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峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

水彩漫筆(13) 食用菊

2012-11-07 | 水彩漫筆

 食用菊を大量に貰った。一度には食べ切れないので、花瓶に入れ、必要なだけ花を毟って菊膾にし、三日で食べ尽くした。食用とはいえ、開き切ると結構大輪で見栄えもいい。食べるだけでは勿体ないので、花は苦手というか、描いたことがないのだが、敢えて挑戦してみた。やはり勝手が違う。陰影や遠近感にこだわると、肝腎の華やかさが消えてしまう。持て余している中に茎だけになってしまった。後は残像で誤魔化し、どうにか格好だけはつけたつもりなのだが、どことなく宙に浮いた、掴み所のないものになってしまった。花とはそんなものなのかもしれない。

 膾はといえば、これはもう最高で、しゃきしゃきした食感も、ほどよい苦みは申し分ない。食用の菊というと、黄色とばかり思い込んでいたのだが、これは見ての通りで、食卓に酒の隣に置いてみると何とも楽しい。山形辺では、何か以ての外の名がついていたような気がするが、それは忘れた。最近では、新潟経由でこの辺でも見掛けるようになった。よく見ると花弁の一つ一つが、開き切らない筒状のままで、多分そのため食感が独特なのであろう。花の色は正確には、酸水で茹で上げ、冷水で冷やした段階で、絵のような鮮やかなピンクになるが、咲いている時はもう少し紫がかったり、白っぽかったりする。花が如雨露状にやや俯いてしまうあたりが、観賞用には向かないのかもしれない。

 菊膾とくれば、これは日本酒以外はないわけで、飲み慣れた焼酎は置き、早速地元の蔵のものを用意した。偶然なのか、これが滅法よく合う。そしてもう一つ、菊膾とくれば、これはもうこの人しかないわけで、「東京をふるさととして菊膾」(鈴木真砂女)、俳句もまた肴になる。小体な店の片隅で、年季のいった女将に手早く誂えて貰った気分でちびちびやりながら、歳時記をめくっていると、こんな句に出合った。「君が代を拒んで一人菊膾」(蓮見徳郎) 作者については何も知らない。この君が代は歌だと思うのだが、真砂女の句がそうであるように、これもまた我が生涯をつらつら思い返しての感慨なのであろう。言外に語られない個の事情、痛切な思い、若しくはその継承があるのであり、それ以上の真実はない。個の事情を寄せ集め、織りなしたものが歴史であり、それ以上の真実はない。何かというとすぐに国だの民族だのを持ち出すのはどこか嘘っぽい。

水彩漫筆(12) 筆柿と団栗

2012-11-04 | 水彩漫筆

 筆柿に団栗を添えてみた。団栗は、隣の耕作放棄地に勝手に自生した櫟が、道に大量に散らせているのを拾ってきた。この辺だと、耕作放棄地にまず根を下ろすのはウルシ、ヌルデ、アカシアといったあたりで、厄介な嫌われものなのだが、くせのない無害な櫟は珍しい。耕作放棄地が全て櫟林の里山に戻るのなら、それはそれで結構なのだが、実際はなぜか嫌われものばかりがはびこり、真面目な耕作地を侵略する機を窺っている。

 柿に二種類、尖った柿と平べったい四角の柿、どちらかというと先の尖った、この筆柿のような柿の方が柿らしい。であるのだが、この辺では箱柿と称し、少数派であった四角い柿が今や全盛で、どんどん大形化し、糖度を増し、種無しも増え、店頭で客に媚びている。絵に添えた団栗と比べれば分かるように、筆柿がそれほど小粒というわけではない。富有柿のような柿が大き過ぎるのであり、筆柿よりは重さにして三倍、かつての林檎と同じほどのものが、一個いくらで売られていたりする。筆柿はといえば、十許りも入って一袋三百円ほど、大きさを除いては色形味全て優、どちらを買い得というべきか。

 筆柿は三河の一地方の特産で、隣国の信州にも流通しているだけで、両国以外ではあまり見掛けないかもしれない。蔕に接している実の部分に蔕に似たくびれがあり、この形がそれぞれなところがよい。くびれのはっきりしたものだけを選んで描いてみた。彼の地では通称ちんぽ柿、そういえば筆下ろしなどという下世話な言葉もある。絵の方は、まだ皮の剥けない餓鬼共が、仲間の一人を見張りに立て、よからぬ悪戯を企んでいるかの図に見える。年端の行かない団栗の洟垂れは、どうやらまだその仲間には入れてもらえないということなのだろう。

