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峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

峠越えれば(36) 老朽哀むべし

2016-04-12 | 峠越えれば
 戦災で焼け出された荷風の市川市での最初と次の寄寓先は、京成線の菅野駅にごく近く、次の引っ越し先は隣の八幡駅に近い。荷風の日記には、この八幡駅から五つ目の船橋市域の駅名海神が頻出する。途中駅に競馬場と法華経寺のある中山があるが、健脚の荷風を以てすれば、電車に乗らなくても歩いて行けないこともない。競馬帰りの混雑を嫌って、わざと手前の駅で下りたりもして、時に毎日のように海神に通っている。

 海神には知人の相磯凌霜の家があり、荷風は天敵のラジオを逃れて、ここを格好の避難場所として執筆その他の便宜を得ていたということらしい。相磯は鉄工所の経営者で余裕のある生活をしており、これはその妾宅ということのようなのだが、日記にはこの家を凌霜盧とするのみで、主人以外の家人については遠慮があってか何も述べられていない。

 敗戦の翌年一月に市川に越した荷風の、更にその一年後の昭和二十二年の日記から少し長くなるが書き写してみる。この年荷風散人六十九歳。

四月十二日。晴。藍碧の空澄渡りて鏡の如し。午後海神に至る。中山の競馬ある日なれば電車の雑沓をおそれ帰途葛飾の駅より県道を歩む。
四月十三日 日曜日 連日天気好晴。百花正に爛漫たり。午後海神に行く。
四月十四日。晴。午後海神。
四月十五日。晴。近巷の梨畠にその花まさに盛なり。菅野に移り住みて梨花見るも二度目となれり。……京成電車の各駅に四月廿一日同盟罷業の掲示あり。
四月十六日。晴。……真間川の桜花を看る。花季早くも過ぎ落花紛々として雪の如し。……選挙運動員路傍にマイクロフォンを立てゝ怒号するを見る。喧騒厭ふべし。
四月十七日。晴。暑気夏の如し。……午後海神。
四月十八日。晴。風あり。午後海神。
四月十九日。晴。四月になりてより今日まで殆雨なし。道乾きて塵埃濛々たり。午後海神に行く。京成電車同盟罷業中止の掲示停車場に出づ。米露開戦の風聞あり。米の配給依然途絶し里芋となる。……
四月二十日 日曜日 晴。……午後海神。凌霜子来る。帰途雨。
四月廿一日。雨。……午後海神。
四月廿二日。晴又陰。西北の風寒し。午後海神。
四月廿三日。晴。……海神に行く。
四月廿四日。晴。風冷。今日は海神に行かず。終日家に在り。
四月廿五日。午後鬼越の田間を歩みて海神に行く。到るところ新緑目を奪う。
四月廿六日。晴。午後須和田の村道を歩み国分村の丘陵に登る。林間に古寺あり。……田疇の眺望頗佳なり。ほ下(※「ほ」は日に甫、夕方)家にかへる。……市川駅前のマーケットに天麩羅饂飩を食す。
四月廿七日。日曜日。晴。……正午凌霜子来話。
四月廿八日。終日雨。午後海神。
四月廿九日。晴。烈風晩に歇む。選挙にて市中喧騒甚し。
四月三十日。陰。午後海神の凌霜盧に至る。書架に隨園詩話あり。取りて読む。……五月初一。晴。風あり。……ほ下(※前出)海神の凌霜盧に至る。主人帰り来り南畆自筆本杏園筆四巻を得たりとて示さる。晩餐を馳走せらる。夜十時辞してかへる。半月おぼろなり。
五月初二。陰。麦の穂少しく黄ばみ馬鈴薯南瓜の芽舒ぶ。藤躑躅牡丹花さく。午後海神に至り杏園閑筆をよむ。帰途細雨。新緑の田園更に青し。
五月初三。雨。米人の作りし日本国憲法今日より実施のよし。笑ふ可し。
五月初四。陰。午後海神にて読書。日暮にかへる。
五月初五。晴。暑。ほ下(※前出)海神。筍飯どぜう鍋を饗せらる。帰途満月昼の如し。
五月初六。晴。海神。
五月初七。雨。家に在り。小手鞠満開。
五月十五日。晴。午後凌霜子来話。
五月十六日。晴。夏服を着る。午後海神凌霜盧に至る。壁上柳湾の書幅をかく。短宵格〃苦催明。憐汝田間応鳴候。但恐農翁残夢裏。聴為租吏打門声。秧鶏。七十八老人柳湾館機。

 相磯は荷風より十四年下で、この年五十代半ば、隠居にはまだ早い。荷風とは対照的な世慣れた生活人で、荷風の葬儀を仕切ったのも相磯ということのようで、九十の生涯を終えたのは昭和末年のことになる。実在の人物ながら、前回触れた掃葉翁同様、これもまた荷風の分身と読んで間違いはない。日記もまた荷風の作品として読むなら、そこに描かれた「凌霜子」なる人物には、荷風なりのあるべき交友の形が当然にも投影されているはずで、掃葉翁亡き後、明治生まれの江戸人の面影を引き継いだのが相磯であっても何も問題はない。

 上に引いた日記の終わり、夏を迎え衣替えを済ませて凌霜盧を訪ねると、壁上に館柳湾の絶句が飾られている。秧鶏は水鶏(クイナ)、季節に合わせた気配りで江戸人の面目そのもの。

短宵格〃苦催明   短宵 格〃 苦(はなは)だ明を催(うなが)す
憐汝田間応鳴候   憐む 汝の 田間に候に応じて鳴くを
但恐農翁残夢裏   但(た)だ恐る 農翁 残夢の裏  
聴為租吏打門声   聴きて 租吏の門を打く声と為すを

 「格〃」は擬音で、同じ仲間のニワトリが低くコウコウと鳴くのに対し、クイナの鳴き声は甲高くコッコッコッとあたかも戸を叩くかにも聞こえる。戦後、除草剤やらの農薬散布が当たり前になる前、ことによると荷風の頃の真間川水域の水田でも珍しくなかったかもしれない。幼時の記憶の断片に、早朝鶏舎を覗くと、真っ黒なヒヨコが一羽、群れの中に紛れ込んでいて目を丸くしたことがある。水鶏の雛が親鳥から逸れて仲間と錯覚したものか、かほどクイナはかつて農家の庭先に接した田圃に珍しくもなかった。

 まだ未明の中から初夏の夜明けを促すかに頻りにクイナの声がしている。丈の伸び始めた稲田の中から季節を告げてくれるのは、それはそれで結構なのだが、寝惚けた百姓親父が、未納年貢の催促にまたまた村役人が来たかと首をすくめたりしていないといいのだがなあと、ごく常識的というか分かり易い詩で、当の柳湾は年貢を取り立てる側の勘定方を職掌としていたわけで、当時まだクイナの声が聞こたりすることもあったかもしれない実景の中に置いてみると、それなりの味わいはあるとしてよい。税と借金の催促は何時の時代でも庶民には厭わしい。荷風と凌霜の立ち位置もその点変わるところはない。

 他にも僅々一ヶ月の日記から、荷風が随園詩話やら杏園閑筆やらを、凌霜の書架から借りて読んでいる様が分かる。上では煩雑になるから省いたが、それぞれから長々と気に止めた箇所を日記に書き写しており、この時期荷風が何に傾倒していたかがよく分かる。随園は清朝の袁枚、杏園は太田南畝、荷風の南畝への傾倒は半端でないことは、同じ日記の一月の項を見ればこれもよく分かる。抄出してみる。

一月廿五日。朝早く雪また少しふりしが忽歇む。午後八幡の牛乳店に少憩して田間を歩む。日脚長くなりてあたり何となく春めき来れり。井戸端の炊事もまた楽になりぬ。裏庭より見渡す諏訪田の水田に白鷺群をなして飛べり。
一月廿六日。日曜日。晴。……午後凌霜子来り日新録と題する無名氏の日誌六冊を貸与せらる。……共に出でゝ海神に至る途上葛飾駅の村道を歩む。一樹の老榎聳え立つ路傍に一片の古碑あり。また古井あり。碑面に葛羅之井の四字を刻す。側面に広告の紙幾枚となく貼られたる下に南畝の文字かすかに見ゆ。大に驚き井の水にてハンカチを潤し貼紙を洗去るに、下総葛飾。郷隷栗原。神祇□杵。地出醴泉。…… 南畝大田賈撰 文化九年壬申春三月 本郷村中世話人惣四郎 とあり。凌霜子携帯のカメラを取って撮影す。細流を渡り坂を上れば田疇の間に一叢の樹林あり。……田間の一路を東北に取り、海神の町に至れば日は早くもほ(※前出、夕方)なり。南風吹きて汗出づ。牛肉の馳走になり、夜十時菅野へかへる。
一月廿七日。乍晴乍陰。近隣の噂に昨日午後二時頃裏隣田中といふ戦争成金の人の屋敷に強盗四人押入りし由。正午小岩散策。闇市の物資今年更に暴騰せり。……牛肉百匁六七十円のところ百円となり居れり。
一月廿八日。晴。寒。終日日新録をよむ。筆者は遠山左衛門尉部下の与力か同心にて中島嘉右衛門といふ人なるべし。漢詩をよみまた和歌のたしなみあり。……又二月閏三日の記中 うは玉の闇の夜なれど一すじの仕への道はふみやたかへじ ちり方の風のまにまに吹きさそひ来て行袖にかをる梅かな 荷風曰く江戸時代も嘉永年間といへば徳川氏の世も末ながら警吏の中にさへ猶かくの如き清廉にして且ツ風雅の趣味ありし人物もありしなり。今日の警吏に比すれば世の中のいかに相違せるかを知るべし。
一月廿九日。晴。寒。……夜コロ柿食ふ際歯又一本折る。老朽いよいよ哀むべし。

 荷風は凌霜と一緒に散歩の途次、偶然南畝の碑文に出会ったのであり、別に記された文章には「傍の溜り水にハンケチを潤し、石の面に選挙候補者の広告や何かの幾枚となく貼つてあるのを洗い落して見ると」(『葛飾土産』)と、乱暴に貼り散らされた広告が折からの選挙にまつわるものであることもまたしっかりと見ている。

 荷風日記もこの先次第に先細りの印象はあるのだが、さすがにこの辺りは、戦中戦後の混乱が避けようもなく荷風の生活を直撃しており、日記の記述も簡潔要を得て精彩を放ち、明治生まれの江戸人の面目躍如としている。

 館柳湾やその同類の岡本花亭が、今の世なら一介のサラリーマンとして生涯目一杯働き、猶且つ風雅に遊ぶ余裕をこれも生涯持ち続けたことは既に触れた。太田南畝また然りで、持って生まれた下級武士の境涯を、七十四の生涯最後まで全うし、柳湾・花亭と変わるところはない。生前死後の文名は生活と一体の風雅から偶々生じたのであり、文筆は余技でしかない。荷風が凌霜子という分身を必要とするのも、この辺りから考えればごく自然であり、同業はもとより出入りの出版新聞関係者らと距離を置こうとするのも至極尤もという外ない。「今日の警吏に比すれば世の中のいかに相違せるかを知るべし」で、警吏ですらと言いたいのであり、荷風の慨嘆はこれに尽きる。彼等にとっては風雅こそが第一義なのであり、文名が風雅と相容れるわけもなく、通称や雅号はいくつでも自在に使い分ければよいだけのことでしかない。

 上に荷風の日記を敗戦の翌々年の四月から五月のほぼ一ヶ月、日と追って書き出したのは、この国に新たに憲法が施行される、その前後の荷風の立ち位置を確かめたいからなのだが、その日、五月三日の記述は「雨。米人の作りし日本国憲法今日より実施のよし。笑ふ可し」で、何とも素っ気ない。前日の「陰。麦の穂少しく黄ばみ馬鈴薯南瓜の芽舒ぶ。藤躑躅牡丹花さく。……帰途細雨。新緑の田園更に青し」とは好い対照で、知ったことかと言わんばかりなのだが、そのように読ませたいのが荷風で、これは深読みでも何でもない。

 この年、年明けから2.1ゼネストに向けた大きなうねりがあり、四月には前年に続き衆議院選挙が行われ、左派の躍進が目覚ましい。国民大多数は、敗戦と占領統治の亡国を顧みる余裕すら失ったまま、失業とインフレに苦しみ、辛うじて闇市と買い出しで露命をつないでいる。荷風の視野にはその全てが収められ、何も書き漏らしてはいない。問題は、あたかも広角レンズに収められたかのような、季節の移ろい他の自然事象をも含めて、身の回りの諸々を見据える荷風独自の遠近の距離の置き方であろう。この醒めた眼差しは、戦中から戦後一貫しており、そこに断絶はない。荷風の目には、相変わらず庶民は生活に必死で、政治は無知で暗愚でしかない。

 分かり易い例として、この前年春家を焼かれ、ついには敗戦に至る半年ほどの日記からも二三の記述を拾ってみる。

一月廿四日。晴又陰。……小役人らしき四十年輩の男四五人其中の一人帳簿を持ち人家の入口に番号をかきし紙片を貼り行くを見たり。……人家取払ふべき事を示すなり。……東京住民の被害は米国の飛行機よりも寧日本軍人内閣の悪政に基くこと大なりといふべし。……
二月廿五日 日曜日。朝十一時半起出るに三日前の如くこまかき雪ふりゐたり。……心何となく落ちつかねば食後秘蔵せし珈琲をわかし砂糖惜し気なく入れ、パイプにこれも秘蔵の西洋莨をつめ徐に烟を喫す。若しもの場合にも此世に思残すこと無からしめむとてなり。兎角するほどに燐家のラヂオにつゞいて砲声起り硝子戸をゆすりしが、雪ふる中に戸外の穴には入るべくもあらず、……窓外も雲低く空を蔽ひ音もなく雪のふるさま常に見るものとは異り物凄さ限りなし。平和の世に雪を見ればおのづから芭蕉の句など想起し又曽遊のむかしを思返すが常なるに、今日ばかりは世の終り、また身の終りの迫り来れるを感ずるのみ。……
三月初七。陰。正午近く警報あり。……隣組の媼葡萄酒の配給ありしとて一壜を持ち来れり。味ひて見るに葡萄の実をしぼりたるのみ。酸味甚しく殆ど口にしがたし。其製法を知らずして猥に酒を造らむとするものなり。これ敵国の事情を審にせずして戦を開くの愚なるに似たり。笑ふべく憫むべくまた恐るべきなり。
三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、……
三月十日、……嗚呼余着のみ着のまゝ家も蔵書もなき身とはなれるなり、余は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと数れば二十六年の久しきに及べるなり、されどこの二三年老の迫るにつれて日々掃塵掃庭の労苦に堪えやらぬ心地するに至しが、戦争のため下男下女の雇はるゝ者なく、園丁は来らず、過日雪の降りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、寧一思に蔵書を売払ひ身軽になりアパートの一室に死を待つにしかずと思ふ事もあるやうになり居たりしなり、昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや亦知るべからず、……
八月十五日、陰りて風涼し、宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、小魚つけ焼、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、……今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、

 これらの記述を、開戦から終戦に至る同時期の知識人、文学者その他物書き大多数の盲目に等しい右往左往振りと比べてみれば、荷風の立ち位置は突出して際立ち、希有としか言い様がない。問われるべきは、その視座を一貫して支えるものが何であったかであろう。文筆の才と雖も所詮一芸に秀でたにすぎず、時代を見据える教養、胆力はまた別と考える外ない。(つづく)

峠越えれば(35) 老愁ハ葉ノ如ク

2016-03-09 | 峠越えれば
 恒例の冬籠もり、藤村、漱石に続いて、この冬は永井荷風、雪の前に古い岩波版の全集を買い込み、徒然に拾い読みしている中、どうにか一冬を凌ぐことができた。布表紙の美麗本二十数巻、一冊にして値僅か二百円程に過ぎない。売れない旧漢字本、加えてデフレ、有難いことで、田舎のこととて置き場所に困ることもない。厄介なのはこれからで、暫くは荷風まみれで、啓蟄の虫よろしく穴の外、世の中の動きには春霞がかかって、当分焦点が合いそうもない。

 漢詩に興味を持つまでは、荷風がごく偏屈な人物であること以外、さして知る処はなかった。ただ長く市川市に住んでいたことから、文化勲章の大家らしくもない、巷間流布するその人物像に、それなりの親しみを感じたりもしていた。戦争末期、空襲で焼け出された荷風は、着の身着の儘各地を逃げ回り、漸くにして市川に縁者を頼り、残り十数年の生涯三度市内に住居を替えている。今地図の上をなぞってみると、その跡を追うかのように、二度までは同じ町内徒歩数分の所に荷風旧居が印されている。縁といえば縁には違いない。

 胃潰瘍の吐血で、翌日昼遺体を発見されることになる、専ら外食が頼りの荷風が最後の食事を済ませた蕎麦屋も健在で、京成線駅前にあって便利なのでよく利用させてもらった。市の北側京成線と平行に真間川が流れ、両岸に桜が植えられているのだが、都市化で生活排水が悪臭を放ち、川自体が淀んでどっちに流れているのか分からない有様であったのだが、本来が歴とした水田用の農業用水で、国府台で江戸川の水を取り入れ、船橋方面の湾岸に抜ける間に多くの田圃を潤していた様子は、散歩が趣味の荷風本人が見たままに記している。唯一高度経済成長前の荷風の頃の名残は、かつての湾岸の砂州由来の黒松の並木で、市内どこに引っ越しても、行く先々の道端に巨木となって車の通行を邪魔しながらも、当時はまだ伐られず残されていたのだが、今となってはどうなったものやら。焼け出された荷風は、松籟を聞きながら、食を求めて市川駅前の闇市に通い、帰りもまた松籟の中、歩きながらパンを囓ったりしている。片道十数分、道順は手に取るように思い浮かべることが出来る。

 荷風が、今の時代、どのように読まれているかについては全く分からない。一冬全集を拾い読みしただけの印象としては、個々の作品については面白いとも良いとも何とも言い様がない。当の本人が、老婆心に「拙著は宜しく学校を出て女房でも貰つて少し鼻についた時分にでも読み給はゞ正にその時を得たるものとや」(全集第十五)とか書いているのだが、女子供学生の如きが読んでも分かりはしないというのは、当時も今もその通りなのであろう。

 随筆の散文はさすが荷風で、達意の文は味わって読むに足る。昨今の阿るばかりのネット上の書き込みなどに慣れきった目にはどう映ったものか。雅俗それぞれの極みと言ったら分かり易いか。偶々生き永らえて戦後に至ったにしても、考えてみれば、荷風が漱石鴎外と同時代の文学者であることを、忘れてはならない。荷風程に明治の遺風を体現し、震災と戦災を生き抜き、戦後にあって尚文学を刻んだ例など外にあるわけもなく、その目に映ったこの国の戦後がどのようなものであったか、これ以上に貴重なものが外にあるはずもない。

