戦災で焼け出された荷風の市川市での最初と次の寄寓先は、京成線の菅野駅にごく近く、次の引っ越し先は隣の八幡駅に近い。荷風の日記には、この八幡駅から五つ目の船橋市域の駅名海神が頻出する。途中駅に競馬場と法華経寺のある中山があるが、健脚の荷風を以てすれば、電車に乗らなくても歩いて行けないこともない。競馬帰りの混雑を嫌って、わざと手前の駅で下りたりもして、時に毎日のように海神に通っている。
海神には知人の相磯凌霜の家があり、荷風は天敵のラジオを逃れて、ここを格好の避難場所として執筆その他の便宜を得ていたということらしい。相磯は鉄工所の経営者で余裕のある生活をしており、これはその妾宅ということのようなのだが、日記にはこの家を凌霜盧とするのみで、主人以外の家人については遠慮があってか何も述べられていない。
敗戦の翌年一月に市川に越した荷風の、更にその一年後の昭和二十二年の日記から少し長くなるが書き写してみる。この年荷風散人六十九歳。
四月十二日。晴。藍碧の空澄渡りて鏡の如し。午後海神に至る。中山の競馬ある日なれば電車の雑沓をおそれ帰途葛飾の駅より県道を歩む。
四月十三日 日曜日 連日天気好晴。百花正に爛漫たり。午後海神に行く。
四月十四日。晴。午後海神。
四月十五日。晴。近巷の梨畠にその花まさに盛なり。菅野に移り住みて梨花見るも二度目となれり。……京成電車の各駅に四月廿一日同盟罷業の掲示あり。
四月十六日。晴。……真間川の桜花を看る。花季早くも過ぎ落花紛々として雪の如し。……選挙運動員路傍にマイクロフォンを立てゝ怒号するを見る。喧騒厭ふべし。
四月十七日。晴。暑気夏の如し。……午後海神。
四月十八日。晴。風あり。午後海神。
四月十九日。晴。四月になりてより今日まで殆雨なし。道乾きて塵埃濛々たり。午後海神に行く。京成電車同盟罷業中止の掲示停車場に出づ。米露開戦の風聞あり。米の配給依然途絶し里芋となる。……
四月二十日 日曜日 晴。……午後海神。凌霜子来る。帰途雨。
四月廿一日。雨。……午後海神。
四月廿二日。晴又陰。西北の風寒し。午後海神。
四月廿三日。晴。……海神に行く。
四月廿四日。晴。風冷。今日は海神に行かず。終日家に在り。
四月廿五日。午後鬼越の田間を歩みて海神に行く。到るところ新緑目を奪う。
四月廿六日。晴。午後須和田の村道を歩み国分村の丘陵に登る。林間に古寺あり。……田疇の眺望頗佳なり。ほ下(※「ほ」は日に甫、夕方)家にかへる。……市川駅前のマーケットに天麩羅饂飩を食す。
四月廿七日。日曜日。晴。……正午凌霜子来話。
四月廿八日。終日雨。午後海神。
四月廿九日。晴。烈風晩に歇む。選挙にて市中喧騒甚し。
四月三十日。陰。午後海神の凌霜盧に至る。書架に隨園詩話あり。取りて読む。……五月初一。晴。風あり。……ほ下(※前出)海神の凌霜盧に至る。主人帰り来り南畆自筆本杏園筆四巻を得たりとて示さる。晩餐を馳走せらる。夜十時辞してかへる。半月おぼろなり。
五月初二。陰。麦の穂少しく黄ばみ馬鈴薯南瓜の芽舒ぶ。藤躑躅牡丹花さく。午後海神に至り杏園閑筆をよむ。帰途細雨。新緑の田園更に青し。
五月初三。雨。米人の作りし日本国憲法今日より実施のよし。笑ふ可し。
五月初四。陰。午後海神にて読書。日暮にかへる。
五月初五。晴。暑。ほ下(※前出)海神。筍飯どぜう鍋を饗せらる。帰途満月昼の如し。
五月初六。晴。海神。
五月初七。雨。家に在り。小手鞠満開。
五月十五日。晴。午後凌霜子来話。
