食用菊を大量に貰った。一度には食べ切れないので、花瓶に入れ、必要なだけ花を毟って菊膾にし、三日で食べ尽くした。食用とはいえ、開き切ると結構大輪で見栄えもいい。食べるだけでは勿体ないので、花は苦手というか、描いたことがないのだが、敢えて挑戦してみた。やはり勝手が違う。陰影や遠近感にこだわると、肝腎の華やかさが消えてしまう。持て余している中に茎だけになってしまった。後は残像で誤魔化し、どうにか格好だけはつけたつもりなのだが、どことなく宙に浮いた、掴み所のないものになってしまった。花とはそんなものなのかもしれない。
膾はといえば、これはもう最高で、しゃきしゃきした食感も、ほどよい苦みは申し分ない。食用の菊というと、黄色とばかり思い込んでいたのだが、これは見ての通りで、食卓に酒の隣に置いてみると何とも楽しい。山形辺では、何か以ての外の名がついていたような気がするが、それは忘れた。最近では、新潟経由でこの辺でも見掛けるようになった。よく見ると花弁の一つ一つが、開き切らない筒状のままで、多分そのため食感が独特なのであろう。花の色は正確には、酸水で茹で上げ、冷水で冷やした段階で、絵のような鮮やかなピンクになるが、咲いている時はもう少し紫がかったり、白っぽかったりする。花が如雨露状にやや俯いてしまうあたりが、観賞用には向かないのかもしれない。
菊膾とくれば、これは日本酒以外はないわけで、飲み慣れた焼酎は置き、早速地元の蔵のものを用意した。偶然なのか、これが滅法よく合う。そしてもう一つ、菊膾とくれば、これはもうこの人しかないわけで、「東京をふるさととして菊膾」(鈴木真砂女)、俳句もまた肴になる。小体な店の片隅で、年季のいった女将に手早く誂えて貰った気分でちびちびやりながら、歳時記をめくっていると、こんな句に出合った。「君が代を拒んで一人菊膾」(蓮見徳郎) 作者については何も知らない。この君が代は歌だと思うのだが、真砂女の句がそうであるように、これもまた我が生涯をつらつら思い返しての感慨なのであろう。言外に語られない個の事情、痛切な思い、若しくはその継承があるのであり、それ以上の真実はない。個の事情を寄せ集め、織りなしたものが歴史であり、それ以上の真実はない。何かというとすぐに国だの民族だのを持ち出すのはどこか嘘っぽい。