 何はともあれ、日記の一部を引いて、改めてその一端を味わってみたい。荷風が市川に居を定めたのは敗戦翌年の一月十六日。この年荷風六十七歳。

一月廿二日。晴。暖気春の如し。……駅前の市場にて惣菜物蜜柑等を購ひ、京成線路踏切を越え松林鬱々たる小径を歩む。人家少く閑地多し。林間遙に一帯の丘陵を望む。通行の人なければ樹下の草に座し鳥語をきゝつゝ独り蜜柑を食ふ。風静にして日の光暖なれば覚えず瞑想に沈みて時の移るを忘る。……門外の松林深きあたり閑静頗る愛すべく、世を逃れて隠れ住むには適せし地なるが如し。……
二月初二。陰。午後より日輝きて稍あたゝかになりぬ。……雪後の泥路をいとはず露店の賑平日の如し。甘藷は禁止になりしとて売るものなし。菓子ぱん五六片を購ひ京成電車線路に沿へる静なる林下の砂道を歩みながら之を食(くら)ふ。家なき乞食になりしが如き心地して我ながら哀れなり。
二月初三。日曜日。晴。風寒し。午近く米飯の代りに片栗粉の汁粉啜りて飢を凌がむと、それを売る家まで至り見しに、二月中当分休の札を出したり。市川に移り住みてより数日の後、京成電車通にふと此店を見つけ、初は少しく悪臭あるに苦しみしが、寒さしのぐにもよければ、毎日のやうに行きて食ふやうになりしなり。何事も其日其場かぎり、長続きせぬは今の世の中是非なきことなるべし。
三月初二。陰。旧紙幣通用本日限り。銀行郵便局前に群集列をなすこと二三丁に及ぶ。駅前の露店雑貨を売るものばかりにて、飲食店は一軒もなし。肴屋八百屋も跡を絶ちたり。汁粉売るもの唯一軒目にとまりたれば一椀を喫して帰るに、恰も新聞をひろげ汁粉にて死したるものあり。甘味に毒薬を用ひしが為なり。予覚えず戦慄す。惜しからぬ命もいざとなれば惜しくなるものと見ゆ。
三月初四。陰。汁粉の毒にあたりはせぬかと一昨日より心配しゐたりしが、今日に至るも別条なし。身体何ともなく疲労す。
三月初六。毎朝鶯語をきく。幽興限なし。
三月初七。陰。鶯頻に鳴く。近巷の園梅到る処満開なり。農家の庭には古幹に苔厚く生じたる老梅あるを見る。東京には無きものなり。笆籬茆舎林下に散見する光景おのづから俳味あり。
 
 旧漢字を全て書き換えしまったので、その分興を殺いでいるかもしれない。それにしても如何にも荷風で、この日記だけでその名は不朽であるとしなければならない。日記体にしていささかの隙もない。簡潔要を得て、それでいて荷風その人が滲み出て余すところがない。荷風にとって、創作の備忘のようなものであった日記が、いつのまにやら作品と分かりがたい、創作そのものに化してしまったということかもしれない。実際に書き写してみると、読者を意識して書いているとしか思えない。

 前回、館柳湾らの江戸の漢詩の余慶がどこまで及んでいるかに触れて、そこに荷風の名も上げたのだが、改めて『葷斎漫筆』について、荷風の教養が何に基づくかを味わいつつ見てみたい。初出は大正14年(1925年)。この年荷風47歳。漱石没年は1916年48歳であることも参考にしなくてはならない。この場合、ネット上では使えない漢字があって、これが頭痛の種なのだが、ここでも「そくそく」が困る。草冠の敕、漱石の漱のさんずいを草冠に替えた擬音語で、かさこそ音を立てている、その様を言いたいだけなのだが、こと漢詩となると平仮名ではどうにも様にならない。取り敢えず「敕」で間に合わせる。大正昭和の境頃、まだこの国の文学が、このような作品を生むことができたことは記憶されてよい。

……館柳湾は江戸の詩人なり。そが秋尽の絶句に「老愁如葉掃不尽。敕々(そくそく)声中又送秋」の語あり。日々掃へども掃ひつくせぬ落葉を掃ふ中いつしか日は過ぎて秋は行き冬は来る。われは掃葉の情味を愛して止まず。年々秋は尽きて竜胆の花既に萎れ、郁子(むべ)の実の熟して裂けむとする時、隣家の庭には終日落葉を焚く烟の末のいつか暮靄に混ぜむとする夕なり。われも亦箒を把りて独暮れかゝる庭に佇立むや、或時は曾て読みたりし古人の句のおのづと思ひ出さるゝことあり。或時は思ひなやめる腹稿の忽にして成れるが如き心地することもあり。敕々たる落葉の響の詩興を動すこと、半夜枕頭に聞く雨の音にも劣らずといふべし。雪も亦庭につもりたる落葉と同じく心なき奴僕には掃はしむることなかれ。松の枝などの折るゝことを危ぶむ時を除かば、積もりし雪はそのまゝにおのづから消ゆる日を待つべし。鹿の子まだらの残雪にやゝ長くなりたる日影の照添ふ時、名もなき草の芽は梅花に先ンじて早くも春の来れるを告ぐべし。……

 柳湾の「秋尽(秋尽く)」もそのまま引いてみる。

静裏空驚歳月流  静裏 空しく驚く 歳月の流るるに
閑庭独坐思悠々  閑庭に 独坐し 思悠々たり
老愁如葉掃難尽  老愁 葉の如く 掃えども尽き難く
敕々声中又送秋  敕々(そくそく) 声中 又た秋を送る

 柳湾の詩を散文に書き直せば上の荷風のようになるわけで、現代語に訳すまでもないのだが、大意を述べればこんなところか。

 何事もなく日々平穏に過ぎ去って行く、その歳月の流れは驚くばかりで、ひっそりとした我が家の庭に佇み、あれやこれや由無し事に思い巡らしていると、老いの寂しさがひしひしと身に迫ってくる。その様は、掃いても掃いても尽きることのない眼前の落ち葉と変わるところはない。こうしてこの秋も又過ぎ去っていくのだ。

 柳湾ら江戸の詩人たちがそうであったように、荷風は、雪月花の佇まい、季節の気配、幽き風の音等々に当たり前のようにごく素直に反応している。日記には「月色清奇」「月くもる」「松林の間に弦月の沈むを見る」「月よし」「名月皎然」といった記述が頻出しているのだが、月齢で日を数えていた、曾ての時代が荷風の中ではまだ終わってはいない。

 荷風にとって天敵のような存在が実はラジオで、居候先や隣家のそれにスイッチが入るや、時を選ばず逃げだし、例によって街中を彷徨することとなる。巷の喧噪はまるで苦にならない。聴覚異常でも神経過敏でも何でもない。多分機械的に一方的に鳴り響き語りかける、その押しつけがましい不自然さが耐え難かったのであろう。今の時代ならテレビということになる。江戸人が、いきなり現代に放り込まれたら荷風と同様であろう事は間違いない。翻って、如何に私たちが時代に飼い慣らされてしまったことか。時にテレビを消しネットを切り、月を眺め風の音に耳を傾ける当たり前の余裕がもっとあってよい。老いたらば尚更とは言うまでもない。

 荷風の作品では、最もよく読まれているものの一つに違いない『墨東綺譚』(墨にはさんずいが付く)には作後贅言が添えられ、掃葉翁なる人物が登場し、荷風と浮世離れした遣り取りをしている。「いつも白足袋に日光下駄をはいていた。其風采を一見しても直に現代人でない事が知られる」とある通りで、尤もらしい来歴は語られていても荷風の分身であることは言うまでもない。

 荷風が隅田川を越えて玉の井に通い始めたのは昭和十一年、荷風五十七歳で、贅言脱稿の日付は「2.26」のあったこの年の暮になっている。掃葉翁は既に不遇な生涯を終え、ここでは荷風にその思い出を語らせている。四年前の昭和七年が「5.15」、そして満州国建国、この間軍の暴走に歯止めが効かなくなり、盛んにテロが横行する。一方で盛り場は、営業を延長し老若男女が集い何時にも増して夜半まで賑わっている。

 震災前、夜半過ぎて灯を消さないのは蕎麦屋くらいであったはずと、これは荷風。「何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫も、何があろうと眉を顰めるにも及ばないでしょう。精力の発展と云ったのは欲望を追求する熱情と云う意味です。スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬其他博奕の流行、みんな欲望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている、その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。」これは掃葉翁。

 荷風が言う。「何事をなすにも訓練が必要である。彼等はわれわれの如く徒歩して通学した者とはちがって、小学校へ通う時から雑踏する電車に飛乗り、雑踏する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに能く馴らされている。……こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。此努力が彼等の一生で、其外には何物もない。」

 いかにも「此努力が彼等の一生で、其外には何物もない」のであり、老いて尚わが生涯のその余韻に浸るのみで、その外にまだ何物かが存在する、存在すべきだとは思いもよらないのであろう。

 そう言えば「荷風」というその名からして、そこから、晩秋から初冬、風が吹き鳴らす、蓮の枯葉の蕭条とした響きが聞こえてくるような気がするのだが、「贅言」の終わりを抄出するとこうなっている。

 ……わたくしは毎年冬の寝覚に、落葉を掃く同じようなこの響きをきくと、やはり毎年同じように、「老愁ハ葉ノ如ク掃ヘドモ尽キズ敕々タル声中又秋ヲ送ル。」と言った館柳湾の句を心頭に思浮べる。……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感慨もまた変りはないのである。花の散るが如く、葉の落るが如く、わたしには親しかった彼の人々は一人一人相ついで逝ってしまった。わたくしもまた彼の人々と同じように、その後を追うべき時の既に甚しくおそくない事を知っている。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃らいに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう。

 生前葬よろしく、手回しよく分身の掃葉翁を葬り、その墓まで掃った荷風ではあるが、その後、天敵のラジオから流される大音量の軍歌に悩まされ、家を焼かれ、着の身着の儘戦火を逃れ、終には繁華の地を川向こうに見る都外の市川に余生を養うこととなる。下駄履きでどこまでも歩き回る身長六尺の偉丈夫、根が頑健な質なのであろう、明治生まれの江戸人、腰の据わらぬまま、いよいよ熾烈を極める戦後の「欲望を追求する熱情」「欲望の発展する現象」のただ中に尚十数年の生を保つこととなる。(つづく)

峠越えれば(34) 貧も味有り

2015-05-12 | 峠越えれば
  前回、岡本花亭の同類として館柳湾に触れ、そこでの漢詩の印象を一言で言うなら、今時の多くの定年適齢期のサラリーマンにとって「これは俺だ」ではなかろうか、としたのだが、続けてもう少し触れたみたい。

  柳湾の名は、その漢詩集『柳湾漁唱』による。生家は越後の信濃川河口とされる。柳の垂れた入江で、漁師の棹歌を聞いて育った、港町の町家の出であり、両親を早く亡くし、養子に出され、十三で学問を求めて江戸に出る。学問が成ったのであろう。勘定方の大身の幕臣の家臣となる。士分に取り立てられたのであり、養子縁組などを通じて、こうした例は珍しくない。主家が代官となるや、その手付として地方に赴いて、年貢徴収の実務に当たる。岡本花亭と同じ算盤人生ながら、任地が一定せず、時に野外に出て、検見他もこなさなくてはならない所だけが違う。

  年譜を見ると、二人の生涯は驚くほどよく似ている。花亭より五年早く生まれた柳湾は、六年早く83で亡くなっている。没年齢は一つしか違わない。柳湾の結婚は26、花亭も家督相続が28だから、その辺りで結婚しているはずで、二人共その頃から出仕し、一旦52で致仕したもの、再び71から77まで働いた花亭に対し、柳湾が致仕したのも66であり、どちらも目一杯仕えている。先妻と後妻の二人から子を恵まれ、後嗣を得て同居し、老後は孫に囲まれ生涯を終えている点も変わらない。

  前回引用した柳湾の詩に「徙樹幽居賁」、樹を徙(うつ)して幽居を賁(かざ)る、というのがあったが、花亭の詩にもこんなのがある。

自少江城厭閙嘩    少(わか)きより 江城に閙嘩を厭う
老懐今日好春華    老いて懐う 今日の好き春華を
曾為計吏算来熟    曾て計吏為れば 算来 熟せり
下半生身閑看花    下半の生身 閑(しずか)に花を看ん

  老後はせめて静かに庭の花を眺めて暮らしたい。計算通りには行かないのが世の常なのだが、そこは年季の入った計吏の計吏たる所以で、「算来熟せり」帳尻を合わせることは得意で、二人のささやかな夢は実現したとしてよい。

  柳湾には『柳湾漁唱』とは別に、農耕園芸の知識を、良辰佳節にちなむ詩例と共に紹介した、実用の漢詩歳時記風の『林園月令』があり、柳田国男が愛読していたらしい。代官所の実務に長け、山野を跋渉しての柳湾の知識は確かで、柳田は、その影響もあってか、庭に「がまづみやうめもどき、もち、なんてん、むらさきしのぶ、かまづかなどの、小さな実のなる小木を多く栽え」(『定本柳田国男集』23)、小鳥を遊ばせて楽しんでいたらしいのだが、偶然ながら、これらの山に入ればありふれた、実の生る雑木は、我が家の庭にもある。晩秋から初冬、葉を落とすと、これらの色鮮やかな実は、時に霜や雪に映え、例えようもなく美しいのであり、どうでもよいことながら、趣味の一致がどこか嬉しい。「徙樹幽居賁」柳湾がその「幽居」に移し植えたのも、多分この類であったに違いない。

  柳田国男が生まれたのは明治8年、柳湾の「閑庭独座思悠々 老愁如葉掃難尽」というような詩を愛読していた永井荷風が生まれたのは明治12年、「小諸古城辺 雲白遊子悲 緑繁縷不萌 若草藉無由」漢詩みたいな『千曲川旅情の歌』で知られる島崎藤村が生まれたのは明治5年、慶応年間の生まれである鴎外や漱石ほどでなくとも、明治初年生まれの彼らも又、漢詩の余慶を存分に享受していたことは間違いない。ということは、彼らの文学その他が読み継がれている限りは、漢詩も又、形を変えてどこかで生かされているということなのであろう。

  花亭と柳湾のものをもう少し取り上げてみたい。

草木風霜惨    草木 風霜に惨たり
乾坤歳月深    乾坤 歳月深し
半生将白首    半生 将に白首(白髪を頂く歳に)ならんとするも
一寸尚丹心    一寸 尚 丹心(世に役立ちたい純真を失ってはいない)
官豈疎慵耐    官は豈に疎慵(無精)に耐えんや
年徒老病侵    年は徒(た)だ老病に侵さる
厭聞時事話    聞くを厭う時事の話
囂爾説黄金    囂爾(やかましく)として黄金(金儲け)を説くを

  これは花亭、ごくごく分かり易い。歳取って何が耳障りかといって、時事と金、政局と市場の成り行き程、喧々囂々の「囂爾」たるものはない。右にぶれ、左にぶれ、上がったかと思えば下がり、下がるかと思えば上がり、止むところがない。半生の中には、政権交代もバブルもデフレも見てきたのであり、右往左往、一喜一憂、躍らされてばかりもいられない。それなりの知恵はいやでも身に付く。「閙嘩を厭う」のは生まれつきかもしれないが、そうはいっても田舎に住みたいとも思わないし、野心も金儲けも、無縁と言い切るほどには達観しているわけでもない。老い先の不安を思えば、小金に不自由しないに越したことはない。要するに、世の中とは程々の距離を置いて、世に役立ちたい気持ちはまだ失っていないと、そう言いたいのであろう。

  今時の、大方の定年適齢期のサラリーマンの心境と、大して変わるところはないように思えるのだが、難しいのは、この世の中とは程々の距離を置く、その身の処し方であり、花亭や柳湾の漢詩から得るべきはこれに尽きよう。この場合、備前神辺の茶臼山や、豊前稗田村の仏山の麓に住む菅茶山や村上仏山よりは、その「閙嘩を厭」いながらも「江城」の地にあった、この二人の方が参考になりそうな気がする。次も又花亭で、76才の花亭はこの年勘定奉行に就いている。

人情翻覆世滔々    人情は翻覆し 世は滔々たり
走奉明時亦一労    走(この私)は明時(良い時代)に奉ぜんとして 亦一たび労す
堪笑燕居猶美服    笑うに堪えたり 燕居(寛いでいる時)には猶美服せるに
在朝却着敝温袍    朝(公の場)に在っては却って敝温袍を着る

  前に触れたように、精勤とは言い難い仕事ぶりが却って清吏をみなされ、改革の時流に乗って勘定奉行に抜擢されるのだが、天保の改革は既にその実質を失っており、家では絹を纏い、外に出れば、人目を憚って綿服を着るという体のもので、改革の当事者であっても笑うしかない。そうではあっても「亦一労」、老病の身で「官豈疎慵耐」不精者に勤まるはずもないとぼやきながらも、「一寸尚丹心」お役に立てるならと、それなりの役割はそつなくこなしている。

  この現実を突き放し、覚めた目で眺めながらも、世に在る限りは、その現実に関わることを当然の努めと割り切る、その世慣れた、現実との間合いの取り方がどのようにして培われ、この時代に根を下ろすことになったかが問われてよい。「人情翻覆世滔々」無役の小普請入りも三千五百石の大身も、所詮巡り合わせであり、それがどうしたと言わんばかりのこの気概は、何も花亭に限られた話ではない。

忙中了事便無事    忙中事を了(おわ)れば 便(すなわち)事無く
塵裏偸閑即有閑    塵裏閑を偸(ぬす)まば 即(すなわち)閑有り
塵事閑忙何用説    塵事 閑忙 何ぞ説くを用いん
出門一笑対春山    門を出でて 一笑し 春山に対す

南窓暇日払塵床    南窓 暇日 塵床を払い
哦句啜茶坐夕陽    句を哦し茶を啜りて 夕陽に坐す
世事飽嘗貧有味    世事飽くまで嘗めれば 貧も味有り
機心已息拙何妨    機心 已に息み 拙も何ぞ妨げん
江山幽夢家千里    江山 幽夢 家千里
風月閑懐詩一嚢    風月 閑懐 詩一嚢
随分自知多適意    分に随えば 自ら知る 適意多きを
向人不復説窮乏    人に向って 復(また)窮乏を説かず

  この二つは、どちらも柳湾の詩で、最初のは少し格好が良すぎるが、口に「哦し」(吟じ)ていると、ついそんな気になってしまう所が、漢詩の漢詩たる所以で、実際にこれをやってのけるには、相当な年季とそれなりの覚悟を要するであろうことは間違いないにしても、今時のサラリーマンにしたところで、本来はこうあってほしいわけで、漢詩が夢であるなら、格好良すぎて何も悪いことはない。

 「世事飽嘗貧有味 機心已息拙何妨 随分自知多適意 向人不復説窮乏」世間をよくよく知ってみれば、貧しさにもそれなりの味がある。今更人を出し抜こうとは思わないし、世渡りは下手で構わない。自分に与えられた、分相応に生きればよいのであって、殊更に人に我が身の貧を説いてみても始まらない。

  意訳すればこんな所なのであろうが、説明しようとした途端に詩ではなくなってしまう。やはり「貧有味」そのままの方がよい。「貧」は「貧しさ」でも「貧乏」でもない。富貴の中にも貧はあるであろうし、味わうほどの貧であるなら、それは既にして貧とは別の何かであるかもしれない。それを人に説いても、多分理解しないであろうと、上の詩では言っている。
  
  二人に限らないのだが、自らをして「痴」とも「頑」とも「愚」とも称したりするのが漢詩なのだが、それは卑下でも自虐でもニヒリズムでもない。この貧と同じで、世に向けられた覚めた目は、同時に我が身にも向けられているのであり、同じ漢字一文字が、時に矛盾した多義を引き受けざるをえない。世の中も、そこに生きる人も、本来多義であり、文字はそれを写し取っているに過ぎない。時代錯誤と言われかねない漢詩を、今敢えて読む意義は、どうもその辺にありそうな気がする。(つづく)

峠越えれば(33) 野性痴頑在り

2015-05-08 | 峠越えれば
  前回、村上仏山の「牽犢試耕何作累」を引用しながら、ふと「逐犢入青山」という詩句を思い出した。「犢」は子牛、こっちの方は、気骨の会津人広沢安任の漢詩にある。広沢は、新宿の都庁の西隣あたりだと思うのだが、かつての角筈村に牧場を開き、牛を飼っていた。位置的には対照的な、東京の東の外れの江東区で、伊藤左千夫がやはり自ら牛を飼い「竪川に牛飼う家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり」と歌っていた頃に当たる。どちらも乳牛で、いち早く洋風化した、一部の東京市民の需要に応えたものであろう。