五月十六日。晴。夏服を着る。午後海神凌霜盧に至る。壁上柳湾の書幅をかく。短宵格〃苦催明。憐汝田間応鳴候。但恐農翁残夢裏。聴為租吏打門声。秧鶏。七十八老人柳湾館機。
相磯は荷風より十四年下で、この年五十代半ば、隠居にはまだ早い。荷風とは対照的な世慣れた生活人で、荷風の葬儀を仕切ったのも相磯ということのようで、九十の生涯を終えたのは昭和末年のことになる。実在の人物ながら、前回触れた掃葉翁同様、これもまた荷風の分身と読んで間違いはない。日記もまた荷風の作品として読むなら、そこに描かれた「凌霜子」なる人物には、荷風なりのあるべき交友の形が当然にも投影されているはずで、掃葉翁亡き後、明治生まれの江戸人の面影を引き継いだのが相磯であっても何も問題はない。
上に引いた日記の終わり、夏を迎え衣替えを済ませて凌霜盧を訪ねると、壁上に館柳湾の絶句が飾られている。秧鶏は水鶏(クイナ)、季節に合わせた気配りで江戸人の面目そのもの。
短宵格〃苦催明 短宵 格〃 苦(はなは)だ明を催(うなが)す
憐汝田間応鳴候 憐む 汝の 田間に候に応じて鳴くを
但恐農翁残夢裏 但(た)だ恐る 農翁 残夢の裏
聴為租吏打門声 聴きて 租吏の門を打く声と為すを
「格〃」は擬音で、同じ仲間のニワトリが低くコウコウと鳴くのに対し、クイナの鳴き声は甲高くコッコッコッとあたかも戸を叩くかにも聞こえる。戦後、除草剤やらの農薬散布が当たり前になる前、ことによると荷風の頃の真間川水域の水田でも珍しくなかったかもしれない。幼時の記憶の断片に、早朝鶏舎を覗くと、真っ黒なヒヨコが一羽、群れの中に紛れ込んでいて目を丸くしたことがある。水鶏の雛が親鳥から逸れて仲間と錯覚したものか、かほどクイナはかつて農家の庭先に接した田圃に珍しくもなかった。
まだ未明の中から初夏の夜明けを促すかに頻りにクイナの声がしている。丈の伸び始めた稲田の中から季節を告げてくれるのは、それはそれで結構なのだが、寝惚けた百姓親父が、未納年貢の催促にまたまた村役人が来たかと首をすくめたりしていないといいのだがなあと、ごく常識的というか分かり易い詩で、当の柳湾は年貢を取り立てる側の勘定方を職掌としていたわけで、当時まだクイナの声が聞こたりすることもあったかもしれない実景の中に置いてみると、それなりの味わいはあるとしてよい。税と借金の催促は何時の時代でも庶民には厭わしい。荷風と凌霜の立ち位置もその点変わるところはない。
他にも僅々一ヶ月の日記から、荷風が随園詩話やら杏園閑筆やらを、凌霜の書架から借りて読んでいる様が分かる。上では煩雑になるから省いたが、それぞれから長々と気に止めた箇所を日記に書き写しており、この時期荷風が何に傾倒していたかがよく分かる。随園は清朝の袁枚、杏園は太田南畝、荷風の南畝への傾倒は半端でないことは、同じ日記の一月の項を見ればこれもよく分かる。抄出してみる。
一月廿五日。朝早く雪また少しふりしが忽歇む。午後八幡の牛乳店に少憩して田間を歩む。日脚長くなりてあたり何となく春めき来れり。井戸端の炊事もまた楽になりぬ。裏庭より見渡す諏訪田の水田に白鷺群をなして飛べり。
一月廿六日。日曜日。晴。……午後凌霜子来り日新録と題する無名氏の日誌六冊を貸与せらる。……共に出でゝ海神に至る途上葛飾駅の村道を歩む。一樹の老榎聳え立つ路傍に一片の古碑あり。また古井あり。碑面に葛羅之井の四字を刻す。側面に広告の紙幾枚となく貼られたる下に南畝の文字かすかに見ゆ。大に驚き井の水にてハンカチを潤し貼紙を洗去るに、下総葛飾。郷隷栗原。神祇□杵。地出醴泉。…… 南畝大田賈撰 文化九年壬申春三月 本郷村中世話人惣四郎 とあり。凌霜子携帯のカメラを取って撮影す。細流を渡り坂を上れば田疇の間に一叢の樹林あり。……田間の一路を東北に取り、海神の町に至れば日は早くもほ(※前出、夕方)なり。南風吹きて汗出づ。牛肉の馳走になり、夜十時菅野へかへる。