 「一景一句」でも、この「水彩漫筆」でも、柿については度々触れている。芭蕉に「里古りて柿の木持たぬ家もなし」がある。柿というと、まずこの句をいつも思い浮かべている。二番煎じの気味はあるのだが、柿の懐かしさは、芭蕉の頃と何ら変わるところがない。この里は、実は芭蕉の故郷、伊賀上野を指し、句自体は五十一歳の死の直前のものなのだが、そんな芭蕉個人の事情などはどうでもよいほどに、芭蕉はこの句を詠み切っている。人が変わろうが、時代が変わろうが、国が変わろうが、里があり、そこに人が住む家がある限りは、見渡せば、そこかしこ柿の木は必ずある。その景色が変わることはない。柿の実が赤く熟す季節がやってくる度に、その平凡な事実を見届け、誰もが安堵している(していたのにとも読んで欲しい)。

 時に我が家の柿はこの秋、あまりというか、ほとんど実をつけていない。周りを見ればどこも鈴生りで、不作の年に当たるわけではない。考えられる理由は一つだけで、年古りた柿の木の隣に、新たに苗木を一本植えたのがよくなかった。どこもそうなのだが、柿の木は、畑の隅、隣との境界ぎりぎりに植えられるのが常で、畑を少しでも広く使おうとすると当然そうなる。結果、隣への遠慮もあり、下枝はどんどん切られ、柿の木は上へ上へと背高に仕立てられることとなる。よほど長い竿がないと収穫できない。柿の木は脆いので木に登るのは怖い。結果、そうそうに収穫は諦め、後は椋鳥の出番となる。

 土地を持て余している今の時代、これは考えを改めるに如くはない。柿の木こそは畑の真ん中に、枝は地に垂れるほどに、それこそ尖った筆柿のようにではなく、平たく四角な富有柿のように、木を仕立てるべきであろうと、実際に富有柿の苗を植えたのだが、これがよくなかった。柿に限らないのだが、植物にも心がある。古りて、樹齢百年近い我が家の渋柿は、用済みと誤解し、どうやらすっかり臍を曲げてしまったというのが、事の真相らしい。

水彩漫筆(11) アケビ

2012-10-27 | 水彩漫筆

 奇妙な生き物が顔突き合わせて、ひそひそと何事か話しているような風情だが、これはアケビ、通草と書いたりもする。近所の道の駅で五つ入って一袋二百五十円。珍しさに惹かれて買って帰り、しげしげと眺めてみると何とも不思議な色合いで、熟れて背中が割れた形も面白い。握ってみると掌にすっぽりと心地よく収まる。この色、形、風情は日本画向きだなと思いつつ水彩で描いてみた。

 買って帰ったのは、一緒に入っていた萎びた葉っぱから、どうやら三つ葉アケビらしいのだが、物足りないので、庭から普通の五つ葉のアケビの蔓を切り取って添えてみた。こっちの方は畑の隅に勝手に生えていたのを、庭に移植し枯れ木に絡ましておいたのだが、当分実を付けそうにない。アケビは里でもよく見かけるのだが、なかなか実を付けるまでには至らない。山の中で稀に見つけたりすると無上に何故か懐かしいというか嬉しくなる。熟れた果肉は口にしてもどうということもない代物なのだが、この感じは多分遺伝子レベルの何かなのだろう。このあたりは俳句向きで、結構詠まれている。ついでなので少しだけ上げてみる。

悪路王手下が喰ひしあけびかな 百合山羽公
杣が子はあけび待つらむ父待つらむ 石田清斗

 こんな風にも詠める。

つと径をそれて提げ来しあけびかな 鈴木キヌ子
好きなこに通草の秘密教えます 松田ひろむ

 ここまで詠めればもう言うことがない。

どこにても死ねる山中あけびの実 手塚美佐

 どうということもない代物などとうっかり書いてしまったが、昨今の果物や菓子に慣れ、味覚が麻痺してしまった舌では、もはやアケビの甘さは遠い懐かしい記憶でしかないのかもしれない。悪路王は田村麻呂伝説の蝦夷の族長、随分と古い記憶で、アケビは縄文以来の秋の実りの象徴であるのかもしれない。これはやはり日本画の画材であろう。

 時にまたまた健さんなのだが、健さんがアケビを描いたか、描かなかったか、見たことはないが多分描いたと思う。こんな格好の画材を健さんたるものが見逃すわけがない。健さんの水彩は、日本画に回帰するというか、その伝統を取り込むことで、質量共にその芸域を拡げていったことは間違いない。ただ、その量が問題で、直近の回顧展の作品の実に半分が初出で、今後まだまだ出てくるかもしれないし、今だに代表作が定まらない。健さんクラスの画家でこんなことはあまり聞いたことがない。