  村上が生まれたのは1810年、広沢のそれは1830年、会津の藩校日新館、江戸の昌平黌と秀才で鳴らした広沢は、当然村上の漢詩を愛読している。広沢の「逐犢入青山」は、村上の先に引用した「牽犢試耕何作累」と「宿世良縁身住山」を踏まえたものとしてよい。東京のど真ん中で「入青山」もないのだが、広沢は、戊辰戦争後敗れて本州の最北端、下北半島へ追いやられた会津藩士と共に、斗南藩領とされたこの地に入植し、長年子牛を育ているのだから「逐犢入青山」の詩句に偽りはない。

  下北で牧場経営に失敗して上京した広沢には、その行政や経営の才を生かした、新時代に相応しい別の身の振り方もあったであろうが、我が道を行き、惜しまれて生涯を終えている。この詩句の前後はこうなっている。

無心於隠逸    隠逸に心無し
逐犢入青山    犢(こうし)を逐(お)いて青山に入る
一夢十年過    一夢 十年過ぐ
始知隔世間    始めて知る 世間の隔つるを

  別に「心」が「意」になっていたりもするのだが、世を隠れたこの私には、最早世間並みの野心などかけらもないよ、ということなのであろう。この漢詩に、地の果てに追い遣られ、会津二十三万石を斗南三万石に減封された、会津人の想像を絶した現実を重ねてみれば、漢詩に読まれた理想、夢、非現実が如何なるものかがよく分かる。村上仏山が、繁華の地と対極に置かれた自らの境涯を恃んで、「身住山」と読んだ、それとは又別の、村上には思いも寄らない現実を踏まえた「山」が広沢のそれであり、そこを墳墓の地とする覚悟も又込められているかもしれない。単純な文字一つに、様々な意味を込め、重層化させることのできるのが漢詩であり、和歌や俳句などとは異なった器の大きさなのであろう。

  村上から広沢へ、漢詩がこのように読み継がれていくのは、実は漢詩本来のごくあたりまえの姿であり、既にしてよく知られた詩句を踏まえない漢詩というのは本来あり得ないし、あってはならない。古典を知悉して始めて読むことができるのが漢詩であり、これが現代では漢詩が成り立たない理由でもある。現代では、漢詩を成立させる共通の教養が既にして失われているのであり、村上の「牽犢試耕」にしても、当然何らかの古典を踏まえているのであろうが、多くは、それとは無関係に手前勝手な解釈をして、それでよしとしているだけのことであろう。文字や言葉、それを駆使しての表現というのは、そもそもが融通無碍なもので、誤解や意味の取り違いも又あり、という言い方もあってよいようにも思えるが、漢詩の贈答、遣り取りを通じて直接人と人とが交流し、人の輪が可能であったことを考えると、連歌や連句が成り立たなくなったのと事情は同じということになる。

  会津人広沢のことなど、いつの間にか、すっかり忘れていたのだが、「逐犢入青山」だけは頭の隅に残っていたところをみると、この「逐犢」は詩句として余程に優れているのであろう。村上の「牽犢」よりは分かり易い。これを読んだ、その時、広沢は満面に笑みを湛えてはいなかったか。次の菅茶山とは同時代の、岡本花亭の漢詩から、その辺りの雰囲気は何となく想像できそうな気がする。前回触れた蠣崎波響描くところの黄葉夕陽村舎真景図には、この岡本が絶句四首の讃を書いている。

一字未穏寤寐思    一字未だ穏ならざれば 寤寐(寝ても覚めても)にも思い
利害到前我不悟    利害 前に到るも 我悟らず
一句未安思輾転    一句 未だ安んぜざれば思いは輾転
緩急在後我不顧    緩急(まさかの場合)後ろに在るも 我顧みず
神思疲兮精力費    神思(こころ)は疲れ 精力費え
身太痩兮食忘味    身ははなはだ痩せ 食は味を忘る
天地万物究其情    天地万物 其の情を究め
鬼神造化捜其秘    鬼神造化 其の秘を捜す
尽日不得時自来    尽日(朝から晩まで)得ざるも時に自ずから来たれば
拍手或驚妻子寐    手を拍ちて或いは妻子の寐(眠り)を驚かす

  岡本は特別に苦吟するタイプなのだろうが、何ともユーモラスで、こうなると俳句に苦吟する、よくある光景と変わらないのだが、それに輪をかけて徹底している。この一連の直前では「不甘百美甘吟苦」などと言っている。苦吟が楽しみなのであり、それ程に漢詩を読むことは面白いのであろう。「語不驚人死不休」とも言う。それが漢詩人というものなのであろう。

  岡本花亭とその漢詩に少し触れてみたい。菅茶山や村上仏山が、野にあって私塾を営み、晴耕雨読を夢見たとしても、それはそれで自然なのだが、漢詩人の一方には、蠣崎波響のように一国の家老職を全うし、官にあって尚且つ詩でも画でも一家をなす例が少なくない。文字を知ることがそのまま士大夫を意味する、漢字文化の本来の伝統からは、むしろこちらの方が主流であり、江戸時代のようにそれが官、武士以外に及んだのはごく新しい事態としてよい。

  岡本花亭、通称忠次郎が生またのは1767年、28才で家督を相続し、幕府の勘定方を務める。役高150俵、典型的な下級武士で、52才で致仕し、小普請入りするまで算盤一筋に働く。その日常は、今時のありふれたサラリーマンのそれを想像してほぼ間違いはない。ただ上の漢詩にあるように、いささか惚けた持ち味を隠れ蓑に、漢詩に打ち込む姿勢は並ではない。岡本花亭というと、必ず引き合いに出されるのが次の漢詩で、一旦致仕した時の心境をこんな風に読んでいる。

先生老病去官時    先生(この私はといえば)老いて病し 官を去る時
無復余金嫁女児    女児(娘)を嫁がす 余金(貯え)とて復(また)無い
堪笑卅年為計吏    笑ってしまうではないか 三十年間計吏を為し
未曾一算及家私    未だ曾て私家のためには一度も算盤を弾けないとは

  致仕に到ったのは、職を賭して二分金の改鋳に異議を唱えたからとされている。漢詩故の気骨であったのかもしれない。結果として、無役の小普請入りで、いよいよ趣味に没頭できたはずで、そこまでが算盤の中に入っていたかは分からない。

  三十年間は大げさで、実質二十数年間算盤を弾き続けて、娘を嫁がせる金も残せなっかったというのだが、同僚の多くは、その程度の小金は、役人生活の当然の余禄で、せっせと貯め込んでいたのかもしれない。岡本の役人生活は、実はここで終わってはいない。後にこの詩が世に出て、清吏であるということで天保の改革で抜擢され、七十を過ぎて勘定奉行に就任し、役高は三千五百石まで増え、老年まで勤仕した功で、従五位下近江守に任じられている。77才で槍奉行を最後に役人生活を終えるのだが、その間も84才で卒するまで趣味の漢詩を楽しんだとすると、これはこれで見事という外ない。

  岡本の年譜をみると面白いことに、68才時に五男四女を抱えており、先妻を亡くしているので、歳の離れた娘が三人、歳は19と16と7であり、逆算してみれば後の二人は致仕後に出来ている。娘を嫁がせる貯えすら残らなかった所の話しではない。算盤を弾きそこなったのは、金についてではなく、我と我が身ではないか。後妻との間には、他に13と11の息子ももうけている。惚けた親父で、この余裕も又漢詩のなせる業の中かもしれない。

  岡本の年譜で、もう一点面白いのは、勘定奉行に就く前に、先ず信州中野の代官に充てられている。直後に江戸城西の丸が炎上し、全国の天領に普請助成のための課金がなされ、高齢を理由に任地に赴かなくてもよい扱いの岡本が、居ながらにして檄を飛ばし、どこよりも早く大金の拠出に成功している。代官所支配下の村々の名主、村役人層に、岡本の漢詩も人柄も既によく知られていたのであり、漢詩の趣味の輪がそこまで拡がっていたことになる。岡本は、この年の晩秋から初冬、信州に出向し、任地の視察を済ませているのだが、村廻りの途次、村人が度々狼に襲われ、難儀しているのを耳にして、早速得意の漢詩を読んでいる。

毛属蕃生国土恩    獣類が蕃生するのも国土の恩
住山何得害山民    山に住み 何ぞ山民を害するを得ん
拆看字狼是良犬    狼の字を拆(ひらい)て看れば是れ良犬
諭汝自今知愛人    汝に諭さん 今より人を愛するを知れ

  ユーモアのセンスはなかなかのもので、以下は伝説に決まっているが、この漢詩を村の所々に張り出すや、以後狼の害は途絶えたという。善政の象徴とされたのであり、大陸伝来の、教養豊かな士大夫による文人統治の善き伝統がここまで及んだと、そう解してよいのであろう。

  中年になって、漢詩をよく読み込み、頼山陽や蠣崎波響について大部の評伝を残した中村真一郎が、狼までをも諭そうという、上の漢詩を評して「どうもこの官僚は庶民に上から臨むという行政官的感覚を、終生、脱せられなかったように見える」、高名な割に岡本の詩には「どうも素直にポエジーが感じられるものが少ない」と、どうやらあまりお気に召さなかったらしい。

  確かに茶山や仏山のように、終生野にあって、悠々自適というような羨ましい境涯を、誰しも願うには違いないとしても、茶山や仏山からしてそうなのだが、人の境涯は、望んで得られるものではない。七十を過ぎた老人が、霜を踏んで信州の山奥に赴くというのは尋常でない。ましてそこで、狼にまで教訓を垂れんとするに及んではであり、それを敢えて引き受ける、公に殉じる処世は岡本個人のものではなく、それこそが士大夫の伝統、これ又漢詩のなせる業と言う外なかろう。

  中村は、岡本を称して「この官僚は」などと、こともなげに呼び捨てているが、江戸の文化の多くは、教養と暇を持て余した、小普請入りの無役の下級武士によって支えられて来はしなかったか。彼らこそ、今のこの時代の、公務員というような夥しい大衆を含めて、大方のサラリーマンの原像ともいうべき存在ではなかったのか。

  岡本の同類に館柳湾がいる。通称雄次郎、1762年の生まれ、岡本とは五歳違いでしかない。岡本は、晩年抜擢されて代官になったが、館は、その代官の下で、天領の村々を回って、検見などの実務に当たっている。身分的には村役人とも境の分かちがたい代官所の手代であり、下級武士もよいところなのだが、漢詩人として名高い。一例上げてみる。

野性痴頑在    野性(田舎育ちで) 痴頑(愚かで頑な所)在り
不知身計疎    身計(世渡りの術)の疎なるを知らず
鋤蔬称老圃    蔬を鋤きて(野菜畑を耕し) 老圃(百姓)と称す
徙樹幽居賁    樹を徙(移)して 幽居を賁(飾)る
病減帰閑後    病は減ず 閑に帰する後
貧同遊宦初    貧は同じ 遊宦(地方に赴任した)の初に
行年逾七十    行年七十を逾(こ)ゆるも
猶欲買新書    猶新書を買わん欲す ※鋤は正しくは金偏に且

  「鋤蔬称老圃 徙樹幽居賁 病減帰閑後」年齢さえ少し動かせば、これは俺だであり、そんな定年適齢期のサラリーマンは今時世に溢れている。(つづく)

峠越えれば(32) 山に住む

2015-05-05 | 峠越えれば
  昨年の冬籠もりは、専ら漱石の漢詩に付き合っていたのだが、今年もその延長で、江戸の詩人達と、気が向けば付き合ったりしている中に、気付いてみれば、春を通り越して早、初夏、周囲の山々の新緑が目に染みる。お馴染みの雉子の夫婦も、挨拶のつもりか、一時我が家の庭を我が物顔に闊歩したかと思うと、今は又、その辺の休耕地をあちこちケンケン鳴き回っている。閑居もほどほどにしたい。

  前にも触れたように、近世では詩といえば漢詩であり、この時代最大の詩人は芭蕉ではなく、菅茶山であったという言い方もある。詩とは口に唱え、吟じるものであり、本来親しみやすいものであったはずなのだが、漢詩とは不可分の経学、儒教の教えが時代に取り残され、ついには漢詩も漢文も、私たちの教養から完全に抜け落ちてしまったのであり、文化の継承、連続性という点からは不幸この上ない。和歌や俳諧が今なお親しまれ、その裾野を拡げていることを考えると、漢詩に限っては、肝腎の裾野が嘘のように消えてしまったのであり、この意味については、もう少し真剣に考えてみる必要がある。

  岩波の『江戸詩人選集』の月報に、現代中国の専門家の感想が紹介されている。
 ……はるか昔に、外国の詩を学んで模倣しようとするのに、その国へ行ったこともなく、またその国の話し言葉も解さず、ただ文字だけによって学び、模倣し、創作しようというのは、実際容易なことではなかった。ことに中国の古詩のような、格律が厳格で複雑な形式をもつものは、文字の発音と単語の意味をマスターし、字義と音韻の両面で一定の水準に達して、はじめて比較的自由に使いこなすことができるようになる。ところが、日本人はこの方面においてきわだった才能を示し、すでに一千年余りも前に、かなり高い水準の漢詩を創作していたのである。これは実に驚嘆にあたいする奇跡であるといえよう。……(第七巻月報1990年)

  その国の話し言葉も解さず、ただ共通する文字だけ、文字についての教養のみを頼りに、異国の詩を真似て創作し、それを彼の国とは全く異なる文法と訓によって、自国流に読み下し、言うならば翻訳し、その特異な文体を高吟することを得意とする。「驚嘆にあたいする奇跡」には違いない。

  古代においては、雲の上のごく限られた一部特権層の趣味であったものが、中世には、その裾野が五山の僧達にまで拡がり、更に近世に入ると、官僚化した武士層のみならず、都市の富裕層、地方の村役人層にまで、その輪がどこまでも拡がっていったことは間違いない。

  近世、木版刷りで刊行された漢詩集の類は夥しい数に上るはずで、その裾野の程を物語っている。文化なるものは、何時の時代でも憬れより生まれたのであり、漢詩がこの国では最も強い憬れ、雅の頂点に常にあったことは間違いないし、和歌や俳諧に与えた影響も計りしれない。

  いかにも「驚嘆にあたいする奇跡」には違いないのだが、そもそも漢字という文字自体が、そのような可能性を秘めたものだとすれば全ては辻褄が合う。

  一文字一文字の中に、信仰も民俗も、世界観や処世の術までが含まれているのであり、数千年の知恵と経験のすべてが、文字と融合して後世に伝えられ、後世を動かしてきたのであり、アルファベットの類と同列に置くわけにはいかない。

  江戸の詩人達が、漢詩を通じて大陸文化、あるいはこの国も含めて東アジア共通のどのような文化に憬れていたのか、文化とは全て斯く在りたいという憬れであり、憬れである以上、現実には幻影に過ぎないにしても、漢字という文字には、そのような憬れを喚起する途方もない力が、既にしてその中に備わっているのであり、漢字が単純な表記上の記号と化しているとしたら、大方が漢字をそこまで読み込もうとしなくなったというだけのことで、単なる無知にすぎない。

  漢詩を読むことは、今でも実はそれほど難しいことではない。創作の意味での読むということになると、これは今や不可能に近い。次の菅茶山のものなどどうであろうか。難しいのは木偏に龍の、連子窓くらいで、後はほぼ読める。無理に読み下そうとしないで、日本語に翻訳しようとしないで、四字熟語みたいな感覚で、ごろごろ転がった五文字から喚起されるイメージを、次々に連ねていって、そこに現れてくる世界にどの程度に共感できるか、漢詩を読むとはそれで十分であろう。

吾家世業農   吾が家は世々農を業とし
樸素守祖風   樸素(素朴) 祖風を守る
隣並皆親戚   隣並(隣近所) 皆 親戚
有無互相通   有無 互いに相通ず
衣食雖不足   衣食 足らずと雖も
所安存其中   安んずる所は其の中に存す
時得茅索暇   時に茅索(農事)の暇を得て
詩書授児童   詩書 児童に授く
嗟余鹵莽資   嗟(ああ) 余は鹵莽(粗雑)の資 
肯望琢磨功   肯(あえ)て琢磨(修学)の功を望まんや
茅堂春睡足   茅堂 春睡足り
朝暾上竹叢   朝暾(朝日) 竹叢に上る
吾伊時断続   吾伊(読書の声) 時に断続し
嬉戯喧簾龍   嬉戯 簾龍(窓)に喧(かまびす)し※龍には木偏が付く
負暄手煎茗   暄を負うて(日向で) 手ずから茗(茶)煎ずれば
楽意自融融   楽意 自ずから融融

  茶山には別に「我本農家子 生長事躬耕」という一連を含むものもあり、その拠り所が何であるかはごく分かり易い。茶山は三十代中半以降、故郷の山陽備後国神辺で私塾を営み、子弟を教育することで八十年の生涯を終えている。その黄葉夕陽村舎は、この時代、農村、都市を問わず全国に簇生した私塾、藩校、寺子屋等々を支える者たちの多くには、斯く在りたいと願う理想の結晶の如きに見えていたのかもしれない。蠣崎波響描くところの、黄葉夕陽村舎の真景図にはそんな神韻が漂うかに見える。茶山の高名を慕って神辺を訪ねる者は、その生涯と通じて絶えることがなかったという。

  それにしても漢字とは何と便利な文字であることか。これでたった九十字、そこにどれほど広大無辺な世界が包み込まれていることか。

  この詩から、よく知られた『老子』の次の一節へと連想を拡げたとして、そこには何の不自然もない。これもまた詩として読むべきなのであろう。こっちの方は七十五字、使われている漢字は更に易しい。「小国寡民 使有什伯之器而不用 使民重死而不遠徙 雖有舟輿 無所乗之 雖有甲兵 無所陳之 使民復結縄而用之 甘其食 美其服 安其居 楽其俗 隣国相望 鶏犬之声相聞 民至老死 不相往来」 無理に読み下そうとしたり、現代語訳などという小細工を敢えてしない方がいい。漢和辞典片手に一文字一文字の意味を確かめ、あるだけの知識を総動員して想像を逞しくすれば、意味は自ずから通じる。そこに二千数百年の時間が横たわっている、驚きはそっちの方になくてはならない。

  「甘其食 美其服 安其居 楽其俗」人として、如何なる境涯を以て是とするか、この詩を越えるものは、この間ついに現れなかったのであり、茶山のそれは、漢字文化の古典中の古典を、単に自身の身辺に置き換えたに過ぎない。

 茶山といい、老子といい、何を浮世離れした世迷い言をと読んだとしたら、詩とは無縁な言い掛かりというべきであろう。夢であり、理想であるからこその詩であり、慣れ切った現実に亀裂を生じさせる程の力を持ち得ないなら、それは詩ではない。茶山や同時代の文字を知る程の者達には、漢字とはそれほどの力を宿すものとしてあり、その力を自在に引き出すことのできる者のみが詩人であったのであろう。