一月廿七日。乍晴乍陰。近隣の噂に昨日午後二時頃裏隣田中といふ戦争成金の人の屋敷に強盗四人押入りし由。正午小岩散策。闇市の物資今年更に暴騰せり。……牛肉百匁六七十円のところ百円となり居れり。
一月廿八日。晴。寒。終日日新録をよむ。筆者は遠山左衛門尉部下の与力か同心にて中島嘉右衛門といふ人なるべし。漢詩をよみまた和歌のたしなみあり。……又二月閏三日の記中 うは玉の闇の夜なれど一すじの仕への道はふみやたかへじ ちり方の風のまにまに吹きさそひ来て行袖にかをる梅かな 荷風曰く江戸時代も嘉永年間といへば徳川氏の世も末ながら警吏の中にさへ猶かくの如き清廉にして且ツ風雅の趣味ありし人物もありしなり。今日の警吏に比すれば世の中のいかに相違せるかを知るべし。
一月廿九日。晴。寒。……夜コロ柿食ふ際歯又一本折る。老朽いよいよ哀むべし。
荷風は凌霜と一緒に散歩の途次、偶然南畝の碑文に出会ったのであり、別に記された文章には「傍の溜り水にハンケチを潤し、石の面に選挙候補者の広告や何かの幾枚となく貼つてあるのを洗い落して見ると」(『葛飾土産』)と、乱暴に貼り散らされた広告が折からの選挙にまつわるものであることもまたしっかりと見ている。
荷風日記もこの先次第に先細りの印象はあるのだが、さすがにこの辺りは、戦中戦後の混乱が避けようもなく荷風の生活を直撃しており、日記の記述も簡潔要を得て精彩を放ち、明治生まれの江戸人の面目躍如としている。
館柳湾やその同類の岡本花亭が、今の世なら一介のサラリーマンとして生涯目一杯働き、猶且つ風雅に遊ぶ余裕をこれも生涯持ち続けたことは既に触れた。太田南畝また然りで、持って生まれた下級武士の境涯を、七十四の生涯最後まで全うし、柳湾・花亭と変わるところはない。生前死後の文名は生活と一体の風雅から偶々生じたのであり、文筆は余技でしかない。荷風が凌霜子という分身を必要とするのも、この辺りから考えればごく自然であり、同業はもとより出入りの出版新聞関係者らと距離を置こうとするのも至極尤もという外ない。「今日の警吏に比すれば世の中のいかに相違せるかを知るべし」で、警吏ですらと言いたいのであり、荷風の慨嘆はこれに尽きる。彼等にとっては風雅こそが第一義なのであり、文名が風雅と相容れるわけもなく、通称や雅号はいくつでも自在に使い分ければよいだけのことでしかない。
上に荷風の日記を敗戦の翌々年の四月から五月のほぼ一ヶ月、日と追って書き出したのは、この国に新たに憲法が施行される、その前後の荷風の立ち位置を確かめたいからなのだが、その日、五月三日の記述は「雨。米人の作りし日本国憲法今日より実施のよし。笑ふ可し」で、何とも素っ気ない。前日の「陰。麦の穂少しく黄ばみ馬鈴薯南瓜の芽舒ぶ。藤躑躅牡丹花さく。……帰途細雨。新緑の田園更に青し」とは好い対照で、知ったことかと言わんばかりなのだが、そのように読ませたいのが荷風で、これは深読みでも何でもない。