水彩漫筆(10) 栗と麦藁帽子

2012-10-24 | 水彩漫筆

 毬付きのまま貰ってきた大粒の栗を、夏の間ずっとお世話になった麦藁帽子の上に転がして描いてみた。栗の実は、ピカピカに瑞々しく、充実し切った勢いで毬を内側から弾き割り、外気に触れたばかりといった風情で、桃から生まれた桃太郎ならぬ栗太郎のよう。艶やかなことこの上ない。毬の色も黄緑、内側も柔らかい布団のようで真っ白。棘までも優しい。格好の画材とばかり早速取りかかったのだが、棘のある毬の扱いに四苦八苦している中、あっという間に、見ての通りの栗色になってしまった。栗が栗色で何が悪いというような言い方もあるにしても、描きたかったのは、こんなに刺々しい堅い印象ではない。

 移ろい行く瞬間の印象を捉えてなどとは言うのは簡単だが、やってみるとそうそう簡単にはいかない。描くためのには先ず以て視る。より確かに描くためには、じっくりと視る、凝視するという非日常的な営為が必要で、これはそのままものの本質に迫ることに他ならず、表面の印象は実はどうでもよい。そうなのだが、絵心を刺激する面白さは、そのどうでもよいはずの瞬間の印象の中にしかない。

 回りくどい言い方をした上に、天才を引き合いに出すこともないのだが、セザンヌがあまり花を描かなかったのは、花の方が、その凝視に耐えられなかったからに違いない。静物とはいっても花の場合は、リンゴやタマネギのようにいつまでもじっとしてはいない。移ろい易く常に表情を変え、散ってしまえばもう花ではない。花は遅筆には向かない。

 個人的な趣味には違いないのだが、バラを描く気にはなれない。人工の造花でも間に合いそうなまでに、園芸の手が加えられ、花持ちもいい代わりに、本来の花らしい面白味がない。そうなのだが、それ故にというべきか、これほど画家好みの花もない。実際によく描かれている。油彩で花といればバラで、洋画家に裸婦がつきものと同じ位に月並みなのだが、画家の凝視に耐えられる点で、これ以上のものが他にないということなのであろう。

 時にまた健さんなのだが、実は健さんは花が大好きで、シャクナゲやツツジの類を飽くことなく生涯描き続けている。水絵と呼ばれ、一時多くを引きつけた水彩が、プロを目指す絵描きともなれば次々に油彩に転向していく中で、最後まで水彩画家であり続けた例は稀で、その稀な一人が健さんなのだが、花を好んで描くことと、これは何か関連がありそうな気がする。

水彩漫筆(09) 洋梨と水差し

2012-09-17 | 水彩漫筆

 タマネギもリンゴも静物画の常連なのだが、洋梨もよく登場する。同じ梨でも、今が盛りの豊水や幸水は、味は最高なのだが、色も形も捉え所がない。日持ちがしないので、いつまでも眺めているわけにもいかない。保存のきく洋梨は、秋も終わり頃にならないと出てこないのだが、なぜか思いがけなく手に入った。小振りで一山二百円、数えてみれば十以上もある。早速前回のタマネギとリンゴに加えて一緒に転がし、シベリアの片田舎から持ち帰った水差しを脇に置いてみた。後ろは籐の間仕切りで、これで何とか静物画の雰囲気だけは出来上がったのだが、ここからが俄絵描きの本領発揮、例によって四苦八苦、七転八倒、矯めつ眇めつ、筆を取ったり置いたり、いつまで経っても一向に埒が明かない。

……私が下の部屋で描いている間、翁は二階の画室を縦横に、恰も考えあぐんだ人のように歩き廻った。そうかと思うと度々庭に出て坐ったり、急にまた二階に駆け上ったりした。時には酷く沮喪した風で、園内をうろついているのを見かけて驚いた事もある。……

 この翁は晩年のセザンヌなのだが、妙に親しみを覚えてしまう。始めるのは簡単だが仕上げるのは容易でない。セザンヌの場合は、遅筆もいいところ、中途でそのままに放置したり、破り捨てたりした作品も少なくなかったらしい。セザンヌの余白、塗り残しは有名で、後世様々に勝手な解釈がなされているのだが、常に思い描いたイメージの方が先行してしまう、描くということの厄介さ加減こそを先ず以て考えてみる必要がある。セザンヌに限っては、生涯その作品を売りたいとも、売れる物とも思っていなかったことは確かで、それ故の遅筆ともいえる。描くことがすべてで、その先のことなど一切念頭にない。この点だけは素人の俄絵描きも天才に劣るところがない。

 五月に国立新美術館でセザンヌ展があり、会場の一角に、晩年のアトリエが再現されており、とっくにお馴染みの机やら陶器やら瓶やらが、そのままに並べられており面白かった。これらはどう見ても何の見栄えもしない、ただのがらくたでしかないのだが、作品の中では、時に荘厳なまでに異彩を放っている。見慣れた風景にしても同じ事なのだろう。画家が描くことて、画家の目と通じて初めてあるべき、より確かな姿が、そこに立ち現れてくるのであり、視ようとしない限りは、何もないに等しい。