  もう一つ、茶山より数十年後れ、九州豊前国稗田村で、似た境涯にあった村上仏山の漢詩を上げてみたい。七言の律詩で第三四句と第五六句が対句をなす。ここでもごく平明な漢字しか使われていない。
農業兼儒跡自安   農業 儒を兼ねて 跡自ずから安し
朝名市利不相関   朝名市利(朝廷に名誉を、市場に利得を争う)相関せず
一生清福眼知字   一生の清福 眼 字を知り
宿世良縁身住山   宿世の良縁 身 山に住む
牽犢試耕何作累   犢を牽きて 耕を試む 何ぞ累を作さん
呼童授読未妨閑   童を呼びて 読を授くる 未だ閑を妨げず
今朝最有会心事   今朝 最も会心の事有り
煙雨西疇得句還   煙雨 西疇(田圃) 句を得て還る

  詩であり、何と羨ましい、いいなあという感想があれば、それでよい。同時代の梁川星巌の「儒(学者・知識人)と称し、舌を売って、活をなす者」「豈能く愧死(恥じて死ぬ)せざんや」という評が伝えられているが、この時代に限るまい。昨今猶更であろう。「一生清福眼知字」字を知り、知識を得たのは一生の清福(精神的幸福)であり、問題はその納まり所、落ち着き先、何のための知識かを問い直すことで、そこだけは数千年変わるところなく現代に及んでいる。

 「朝名市利」我関せず、政争や金儲けとは一線を画す、それを時代錯誤の文人気質などと言って済ますべきではなかろう。野心、金まみれに一生を棒に振って、人は数千年の歴史を刻んできたのであり、人が人である限り「朝名市利」とは縁が切れない。趣味でも教養でもよい、詩を吟じることの意味はそこにあるのであり、漢詩以上にそれに相応しいものは他にありそうもない。(つづく)

峠越えれば(31) 大愚到り難し

2014-03-14 | 峠越えれば
 慶応三年二月生まれの漱石が亡くなったのは、大正五年十二月、節目の五十歳にはまだ二ヶ月残している。五男三女の末っ子に生まれた漱石は、自身がまた二男五女の親となる。漱石の死が、「猛烈に働いた」(『道草』)結果の、過労死のようなものであったことは前回に触れた。子沢山の家族の生活の安定のため、国に仕える官から、「新聞屋」たる一介の勤め人に転じ、がむしゃらに働き続けた生涯は、気付いてみれば時代の最先端を走っていたのであり、漱石自身が、時代に丸ごと絡め取られていたことになる。新聞小説というのは時代の鏡であり、小説の背後には、同様な環境に置かれた多数の名もなき人々が控えている。連載の一回一回が、その反応を確かめながらの、時代の精神を読み込む、手探りであったに相違ない。

 未完のままに、漱石にとっては最後の作品となった『明暗』の連載が始まったのは大正五年五月、その連載中の十月、漱石の家に風変わりな二人連れが止宿する。二十歳そこそこの若い禅僧で、以前からの文通の縁で、東京見物がしたいと、神戸の寺から上京したのだという。一週間ほども、日頃の生活ぶりを互いに披瀝し合い、去って後、この鬼村、富沢を名乗る二人の礼状に、漱石が返信している。

……大して御世話もしないであんな丁寧な御礼をいわれては痛み入ます。しかしそれが縁になって修行大成の御発心に変化すれば私に取ってこれほど満足な事はありません。私は日本に一人の知識を拵えたようなものです。富沢さんもほぼあなたと同様の事をいって来ました。坊さん方の奇特な心掛は感心なものです。どうぞ今の志を翻さずに御奮励を祈ります。私は私相応に自分にあるだけの方針と心掛で道を修めるつもりです。気がついて見ると、すべて至らぬ事ばかりです。行往坐臥ともに虚偽で充ち充ちています。恥づかしい事です。この次御目にかかる時には、もう少し偉い人間になっていたいと思います。あなたは二十二、私は五十、歳は二十七ほど違います。しかし定力とか道力とかいふものは、坐ってゐるだけにあなたの方が沢山あります……(鬼村元成宛十一月十日)

 二人の珍客の逗留は、漱石にとって余程印象的であったらしく、実際にその世話に当たった、鏡子の口を通して、こんな風にも語られている。

……実際こういう素朴な生活を見るにつけ夏目に思われるのは、自分の間近にひろがっている周囲の生活であったらしいのです。みんなそれぞれお出来になる世間なみには立派な方々ではありますが、どうも話がややこしい。誰がどうしたの彼がこうしたのと、年がら年中夏目の耳に聞こえて来るのは、大して愉快な話というものもなく尊いというところもありません。其上みんな神経質でいらいらして、頭ばかりが発達して七面倒くさいこと夥しい。つくづくそれとこれと比較をしたものと見えまして、この雲水さんたちが神戸へかへってからやった手紙に、貴方がたは私のところに集まって来る若い人達より余程尊い人達です、有難い人達です。私のところへ集まる人達も、私さえもっとえらければどうにかなるのだろうがなどと感じの一端を洩らして居りますが、余程そうした感慨は深かったものと見受けられます。……(『漱石の思ひ出』)

 死後に整理してみると、この二人と遣り取りした手紙ばかりは、別に大切に仕舞われていたともあり、この出会いが、その生涯において、特別な意味を持ったものであったことは間違いないのだが、この時漱石には最早時間が残されていない。この率直極まる返信の一ヶ月後、宿痾の胃病で病み衰え、五十に満たない生涯を閉じることとなる。漱石にとってのみならず、若い二人の「雲水」にとっても、その出会いが、改めて発心を促す体のものであったとすると、想像するに、漱石はこの時既にその死を見据えた静謐を湛えており、かれらは、嗅覚鋭くそれに気付いていたということも考えられる。

 それにしても、上の鏡子の話は面白い。毎週木曜、お馴染みの顔ぶれが集まり、飽きもせず漱石を囲んでワイワイやっているのだが、わけも分からず、毎回それを障子越し聞かされる鏡子にとってみれば、たまったものではない。「神経質でいらいらして、頭ばかりが発達して七面倒くさいこと夥しい」のが我が亭主であり、それに輪を掛けた同類ばかりが集まって、熱を吹き、亭主を焚きつけ、詰まるところその害を一身に引き受けてきたのは、他ならぬこの私だと、そう言いたいのかもしれない。最晩年の漱石の生涯を、飄然と横切って去った、浮世離れした二人の「雲水」は漱石のみならず、鏡子にとっても何事か救いであったのかもしれない。

 「発心」と言い、「知識」と言い、「道を修める」と言い、人の世には「尊い」ものが存在すると言い、この時代には、こんな言葉が、まだ今ほどには忘れられていない事実は記憶されてよい。五十歳の漱石は、大真面目で「もう少し偉い人間になっていたい」と心底願ったのであり、そこに到り得ない自身を責め続けていた。言うまでもなく、漱石は、五十間近にして、ようやくそこまでたどり着いたのであり、書くことを職業とし、生活に追われながらも、ついにはそこまでたどり着いたのであり、初めからそこにいたわけではない。書くほどに彼我の距離を測り、それをわずかずつ埋めながら、ついにはそこにたどり着いた。

 この時期、漱石は午前中に『明暗』連載一回分書き上げる毎に、それを自ら投函し、午後は専ら漢詩の推敲に当てていたらしい。それだけだと晴耕雨読にも似た優雅な自適とも取れるのだが、心身の磨り減らしての、それがぎりぎりの創作持続の手立てであったに違いない。横書きには馴染まないのだが二三書き出してみたい。

自笑壷中大夢人  自ら笑う 壷中大夢の人と
雲寰縹緲忽忘神  雲寰縹緲 忽ち神を忘る
三竿旭日紅桃峡  三竿の旭日 紅桃の峡
一丈珊瑚碧海春  一丈の珊瑚 碧海の春  後半略(大正五年十一月十三日)

大愚難到志難成  大愚 到り難く 志 成り難し
五十春秋瞬息程  五十の春秋 瞬息程
観道無言只入静  道を観じて 言無く 只 静に入り
拈詩有句獨求清  詩を拈じて 句有り 独り清を求む
迢々天外去雲影  迢々天外 去雲の影
籟々風中落葉聲  籟々風中 落葉の声
忽見閑窓虚白上  忽ち見る 閑窓 虚白の上るを
東山月出半江明  東山 月出でて 半江明かなり (大正五年十一月十九日)

 最初のものは、「雲水」鬼村宛の書簡の三日後のものであり、現世のしがらみの埒外に居る二人を念頭に、「雲寰縹緲忽忘神」そうであったらどんなにかいいのになあと、そんな呟きとも読める。一時自らを慰めるための詩であり、この時ばかりは、連載の重圧から解放されている。

 「大愚難到志難成」あの若い「雲水」たちはといえば、詰まらぬ世俗の知恵などとは縁のない、大愚に既に成り果せて居るではないか。それに引き比べ、この自分はと言えば、「もう少し偉い人間になっていたい」と、志だけはあっても、いつになったら、そこにたどり着けるのか。そう思ってふり返ってみると、随分以前からいつでもそうは思っていたような気はするのだが、気付いてみれば「五十春秋瞬息程」今にして何も変わるところはない。こうなったらせめて詩の中に、一時その境地を求めて遊ぶに如くはない。

 江戸人にとって、最大の詩人は、芭蕉よりも茶山だったというような言い方もある。漢詩は、それほどに東アジア共通の教養として、最初からこの国に根付いていたのであり、俳諧以上に漢詩が幅広く愛好されていたことは事実であり、慶応三年生まれの漱石にとっても、その点変わるところはない。平仄のような煩瑣な約束事に従い、推敲を重ねることが、非日常の時間に没頭するには都合がよかったのかもしれない。最早漢詩を鑑賞するに足る教養を失った今、漱石が遊んだ境地には到底到り得ないにしても、繰り返し口に唱えてみると、漢字本来の響きのよさと対句の妙から、どうにかその一端を、垣間見ることくらいは出来そうな気がする。

眞蹤寂寞杳難尋  真蹤は寂寞 杳として尋ね難し
欲抱虚懐歩古今  虚懐を抱かんと欲して 古今を歩む
碧水碧山何有我  碧水碧山 何ぞ我有らん
蓋天蓋地是無心  蓋天蓋地 是無心
依稀暮色月離草  依稀たり暮色 月 草を離れ
錯落秋聲風在林  錯落たる秋声 風 林に在り
眼耳雙忘身亦失  眼耳 双ながら忘れ 身 亦失っす
空中獨唱白雲吟  空中 独り唱す 白雲吟 (大正五年十一月二十日)

 本当の道は模糊として知りようがない。心を空しくしようと様々に尋ねてみた。気付いてみれば、何のことはない。山や川、そのどこに、私の持て余している心があるというのだ。天地全て無心のそのもの、あるがままではないか。黄昏時、暗い草の中から煌々と月が昇り、林の中では秋風が枯れ葉を鳴らしている。そんな眼前の光景さえ忘れ、この身のあることさえ忘れ、空中にただ一人雲に乗って漂い、悠然と詩を吟じるだけの自分でありたいものだ。

 大意を要約してみればこんなところであろうか。要約するまでもない。よく知られたお馴染みの世界ではないか。東アジアに共通の伝統の境地そのままではないか。同時期のものに、「耶に非ず 仏に非ず 又 儒に非ず 窮巷 文を売って 聊か自ら娯しむ」(大正五年十月六日)という一連もあるのだが、漱石の好きな蕪村の名を上げるまでもなく、そんな文人趣味が市井にあふれていたのが江戸時代であり、漱石は空想の中でそこに立ち帰っている。そうあれたらどんなにかいいのになあと、漱石のため息が聞こえてくる。

 上の漢詩を記した翌々二十二日、日課にしている『明暗』の原稿を前に、通し番号189を書いたところで漱石は力尽きる。以来病床に臥し、亡くなったのは十二月九日、その間、文字通りに白雲に漂うかのごとく、存分に詩を吟じることができたとしたなら、それが漱石にとっての、短くはあっても無上の余生であったに違いない。

 漱石が生きた人口増の右肩上がりの急成長は、そのまま戦後の二十世紀後半の高度成長に引き継がれ、死に至るまで働く過労死は珍しくもなくなる。そして、時代は、今人口増の成長から人口減の成熟へと、ごく分かり易い変化の最中に置かれている。参考になるのは、例えば、漱石であるなら、まだ一部その余慶を享受できた江戸人の生き方であり、ここ百何十年かの常識は全て捨てて掛かった方がよい。四つ上がりの八つ下がり、十時に出勤してお八つの時間には、早その日の仕事を終えてる、それでも社会は成り立つのであり、さして老いてもいない隠居が、大道を大手を振るって、世を睥睨していた。それが成熟社会の余裕であり、風格というものであろう。世には合掌を誘う尊いものが存在したのであり、人の生き死に関わる全ては尊いものであり続けた。諸々の悲惨、不条理もまた常のごとくにあったにしても。

 過日、テレビのドキュメンタリーで、かつてない長寿社会の下で、家はあっても病院から施設、次々にたらい回しされ、死に至るまで、ひたすら漂い続ける夥しい老人の群が映し出されていた。そこにはそれなりのビジネスもまた成り立つのだという。余生といえばこれも余生で、それがお前の明日の姿だと言われれば、そうであるのかもしれない。七人に一人は認知症を患うのだと言われれば、他人事で済むはずもない。先々どこまで行っても、世の悲惨と、不条理はなくなりそうもない。そうではあっても、いつの時代にも、その脇には、尊いものもまたごく控えめに寄り添っていた。それが今、ものの見事に抜け落ちている。結局のところ行政の手立てを待つしかないのだとすると、嘉すべき長寿社会の将来は、暗澹たるものでしかない。畢竟問われているのは、来るべき時代に相応しい死生観ではないのか。こればかりは一旦は伝統に回帰するしかない。行政や医療は何も応えてくれはしない。

 漱石について、殊更に私見を述べてみたいわけではない。デフレとはありがたいもので、手付かずの古本が嘘みたいに安く手に入る。何十年か前の全集を一括購入して、偶々冬籠もりの徒然に、端から端まで読み通しての感想なのだが、漱石の作品の何が傑作かと言えば、その生涯以上の傑作はない。淋しくも、尊い生涯であったと、これはその一端を記したにすぎない。(つづく)

峠越えれば(30) ピンコロ地蔵

2014-03-11 | 峠越えれば
 我が家から東南へ二十数キロ、古い町のど真ん中に坐されるお地蔵様は、今や全国区の人気で、大型バスが押し寄せ、門前町ができている。最近、家の近くの村外れでも、真新しい小振りのよく似たものを見掛けた。元々道祖神やら、馬頭観音やら何やらが、やたら目立つ地域なのだが、もう何年かすると、その脇にはどこもかしこも、その分身が据えられ、懇ろに祀られるのかもしれない。今の時代、延命地蔵や子安地蔵などより余程切実で、単純明快、名前の分かり易いところがよい。

 なにぶん、峠のこちら側、我が山国は名だたる長寿国で、健康寿命の長さを誇っており、お地蔵様の御利益の程も知れようと言うことで、仮に医療費を、ここでは当たり前の、そのレベルにまで抑えられれば、どれほどに財政負担に寄与するか。いざとなればやはり、神仏を頼むのが一番の近道なのかもしれない。

 ここでは、件のお地蔵様の坐される町の名前を冠した菜漬けが名物で、暮れに大きな桶に仕込み、専ら冬の間は、凍り付いた、歯に浸みる冷たいのを刻んで、熱いお茶を何杯でもお代わりして、炬燵で話に興じるのが伝統的な冬籠もりであった。よくあんなにお茶ばかり飲めたものと思うのだが、一つには、このお葉漬けが無類に塩辛かったからであろう。身体にしみ込んだ味の好みは、そうそう変えられるものではないのだが、そこが理屈大好きのこの国の真骨頂で、塩分過多が命を縮める、事の道理を不承不承ながらも受け入れ、農村医療の最先進地帯となったのはもう随分昔の話になる。ピンコロと伝統の味、二者択一に迫る知恵者がいたのかもしれない。

 変わらないものの代名詞みたいに、その旧弊ばかりが論われてきた農村なのだが、その懐は意外に深く、変化も余所者も、必要とあればいくらでも受け入れてきたし、今後ますますそうなるであろうことは間違いない。人口減の成熟社会においては、里山を残した田舎の方がはるかに余裕があり、峠の向こうには、今後に必要な変化を受け入れるだけの余裕が、既にして無くなっていると言い切っていいのかもしれない。 

 人口が頭打ちになる成熟社会は、既に一度経験している。戦国乱世から江戸時代初期、農民がしっかり地域に根を張り、新田を開発し、里山中心の農村が一定の安定をみたあたりで、それまで増加一辺倒(1600-1700年の人口増は2.3倍と推計されている)であった人口は、ほぼ三千万を維持し、気候変動その他、人為も加わり、若干の増減を繰り返しながら、安政の開国(1854年)に至る。この間の安定した成熟社会が、その恩恵として何をもたらしたか。一言で、それは文化の洗練であり、その裾野の拡大に尽きる。具体的には、全国一律、どの程度に読み書き能力が向上したかを考えてみれば十分で、この意味は計り知れない。

 思えば、江戸時代とは不思議な社会で、人口増に結びつく経済成長を、無理矢理に封じ込めてしまった、島国ならではの、ごくごく特異な例であったのかもしれない。同じ国内で為替相場が立ち、先物取引まで行われるほどの、先進的な資本主義と、伝統的な共同体原理の農本主義が、拮抗しながら微妙なバランスを保ち、二百数十年続いたのであり、実験として考えれば、これほど興味深い時代はない。火薬を用いた殺傷力の高い武器が、何千年来の刀槍に置き換えられ、心身の鍛練に使用を制限されたり、活字印刷に代えて、手彫りの木版刷りが異様な発達を遂げたり、大型船の建造や、幹線での車を使った移送が禁じられたり、技術革新の常識に反することが堂々とまかり通ったわけで、それでいて何一つ後退はしていない。

 彼のピンコロ地蔵を中央に、千曲川流域の盆地状の平地に点在する村々でも、蚊の頭ほどの仮名で、親切にルビが振らた、漢語交じりのあらゆる文献が、ごく当たり前に読まれ、謡や和歌俳句、書や立花を趣味とする者が珍しくもなかった。国学を通じて歴史や古代の文化に触れ、幕末期ともなれば、一端の志士気取りの農民も少なくなかった。これらの伝統、気風、蓄積は当然のこととして、今に引き継がれている。ここには、創業何百年の酒蔵が、何軒も今猶健在であり、その間盛衰はあっても家業として途絶えることはなかったのであり、顧客第一の少量生産は、大量生産大量消費の、成長最優先の大手に伍して現に生き抜いている。あるいは、江戸時代初めの開発者の名前を冠した新田の米が、その物語性もあって、今やブランドとして定着したりもしている。里山の文化は、有形無形の様々な蓄積の上に築かれており、後は野となれ山となれの、過去の蓄積を食い尽くすだけの、成長一辺倒とは、それが常に再生、持続可能な点において、ごく分かり易い対照をなしている。

 異質な二つの原理が相拮抗し、微妙なバランスの下にあった時代は、開国を期に、箍が外れたように、人口増の、成長が成長を呼ぶ、何事も金次第の世の中にあっという間に変貌を遂げる。分かり易いと言えば、これほど分かり易い世の中もないわけで、多くは文明の名の下に、解放された気分で、欲も野心もむき出しにして、急成長と国威の発揚に有頂天になり、新時代に適応するのに忙しく、かつて長い時間をかけて培った、実の所、金には置き換えられない価値の方が、世の中には多い事などはすっかり忘れてしまった違いない。