この年、年明けから2.1ゼネストに向けた大きなうねりがあり、四月には前年に続き衆議院選挙が行われ、左派の躍進が目覚ましい。国民大多数は、敗戦と占領統治の亡国を顧みる余裕すら失ったまま、失業とインフレに苦しみ、辛うじて闇市と買い出しで露命をつないでいる。荷風の視野にはその全てが収められ、何も書き漏らしてはいない。問題は、あたかも広角レンズに収められたかのような、季節の移ろい他の自然事象をも含めて、身の回りの諸々を見据える荷風独自の遠近の距離の置き方であろう。この醒めた眼差しは、戦中から戦後一貫しており、そこに断絶はない。荷風の目には、相変わらず庶民は生活に必死で、政治は無知で暗愚でしかない。
分かり易い例として、この前年春家を焼かれ、ついには敗戦に至る半年ほどの日記からも二三の記述を拾ってみる。
一月廿四日。晴又陰。……小役人らしき四十年輩の男四五人其中の一人帳簿を持ち人家の入口に番号をかきし紙片を貼り行くを見たり。……人家取払ふべき事を示すなり。……東京住民の被害は米国の飛行機よりも寧日本軍人内閣の悪政に基くこと大なりといふべし。……
二月廿五日 日曜日。朝十一時半起出るに三日前の如くこまかき雪ふりゐたり。……心何となく落ちつかねば食後秘蔵せし珈琲をわかし砂糖惜し気なく入れ、パイプにこれも秘蔵の西洋莨をつめ徐に烟を喫す。若しもの場合にも此世に思残すこと無からしめむとてなり。兎角するほどに燐家のラヂオにつゞいて砲声起り硝子戸をゆすりしが、雪ふる中に戸外の穴には入るべくもあらず、……窓外も雲低く空を蔽ひ音もなく雪のふるさま常に見るものとは異り物凄さ限りなし。平和の世に雪を見ればおのづから芭蕉の句など想起し又曽遊のむかしを思返すが常なるに、今日ばかりは世の終り、また身の終りの迫り来れるを感ずるのみ。……
三月初七。陰。正午近く警報あり。……隣組の媼葡萄酒の配給ありしとて一壜を持ち来れり。味ひて見るに葡萄の実をしぼりたるのみ。酸味甚しく殆ど口にしがたし。其製法を知らずして猥に酒を造らむとするものなり。これ敵国の事情を審にせずして戦を開くの愚なるに似たり。笑ふべく憫むべくまた恐るべきなり。
三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、……
三月十日、……嗚呼余着のみ着のまゝ家も蔵書もなき身とはなれるなり、余は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと数れば二十六年の久しきに及べるなり、されどこの二三年老の迫るにつれて日々掃塵掃庭の労苦に堪えやらぬ心地するに至しが、戦争のため下男下女の雇はるゝ者なく、園丁は来らず、過日雪の降りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、寧一思に蔵書を売払ひ身軽になりアパートの一室に死を待つにしかずと思ふ事もあるやうになり居たりしなり、昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや亦知るべからず、……
八月十五日、陰りて風涼し、宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、小魚つけ焼、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、……今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、