 セザンヌの作品には、実のところ何がよいのかよく分からないものもあったりするのだが、風景画の空と水辺、静物画の地と背景ばかりは比類がない。がらくたばかりの殺風景なアトリエから、こんな美しいものが生まれたことは奇跡としか言い様がない。

 時に健さんなのだが、遅筆寡作とはおおよそ縁がない。偽物贋作も含めて、その作品の数たるや半端ではない。地域限定で伝説化される程の画家ともなると、やることなすこと破天荒で、一筋縄ではいかない。絵が商品として市場に投じられるようになるのも、簡便なチューブ入り絵の具の発明と軌を一にしており、そんな時代の中で、画家の身の処し方も随分変わっていったわけで、これはこれで興味深い。

水彩漫筆(08) タマネギとリンゴ

2012-09-07 | 水彩漫筆

 パソコンの壁紙にルノワールのタマネギを入れたのがよくなかった。日夜眺めて感心しているうちはよかったのだが、いつの間にやら絵筆を取る気力が萎えてしまった。「今に、リンゴ一つで、パリ中をあっと言わせてみせる」とは、よく知られたセザンヌの言葉なのだが、ルノワールのタマネギだって初めて見れば誰だって「あっ」で、ついでにマネのアスパラガスも、我らが北斎のスイカもその中に加えてよい。言うべき言葉のない驚きが「あっ」で、この場合、その中身を強いて詮索すれば結構厄介なことになりそうなのだが、この「あっ」は、暇つぶし、遊び半分の絵心なんぞは、瞬時に木っ端微塵に吹き飛ばしてしまう、それほどの力を秘めている。

 店先に、小ぶりだが色づきのよいリンゴが並び始め、採れたての瑞々しさにひかれ、つい買ってしまったのだが、一向に収まる気配のない残暑の最中、この真っ赤なリンゴはどうしたことかと、産地が気になり、確かめてみると、やはり外国産、ニュージーランドから来ている。地元産のリンゴがここまで色づくにはまだしばらくはかかりそう。勝手な憶測ながら、多分味の方はイマイチであろう、ならば描くに如くはない。ついでに我が家産の乾燥中のタマネギも脇に転がし、雲の上の天才のタマネギはそれはそれ、萎えた絵心を叱咤鼓舞し、無理矢理格好だけはつけてみた。描き上げてしまえばそれはそれ、下手の横好き、我ながらなかなかと、いつもながらの自己満足、描かないことには何も始まらない、その点天才も巨匠も素人もない。

 なけなしの絵心が萎え、描く気にもならず、その間どうしていたかといえば、画集の類を通じて、改めて複製とはいえ、随分といろいろな作品に触れてみた。何回読んでも要領を得ない解説、美術史の類も、この際とばかり、あれこれ読み囓ってみたりもした。大がかりなセザンヌ展にわざわざ足を運んだりもした。

 年中台所の隅に転がっているタマネギなどが多分一番分かり易い例で、身近な、どこにでもある見慣れたものたち、あるいは家の周辺のありふれた風景が、構図と色彩の工夫一つで立派に絵に仕立てられるという発見と独創こそが、この「あっ」という驚きの中身に違いない。簡便なチューブ入り絵の具という画期的な工業上の発明があり、誰彼問わず余暇遊び心がまんべんなく世の中に定着する、そんな時代の流れの中で、起こるべくして、この「あっ」という驚きの輪がどこまでも、果ては遠い東の国にまで広がっていったとみて間違いない。仕掛けたのが誰なのかは、実のところどうでもよいという言い方もあってよい。

 時に、件の健さん(水彩漫筆07)なのだが、彼もまた、この「あっ」の洗礼を、それも早い時期に受けた一人で、セザンヌの亡くなる数年前、そろそろ注目され始めていた、その作品にも、ことによるとパリで直に触れていたかもしれない。健さんが勇躍洋行したのは明治三十三年、西暦では千九百年の節目にあたる。晩年水彩の佳品を多く残したセザンヌと、生涯水彩画家で通した健さんに通じたものが当然あるとして、それは果たして、どのような形を取ったものか、健さんとはまだまだ長い付き合いになりそうな気がする。

水彩漫筆(07) 新雪浅間山

2011-12-25 | 水彩漫筆

 透明水彩の場合、白は塗らない。紙の地肌をそのまま活かす。そうであるなら、新雪の無垢を強調するには、いっそのこと単色の濃淡だけの方が良いかもしれない、ということで水墨画風に描いてみた。奥の真っ白なドームが浅間、手前左手の山頂だけ白いのが黒斑、この標高差は百数十㍍ほど。中間のギザギザは、名前の通りの牙山で、尾根続きの右手の一番高い剣ヶ峰でも、浅間よりは数百㍍低い。雪の多寡がそのまま峰の高さを表している。