 そうではあるのだが、いつの時代にも生来の不器用から、そこで逡巡し、苦悩し、悪戦苦闘する者も少なくない。分かり易い例として、維新前年の生まれ、夏目金之助の場合を考えてみたい。幕府が瓦解すると共に、徳川家の家臣は、所領を400万石から70万石に削られ、江戸を追われ、一夜にして失職、窮乏化する。徳川恩顧の八百八町の名主達も同様に、窮迫の中に浮沈を繰り返すこととなる。金之助は、かつてであれば、泣く子も黙る町名主の家に、五男三女の末っ子として生を受ける。物心つく前に、子供のいない同じ名主層の養子となり、塩原を名乗るが、養父母の離婚により、塩原姓のまま七歳で生家に戻り、後に二十一歳の時、生家の事情で夏目に復籍する。この時、金之助の七歳までの養育費として240円が支払われている。

 生い立ちは複雑であっても、金之助の学業は順調であり、復籍の事情も、予定外の兄たちの急逝により、その将来に期待するものがあったからに違いない。養父の側にしてもその点は同じで、生家に戻った後も何かと目を掛け、その学業を支え続けていたらしい形跡がある。わざわざ養父と金之助の間で、復籍の後も互いに「不実不人情」のないようにしたいと、わざわざ一札を交わしている。支払われた幼年期の養育費以上のものが、そこに介在していたことは間違いない。

 復籍前の二十歳の頃、私塾で月給5円を得たのが金之助の最初の所得であり、学業成って先ず松山中学での、金之助二十八歳の月俸は80円、翌年、縁あって貴族院書記官長の娘鏡子との結婚が決まると、月俸100円で五高に転じる。鏡子の実家の、大きな官舎に、書生、女中三人ずつをも抱える、羽振りのよい暮らしとの釣り合い上、この位の月俸を必要としたとされる。

 金之助三十三歳、この年五高在籍のまま、二年間の留学を命じられてロンドンに行く。留学中の手当は年額1800円、留主手当は300円、ただし建艦費他が引かれ、実際の手取りは月額22円程になる。鏡子は東京に戻り、二人の子供と共に実家に身を寄せる。高級官吏といえども浮沈は激しく、金之助の留守家族を支えるに足る、結婚時程の資力は既に実家にはなく、夫婦共に、それぞれに生活は極度に窮迫する。

 留学を終えて帰朝した金之助は五高を退職して、大学から年俸800円、一高から年俸700円、併せて1500円、五高時代の1200円を上回るが、地方との物価の差を考えると、生活は楽ではない。私立大にも出講し、月給30円を得て不足を補う。年収は1860円となる。帰朝後の身分はいずれも講師であり、子供が増え成長して行く将来を考えれば、身分の安定と、更なる収入の増加を考えないわけにはいかない。

 たまたま雑誌に発表した小説の評判が良く、原稿一枚が1円に売れることを知ったのが、生活上の大きな転機となる。大学の教師が小説を書く珍しさもあって、その文名に目をつけた朝日新聞が、小説記者への転身を勧誘する。月200円は掛かる、生活上の要求を朝日が承諾したことで、入社を決断するが、月給200円の条件は、年に百回分ほどの長編二本の連載であり、これは尋常な転身ではない。捉えどころのない、不特定の読者の興味を、毎回一日一日繋ぎ止めなくてはならないのであり、途中で飽きられてしまえばそれまでのことで、金之助の尻を押した、生活の逼迫は、それ程に切実であったことになる。

 以来、死に至るまでの十年、この時四十歳の金之助は、四人に加えて、この先なお三人の子供をなし、書くほどに心身を病み、急速に老いて行く。雑誌に書いた頃の低回趣味は影をひそめ、一作ごとに語り口を改め、構成を練り、洗練を加え、同時代のある層の読者を、しっかり捉えて放さない手際は、天才の天才たる所以なのだが、創作のストレスが胃病を悪化させ、喀血を繰り返し、神経症の発作は、意味のない暴力となって家族に向けられる。その壮絶、悲惨は想像を超えている。

 それはさておき、金之助にとって金が如何なるものであるかについては、完成された作品としては最後の、死の前年の『道草』が参考になる。これは自伝でも告白でもない。留学を終えて帰朝した金之助が、大学に職を得て世間的には成功し、高給を得て、なお金に追われ、そこから何処へ向かおうとしたか。この時代にあって、金之助の立場が必ずしも特殊ではないことを、小説に仕立て、読者を納得させるには、やはり小説記者十年の熟練が必要であったのであり、最晩年にして漸く成るべくして成った作品というべきであろう。

 「遠い所から帰って来て」、年1500円で暮らす主人公の元に、零落した養父が二十年ぶりに現れ、古い証文をちらつかせて、扶養の義理を口説く。小説では、件の証文を100円で買い取ることで、決着をみたかに語られているのだが、それで片付くほど単純な話ではないことは、金之助にはよく分かっている。そもそも「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」のであり、証文を書いたり、金を遣り取りしても、済ませようのないのが世の中で、それを持て余しながらも、なお生きるしかない。そうではあっても、問題はこの100円に懸かっているのであり、逼迫する生活の中で、それをどう工面するかなのだが、思い余った小説の主人公はこうしたとする。

 ……健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働いた。恰もわが衛生を虐待するように、又己れの病気に敵討でもしたいように。彼は血に飢えた。しかも他を屠る事が出来ないので已むを得ず自分の血を啜って満足した。予定の枚数を書き了えた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。「ああ、ああ」彼は獣と同じような声を揚げた。……

 金之助はかくして職業小説家となったのであり、死後には、株券他の「30000円足らず」が残されたと、これは鏡子が語っている。

 100円といい、30000円といい、これを現在の金額に置き直してみたいのはやまやまなのだが、これは諦めた方がよい。生活の実態が、今ほどには標準化されていない以上、比較のしようがない。参考までに、明治末年の月収100円は、判事・警視・軍医といったあたりで、大工・石工・人力車夫・各種職人等の日給を、月収に直せば、ほぼ20円前後であり、消防夫・郵便配達・駅夫・日雇ともなると10円前後となる。

 金の価値も、その持つ意味も、身分立場それぞれに違いすぎるのであり、同じ人口増の成長期でも、戦後のそれは、金之助のような大卒サラリーマンが、例外的なエリートではなくなり、これも金之助のように、命を削って猛烈に働き、過労死に至る例も珍しくなくなり、その分、金の持つ意味は格段に標準化されている。

 金之助が生きた、慶応三年から大正五年の五十年間の人口増は1.49倍、戦後の二十世紀後半の五十年間のそれも1.53倍、典型的な右肩上がりの成長期であることは共通している。学校出のサラリーマンが主役の、猛烈な競争社会であることも共通する。一点異なるのは、金之助にはまだ、俳句、漢詩、絵画に遊ぶ、江戸以来の文人趣味、成熟社会の余慶が残されており、それが陰影となり、単純な猛烈には終わっていない。残されたそれを手掛かりに、金之助には許されなかった、その老後を、あえて空想してみたい。(つづく)

峠越えれば(29) 山の神

2014-03-02 | 峠越えれば
 家から直線で南へほぼ1キロ、千曲川の対岸に山の神が祀られている。石の社が据えられ、二百年程前の建立の日付が刻まれている。ご神体は河岸の切り立った、標高差百㍍を越える見事な岩壁であり、遠く迂回して上に登ってみれば、何のことはない、そこはただの台地なのだが、下から見上げる限りは山には相違ない。このところ毎年正月にはまずこの社に参拝する。東西どっちから向かっても橋を越え、片道3キロほどはあるのだが、間に遮るものもなく、我が家を見守るかに坐す以上、恐縮この上なく、年頭の義理くらいは欠かすわけにはいかない。少し離れた川岸には水神様も祀られていて、こっちの方は二百数十年前の、いまだに生々しい寛保の大水害の名残なのだが、山の神の由来については誰も知らない。知るまでもない。山や水を畏敬することなしに成り立つ人の暮らしなどかつてあり得なかったであろうし、これから先もそこだけは変わり様がない。

 里山をキーワードとする論調がここ数年、或いはここ十数年すっかり根付いてきたかに見受けられるのだが、当然の流れであり、3.11から間もなく早三年、これは必然であり、大歓迎である。あまりに身近にあり過ぎて、日常に紛れて、ついうかうかと、忘れられているのは何も里山に限らないのだが、それらは、それが、そこに在ることに気付いた、その瞬間既に人を動かし、影響を与え始めている。件の我が山の神も、そんな風にしてある日突然眼前に立ち現れたのであるが、これは里山と言い直した方が、今のこの時期分かりやすいかもしれない。

 つい先日、峠の向こうでは、降って湧いたような選挙が唐突に始まり、候補の一人は確かこう訴えていた。この国の人口は、数十年後には、戦後の高度成長前頃にまで減り、更に百年後には江戸の時代と大差ないまでに減るに至るであろうと。要するに、生産年齢人口の自然増を当て込んだ、過去百年の一切の常識は今より後通用しない、人口減の成熟社会には、それに相応しいエネルギー政策なり、福祉政策がなくてはならないと、舌足らずではあっても確かにそのように訴えていた。予想に反してなのか、予想通りになのか、大雪をついての選挙は投票率五十㌫を切って終わった。ひょっとして大化けするかもしれない期待を持った一人として、結果は残念ではあっても、臆せず正面切って、常識に挑んだ七十も半ばの元総理二人が、政治に一つの節目を刻んだことは間違いない。過ちを改めるに憚ることなかれと、そうも訴えていた。まさしくその通りで、いったん現役を退いてみさえすれば、政治に限らず、その世界の常識なるものが、いかに将来に禍根を残すかは容易に見て取れる。二人は忠実にそれを行動に移したまでで、余裕あるものの範としてよい。酔狂は当の本人が一番よく分かっている。

 百年で倍増した人口が、また百年で半減する。きれいに左右対称の波の形であり、こと人口に関しては、数十年単位でほぼ正確に将来が予測できる。同じ波ではあっても半年後、一年後さえ見通せない景気の予測などと混同してはならない。人口は出生数から死亡数を引くだけであり、どちらの数値もそうそうは変わりようがない。多少の変化があっても、世代交代を経て、その違いが数の上に反映されるには、それなりの年数が必要なわけで、人口動態ほどに正確に将来が見通されるデータというのは実のところ他にはない。総務省なり、社人研(国立社会保障人口問題研究所)のHPを一度覗いてみればよい。詳細なデータがいくらでも手に入る。それによれば、数年の躊躇の後、人口が明らかな減少に転じたのは2010年以降であり、選挙の話題に上るタイミングとしては、政治のセンスとしてそれ程悪くはない。

 産めよ殖やせよが貧困を背景にしたものであり、やがては生活の余裕から少産少死の人口減に転じるのは、社会・文化の成熟の指標であり、必然であり、それ自体何も問題はない。生産年齢人口の減少が、所得の増大といった量的な成長に結びつくことはありえず、仮にあったとしたら、実質を伴わないインフレのようなものでしかない。人口減の成熟は、既に充分な蓄積を前提にしたものであり、非生産の老齢人口の扶養に、それが活かされていないとしたなら、成熟に相応しい知恵が不足しているだけのことで、政治の未熟、貧困こそが問われてよい。一説に依れば、この国では平均一人あたり三千数百万円を使い残して死んでいくのだという。実際には、この金額は、当然あって然るべき年金からも見放された、多くを含んだ上での平均と言うことになると、相対的には恵まれた、これも平均的な高齢者については、実際にはこれをはるかに上回る額を使い残しているとみてよい。老齢に伴う健康上、その他諸々のの不安から、使いたくても使えないのであり、これは特権的な一部富裕層の話ではない。おれおれ詐欺といった奇態な悪意が世にはびこる背景はこれであり、寒々しい政治の貧困そのままではないのか。本来は我が老後の、我が為に残した金ではなかったのか。老後に備えてせっせと貯め込んでも、いざその時になれば、使いたくても使えない。豊かな老後のためには、最低でも、この位の蓄積がといった類の計算ばかりが、一人歩きしているだけで、誰しも自らの老後は、その時に至って自ら実感するまで、本当のところは知りようがない。老後は人生の集大成、豊かさの意味は千差万別、人それぞれであるにしても、金は、その額の多寡に関係なく、そのままでは老後を支えてはくれない。

 豊かな老後などと聞くと、一方では悠々自適、晴耕雨読などという、数千年来お馴染みの漢語を即座に連想するのだが、晴耕雨読には、実のところ金は必要としない。居直って、貧を甘んじて受け入れるのが晴耕雨読ではないのか。「ただ静かなるをのぞみとし、うれへなきを、楽しみとす。……もし、なすべきことあれば、すなわち、おのが身をつかふ……もし、歩くべきことあれば、みずからあゆむ、苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心をなやますには、しかず……つねに歩りき、つねにはたらくは、養生なるべし」。前回も引用した『方丈記』の一節なのだが、晴耕雨読の要諦はこれに尽きる。「馬・鞍・牛・車」の類の、スマホも車もテレビもカルチャーセンターも海外旅行も老後にはなくてよい、ない方がよいと、晴耕雨読の達人はそのように言っている。読書に必要なのは、老いてなお広く世間を知る好奇心と探求心であり、金ではない。金は「うれへ」の元であり、「養生」を怠る元でもある。

 老後に金は必ずしも必要がないとして、老後を支える上で、それに代わる、絶対に欠かせないものは何であろうか。土と水と食料・燃料さえ確保できれば人は生きられる。どれも金で買えないことはないが、買うまでもない。それらすべてを直に手に入れればよいだけのことで、それらすべては里山の中にある。それらすべてを過不足無く与えるに足る存在こそが、かつて里山と呼ばれていた。それほど昔の話ではない。せいぜい数十年前、戦後の高度成長前に遡って記憶の隅を掘り起こしてみれよい。当時農家の多くは、まだ台所の燃料を山から切り出し、水は各自の井戸から汲み上げていた。

 峠のこちら側、日本国ではない、我が山国の人口動態を確認しておきたい。ごく近い将来、現在は210万人ほどが、三十年後には167万人と予測されている。逆に遡ってみると、この人口規模に見合うのは昭和初期、実に九十年ほど前と言うことになる。三十年前の昭和から平成に変わる頃はというと、規模において現在とあまり変わるところがない。更に遡って七十年前、敗戦直後1945年も同じく210万人ほどであり、要するにこの間ほとんど横ばいのままといってよい。ということは、この間人口の自然増分はすべて国外に流失していたということであり、里山レベルで考えると、この国の人口200万はほぼ適正な規模とも言えるし、生産年齢人口の減少、高齢化による現在進行中の耕作放棄は、里山の機能回復上に欠かせない調整という言い方もできる。日本国はいざ知らず、この国に関する限りは、軸足を金から里山へ移し、IターンやUターンやらを大いに奨励し、流失した分を取り返しさえすれば、三十年後を悲観する理由などなにもない。

 峠の向こう、彼の地でよく誤解されるのだが、ここ山国の東部一帯は思いの外降水量が少ない土地柄で、もう何年も汗を流して雪掻きをしたことがない。先月二週続けて週末は大雪となった。珍しく所の話ではない。何十年ぶりかの記録的な大雪で、1㍍近く積もり、幹線でトラックが立ち往生し、物流は途切れ、通勤の車は動かず、スーパーもコンビニも食料品を売り尽くしてしまった。家の前の生活道路は、つい先日まで、凍り付いたまま通り抜きできないまま放置されていた。折悪しく灯油も底をつき始め、当座の間に合わせにポリタンク持参で買い出しに行こうと、雪の中から車を掘り出してみると、これまたバッテリが上がっている。幸いなことに最悪期は二三日でまた元に復したのだが、教訓様々で、こんなこともあり得る。悪いことばかりではないない。雪を掻いたり、立ち往生した車を救出したり、日頃ごく淡い付き合いも、この時ばかりは大いに協力し合い、隣人同士親近感を育む良い機会とはなった。運悪く途中何日も足止めに合い、無事帰還した長距離便の隣人には、雪掻きの礼に、四国産の大根二本を貰い、有り難いことこの上ない。早速大鍋におでんを仕込み、これだけでも何日かは籠城可能な気分になれた。いざとなれば、金は使えるかも怪しいし、安心ばかりは金では買えない。すべては人の繋がりに係っている。これはついこの間の3.11でも、かつての神戸の震災でも、当事者のみならず、誰もが学んだばかりではなかったか。

 何も竈と囲炉裏の時代に、また戻ればよいと言っているわけではない。金もないよりはあった方がよいに決まっている。ただ、成長の果てに、その上更なる成長はありえない。成長の果てにあるのは成熟のみであり、それは社会については、差し当たり人口減という形を取る外ない。もし金にも人格が備わり、意志があるとしたなら、更なる成長、増殖をどこまでも目指すというだけのことで、それをもって金の亡者と称し、あるべき人の姿ではない。

 成長とは所得の増加であり、国単位では国民所得ということになる。要するに会社の売り上げの中から、外から持ち込んだ諸々を差し引いた会社の儲けであり、具体的にはこれが、人件費である給与や投資や配当他に振り分けられており、その総和を国民所得と呼んでいる。人口増の下では、生産年齢人口の絶対数が増える以上、放っておいても売り上げは増え、国民所得は右肩上がりに成長する。厄介なことに国単位では生産者は同時に消費者であり、その絶対数が減少に転じ、売り上げが伸びない中で生き残りを懸け、人件費を抑えれば、いわゆる内需も減る。ますます売れなくなる。国内で売れない分を海外に売ろうとすると、これも厄介なことに国際競争ともなれば、途上国に追い上げられ、人件費は更に削るしかない。生産を人手に頼らないで、機械化して、生産性を上げたらどうか。車など物を造るのであれば、それでもよい。これも厄介なことに、既に生産の主流は物からサービスに移っており、最も所得に寄与しているのは第三次産業であり、そこで何が起こっているかと言えば、非正規の雇用ばかりが増え、質の向上は望むべくもない。需要はあっても、働き甲斐のない所には人が集まらない。既に役割の終えた大量生産、大量消費にこだわる限りは、どうにも動きが取れそうもない。これが失われた何年とか称され、政府がデフレ退治に躍起になっている、よく知られた今の姿に違いない。

 人口減という眼前の事実を直視しないことには、どうも何事も始まりそうもない。十年、二十年、三十年単位でものごとを考える、それが今ほど必要な時期はないのではないか。もっとも、それを国に期待しても、政治家に期待してもはじまらない。国や政治家を安易に頼まないというのが、人口減の成熟社会の本道であり、まっとうな生き方かもしれない。里山への回帰、里山を頼りとすることの中には、それもまた含まれているとしてよい(つづく)

峠越えれば(28) 願わずわしらず

2011-07-16 | 峠越えれば

先たのむ椎の木も有夏木立

 峠のむこうとこっちを行ったり来たりしているうち、いつの間にやら、軸足は田舎暮らしの方にかかり、ついには初めての越冬も果たし、もうこの辺で腰を据えてもよいのだが、峠を挟んでむこうとこっち、見る方向が違えば、目に映る光景も同じではない、その妙味はそうそう手放したくはない。相変わらず行ったり来たりしている。

 芭蕉が、奥の細道の長旅を終えて、近江国分山中の廃屋に住み着いたのは、元禄3年春から夏の数ヶ月、その際の心境を俳文に仕立て、締めくくりに置いたのが上の句で、取り敢えずの住み処を得た安堵と、旅の疲れを癒してくれる、庵を覆い尽くした、頼もしい木々の真夏のたたずまいが、そのままに詠まれている。

 峠のむこうの、今はこっちの我が家なのだが、山中にあらず、周囲は耕作放棄の田園ばかりで、風の通りばかりは、この上なくよいものの、真夏の今の時期、頼むに足るほどの木々が、これといって周りにないのが玉に瑕で、昨年来庭にせっせと木を植えている。風が通り、木々が日を遮ってくれさえすれば、快適に夏を過ごせる。電気など一切不要なこと言うまでもない。