これらの記述を、開戦から終戦に至る同時期の知識人、文学者その他物書き大多数の盲目に等しい右往左往振りと比べてみれば、荷風の立ち位置は突出して際立ち、希有としか言い様がない。問われるべきは、その視座を一貫して支えるものが何であったかであろう。文筆の才と雖も所詮一芸に秀でたにすぎず、時代を見据える教養、胆力はまた別と考える外ない。(つづく)
海神には知人の相磯凌霜の家があり、荷風は天敵のラジオを逃れて、ここを格好の避難場所として執筆その他の便宜を得ていたということらしい。相磯は鉄工所の経営者で余裕のある生活をしており、これはその妾宅ということのようなのだが、日記にはこの家を凌霜盧とするのみで、主人以外の家人については遠慮があってか何も述べられていない。
敗戦の翌年一月に市川に越した荷風の、更にその一年後の昭和二十二年の日記から少し長くなるが書き写してみる。この年荷風散人六十九歳。
四月十二日。晴。藍碧の空澄渡りて鏡の如し。午後海神に至る。中山の競馬ある日なれば電車の雑沓をおそれ帰途葛飾の駅より県道を歩む。
四月十三日 日曜日 連日天気好晴。百花正に爛漫たり。午後海神に行く。
四月十四日。晴。午後海神。
四月十五日。晴。近巷の梨畠にその花まさに盛なり。菅野に移り住みて梨花見るも二度目となれり。……京成電車の各駅に四月廿一日同盟罷業の掲示あり。
四月十六日。晴。……真間川の桜花を看る。花季早くも過ぎ落花紛々として雪の如し。……選挙運動員路傍にマイクロフォンを立てゝ怒号するを見る。喧騒厭ふべし。
四月十七日。晴。暑気夏の如し。……午後海神。
四月十八日。晴。風あり。午後海神。
四月十九日。晴。四月になりてより今日まで殆雨なし。道乾きて塵埃濛々たり。午後海神に行く。京成電車同盟罷業中止の掲示停車場に出づ。米露開戦の風聞あり。米の配給依然途絶し里芋となる。……
四月二十日 日曜日 晴。……午後海神。凌霜子来る。帰途雨。
四月廿一日。雨。……午後海神。
四月廿二日。晴又陰。西北の風寒し。午後海神。
四月廿三日。晴。……海神に行く。
四月廿四日。晴。風冷。今日は海神に行かず。終日家に在り。
四月廿五日。午後鬼越の田間を歩みて海神に行く。到るところ新緑目を奪う。
四月廿六日。晴。午後須和田の村道を歩み国分村の丘陵に登る。林間に古寺あり。……田疇の眺望頗佳なり。ほ下(※「ほ」は日に甫、夕方)家にかへる。……市川駅前のマーケットに天麩羅饂飩を食す。
四月廿七日。日曜日。晴。……正午凌霜子来話。
四月廿八日。終日雨。午後海神。
四月廿九日。晴。烈風晩に歇む。選挙にて市中喧騒甚し。
四月三十日。陰。午後海神の凌霜盧に至る。書架に隨園詩話あり。取りて読む。……五月初一。晴。風あり。……ほ下(※前出)海神の凌霜盧に至る。主人帰り来り南畆自筆本杏園筆四巻を得たりとて示さる。晩餐を馳走せらる。夜十時辞してかへる。半月おぼろなり。
五月初二。陰。麦の穂少しく黄ばみ馬鈴薯南瓜の芽舒ぶ。藤躑躅牡丹花さく。午後海神に至り杏園閑筆をよむ。帰途細雨。新緑の田園更に青し。
五月初三。雨。米人の作りし日本国憲法今日より実施のよし。笑ふ可し。
五月初四。陰。午後海神にて読書。日暮にかへる。
五月初五。晴。暑。ほ下(※前出)海神。筍飯どぜう鍋を饗せらる。帰途満月昼の如し。
五月初六。晴。海神。
五月初七。雨。家に在り。小手鞠満開。
五月十五日。晴。午後凌霜子来話。
五月十六日。晴。夏服を着る。午後海神凌霜盧に至る。壁上柳湾の書幅をかく。短宵格〃苦催明。憐汝田間応鳴候。但恐農翁残夢裏。聴為租吏打門声。秧鶏。七十八老人柳湾館機。
