の終わり頃に入ってきて、字のままに「ひゅうがあおい」と呼ばれた時期もあったのであろう。「ひまわり」とはよくぞ名づけたりで、別に花が太陽を追うはずもないのだが、常に太陽と向き合っているかの印象は、花自体が炎をあしらった日輪そのままで、あまりにできすぎているからに違いない。
「黒みつつ充実しつつ向日葵立つ」(西東三鬼) 花もいろいろ、梅雨時闇に浮かんでいた純白の梔や、さんざ楽しませてもらった紫陽花も、今は枯れ色あせ、炎天下に無惨な姿をさらしている。花の後は見ないというわけにもいかず、この点はけっこう厄介で、桜のように一気に咲いて花吹雪、後は葉桜という、そこまで見事にはいかないまでも、やはりそのあたりの違いも花の印象の中に入る。向日葵はといえば、咲き終わって、その先がまた絵になり、立ち姿はどこまでも堂々として、茎の太さ、逞しさも尋常ではない
「向日葵を斬つて捨つるに刃物磨ぐ」(三橋鷹女) 「向日葵や信長の首切り落とす」(角川春樹) 向日葵に目鼻をつけたような太陽王を称する人物もいたりして、その周囲に、中には物騒な妄想にとりつかれる者がいたとしてもおかしくはない。「ひまはりのたかだか咲ける憎きかな」(久保田万太郎)
「向日葵の大愚ますます旺んなり」(飯田龍太) 一般的には目鼻のついた向日葵には、敵意や憎悪より、幼児の絵のような、おおらかさの方が似つかわしい。「にんげんが好きで向日葵よく笑う」( 村上子陽) 「ひまわりの百万本の笑ひ声」(石井匡巳) はたしてどのように聞こえたものか。これと比べると、「向日葵が好きで狂ひて死にし画家」、月並みにゴッホを引き合いに、五七五としただけの、これはいただけない。虚子も随分つまらない句を残したもので、向日葵がそれらしく詠まれるようになったのは、戦後になってからということかもしれない。
向日葵の老いきれざるを抜きにけり 肥田埜勝美