 芭蕉がこの幻住庵記を書いたとき、その念頭に鴨長明の方丈記であったことは間違いない。位置的にも、二人の庵は隔たること数キロ、指呼の間にある。山中に庵を構えて、こんな風に日を過ごすのが長年の夢であったかのように語っている。芭蕉ならずとも、たとえ方丈、四畳半の庵であっても、夏に限って言えば、熱帯と化した昨今の都市の住民あこがれの究極のエコライフがどこにあるかといえば、案外こんなものかもしれない。古典とは妙なもので、見よう、読みようでいくらでも新しくもある。

 表題の「願わずわしらず」は方丈記の一節。「わしる」は走る。「わしらず」は走り回ってあくせくしないこと。この箇所、少しだけ引用してみる。

 願わず、わしらず。ただ静かなるをのぞみとし、うれへなきを、楽しみとす。……もし、なすべきことあれば、すなわち、おのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるより、やすし。もし、歩くべきことあれば、みずからあゆむ。苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心をなやますには、しかず。いま、一身を分ちて、二つの用をなす。手の奴、足の乗物、よくわが心にかなへり。心身の苦しみを知れれば、苦しむときは、休めつ。まめなれば、つかふ。つかふとても、度々過ぐさず。ものうしとても、心を動かすことなし。いかに、いわんや、つねに歩りき、つねにはたらくは、養生なるべし。

 「願わずわしらず」、実際にはどうしたらよいかと言えば、ゆっくり歩けばよいだけのことで、「たゆからずしもあらねど」(面倒ではあっても)、何でも手足を使って自分でやればよい。自分のために自分でやっている限りは無理する理由は何もない。いやならよせばよいだけのことで、「ものうしとても、心を動かすことなし」(それをいちいち気にする必要はない)。第一、適度に歩き、身体を働かすことこそが養生、健康の秘訣で、それこそが真っ当な生き方というものだ。

 まったくもって、その通りであり、明快なこと、この上ない。しかし、そうであっても「わしらず」と言い切るのはそんなに容易いことではない。さんざ「わしり」、「わしり」廻され、この世にある限りは「わしる」外ない、その現実をここに重ねてみないことには、この明快さは意味をなさない。方丈記を、芭蕉同様胃中に消化し尽くした、もう一つの例をあげてみる。徒然草の七十四・五段にはこうある。

 蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に「わしる」人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
 世に従へば、心、外の塵に奪はれて迷ひ易く、人に交われば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず。人に戯れ、物に争い、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし。惑ひの上に酔へり。酔の中に夢をなす。「わしり」て急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。

 これまた、よどみなく明快なことこの上ない。方丈記は文庫本にしてせいぜい二三十頁、徒然草に至っては、どこから読み始め、どこで読み終えてもよい。同様に古典中の古典であっても、源氏物語などとは対照的に、ごく取り付きやすいし、原文のまま、そのままに理解できる。そうではあるのだが、方丈記にしても、徒然草にしても、そのよどみのなさが裏目に出て、世を拗ね、捨てた隠者の達観といった程度に、学校教育の弊害もあったりして、適当に読み流されたりもしていることも確かで、そんな常識の枠をものの見事に打ち砕いて、古典の古典たる所以を、これまた明快に解き明かしてくれたのは、今は亡き堀田善衛であったように思う。

 堀田は、その方丈記私記の冒頭に、これは古典の鑑賞でも解釈でもない、「私の経験」であるとことわっている。言うまでもなく、ここでの経験とは、二十代でとことん戦争に翻弄、「わしら」された、堀田の、「私の」終戦と敗戦の記憶であり、今奥付を見ると1971年の刊、もう四十年前になる。堀田が、その「私の経験」を、自らの胃中で消化し尽くすのに、二十年以上を要したことになるし、その時、多分堀田は、方丈記の著者とはほぼ同じ年ごろではなかったか。

 方丈記の著者は、その五十年の生涯に自ら経験した、都の三分の一を焼き尽くした大火、「地獄の業の風」もかくやとばかりの辻風、都がいったんは廃墟と化した遷都騒動、「飢ゑ死ぬる者の類、数も知」れぬ大飢饉、そして最後に「恐れの中に、恐るべかりけるは、ただ地震(ない)なり」と、かつてない大地震の記憶を、次々に呼び覚まし、それを反芻しながら、「願わずわしらず」へと結んでみせる。考えてみれば、堀田がそうしたように、方丈記は、その成り立ちからして、「私の経験」を重ねて読む以外の読み方があるはずもなく、これだけが唯一真っ当な読み方で、解釈したり、鑑賞したりは、実のところどうでもよい。

 もう何年か堀田を通じて方丈記に親しんできて、今またそれを読み直しているのだが、そのきっかけが何であるかと言えば、これはもう言うまでもない。先の三月十一日の地震、津波の大災害であり、更に、これはもう、方丈記の著者には知りようもない原発の惨事であり、それ以外であるわけはない。加えてもうひとつのきっかけは、これはたまたまなのだが、影印の嵯峨本方丈記を読む機会があり、読み慣れた文庫本との違いから、いくつか気付かされることがあった、それによる。

 嵯峨本は活字を組んで製版した、それも一冊ごとにわざと活字の一部を替えた、おおよそ世界の活版印刷の常識に反した、信じがたい豪華本なのだが、精選された古典中の古典として、方丈記も徒然草もそれに含まれている。単純な隠者の達観であるなら、その類の人物が、自ら暇にあかせて写し取って読めばよいだけのことで、こうまでも珍重されたりはしない。

 鴨長明の真蹟が元であるとされている文庫本との違いを一つあげてみる。上の「飢ゑ死ぬる者の類、数も知」れぬ大飢饉の際、あえて、その数を知ろうとした隆暁なる僧がいた。彼は路傍に餓死した者が放置されているに忍びず、せめてもにと、その額に阿の字を書くことで回向に代えようと思い立ち、合わせて、その数を知ろうと、事のついでに、その数を数えてみたのだという。その頭の数、都の路のほとりに、二ヶ月で「四万二千三百あまり」とある。その数日々に増したであろうとも、こうして数えられた数に間違いはあり得ない。

 これが、どれほどに途方もない数字であるかは、先頃の震災の犠牲者数が、現時点で二万八百九十一人、阪神・淡路大震災だと六千四百三十四人であったことと単純に比べてみればよい。この途方もない数を、来る日も来る日もたった一人で数え続けたのだという。堀田は、その行為の意味を、とことん突き詰めて考えてみたのだという。堀田によれば、方丈記の著者も当然その現場に立ち会っていたはずで、この二人が、その挙げ句に、ついにはどのような境地を得るに至ったか。量は質に変じたであろうというような何とも難しい言い方になっている。一方の嵯峨本なのだが、同一箇所を見ると一言「聖を数多かたらひつゝ」と補ってある。要するに隆暁が発起し、幾人かで分担して行ったということで、これだと如何にもありそうな話で、あまりここで考え込んだりしなくてもすむ。考えてもみればよい。二ヶ月で数万、日に千、一日十時間として、一時間当たり百人近く、額に阿の字を記す、何も死者が順番を待って並んでいるわけではない。小説家の想像力というのも、これまた時に途方もないものには違いない。

 方丈、たとえ四畳半の庵でも、夏なら木立に恵まれさえすれば、それなりに快適なのだが、冬はどうか。住はともあれ、衣食はどうする。まさか「藤の衣」「麻の衾」「野辺のをはぎ(嫁菜)」「峰の木の実」で事足りるわけもないことなど、書いた本人が一番よく知っている。多くの語られない省略の上に成り立っている古典は、それ自体が創作であり、だからこそ「私の経験」を重ねて様々に、時代を越えて読まれ、どのような読み方がなされたとしても、それでよいのであり、いずれは多くがこれに今回の原発の惨事を重ねて読むことになる。今はそんな時代に置かれているわけで、残念ながらそうに違いない。

 それにしても、あの日以来「わしる」こと、「わしる」こと。とりわけ人一倍「願う」ことが多過ぎるのであろう、政治を生業とする者たちの「わしる」こと、「わしる」こと。まさに「蟻の如くに」で、相も変わらず国難、亡国、国が、国がと、それのみを言い続けている。方丈記の著者がついには見限った現実と、今の時代、変わるところは何もない。(つづく)

峠越えれば(27) 虫しぐれ

2010-08-30 | 峠越えれば
生きて知るソ連崩壊虫しぐれ  三橋敏雄

 「いつせいに柱の燃ゆる都かな」三橋は、大戦末期に二十代の初めで応召している。生涯戦争を詠み続けているが、そこで何を見たかについては、どこかで語っているのかもしれないが、知るところは何もない。俳人というのはあまり具体的には語らぬものらしい。ことによると、間接的にはシベリアの抑留体験といったものまでも身内に取り込んでいたのかもしれない。

 庭だけは広い田舎屋に引っ越して、このところ虫しぐれの贅を味わい尽くしている。周囲に耕作放棄の荒れ畑に恵まれていることも幸いしている。昨年まで都内の、公園の隣にいたのだが、外来の青松虫の、時雨ならぬ、樹上から降ってくる豪雨のような騒音に悩まされていたのがうそのようで、虫の音が、この国に限って、何故時代を越えて詠み継がれてきたのか理屈抜きに納得するほかない。時に高揚し、時に幽く、遠く近く様々に交響し、音楽とはそもそもこのようなものなのであろう。

 ソ連の崩壊は1991年の八月、帰省帰りの渋滞の中で、ラジオに釘付けになっていたことをよく覚えている。ゴルバチョフの改革のテンポについて行けない、その側近が、クーデターを仕組んだものの想定外の市民の抵抗に動揺し、ゴルバチョフが軟禁先のクリミアからモスクワに帰還するに及んで、主役はいつの間にかエリツィンに入れ替わっており、全能のソビエト共産党はあっけなく解体されるに至る。八月の19日から28日のわずか十日間の出来事で、この年の暮れには、レーニンの、そしてスターリンの国、ソビエト連邦自体がこの地上から消滅する。歴史はこのように急展開することもあるという見本のようなものなのだが、当然それを準備した気の遠くなるような、語られることのない営々とした積み重ねがあったことは言うまでもない。

 三橋の前掲の句は「生きて知る」という予期しない驚きと、永久に変わることのない「虫しぐれ」のやさしい語感が響き合って、偶然の即興の句ながら印象深い。

 小説の類とはあまり縁がないのだが、今年逝った井上ひさしと立松和平には、その風貌に好感し、そこそこ作品にも親しませてもらっている。前回の丸山健二のように、風貌には好感のしようのない小説家とはよい対照で、人柄が作品を呼び込むことがあってもよい。虫時雨の中で、井上ひさしの『一週間』を読み終えたばかりで、多分訃報がなければ、読む機会を逸したのかもしれない、この戦後日本を代表する戯作者の遺作は、ことによったらその集大成といってよいのかもしれない。

 十日とか一週間とか、わずかな期間に絞り込んで長大な物語を紡ぎ出す手法は珍しくないのだが、時を追って展開する奇想天外な成り行きに、膨大な史実を登場人物の経歴に絡めて語り込んでいく手際はさすがで、近世以来の戯作の究極の到達点なのかもしれない。

 この月曜に始まり日曜に終わるシベリアの捕虜収容所を舞台にした物語を着想した時、井上の念頭にソ連崩壊に至る十日間があったものかどうか。『一週間』最初の月曜の出来事が雑誌に載ったのが、ソ連崩壊のほぼ十年後の2000年の二月号、日曜のあっけない(それでよいのだが)結末は2006年の四月号に載せられている。その間、どれほどの史料を井上が漁ったものか見当もつかない。

 非合法の地下活動に関わった若者が、同志に裏切られ特高の拷問を凌いで満州に渡り、Mなる裏切り者の行方を追い続ける。その間にソ連の侵攻により満州国は崩壊し、四十代に至ったかつての若者もシベリアに抑留されるが、持ち前の正義感はいよいよもって盛んで、収容所の関東軍将校の食料のピンハネに断固として立ち向かう。ひょんなことから(そうに決まっているのだが)、この主人公がレーニンの手紙なるものを手にしたことから、収容所に巣くう関東軍将校に加えて、それを管轄するロシア人将校までも敵にまわして、たった一人の痛快な大活躍が始まるのだが、それはそれとして、問題はこの手紙であり、ソ連崩壊このかた、そんなものがあっても誰も不思議とは思わない、そっちの方の現実であり、歴史に翻弄された者は、その傷に見合うほどは歴史に学んでいることは間違いない。
    
 そのレーニンの手紙に何が記されているか、井上得意の会話を少しだけ引用してみたい。以下、レーニン、ウラジーミル・イリイチと同年生まれの、共に法律を学んだチェチェン人の老人と、モスクワに近い日本人捕虜収容所から、トルコに向けて三千キロの脱走を敢行した軍医中尉とのやりとり。

「どうしもよくわからないなあ。どうしてモスクワ政府はそんなふうに少数民族をあっちこっちに移そうとしているですかねえ」
「レーニンの後継者たちは少数民族の抵抗をおそれているんだよ。とりわけチェチェン人の中にはコーカサス山中に立て籠もって、いまだに中央政府に抵抗している猛者たちがいる。彼らが核となって平地のチェチェン人を組織し、大規模な抵抗が発生するのではないかと警戒しているのだろうよ。だから、〈すべての民族集団の高い統一に向けた同化〉という美しいスローガンを高く掲げて、再定住計画なるものを進めようとしているんだろうね」
「いやに長ったらしいスローガンですね」
「ソ連邦を構成するのはただ一つの民族であるというバカな夢を見ている阿呆どもがモスクワには大勢いるということだよ。そのために少数民族を地上から消そうとしている。それが統一に向けた同化の真の意味だね」
「……なるほど」
「もっと云えば、モスクワの指導者たちは、過去を変えようとしているのだね。そして彼らは、〈そうやって過去を支配できれば、未来までも支配できる〉と信じている。まったくバカな話だ。過去にあったことはあったこと。どんな権力者にも、それをなかったことにはできない。そんな簡単なことも理解できないのだから、阿呆も阿呆、阿呆の行き止まりだな。……それにしても、民族自決というレーニンたちの革命の理想が、こんなに早く、ここまで堕ちるとは思ってもいなかった。……」

 件のレーニンの手紙には、自らもまた他ならぬ少数民族、カルムイクの出であることを告白し、「少数民族のしあわせをいつも念頭において政治闘争を行う活動家になることを誓います」と結ばれている。モスクワの阿呆ども、シベリアのその手先どもが血眼になって当然の代物ということになる。カルムイクの集団再定住に抗議して、これはごく最近のことなのだが、肩に傷を負った老人が許せないのは、レーニンが、この手紙の二十三年後、革命の翌年には、社会主義の利益は、諸民族の利益にまさると公然と言い切り、社会主義の大義を振りかざして臆するところのない、その政治、国家至上主義であり、老人は、それをレーニンの変節、革命の堕落と断じている。カルムイク十万の強制集団移住の途次、一万五千の犠牲、これもレーニンの変節の延長上に当然起こるべくして起こった、老人の目にはそう映じている。

 雑誌連載後、加筆の予定があり、そのまま放置された、この大作のテーマは実に分かりやすい。『吉里吉里人』も、この『一週間』も変わるところはない。井上が一貫して描いているのは、政治を、国家を至上とする者たちが、肝心のその拠り所とするそれ自体が、予期しない事態に遭遇し、揺らぎ、危機に瀕した時、諸々の欲まみれの、その本性を満天下に曝し、右往左往する滑稽な姿であり、政治や国家ほど常に揺らぎ、時に危機的な様相を呈しやすいものはないという、いつの時代にも、どこにでも見られる見慣れた、お馴染みの光景ということになる。

  繰り返しになるが、歴史に翻弄された者は、その傷に見合うほどは歴史に学んでいることは間違いない。相も変わらず、危機だ危機だと触れて回り、この国を何とかしないことにはとか、国がダメになるとか、国を任せるとか、任せられないとか、今こそ豪腕がとか、人一倍大きなものを担っているかの顔をして、声高に言いつのる向きには、いい加減見切りをつけてよいように思える。政治や国家の、あるいは政治家のあり得べき姿は多分、そのもう少し先の方にあるはずで、井上もまたそれが言いたかったに違いない。(つづく)

峠越えれば(26) 猿と化す

2010-04-12 | 峠越えれば
 新聞はここ何年か日経を取っている。新聞はニュースだけを迅速正確に届けてもらえばそれでいいのだが、どれも論評や解説やらのお節介ながうっとうしく、その分まで金を払わされてはたまったものではない。いずれそのうちネットに取って代わられ、紙面に印刷された新聞なるものは自然に消滅するほかないのであろう。日経にしているのは、政権交代以降、「成長戦略がない」との一点張りで無い物ねだりのお節介をやき続けており、立場が単純で分かりやすく、ニュースやデータを拾いやすいという、それだけなのだが、加えて文化欄というおまけがついていて、最近では日経にしている理由は主にこれによる。

 ついでながら、日経平均という分かりやすいデータによれば、ここ四半世紀以上も、この国の株価は均せば見事に横ばいのまま、成長ゼロであり、その間かの国のダウの方はといえば何倍にも増えている。他の新興国においておやなのだが、だからといって暮らし向きがこの間格段によくなったというような話はもれ聞かないし、ずるずるとアフガニスタンやイラクで泥沼の戦争にはまりこんだまま、そのあげくに、つい先年の百年に一度の金融破綻ではなかったのか。案外一見横ばいのこの国の方が時代を先取りしているのかもしれない。成長を望まない民意というのもあってよいし、必要な場合もあろうし、程度ということもある。せっかくの政権交代で、成長それがどうした位に居直ってもよさそうに思えるのだが、どうもそうも行かないというあたりが、現政権の限界なのであろう。

 新聞の文化欄というのは、その論調の埒外に置かれているらしく、丸山健二がそこによく登場していることに最近まで気づかなかった。この作家に関心を持ったのは昨年来のことで、長く見過ごしていたのかもしれない。妙な取り合わせにも見えるのだが、どういう縁によるものか、結構古いつきあいなのかもしれない。

 きっかけは、峠のむこうで朽ち果てた物置やらを取り壊したら、ぽっかり空き地が生じ、石だらけのそれを菜園に変えるのも一苦労で、庭に仕立てようと思い立ち、あれこれ思案をめぐらしている中に、丸山の『新・作庭記』と出会ったということで、その次第については既に書いている。(23 魚降る)

 変わり者とか孤高とかいうような看板に加えてスキンヘッドのただ者ならぬ風貌に怖れをなしたか、ついにその「文学」に触れる機会のないまま、それでも峠のむこうの住人であることから、どこかで親しみを感じていたのかもしれない。もう何年も小説の類は、藤沢周平と内田康夫くらいしか読んでいない。他の誰彼に金を払ってまで読もうという気にはならないし、それで間に合っているつもりでいたのだが、『新・作庭記』の義理で、時代小説なら読めそうな気がして『日と月と刀』上巻を買っみたものの、十頁ほどで投げ出してしまった。行けども行けども「、」ばかりで、こんな体のものを世間はどう見ているのか、それが気になり書評をいくつか拾ってみた。中にひとつ、アニメの台本にしたら面白かろうというのがあり、何となく腑に落ちた気がして、暫くしてもう一度読み直してみた。

 結果がどうであったかというと、今度は一気に読み終えて、下巻の途中からは残り頁が惜しくなり、読後の充足は藤沢周平などに変わるところがない。ついでに続けて何冊か読ませてもらい、不甲斐ない今の日本映画では、その希な資質の全てを引き出せまいとする、主演高倉健なる小説『鉛の薔薇』は殊の外面白かった。