相磯は荷風より十四年下で、この年五十代半ば、隠居にはまだ早い。荷風とは対照的な世慣れた生活人で、荷風の葬儀を仕切ったのも相磯ということのようで、九十の生涯を終えたのは昭和末年のことになる。実在の人物ながら、前回触れた掃葉翁同様、これもまた荷風の分身と読んで間違いはない。日記もまた荷風の作品として読むなら、そこに描かれた「凌霜子」なる人物には、荷風なりのあるべき交友の形が当然にも投影されているはずで、掃葉翁亡き後、明治生まれの江戸人の面影を引き継いだのが相磯であっても何も問題はない。
上に引いた日記の終わり、夏を迎え衣替えを済ませて凌霜盧を訪ねると、壁上に館柳湾の絶句が飾られている。秧鶏は水鶏(クイナ)、季節に合わせた気配りで江戸人の面目そのもの。
短宵格〃苦催明 短宵 格〃 苦(はなは)だ明を催(うなが)す
憐汝田間応鳴候 憐む 汝の 田間に候に応じて鳴くを
但恐農翁残夢裏 但(た)だ恐る 農翁 残夢の裏
聴為租吏打門声 聴きて 租吏の門を打く声と為すを
「格〃」は擬音で、同じ仲間のニワトリが低くコウコウと鳴くのに対し、クイナの鳴き声は甲高くコッコッコッとあたかも戸を叩くかにも聞こえる。戦後、除草剤やらの農薬散布が当たり前になる前、ことによると荷風の頃の真間川水域の水田でも珍しくなかったかもしれない。幼時の記憶の断片に、早朝鶏舎を覗くと、真っ黒なヒヨコが一羽、群れの中に紛れ込んでいて目を丸くしたことがある。水鶏の雛が親鳥から逸れて仲間と錯覚したものか、かほどクイナはかつて農家の庭先に接した田圃に珍しくもなかった。
まだ未明の中から初夏の夜明けを促すかに頻りにクイナの声がしている。丈の伸び始めた稲田の中から季節を告げてくれるのは、それはそれで結構なのだが、寝惚けた百姓親父が、未納年貢の催促にまたまた村役人が来たかと首をすくめたりしていないといいのだがなあと、ごく常識的というか分かり易い詩で、当の柳湾は年貢を取り立てる側の勘定方を職掌としていたわけで、当時まだクイナの声が聞こたりすることもあったかもしれない実景の中に置いてみると、それなりの味わいはあるとしてよい。税と借金の催促は何時の時代でも庶民には厭わしい。荷風と凌霜の立ち位置もその点変わるところはない。
他にも僅々一ヶ月の日記から、荷風が随園詩話やら杏園閑筆やらを、凌霜の書架から借りて読んでいる様が分かる。上では煩雑になるから省いたが、それぞれから長々と気に止めた箇所を日記に書き写しており、この時期荷風が何に傾倒していたかがよく分かる。随園は清朝の袁枚、杏園は太田南畝、荷風の南畝への傾倒は半端でないことは、同じ日記の一月の項を見ればこれもよく分かる。抄出してみる。
一月廿五日。朝早く雪また少しふりしが忽歇む。午後八幡の牛乳店に少憩して田間を歩む。日脚長くなりてあたり何となく春めき来れり。井戸端の炊事もまた楽になりぬ。裏庭より見渡す諏訪田の水田に白鷺群をなして飛べり。
一月廿六日。日曜日。晴。……午後凌霜子来り日新録と題する無名氏の日誌六冊を貸与せらる。……共に出でゝ海神に至る途上葛飾駅の村道を歩む。一樹の老榎聳え立つ路傍に一片の古碑あり。また古井あり。碑面に葛羅之井の四字を刻す。側面に広告の紙幾枚となく貼られたる下に南畝の文字かすかに見ゆ。大に驚き井の水にてハンカチを潤し貼紙を洗去るに、下総葛飾。郷隷栗原。神祇□杵。地出醴泉。…… 南畝大田賈撰 文化九年壬申春三月 本郷村中世話人惣四郎 とあり。凌霜子携帯のカメラを取って撮影す。細流を渡り坂を上れば田疇の間に一叢の樹林あり。……田間の一路を東北に取り、海神の町に至れば日は早くもほ(※前出、夕方)なり。南風吹きて汗出づ。牛肉の馳走になり、夜十時菅野へかへる。