 「(05) 稲架と柿」にもあるが、我が家からは遠くこのような牙付きの浅間が望める。牙を欠いては浅間ではない。東の軽井沢方面に行くと牙は見えないし、小諸の市街だと肝心の浅間本体が牙の背後に隠れてしまう。これは小諸市郊外の飯縄山の城跡から見たもの。ここからだと目一杯に広がる裾野に段をなす耕地と三つの峰との位置関係がなかなかにいい。今年は十二月も半ば過ぎにようやく、すっぽりと新雪に覆い尽くされ、この日一日だけは見慣れた溶岩流の跡も消え、雲一つ無い晴天に、噴煙も絶えて、山頂は真っ白に輝いていた。

 牙があるから浅間で、そして時に牙を剥くから浅間で、幼時の記憶にある浅間は、しょっちゅう真っ黒な噴煙を、盛大に天高く噴き上げていた。我が里も含めて、この辺りの住人の、素朴を通り越した粗野な荒っぽさは、腹中に大量のマグマを溜め込んだ、この牙付き浅間の佇まいと無縁なはずがない。「山国の蝶を荒しと思わずや」虚子が小諸に疎開して物した句なのだが、手弱かな蝶にかこつけて、この土地柄を当てつけたとしか読めない。同じ信州の出ながら、新婚時代の六年を小諸に暮らした藤村もまた、この荒っぽさには閉口していたみたいで、自伝的な短編(『岩石の間』)の中で、愛娘が日ごとに遊び友達の信じがたい言動に染まっていく様をあきれ顔で描いている。

 この辺りでは誰一人知らぬ者のいない高名な画家、地元で憚りもあるので、仮に健さんと呼んでおきたいのだが、健さんなどは、この牙付き浅間気質を象徴しているといえば分かり易い。癇癪持ちで、熱し易く冷め易い。この糞野郎が口癖で、思うようにならないとすぐに怒鳴る。誰彼の区別などない。聞いたこともない罵声をいきなり浴びせられた方はさぞかし驚いたに違いない。いたたまれず離れていった者も距離を置いた者も多かったはずなのだが、それに無頓着なのもまた健さんで、この地に生まれた者の業としかいいようがない。

 前回「(06) 渋柿と富有柿」で、エッセーの一部をお借りしたお孫さんの証言だと、田舎には不釣り合いな、ハイカラなものが大好きな健さんは九官鳥を飼ったこともあるという。おはよとか、おたけさんとかしかいわない九官鳥に、例によって例の罵声を浴びせ続けていたらしいのだが、ついに九官鳥が健さんに向かって、この糞野郎と怒鳴り返したということは、残念ながらなかったらしい。都会育ちの気の優しい九官鳥であったのだ。

 晴天に噴煙一筋ない、拍子抜けするような平和な牙付き浅間を眺めながら、健さんに倣って思い切り、この糞野郎とやってみたら、少しはすっきりするかなと、そんな諸々の多い一年ではあったなと、ふと思う年の暮れではある。 

水彩漫筆(06) 渋柿と富有柿

2011-12-15 | 水彩漫筆

 店で買った富有柿と我が家の渋柿を、縁側の日当たりに転がして描いてみた。富有柿は、姿形もなるほど名前の如くに見事で、大きさは我が家の柿とは親子ほども違い、三倍ほどもある。この渋柿はどうするかというと、このまま放っておけば勝手に渋が抜け、薄皮一枚残してとろとろに熟し切り、暮れにはこれ以上ない甘さの食べ頃になる。炬燵に入って、歯に浸みるような冷たい柿を、食べるのではなく啜る、これが柿の味で、固い柿にも、その甘さにも、まだどこか違和感がある。それにしても幼時親しんだ柿がこんなにも小粒であったとは。富有柿といった金を出して手にする柿が異様に大き過ぎるということなのであろう。

 峠を越えると知らぬ者のいない高名な画家がおり、作品についての好みとか評価は別に、山国育ちらしい何とも強烈な、今ではどこか懐かしい、文学的とでも言うしかない、その人となりに惹かれて、最近はその周辺にも目を向けているのだが、そのお孫さんがこんなことを書いている。