 庭作りの参考になりそうな気がして、丸山が撮りためた花の写真集も何冊か買ってみたのだが、間近に北アルプスの山並みを借景とする自慢の庭はうらやましい限りなのだが、こっちの方は我が家の庭とは縁がなさそうなことも、遅ればせながら思い知らされることとなたった。孤高が売り物であっても、丸山が売れないわけはなく、その「文学」で稼ぎ出す金は途方もないものであろうし、それをすべて庭につぎ込んでいるとしたら、自前の労力と時間の外は何もない庭作りには縁がない。知り合いの持ち山から山桜やら躑躅やらを掘り出し、その辺の石を組んで庭に仕立てようというのが目下の計画で、金は一切使わない。ないものは使えない。一介の郵便配達夫が、配達の途次拾い集めた小石を積んで、後世に観光名所となるまでの宮殿を築いてしまった例もある。

 丸山ファンになるきっかけとなった『新・作庭記』と同じ時期に偶然目にした日経に連載されたエッセーの一部を引用してみたい。息の長い文体はここでも変わることがない。(「花の心髄人の核心十選」日経09.8.20~9.4)


……庭を作ることと、小説を書くことの両方を並行する日々において、のべつ感じる自身への問いかけは、果たしてどちらの命が永遠なのかという、愚問のなかの愚問である。この宇宙ですら永劫な存在ではないにもかかわらず、たかが植物、たかが文学が不滅のはずはなく、双方ともに短命であることは自明の理と承知しているのだが、芽吹きの季節がおとずれるたびに、あたかも永遠のとば口に立てたような錯覚にとらわれ、ついついあらぬことに思いを馳せてしまうのだ。……枯れない花がないように、朽ちない芸術もない。どのように永遠を夢想しようと、それが現実であり、真実なのだということに気づかないくてはならない。仮に永遠の命が存在するならば、それは永遠の死を意味する存在でしかないであろう。なぜとならば、死を避けられない命であればこそのせいの輝きであって、つまり、死がなければ生もまたあり得ないのだから。…… 花を愛する者に悪人はいないという、広く知られた言い回しは、もしかすると花愛好者自身による自己弁護の最後の拠り所なのかもしれない。悪人と善人という一刀両断の単純で粗雑な区別はさておき、私自身もふくめたかれらが、そんなきれいごとに飾られた人間でないことは言わずもがなである。花の美しさでもっておのれの内なる醜さを隠そうとしているのが真実の姿なのだ。世間や他人の醜さを遮断するための、つまり、防壁の意味をこめた花のはずが、いつしか化粧の意味合いにすり替わり、譴責を逃れんがための方便と化し、それなしでは一日も生きられなくなってしまう。そして花さえ周りにちりばめておけば、いかなる誤りを犯しても気づかれず、自分さえもあざむき通すことができるという大いなる錯誤に陥り、上辺の美が当人の醜の引き立て役に回っていることも知らず、絵に描いたような善人を演じ続けているうちに物笑いの種となってゆく。……この世に在りながら、せめて自宅の周りだけでも天国の雰囲気をかもしてみようともくろみ、庭作りに精を出す者たちを大別すると、三つに分かれる。花園をめざす者と、菜園をめざす者と、その両方をめざす者。……さいわいにして飢餓への危機感が当たり前だった時代と社会からだいぶ離れて生きてゆける立場の私は、菜園を拒否し、もっぱら花園を追求してやまない者となり、腹の足しにはなり得ない美をむさぼり食っている。だが、胸のうちのどこかでは、一寸先の闇としての食糧難をのべつ気にかけている、もうひとりの原始的な私がいて、芸術的に過ぎる私とのあいだでかなり激しいバトルをくりひろげている。……


 たかが庭作り、手抜きして一夏放っておけばどんな名園も薮と化してしまうことなど誰でも知っていると思うのだが、そこで永遠の命と死が語られ、善人と悪人の葛藤、果ては天国にまで思弁をめぐらせてしまうのだから、丸山が並の小説家であるわけがない。その過剰に過ぎる思弁がところを得たとき、奇想天外な傑作が生まれるべくして生まれて当然であり、近作、一度死んだ陸軍二等兵が猿と化して詩作にふける物語(『猿の詩集』)は、日経に本人が予告を書いていた時から期待した通り、丸山の作品の中ではこれが一番面白かった。先の展開を予想しながら当たったり、裏をかかれたり、肩すかしをくらったり、残りの頁が惜しくて途中で読み進めるのをためらうような小説がそうそうあるものではない。

 敗戦の二年前、昭和十八年生まれの丸山が、戦争とその後の混乱を実際に体験できるわけのないのだが、今にして戦争が後を絶たない以上、それを書ききるのに必要なのは、体験の有無ではなく、それにふさわしい想像力と思弁と文体でしかない。戦争が何であるかをここまでリアル書ききることが、はたしてこれまでできていたのであろうか。丸山の過剰に過ぎる思弁がその庭作りと無縁でないとしたなら、この関係はぜひ探求してみなくてはならない。

 小説は、南の島の戦場で飢餓と戦傷のあげくに、敵兵ならぬ上官に眉間を射抜かれて一度死んだはずの若い農民兵が、死にかけた老いた猿の身体を借りて二度目の生を得て、蘇生する際の偶然から詩人の魂をも取り込む仕儀となり、故郷の敗戦後の混乱を見守りながら、我が身の生き血をインクに代えて、戦争の真実を後世に書き残すべく、長大な詩集の完成を目指すというもので、丸山の滔々として尽きない思弁抜きに、こう要約してみても荒唐無稽なだけで何の意味もない。詩人の魂を宿した猿が、口の悪いカラスの夫婦を友として、詩作に必要な羽ペンを、自らの尾羽を抜いて提供する鳶が、その眼に映った世の有様を、テレビ画像よろしく猿の脳に直接届けるというような小説の仕立て方を丸山がどこで着想したのか分からないが、この荒唐無稽に耐えられる方法が、丸山の小説以外にもしあるとしたなら、それはやはりアニメしかあり得ない。大戦間のアドリア海を舞台に、殺すのがいやで軍隊に背を向けて豚になった飛行機乗りの話が宮崎アニメがあったが、猿と化した陸軍二等兵の物語も、その最良の才能を集めればやれそうというか、本来がアニメのような小説といったほうがよさそうな気がする。アニメが、映画や小説以上に多くを語ることもある。(つづく)

峠越えれば(25) 商に帰す

2009-09-29 | 峠越えれば
 以下、前回の続きで松平定信の『国本論』、巻末を引用してみた。やや文意が不明確な箇所があるが、元々の口実筆記に無理があったか、繰り返し行われた写本によるものか、いずれかであろう。

 「人君深窓に居して下情を知らんとならば、よろしく学文をし、六経史、諸子百家の書を洽見すれば、下民の情、稼穡の苦しみ、章々として明か成べし」 同じ『国本論』の中にこんな言葉もあるのだが、『国本論』自体が、そのような定信の教養の産物であり、どこか非現実的であり、文学的とも読めるのだが、「貪吏」「猾吏」「貪官」「黠胥(悪賢い小役人)」「盗臣」「姦臣」「邪臣」といった、或いは「苛政を恐るヽ事虎の如し、貪吏を恐るヽ事狼の如く」といった言葉の背後に、定信が田沼金権政治の現実を見据えていたこと、これが義憤の書であることは確かで、単純に文学と言って済ますわけにもいかない。 

 文学的であったとしても、それはそれで問題はない。時代の核心に触れるためには、その方が間違いがない。本質が問われる時代の節目が、危機という形をとるのだとしたら、教養や文学の素養のない政治家に手に負えるはずもない。「人情は天下一つにして、我が悪む所、好む所は又人の悪む所、好む所なり、我が心をして是を計れば、天下の人情胸中に歴然たり、されど人の私を以て計るべからざる也、人君常々に思ふべし、宮室の安、妻妾の奉、衣服飲食の美、我が欲する所也、民も又人也、我に異なる事なし」これもまた『国本論』の中にあるのだが、これ位の気概がなくては、危機に立ち向かうことはできない。そして、我が悪む所を、そればかりを人が好むという、「人の私を以て計るべからざる」現実に、立ち向かわざるをえないのが政治であるとしたら、これは随分と厄介なことにならざるをえないわけで、こんなところに本来模範解答などありはしない。まずは程々の理念を掲げる者の側にエールを送り、健闘を祈る外ない。中道左派といった政治のポジションは、危機の質によっては、意外と成功する確率は高いように思える。

 定信はこんな言い方もする。「民多く流れて商となる」、「農終に商に帰す」と。商がはびこるのは、苛政と天災(天旱水潦)の結果であると。また、天災は苛政の果てであり、苛政は官吏の腐敗に依り、人君(君主)の暗愚も臣の不明に依る。商と盗は乱世の象徴であり、そもそもが紙一重。これを農本主義と括ってしまえば、それだけのことなのだが、一方で教養というのも厄介で、時代を超えた経験の蓄積であり、その古層は既に遺伝子のレベルにまで刷り込まれいる。時代の節目となる、危機の背後に、常に農が商に帰す現実があることは、定信の時代も、今も、実の所それほど違いがあるわけではない。「商の利を射るや豊年に於てし、凶年に於てす」(それがため「豊年は凶年より劣れり」) 危機だろうが、破壊だろうが、戦争だろうが、なんだって利に変えてしまうのが商であり、商が農のように、自律した理(理念)を内に持つものでないとしたら、それをどう使いこなすかが政治ということになる。使いこなすどころか、理を欠いた政治は容易に商に絡め取られ、それと一体と化し、利を摺り合わせることをもって、それを政治と錯覚するに至る。

 余計なことを言い過ぎてしまった。以下は、前回『国本論』のつづき。「」付は漢語の恣意による意訳。


一 唐の徳宗、民に問に豊年の楽しきを以て
す、実に民情を知らずと言ふべし、豊年は凶年より
劣れりと言へるも更に激論にあらず、いかにと
なれば、豊年は粒米「下値になり」、牛馬に米を負せ、
はるかに郷を出て是を鬻ぐに、その銭猶「僅かを手にして」
帰るべし、それのみならず、貪吏豊年に乗じて
租税を増し、責逋する者これに乗じて来り、
或は数十年前の貸す所を責む、米粟尽くるにあらざれば
止まず、田夫蚕婦首を垂れて郷給(郷倉の支給)せんとす、終に
償ひに足らざれば、また転じて借る、利息
したがつて倍々、昔の数百俄にして数千、昔の
千銭俄にして万銭、一年のかヽるところ累歳
償ふ事能わず、終に子孫にわづらひを残す
に至る、これ豊年の憂なり

一 狡斂苛政色目螺の集るが如きの上、天旱水潦互に
来る、爰によつて民多く流れて商となる、
それ商の利を射る(狙って取る)や豊年に於てし、凶年に於て
す、豊年は粒米「下値になれば」多く是を買て
倉廩に収め、凶年米価躍貴するに及べば「米を売る」、
爰に至て損なくして益を得、農民は常にその術中
におちて益なくして損を得、商家は此に於て、衣は文采、
食は累肉皆にのり、肥たるを策(むちうち)、糸を履き縞を曳
て、王侯と交通し、力は侯よりも勝れり、農夫は
膝行敬事する事奴隷の如し、これ農終に商
に帰するゆへんなり、その商にいまだ帰せざるは、四時
身を苦しめ力を労すれども、分厚の益を得る
事なく、人禍天災多く、桑をきり屋を廃し、
田器を売り田を鬻ぎ、ついに妻を鬻ぎ子を売り、
泣血分袂し握手号呼す、それ夫婦の情一日
あわざれば唯三秋の久しきが如くにして、これ
を思ふ偕老同穴なお満てりとせず、況や今生
永くして別るに、夫通ふが悲しみは生別離より
悲しきはなしと言ふ、あにしからずや、それ父母の子を
愛するは天情也、暫時見ざれば是を想ふ、子朝に
出て暮に帰れば戸に出て待ち、又遅ければ心を
安ぜず、偶々疾病有れば、医を招き薬を与へ、
神に祈る、得難き薬も力をきわめ、財を不惜し
て是を求め、招き難き医も秦楚(遠隔の地)を遠し
とせず、自ら至て是を迎ふ、神をして
祈らざるはなく、その財を惜む事なし、たヾ疾の
癒へざらん事を恐る、実に千金を以て一稚(幼子一人)に
かへむとし、頭をのばし刃を受くるに至るも
猶あへて厭わずに、家に妻を鬻ぎて一二
片の金を得、十余歳の児をうりて、僅か三五日の
食にかふ、是いかなる義ぞや、共に死て益なきを知
ればなり、疾苦だに堪えざれば、爰に至りて、或は溝壑(谷底)
に転死す(身を投げ)、或は盗となる、或は村を離れて流浪す、
家業を捨て、墳墓を捨て、弊衣涙をおほひて、これを
去る、四隣もまた共に涕泣しこれを送る、それ
親死すれば、常に墳墓に至て、その見る所の主の思ひ
をなす、一月墓に至らざれば、一月親を見ざるに
等し、今邑を離れて終身親を見る事を得ず、
親戚四隣艱難全くめぐみて、一年会わざれば
弁ずる事を得ず、故郷の忘れ難きは凡そ人情也、
胡馬の北風にいなヽき、越鳥の南枝に巣くふの事は
鳥獣猶然り、今邑を離れて、身故郷を慕ふ、
その心如何ぞや、その溝壑に転死するは、その哀み
言ふべからず、群盗となるもまた憐むべし、民思へ
らく、餓死と等しく死するや、飢や必ず死す、盗は
幸に死せざるにも至るべしと、是によつて米粟
のある所へは群趨して赴く、それ陳渉秦を乱し、
赤眉王莽を亡し、黄巾漢を覆し、
李特晋の首(はじめ)乱をなす、人君是を思ひ、是を
恐れ、是を絶ち、是を養ひ、是を育せば、
長く天命に叶ひ、天職に当たり、天禄を保ち、
天民の上たらん、是を心に銘じ、骨に
刻て、造次顛沛(咄嗟の場合)の間も忘るまじき事
明らむべし

峠越えれば(24) 骨に刻む

2009-09-26 | 峠越えれば
 松平定信の『国本論』がたまたま今手元にある。文化七年の写本で、かなり誤字が目立ち、不正確なのだが、それだけ繰り返し写本が作られ、当時よく読まれたということなのであろう。定信の没年は文政十二年、当然この時期まだ本人は生存している。

 「骨に刻む」とは、その末尾にある。心や肝に銘じるだけで済ませない所がよい。自ら書き記した事を常に念頭に置きたいと、これは定信の自戒でもあるのだが、並の政治家には言えそうもない。

 文武両道で鳴らし、事実柔術の達人でもあったらしい定信なのだが、生来虚弱であり、これは病臥中の口述筆記とされる。医者から読書も禁じられ、専ら記憶だけを頼りに、それでもなお、このようなものを世に問わずにはいられない、それが定信の政治家としての資質をよく示している。

 ここ何年か地方文書をそれなりに読んできた、その目で見ると、内容はかなり荒唐無稽であり、古典の教養や理念ばかりが目に付く、それだけのものとも読めるのだが、その後の定信の政治家としての位置を視野に置いてみると、どうもそうとばかりも言えない。『国本論』は定信二十三才の作、養子先の白川で、この時期既に実質的に家督を相続し、藩政に関わり、それなりに実務にも通じている。もっと現実に即した書き方もできたはずなのだが、ここでは幼時からの読書の成果である教養のみで押し通している。

 定信二十三才は天明元年、奥羽餓死数十万の天明飢饉が始まるのは、その三年後であり、家督を正式に譲り受けた定信によって、白川のみに限れば、その未曾有の危機に十二分に対処できたのであり、このような場合、政治家に求められる資質がまずどのようなものであるかは、このような所からもよく分かるとしてよい。

 言うまでもなくこのような事を書いている、その半分は当て擦りであり、百年に一度の危機とやらの政変劇を、それも随分お粗末な形で、目の当たりにさせられての、鬱憤晴らしが念頭のかなりを占めていたとしても、これはまあ仕方がない。「友愛」また結構であり、教養とも理念、理想とも、その欠片さえも無縁な政治には誰もがうんざりしている。定信を引き合いに出すまでもなく理念の危うさなどという、知ったか振りは、それはそれで、この際脇に置いておいてもよい。

 『国本論』は断片的にはあちこちで引用されてはいるが、ここはやはりある程度まとまった形で読んだ方が、定信の政治家としての資質を問う上では分かりやすい。少し長くなるが引用してみたい。意味のとりにくい漢語は「」付きで意訳し、語句も統一し、若干読みやすく工夫してみた。いつの時代であれ、官僚制度というのは政治にとって厄介な課題であることは何一つ変わっていない。定信の言いたい所はそれに尽きる。


一 収穫の頃、有司(役人)数十百人阡陌(耕作地の間)を巡行す、来りて
至る事遠ければ、必ず民家に宿す、その供する事
少く疎かなれば、或は賦税を増し、或は日役を
与ふ、民これを恐る事虎狼の如し、道を作り
橋を作り、泥土の中に平伏して、これを迎へて恭
敬す、飲食・衣服・枕衾の類美を尽し、善を尽
して供奉す、唯その害を受ん事を恐るヽ故
なり

一 民、賦役に当れば、道路・橋・堤を作り、又は旅人を
送り、伝馬を出す、農事といへども、その役に当れば耒耜(すき)
をすてヽ糧を負ゐて、或は五六里、或は十余里
を経て、市中に出、終日労して、猶一銭を得ず、却
て殴杖せられ、恐匐せられ、役より帰りて田を見
れば、狠莠(雑草)生じて、又収むへからざるに至るあり

一 国家の大費ある毎に、必ず国黄金数万をして民より
出さしむ、一県幾何、一戸幾何数を以てし、貧富
の品なく、一定にこれを取、その内の多少、厚薄は又
猾吏の心にあり、それに民は田租猶これに苦しむ、
況や場圃(畑)及び戸よう(家の壁)、布帛の賦をや、これのみならず
して、人に賦し、車馬に賦し、酒茶に賦し、
又前年の租を出さしめ(収穫前の前納)、又は故なくして金銭
を出さしむるの類、真に絶えざる所なり、この外聚斂、
苛政猶数ふるに暇あらざる也、人禍大概如斯に
して、天地の変災時となく至る

