しみじみと日を吸ふ柿の静かな 前田普羅
紅葉した柿の葉は美しい。赤と黄に、緑が複雑に交じり、手に取ってみると一枚ずつそれぞれに異なり、楓や銀杏のような単調でないところが面白い。その紅葉も霜が降りると、一気に散って裸木に赤い実が輝き、また暫くの間楽しませてくれる。「裸木に満ちて赤々柿灯る」(瀧春一)
「里古りて柿の木持たぬ家もなし」(芭蕉) 晩秋の里に、柿の実ほど似合うものはない。柿はよく育ち種類も多い。渋と称する自生した原木に、好みの柿の小枝を貰って接ぎ木する。年を経ると思わぬ大木になり、収穫に難儀する。「柿耀りて牛にしづかな刻うつる」(桂信子)「存念のいろ定まれる山の柿」(飯田龍太)
木から採ってそのまま食べる甘柿と、収穫後熟してから食べる渋柿と、どちらを好むかは人それぞれ。渋柿は熟柿となればこの上なく甘い、甘柿の比ではない。「渋柿の如きものにては候へど」(松根東洋城) には、俳句らしい惚けたおかしみがあるのだが、どの歳時記に必ず採られている「渋柿の滅法生りし愚さよ」(松本たかし) はどうであろうか。まさか熟柿を知らないわけもなく、よく分からない句である。
「炉火よりも赤き熟柿をすすりけり」(橋本鶏二) 熟柿は食べるのではなく啜る。潰れないよう、そっと掌にのせて、口を近づけて、冷えた果肉を啜り込む。冬籠り最高の贅沢で、炬燵や炉端であれば申し分ない。「柿食へば命剰さず生きよの語」(石田波郷) 「柿食ふやすでに至福の余生かな」(結城昌治) どちらも、ナイフで皮を剥いて食べる甘柿よりは、熟柿を啜っている光景とした方がしっくりする。
上にあげたのは、土手に植えられた、大ぶりな、見るからに美味そうな柿なのだが、数本の中の、残された枝振りの見事な大きな一本が問題で、足場も悪いし、手の届くところまでは採ったものの、さてどうしたものかといった風情で、ことによると、このまま子守柿にされてしまうのかもしれない。子守柿は一つだけ残せばよいのだが、最近は一本まるごとというのをよく見かける。事情は察せられるにしても、もったいない話ではある。
一木に千の夕日や柿の秋 井上匡