一月廿七日。乍晴乍陰。近隣の噂に昨日午後二時頃裏隣田中といふ戦争成金の人の屋敷に強盗四人押入りし由。正午小岩散策。闇市の物資今年更に暴騰せり。……牛肉百匁六七十円のところ百円となり居れり。
一月廿八日。晴。寒。終日日新録をよむ。筆者は遠山左衛門尉部下の与力か同心にて中島嘉右衛門といふ人なるべし。漢詩をよみまた和歌のたしなみあり。……又二月閏三日の記中 うは玉の闇の夜なれど一すじの仕への道はふみやたかへじ ちり方の風のまにまに吹きさそひ来て行袖にかをる梅かな 荷風曰く江戸時代も嘉永年間といへば徳川氏の世も末ながら警吏の中にさへ猶かくの如き清廉にして且ツ風雅の趣味ありし人物もありしなり。今日の警吏に比すれば世の中のいかに相違せるかを知るべし。
一月廿九日。晴。寒。……夜コロ柿食ふ際歯又一本折る。老朽いよいよ哀むべし。
荷風は凌霜と一緒に散歩の途次、偶然南畝の碑文に出会ったのであり、別に記された文章には「傍の溜り水にハンケチを潤し、石の面に選挙候補者の広告や何かの幾枚となく貼つてあるのを洗い落して見ると」(『葛飾土産』)と、乱暴に貼り散らされた広告が折からの選挙にまつわるものであることもまたしっかりと見ている。
荷風日記もこの先次第に先細りの印象はあるのだが、さすがにこの辺りは、戦中戦後の混乱が避けようもなく荷風の生活を直撃しており、日記の記述も簡潔要を得て精彩を放ち、明治生まれの江戸人の面目躍如としている。
館柳湾やその同類の岡本花亭が、今の世なら一介のサラリーマンとして生涯目一杯働き、猶且つ風雅に遊ぶ余裕をこれも生涯持ち続けたことは既に触れた。太田南畝また然りで、持って生まれた下級武士の境涯を、七十四の生涯最後まで全うし、柳湾・花亭と変わるところはない。生前死後の文名は生活と一体の風雅から偶々生じたのであり、文筆は余技でしかない。荷風が凌霜子という分身を必要とするのも、この辺りから考えればごく自然であり、同業はもとより出入りの出版新聞関係者らと距離を置こうとするのも至極尤もという外ない。「今日の警吏に比すれば世の中のいかに相違せるかを知るべし」で、警吏ですらと言いたいのであり、荷風の慨嘆はこれに尽きる。彼等にとっては風雅こそが第一義なのであり、文名が風雅と相容れるわけもなく、通称や雅号はいくつでも自在に使い分ければよいだけのことでしかない。
上に荷風の日記を敗戦の翌々年の四月から五月のほぼ一ヶ月、日と追って書き出したのは、この国に新たに憲法が施行される、その前後の荷風の立ち位置を確かめたいからなのだが、その日、五月三日の記述は「雨。米人の作りし日本国憲法今日より実施のよし。笑ふ可し」で、何とも素っ気ない。前日の「陰。麦の穂少しく黄ばみ馬鈴薯南瓜の芽舒ぶ。藤躑躅牡丹花さく。……帰途細雨。新緑の田園更に青し」とは好い対照で、知ったことかと言わんばかりなのだが、そのように読ませたいのが荷風で、これは深読みでも何でもない。
この年、年明けから2.1ゼネストに向けた大きなうねりがあり、四月には前年に続き衆議院選挙が行われ、左派の躍進が目覚ましい。国民大多数は、敗戦と占領統治の亡国を顧みる余裕すら失ったまま、失業とインフレに苦しみ、辛うじて闇市と買い出しで露命をつないでいる。荷風の視野にはその全てが収められ、何も書き漏らしてはいない。問題は、あたかも広角レンズに収められたかのような、季節の移ろい他の自然事象をも含めて、身の回りの諸々を見据える荷風独自の遠近の距離の置き方であろう。この醒めた眼差しは、戦中から戦後一貫しており、そこに断絶はない。荷風の目には、相変わらず庶民は生活に必死で、政治は無知で暗愚でしかない。