 ……あの頃の柿の木は幸せだった。てっぺんに二、三個鳥の分を残して、あとは丁寧に実を採られていたのだから。……炬燵にあたり乍ら、鬼笊一ぱいの柿の皮を剥く。小学校へあがる前に、私はこの柿の皮剥きをやらされて刃物の扱いをおぼえた。先ず、小刀の尖ったところを柿のへたにあてて、回し乍らえぐるようにしてへたを落とす。そして、へたのあたりからくるくるとむきはじめる。へたの曲った柿、青い柿はごまが少く、手がぎしぎしとして渋で黒ずむ。これを二階の屋根に敷いたむしろの上に並べ干す。柿が小さいから、よその干し柿のように甘いたっぷりとしたものにはならず、種も多いのであまりおいしくはないけれど、お正月の御馳走のひとつである。こんな柿の木は家のまわりから消えてしまった。缶入りコーヒーの自動販売機はどんな村の中でも一晩中あかりをつけて唸っているけれど、藁屋根の家がこわされて新建材のしゃれた家にかわったとき、柿の木は消えてしまった。たまたま残っている木があっても、その木のとりまく家は住み捨てられている。いっぱいに実をつけた柿は、鴉や、尾長のつつくにまかせ、そのうち何度か霜が来ると黒ずみそして乾びてゆく。最後にへただけが枯れた枝にみにくく残る。毎年毎年このくりかえしである。庭に柿の木を植えたいと思う。美しい実を見て楽しみたいから。え、あの実食べられるってほんとう?と本気で言う人がそのうち出て来るような気がしてならない。

 そうなのだ、ついこの間まで甘柿であれ、渋柿であれ、我が家の柿が「お正月の御馳走のひとつ」であったのだ。前回の「(05)稲架と柿」との関連もあり、ついつい長く引かせていただいたが、お孫さんとはいっても昭和も初めのお生まれ、柿にとって人に食われるのが幸せか、鳥に食われた方が幸せか、それはともあれ、柿にまつわる思い出とその深さは、年代、人により様々ではあっても、肝心なところは皆同じで、何も違ってはいない。

水彩漫筆(05) 稲架と柿

2011-11-20 | 水彩漫筆

 変わらぬ光景というものが、どれほどに貴重か、あえていうまでもない。柿の実が熟し、稲架(はざと呼んでいる)が立ち、山は色づき、遠くに浅間山がこんな風に見える。もうすぐ初冠雪、見慣れた溶岩流の跡が山頂からくっきりと白い筋を引く。よくよく見れば、いつの間にやら、巨大な鉄塔と高圧線が野を越え山を越え村を越え、目の前を横切っているし、見慣れぬ人家、工場も増え、高速道まで走っているのだが、少し目を細めて描けば、そんなものは都合良くみんな消えてしまう。写真だとこうはいかない。

 稲架は随分少なくなった。稲刈りの後は、天日干しを省いて、さっさと大型の機械で、刈り取りから脱穀、袋詰めまで同時に済ませてしまう。それでも休日に三世代総出で稲架掛けをしたり、稲扱きに精を出している農家が結構それなりに残っている。早々簡単にはみんな同じ方向に走ってしまわないところがよい。学校帰りに隠れん坊遊びをするにはもってこいなのだが、一部まだ健在で頼もしい。「稲架の陰鬼の後行くかくれんぼ」(甲斐里枝)「稲架襖恋の襖となることも」(齋田鳳子)

 柿はといえば、いよいよもって健在。今の時期、店に一斉に出回る大粒の柿よりは、一回りも二回りも小さい渋柿を、わざわざ高い木の上から収穫しようとは誰も思っていない。時々椋鳥の大群がやってきて、嬉々として啄んでいるが、やはり渋いのは後回しで、大騒ぎの割には、鈴生りの柿はそれほどには減っていない。青空をバックに日に日に赤く色づき、山の紅葉とはよい対照で、柿の実が、人為を廃してこれほど見事に、里の、秋の光景に取り込まれた時代はかつてない。

 峠のむこう側の話になるが、多摩の外れ、一面の桑畑が宅地に変えられていった、戦後も早い時期に開発された街の一角で、大分以前ある秋偶然気付いた。定年後の余生を楽しんでいるかの近隣の住人の、どの家の庭にもきまって柿が植えられている。実の生る木を身の回りに植えるとなれば、やはり柿なのだ。「里古りて柿の木持たぬ家もなし」 芭蕉の頃から何も変わっていない。柿は有用無用を超えて、郷愁そのものと化している。

水彩漫筆(04) 枯れ木の中を

2011-11-15 | 水彩漫筆

 これも前回(03)と同じ裏山の林道。所々唐松林になっている。黄葉が始まり落葉するにつれ日に日に林の中が明るくなり、散策にはもってこいで爽快なことこの上ない。木漏れ日の中をどこまでも歩いていたい気分になる。だが、さすがに標高千、三時を過ぎると一気に気温が下がる。急いで山を下り、冷え切った身体を風呂で温め手足を伸ばす。

 「葱買て枯れ木の中を帰りけり」 これも蕪村の句。枯れ木の中を急いで帰った所だけが同じで、状況は大分違うのだが、描いている時の気分は蕪村で、そんな感じのものに仕上がっているようにも思える。道は、画面中央、逆光のその奥、西に向かってどこまでも、果てしなくうねうねと続いている。

 木枯らし吹く中、枯れ木の中を通って家路を急ぐ。手には葱というのがいかにも蕪村。鍋に葱を煮て温まりたいのだ。家族が帰りを待っているとしてもしてもよし。一人でもよし。我が家に帰ることに変わりはない。