一 旱すでに甚しく、田水忽に涸れて、稼禾(穀物)見るが内
枯槁し、草花みな黄に変ず、爰におゐては金鼓
を鳴らして、天に雨乞とも、只農民の頼む所の井も既に
尽れば、渓水を争ひて田に導く、渓水即日に
涸れて、遠く江河の水を汲む、老幼皆出て、人
毎に壺瓶を堤て、往返二三里にして郊外の
水を持して、是を注ぐ事終らずして忽に
涸る、ここに至て力窮し、唯唯々然として倶に
天を望み号呼悲泣して止ず、これ旱天の苦也、
又霖雨数日晴れざれば、農民の憂、常に河水
の流るヽにありて、皆郊野に至て、土を運び堤
の蟻穴を補ふ、ついに河水蕩々として、山をかけ、
陸をのぼるの勢あり、人々皆堤の上に集りて大に
呼りて洪水を防ぐ、水勢いよいよ盛にて人
力の及ぶべきにあらず、忽ち梁を破して漲り来
る、その勢ひ盆水を覆するが如く、河水に家屋直に
縹渺す、老幼道に迷ひ、人々号呼して
奔走し、或は屋上に登り、或は林樹を攀じ、漂ひ、
樹抜すれば、同じく魚鼈の腹に葬らる、幸に
して全きも、食尽き力窮すれば、終に水中に
堕て死す、洪水数日して引ければ、万頂一毛の
助かるを見る事なし、父子相失ひ、ただ溺死の速
やかなるを羨むのみ、これ水潦(長雨)の苦しみ也、 
或は凶年五穀実らずして、人煙ついに絶ゆるに及て
魚蝦螺蚌をとりて喰ひ尽る時は木皮草根を喰らふ、
終に「病み、衰弱し、腹を空かせて」呻吟す、
面は人色反て、形は鬼魅の如し、気息奄として
朝夕保つべからざるに至る、これ飢饉の苦しみ也
或は疾疫流行して、戸々相死し家々相疾む、
室皆疾て食を炊ぐの人なく、薬を煎ず
るの人なく、死して葬の人なし、子は父の側に
て死し、妻は夫の側にて死す、己もまた死するに
臨んでは臥転して号慟す、幸にして
疾癒るといへども、「肥を撒き草を伐る」その時を失うに依
て、稼禾枯れて狠莠(雑草)のみ茂し、人その稼禾(穀物)を得ず、
これ等疾役の苦しみなり、或は蝗虫群飛し山を
おヽひ野に満つ、聞は風雷の如く、集まる事又雲煙に
似たり、一度集まれば田中須刻にして青色
なし、これ蝗虫の苦しみ也、如斯の禍あれば、民
みな走り有司に訴ふ、有司その虚実を糾し、
数日にしてこれを上に聞す、諸有司を経て終に
上に達す、人君これを聞て、疾く有司に命じて
その疾苦を救はしむ、その命も又諸有司を経て
下る、爰におゐて既に旬月を経る也、有司の命
を受るも又籍書を念として、生霊を以て念と
せず、金銭、米粟を点検し、或は後点(事後の評価)を恐れ、
或は文作にかヽわる、ついに大費を恐れて賑じゅつ(施し恵む)の
策を尽さず、衆議漸決して是を行ふの時、民
十に三四は既に禍にかヽりて蘇息する事を得ず、
その金銭米粟を与ふるも、厚薄多少はまた貪官
黠胥(悪賢い小役人)の心にあり、爰に依て窮民却つて
得る事少し、富民却つて得る事多し、発廩(米蔵を開く)の令、
斉銭(金融を整える)の命下れ共、実に恵みなくして、却つて怨を
下に帰す、これ聚斂の臣、盗臣に劣る所以也、

              (『国本論』以下つづく)

峠越えれば(23) 魚降る

2009-07-16 | 峠越えれば
魚降りし市の噂や夏の雹  内藤鳴雪

 「(22)土降る」以来、思いの外半年ほど中断してしまった。その間おたまじゃくしやら何やら、土や灰どころか、思いがけないものが空から降ってきてたりしたのだが、この手の話の常で、その気になって見さえすれば、それほど珍しいことでもないらい。あっちでもこっちでもと一時話題になって、数を競ったりしていた。理由のよく分からない話というのはいつでもある。空からザリガニが盛大に降ってくる漫画がたしかあったような気がするし、不思議ではあっても、ありえない話ではないのかもしれない。

 内藤鳴雪は、弘化四年に生まれ大正末に死去した、松山藩士の長男。俳号は、「世の中のことはなり(鳴り)ゆき(雪)にまかす」から。親交のあった子規よりは二十年上になる。おたまじゃくしや魚が空から降ってくれば、噂にならないわけはないのだが、それを夏の雹に結んでいるところが俳句で、一瞬にして黒雲におおわれ雷をともなって雹に打たれる驚きは、魚が降ってくるそれとはよい対照になる。

 魚やおたまじゃくしやザリガニが降っても、あれこれ憶測を生むだけで、実害として何事かあるわけではないのだが、雹となるとそうはいかない。手塩に掛けた野菜や果実が一瞬にして無惨に傷つき、ビニールハウスなどはいとも容易に破られてしまう。信じられない大きさの雹があるし、空から降る、これ以上厄介なものはない。一度都内の河川敷で自転車をこいでいる最中、通り魔的に襲われたことがある。ほうほうの体で近くの民家へ避難した。心底恐ろしかった。

 思い立って、峠のむこうの我が家の、いささか目障りであった、家の前の古井戸やら物置やら竹藪やらを片付けたら、そこそこの空き地が出来、土がむき出しになっている。畑には狭すぎ、庭には広すぎる。どうしたものか迷ったが、これも思い立って、やはり庭にすることにした。牡丹、芍薬はれっきとした薬用植物で、花も楽しめる。その類の薬用のものに限って、身近にそれを植えてみたいとは、以前からの望みではあったのだが、さてこれで庭を造るとしたら、まずはどこから始めたものか。

 峠のむこうでも、丸山健二の名前だけはよく知られている。文学とは縁がないので、これまで作品に触れる機会はなかったものの、上の成り行きで、丸山の近著『新・作庭記』を早速読んでみた。想像していた通りで、自前の庭を自力で築きたいのだが、それは途方もない体力と労力と根気のいる、無謀に近い試みであることはよく分かった。「作庭は究極の遊びにして至高の芸術」といったようなことについては、この際目をつぶって、丸山の貴重な体験の中から、以下そのまま参考になりそうな点をいつくか拾ってみる。まずは雑草との格闘。

 これは多少心得がある。わずかばかりではあっても、現に菜園を維持しており、耕耘(草伐り耕す)が農の基本であることよく知っている。雑草が難敵である点は、菜園も庭も変わりはない。問題は除草剤であり、菜園ならぬ庭であったら、ついついずぼらを決め込み、使うことがないとも言い切れない。胡瓜や茄子以上に、花卉を愛する丸山が、それを断固退けるのは当然で、要するに自分の手で雑草を始末できるまでが、己の庭の広さと考えればよいのであろう。丸山が書くとこんな風になる。

……草取りに没頭しているとき、私の頭は無へと近づいてゆき、心はえも言われぬ充足感に満たされてゆく。わが存在そのものが庭と一体化し、その一部になったような気分とまではゆかないまでも、のべつ付きまとっているさまざまな自意識の数が半減し、それでいておのれをはっきりと自覚することができるという、何とも奇妙で、何とも心地よい状態に投げこまれるのだ。最も特徴的なのは、時間の流れを完全に忘れ去っていることだろう。……ぎらぎらの太陽が真昼の勢力を保ったまま北アルプスの峰へと迫り、夕方の涼しい風が吹き始め、そこかしこではヒグラシの声が響くようになり、陽光が急速に弱まってゆくなかで、私ははっと我に返り、やり過ぎを悟って、ようやくその日の草取りをやめる。水道の蛇口からほとばしる水の美味さをどう表現したらいいのだろうか。こんなとき、左党の連中はビールのことで頭がいっぱいになるのだろうが、下戸の私としては水のことしか思い浮かばない。水こそが最良の飲み物であるという信念は、六十数年生きても微動だにしないのだ。植物たちが水以外の液体を拒否するのと似ているのかもしれない。ということは私という人間は植物的な人間なのだろうか。……

 前段の方は同感というか、半分くらいはその感じがよく分かる。草取りに限らず、農作業のよいところは、夢中になって、ふと振り返ってみれば、仕事の成果は一目瞭然、これ以上ないほど分かり易く見渡せることであり、時にそれは恍惚を誘うことがある。後段については、ここまで書かないことには気が済まないのが文学ということなのであろう。左党であったにしたところで、ビールは美味いし、水がそれ以上に美味いことくらいはよく知っている。

 家や塀など建物の際に高木になる若木を植えるなというのは分かり易い。すぐに成長するのが分かっていても、なぜか敷地のぎりぎり端に植え、いびつな形に枝を払ったりすることになるのだが、これでは庭にならない。耕地を少しでも余計に確保したいというような、その類のみみっちい了簡を捨ててかからないことには庭にはならない。高木を植えたいのなら、ど真ん中に一本だけ植えるくらいの発想の転換があってよいのであろう。

 コメツガに巣くったカイガラムシと格闘したり、地鼠や蛇やらの侵入を防いだりの丸山の経験は、そのまま使わせてもらえそうな気がする。芝生が庭に害をなす敵だというのも、その通りなのであろう。旺盛過ぎる繁殖力は、他の植物にとっては脅威でしかない。土を悪化させるだけで、言うならば雑草のようなものを、わざわざ庭に持ち込むこともない。同じ理由で、萩や竹も要注意というのもその通りで、いつか山吹を庭に植えてひどい目にあっている。好みであっても、野にあるものを安易に庭に持ち込むべきではない。どうしても欲しいのなら、それなりの工夫が必要で、竹なら底の抜けていない瓶を地中に埋めて、そこに植えろというあたりは、大いに参考になる。うんうん頷きながら読んでいると、芝生の話の先に、いつの間にかこんなことが書いてある。

……日本人の欠点は何事も徹底しないことだ。深追いしないことだ。そして、核心や本質に迫ろうとしないことだ。常にそれれしい形を整えたところで満足してしまい、その向こうに横たわる本物の大海原へと乗り出して行かないことだ。そうした国民性を支えているのは、小心と狡猾と怠惰と他律という反自立の浅ましい根性だ。要するに、生涯にわたって事大主義に毒されているのだ。その地位に就くことだけが人生の狙いであり、望みであって、そこへ迫るまでの駆け引きの術に長じている、つまり、自分をそれらしく見せるパフォーマンスの才能のみが優れている者が、首相になるのだが、元々その道における実力を持っていないために、結局はお飾りとしての存在で終わってゆく。重要なのは、その地位に就いてから何をやりたいのかという本当の目的である。また、そうするための真の才能と実力と自信がきちんと具わっているかどうかを問題にすべきなのだ。ところが、この国ではそれは大したことではないらしく、誰も指摘せず、追求もしない。……そうした本末転倒な生き方が主流として罷り通ってきた割に、天然資源に乏しいこの国が世界的に見てまずまずの栄え方をしてきたのは、ひとえに他人と肩を並べ、世間に調子を合わせることに異常なまでの情熱を注ぎ、絶えず神経を配るという、没個性の習性からくる結束力のたまものであって、それ以上の何か素晴らしい特質の働きというわけでは断じてない。しかし、そうやってどうにかこうにか築き上げてきた繁栄も、いよいよ取り繕えないほどの段階に差しかかっているようだ。ふさわしくない人物を担ぎ上げての辻褄合わせでは通用しない時代が訪れたようだ。……

 一ヶ所だけ勝手に文章を省略させてもらった。原文では首相以下に知事やら社長やら理事長やら大御所やらがずらっと並べられているのだが、現下に分かり易く、ここでは首相だけとした。前回までの話題に引きつけてみるなら、近世の傑出した政治家との違いは一言で、要するに上の丸山の言うことに尽きるのであり、昨年来の、あるいはここ数年来の眼前のお粗末は、それを戯画的なまでに分かり易く示してくれたということであろう。それもいよいよ佳境に入りつつあり、これはこれで面白い見物ではある。(つづく) 

峠越えれば(22) 土降る

2009-02-15 | 峠越えれば
殷亡ぶ日の如く天霾れり  有馬朗人

 天からは、雨や雪ばかりが降るとはかぎらない。春になれば、土も降るし、花粉も降る。時には灰も降ってくる。「霾(ばい)」は土降る。黄塵万丈、大陸の土埃が、季節風に乗ってはるばる海を越えてやってくる。「万里ただ霾る中の鳶一つ」これも有馬の句、眼前の景を詠んでいるには相違ないのであろうが、句の方は勝手に時空を越え、時に遙か彼方、神話の世界まで取り込んでしまう。有馬の春の句をもう二つ。「種播きし手や火を創り火を育て」「村人に永き日のあり歓喜天」

 有馬は、最近新聞にこんなことを書いている。「芭蕉が新風を生んだ四十一歳とか死去した五十一歳は、今から見るとどんな年齢に対応するであろうか。そこで平均寿命を調べてみた。縄文三十一歳、弥生三十歳、古墳三十一歳、室町三十三歳、江戸時代に四十五歳であった。明治には四十三歳、大正四十五歳、昭和十年男四十七歳・女五十歳、昭和二十二年男五十歳・女五十四歳、そして平成十年には男七十七歳・女八十四歳であるという。そこで人生が平均寿命に比例して変化すると考えてみる。その結果、芭蕉の隠棲三十七歳は現代人の六十三歳、冬の日五巻の連句が巻かれた四十一歳は七十歳、古池やの句を生んだ四十三歳は七十三歳に対応することになる。さらに芭蕉が逝去した五十一歳は、現代人にとっては八十七歳ぐらいである」(日経09.1.10)

 喜寿を越えた有馬が「芭蕉が芭蕉らしい俳諧を生み出したのは我々の七十才頃」と意気軒昂なのは結構な限りで、政治と俳句の二足の草鞋を履いたりするのも、それはそれでいいのだが、前回の、政治家の成熟、あるいは未熟さ加減というあたりの話に絡めて考えると、少々気になる文章ではある。

 二十代の成熟振りに感心させられた政治家・松平定信については、本人はこんな言葉を残している。「六十にては、七十餘りの身と思はねば、かならず害あり。わかきおりも三十なれば四十、四十の頃は五十と思ふやうにありしが、それにて稟受の、人にこえて薄にしては、六十をもこえにけり」(『修行録』)

 平均寿命というのは統計上の指標でしかないわけで、実年齢の意味を考えるときにはあまり参考にならない。これも前回の徳川宗春とほぼ同時代の西川如見がこんなことを書いている。「今七十五歳にして、同郷の人の長命なるを数ふるに、百八才の女子二人、百六才成し女一人、百二才の女一人、九十七才の男子二人、同又女子一人、此外九十餘才の男子五人、今八十五六才にて存生なるは、男女に十人餘もあるべし。是みな吾眼前に見たる人にて旧知のともがらなり」(『百姓嚢』)

 平均寿命とは関わりなく、長命も今とそれほど変わるわけではない。西川はこの後をこう続けており、このあたりは質素、倹約大好きの定信に重なる。「いづれも質素下輩の人品にて、富めるは唯一人ありといへども、平生の修養甚質朴なり」

 やはり、宗春の「古も七十に及びたる者は老人といい、早五十年の者は老人といわず、今とても同じことなり」あたりが常識的で、この点は今とても同じことで、平均寿命が延びたからといって、座標軸までも変える必要はない。それにしても、定信の「六十にては、七十餘りの身と思はねば」と、今時大方の六十にては五十余りと思わねば、との自覚のずれは随分と分かり易い。

 二十五才の定信が、養子先で白川藩主を引き継ぐのは、これも百年に一度かもしれない天明の大飢饉に際してであり、前回の『白川家政録』はこの際に書かれている。その実績を評価され、中央で老中首座に抜擢されるのが天明七年、定信三十才、田沼時代との比較で、その治世の姿勢は分かりやすく、これは『宇下人言』に詳細に回想されている。

 定信の字面を分解して『宇下人言』というのもしゃれているが、これが老中を退いて、その直後三十代で書かれ、以降没後百年間は封印されたまま昭和に至っている。新井白石の『折たく柴の記』のように、近世の中に写本で出回ったりしない所もまた定信らしいともいえる。

 定信が老中首座であったのは寛政五年までの六年間であり、その間、田沼側近の旧勢力を一掃し、同じ二三十代の譜代若手の大名で周囲を固め、その合議制の下に一気に幕政の刷新をはかっている。

 定信は『国富論』のアダム・スミスと同時代の人物であり、商品経済も資本の蓄積も、この国だけが例外というわけにもいかない。質素、倹約一本槍の、その徳治主義は、一見いかにも時代錯誤といえないこともない。しかし、身分制を前提とした、自然経済が建前のこの時代、定信はそのぎりぎりの政治の可能性を追求し、結果としてその後何十年かの体制の安定に成功したことは事実であり、定信自身が七十二年の生涯を通じて、それをわが目で確かめることになる。

 徳治主義と一口に括ってしまえば、それまでなのだが、定信及びその周辺の公の自覚、使命感といったものはごく自然に純粋であり、いつの時代であろうが、これを失っては政治は成り立ちそうもない。『宇下人言』から少し長くなるが引用してみる。同様に百年に一度かもしれない今の危機に重ねてみると、そこかしこに通じる所もあり、なかなか面白い。やはり歴史は繰り返すものと見える。

 いにしへより治世の第一とするは花奢をしりぞけ、末をおさへ本をすゝむることにぞあんなれ。……すでに町かた人別の改めてふものも、只名のみに成りければ、いかなるものにても町にすみがたきものはなく、出家之定もなければ、実に放蕩無頼の徒すみよき世界とは成りたりけり。さるによりて在かた人別多く減じて、いま関東のちかき村々、荒地多く出来たり。……天明午のとし(1786)、諸国人別改められしにまへ之子之としよりは諸国にて百四十万人減じぬ。この減じたる人みな死うせしにはあらず、只帳外となり、又は出家山伏となり、又は無宿となり、又は江戸へ出て人別にもいらずさまよひありく徒とは成りける。……未(天明7年、この年定信老中首座)のころより年々御沙汰ありしかば、人々節用の道を心がけしにぞ、無益のものかい求む人も少なく成りもて行くがうへに、これにて無用のあきなひうれずして、或は店を閉、又は外之職にかへなんどして、無用のあきなひするものはや減じたるがうへ、あきなひなしとてなげき侍る巷説かまびすし。惣てちかきものはしたしく、遠きものはうとく、目にみしことはしたしく、耳に聞しことはうとき習ひなれば、江戸の衰へ侍るは、諸国のゆたかに成り侍るもとにして、つゐには御府内町々のその余沢をうるのもとい也。すでに近来花奢行はれければ、みな金をかり、又はおしとりなんどして無益のおごりをなし、又は賄賂苞苴になせし也。……さればつゐにはかひもとめしもののあたいをあたへず、かりしものをかへさずし侍りしにぞ、士もみな衰へ行けり。村々にてもむかしなきからかさなどをさし、又は油などつけ、かみをゆひ侍るてふ、これ又奢に長じ、博奕など公行したりければ、力田の輩少なくなりて、弥生ずるもの少なく、つゐには田里を出て江戸へ行侍るにぞ、江戸之人次第に増し村々衰にけり。士農おとろへ行しかば、工商何をもてくらし侍らんや。されば今節用を専とし、帰農勧本の術を第一になして、浮花を退けらるゝは、工商その賜をうくるゆへんなり。しかるにそのところをもしらずして、かく衰へ行てあきなひなくば、行末いかゞあらんなど、物しるものもいふ也。……もとより不義を以て富、又は浮雲のごとき商の利を得しもの嘆かずしては、いつか御政事の大本をゑらるべし哉。さるに御府内のものども、商無しといへばとて花奢をゆるされ、末は賄賂を禁ぜず侍るてふ事は、いふにや及ぶとて、同列なんどとはいひ合ひ侍る也。只村々にても、江戸へ出てはくらしがたきといふ。さればわが村里をにげ出なば、いづかたへか行べきと思ふ心になり、されば帰農すべしと思ふほどに有たき也。……或は帰農之志あるものは願出べし。御手当被下帰農可被仰付なども度々ふれられたり。これらは国体第一の事にて、議論多き事なれば、たとひ巷説ありとも動くまじといふ事。まづこれら之事可被仰出前には同列たがひにいひやひ、書取り候て、おのおの思ひ思ひに了簡をかき、覆蔵なきほどに評論を尽くし決し侍れば、たとひいかなる巷説ありとも御心を動し給ふ事なし。……又はかゝる事はかうやふに已来心得べき哉など、おのおの存意を明していひ合て定をくにぞ、御政事のまちまちにならざる為にかくはせしなり。

 三十にして定信には、いつでも退く覚悟と巷説を聞き流す余裕がある。それが何を根拠とするものかが問われてよい。「世の中にかほどうるさきものはなしぶんぶというて夜もねられず」くらいは多分笑って聞き流していたにきまっている。(つづく)