分かり易い例として、この前年春家を焼かれ、ついには敗戦に至る半年ほどの日記からも二三の記述を拾ってみる。
一月廿四日。晴又陰。……小役人らしき四十年輩の男四五人其中の一人帳簿を持ち人家の入口に番号をかきし紙片を貼り行くを見たり。……人家取払ふべき事を示すなり。……東京住民の被害は米国の飛行機よりも寧日本軍人内閣の悪政に基くこと大なりといふべし。……
二月廿五日 日曜日。朝十一時半起出るに三日前の如くこまかき雪ふりゐたり。……心何となく落ちつかねば食後秘蔵せし珈琲をわかし砂糖惜し気なく入れ、パイプにこれも秘蔵の西洋莨をつめ徐に烟を喫す。若しもの場合にも此世に思残すこと無からしめむとてなり。兎角するほどに燐家のラヂオにつゞいて砲声起り硝子戸をゆすりしが、雪ふる中に戸外の穴には入るべくもあらず、……窓外も雲低く空を蔽ひ音もなく雪のふるさま常に見るものとは異り物凄さ限りなし。平和の世に雪を見ればおのづから芭蕉の句など想起し又曽遊のむかしを思返すが常なるに、今日ばかりは世の終り、また身の終りの迫り来れるを感ずるのみ。……
三月初七。陰。正午近く警報あり。……隣組の媼葡萄酒の配給ありしとて一壜を持ち来れり。味ひて見るに葡萄の実をしぼりたるのみ。酸味甚しく殆ど口にしがたし。其製法を知らずして猥に酒を造らむとするものなり。これ敵国の事情を審にせずして戦を開くの愚なるに似たり。笑ふべく憫むべくまた恐るべきなり。
三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、……
三月十日、……嗚呼余着のみ着のまゝ家も蔵書もなき身とはなれるなり、余は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと数れば二十六年の久しきに及べるなり、されどこの二三年老の迫るにつれて日々掃塵掃庭の労苦に堪えやらぬ心地するに至しが、戦争のため下男下女の雇はるゝ者なく、園丁は来らず、過日雪の降りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、寧一思に蔵書を売払ひ身軽になりアパートの一室に死を待つにしかずと思ふ事もあるやうになり居たりしなり、昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや亦知るべからず、……
八月十五日、陰りて風涼し、宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、小魚つけ焼、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、……今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、
これらの記述を、開戦から終戦に至る同時期の知識人、文学者その他物書き大多数の盲目に等しい右往左往振りと比べてみれば、荷風の立ち位置は突出して際立ち、希有としか言い様がない。問われるべきは、その視座を一貫して支えるものが何であったかであろう。文筆の才と雖も所詮一芸に秀でたにすぎず、時代を見据える教養、胆力はまた別と考える外ない。(つづく)