 蕪村の家遠しの果てしのない旅は、いかなる時も我が家の温もりと表裏をなしている点で、その敬愛する芭蕉の旅とは大分異なる。芭蕉が旅に病んで、その途上で死を迎えた五十一歳の、それと同年の蕪村は、その時まだ旅を終えていないのだが。芭蕉が曾良の口を借りて、行き行きて倒れ伏すともと詠んだようには、蕪村は決して詠まない。釈蕪村、早くから仏弟子の自覚もあったようなのだが、資質の違いもあるであろうし、何よりも画技に通じた余裕がある。ともあれ蕪村の句が愛されるのは、この辺にあるのであろうし、最晩年に至って一人娘の嫁入りに腐心したりしているところは、いかにも蕪村らしい。
 
 蛇足ながら、前回、蕪村と春風馬堤曲に触れた、その同日、偶々手にした時代小説を拾い読みしていると、「あのあたりが毛馬村です。わたしめをどこの馬の骨かと思っていなさるでしょうが、じつはわたくし、毛馬の生まれなんです」「なるほど毛馬の骨ですか」なんていう会話が出てきてびっくりした。時々こんな妙なことが起こる。時代小説というと藤沢周平しか読まないので、会話の相手が田沼意次ということもあり、最近はこんなのもありかという驚きなのだが、蕪村が愛される故とすれば、これもよしとすべきなのであろう。何年か前某全国紙に連載された(辻原登『花はさくら木』)ものだという。

水彩漫筆(03) 家遠し

2011-11-12 | 水彩漫筆

 「春風や堤長うして家遠し」「花に暮て我家遠き野道かな」蕪村の場合、この「家遠し」に込められた想いは、どうやら単純ではない。前の句は、蕪村六十二歳の俳詩、春風馬堤曲の冒頭に置かれている。浪速に奉公に出、偶々藪入りで帰省する娘に成り代わって、その道行の有様と心情を述べたこの作品の出板を知らせた手紙の中で、「実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情」に衝き動かされてのものだと、自らの望郷の想いを託したものであることを率直に告白している。春麗らかな一日の道行には、蕪村の生涯が凝縮されているとも読める。

 同じ手紙の中で、浪速近郊の毛馬村が生まれ故郷であることを事のついでに触れてはいるものの、その出自については、これが唯一の例外であり、後は一切口を閉ざしている。若年にして江戸に下り、関東を放浪し、中年になって京に妻子得るが、蕪村の旅はその後もまだ続く。人並みの安定した生活が得られるのは六十八年の生涯の最後の十年ほどで、家業といったものを持たず、画工として身を立てるとなれば、これがこの時代普通であったのかもしれない。俳諧などは余技でしかない。今時の、会社の都合であちこち回され、晩婚で定年を迎える、ありふれた給与生活者の生涯とそれほどの違いはない。

 明和元年、蕪村四十九歳の山水図を見てみる。六曲一双、平面に置き換えれば横幅七㍍を超える大画面の右下、蕭条とした冬の原野を旅人が行く。道は果てしなく続く。画面中央人家の脇を通って道は山に入り、細くうねうねと、やがて左上の峠を越えていったんは視界から消える。季節は夏に変わって、再び道は右下に現れ、ここでも人家と大河を脇に見て、道はいつか険しい山道に入り、それがどこまでも続いている。蕪村が、この山水図で何を描いているかといえば、これは一繋がりの道であり、それ以外ではない。蕪村は、山水という、それに相応しい大きな景を借りて、どこまでも続く果てしない道、言い換えれば自らの家遠しの想いを描いてみたかったのではなかったか。

 道遠しの、果てしない、遙かな感じは、当たり前の事ながら、実際にそのような道を自分の足で歩いてみないことには知りようがない。やっかいなことに、今のこの時代、肝心の、そんな当たり前すぎる道が実は存在しない。峠のこちら側でも、かつて縦横に通じていた野道は舗装路に取って代わられるか、休耕の荒れ地の中に埋もれてしまい、移動には専ら車が使われ、散策向きの道などどこにもない。道は車のためのもので、人が歩くものではない。

 かろうじて見つけたのが上に描いた裏山の林道で、標高千、一般道からの車の進入は普段鎖されているので、今の時期、落ち葉をがさごそと踏んで、どこまでも人気の途絶えた道を一人行くと、いつしか蕪村の山水図に紛れ込んだ気分を、ここでだけ唯一、一時味わうことができる。道は上下し、左右に曲がり、先が見通せるような平坦な直線はどこにもない。そんな道を描いてみたかった。

水彩漫筆(02) 絶頂の城

2011-11-05 | 水彩漫筆

 「絶頂の城たのもしき若葉かな」若葉を添えたところがいかにも蕪村で、蕪村の句の中では、よく知られているものの一つなのだが、旅の途次、ふと山頂の城跡に気付いて、振り仰いで詠んだもののように勝手に思いこんでいた。そうではないのかもしれない。案外、蕪村は戦国の世に、一城の主になったつもりで 、山の上から四囲を見渡していたのかもしれない。

 夢に出てくるほどの、幼時からすり込まれている山のイメージは何かというと、実はこの断崖絶壁であり、遙か離れて見事な稜線を描いている、いかにも山らしい浅間山の方はそれほどの印象はない。ついでながら、同じ蕪村の「浅間山けぶりの中の若葉かな」は感心しない。そんな浅間山は世に存在しない。

 かつての信越線の、小諸駅を出て暫くの間、千曲川に沿って西に下って行くと、例の布引岩を含めて、切り立った断崖がパノラマのように車窓に広がり、紅葉の今の時期なかなかに見応えがある。反対側の車窓には緩やかな斜面がどこまでも上に伸び、鉄道の走っている辺りが、その扇状の先端に当たり、この斜面を少しばかり上れば、この断崖の上が何の変哲もない広大な台地であることは容易に見て取れるのだが、幼時そんなことは思いもよらなかった。山といえば、かくのごとき断崖に決まっている。

 断崖の頂点との標高差は、川面からだと二百メートル程もあり、振り仰いだ時の圧倒的な威圧感は、子供の目には正しく壁そのもので、その向こうに何があるかは想像の外でしかなかった。このただならぬ断崖絶壁が外山城という、れっきとした山城であり、甲信越の戦国武将が鎬を削った夢の名残であることを知ったのは、実のところ大分後のことで、壁の向こうには、歴史という意外な世界が広漠として広がっていたことになる。

 実際に上の絵の最上部、最近松枯れで少し木が疎らになった辺りに立って四囲を見渡してみれば、これがいかに頼もしい城であるかは一目瞭然、こんな好都合な場所を放っておく手はない。蛇行する川筋にしたがって崖の方も、ここでは前にせり出しているので、川上から川下まで敵の動きは手に取るように見え、攻める側としたら、これでは手も足も出ない。絵に描いたような完璧な山城である。

 句にするなら若葉、絵にするなら紅葉、いずれにしても頼もしき城には違いはない。

水彩漫筆(01) 廃屋とコスモス

2011-11-03 | 水彩漫筆

 絵筆を手にするのは随分と久しぶりなのだが、眼前の景と心象の違いを少しずつ埋めていく作業が何とも楽しい。結局の所、満足の行く程には、それを埋める技も経験も持ち合わせず、程々のところで見切りをつけるしかないのだが、それはそれで、漫筆たる所以で、これでよしとする外ない。余白で成り立っている水墨画の伝統をどこかで引き継いでいる水彩画は、画面を塗り尽くさないで、気楽に入り、気楽に筆を止められるところがよい。これも漫筆たる所以で、最近は水筆などと称する優れ物もあるらしい。柄の部分に水を仕込んであるらしく、これだと、いちいち筆を洗う手間も省けるのだという。準備も片付けも気にせず、気が向いたら描き、いつでも止められる。 

 見ての通りの屋根にまで草生した正真正銘の廃屋で、最近はあまり見かけない。廃屋ならずとも草生した藁屋根もあったりして、家々の新旧の対照が村の景観をなしていた時代はとうに去り、峠のこちら側でも、見かけ上家の造りは総じて立派で、どれも新しい。向こう側で見慣れた、お馴染みの建て売り住宅と、大して変わるところがない。耐用年数が尽きれば、さっさと取り壊して、ローンを組んで建て替えてしまうらしく、家の新旧、大小が住む者の暮らし向きやら格式やら何やらを映し出し、そのまだら模様が農村、地方らしい景観を醸し出してきた名残はもはやどこにもない。

 千曲川の切り立った崖の上に広がった、水の乏しい台地に散在する人家の一つなのだが、ことによると物置代わりに使われているのかもしれない。この周囲だけが時が止まり、稀な景観をなし、ここ何年か、脇を通る度にしげしげと眺め、健在に安堵してきた。この地方独特の煙出しの吹き抜けが屋根の上にあり、かつては養蚕にも使われていた二階家で、強風でいつ倒れてもおかしくない風情ながら、それはそれ、結構頑丈に造られているのであろう。脇にある野放図に枝を伸ばし、旺盛に繁った松の大木も一役買って、往事を語って飽きることがない。

 例によって先日偶々通りかかると、隣の耕作放棄の荒れ地にコスモスが咲き乱れ、中には薄も混じり、それ越しに件の廃屋と絶妙のアングルをなしている。放ってもおかれず、かくなる一枚となる。実際のコスモスは盛りを過ぎ、ちらほらという感じなのだが、これも漫筆たる所以で、時間を少し戻して描いてみた。