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峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

(36) 鄙の荒野に

2007-10-02 | 万葉集あれこれ

 人麻呂の「在石見國臨死時自傷作歌」一首は、現地妻依羅娘子の二首の他に、更に次の二首が関連したものとして一つに括られている。この短歌五首は一体のものとして、万葉集成立以前から読み継がれてきたのである。

荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ(226)
あらなみに,よりくるたまを,まくらにおき,われここにありと,たれかつげなむ

天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし(227)
あまざかる,ひなのあらのに,きみをおきて,おもひつつあれば,いけるともなし

 最初の歌の題詞は「丹比真人[名闕]擬柿本朝臣人麻呂之意報歌」。名前を欠いており正確には誰と言えないが、丹比何某が亡き人麻呂に代わってその意中を述べたとする。真人は朝臣・宿禰などと同じ八色姓の一つ。人麻呂の「臨死時自傷作歌」とその際の依羅娘子の歌を創作ではなく、事実として読んだとすると、このあたりは大分ちぐなぐなことになる。これは明らかに海岸のイメージであり、山中でも川辺でもない。「峡に交じりて」でも「貝に交じりて」でもないことになる。

 前回の「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌」長短歌三首の中、残りの短歌一首は次のようになっている。

沖つ波来寄る荒礒を敷栲の枕とまきて寝せる君かも(222)
おきつなみ,きよるありそを,しきたへの,まくらとまきて,なせるきみかも

 これは人麻呂が狭岑嶋で力尽きた死者に語りかけたものだが、上の丹比真人の歌は、状況としてはこの狭岑嶋の歌を念頭に置いたものであろう。しかし、(我れここにありと誰れか告げなむ) こんな所に私が行き倒れていることを誰が知らせてくれたものであろうか。この言葉は人麻呂のもので、狭岑嶋の死者の妻はその死も知らず、いまだその帰りを待っている。人麻呂の場合はと言えば、妻の依羅娘子が取るものもとりあえず駆け付ける。何者かが、いち早く知らせてくれたのである。そして、その場で直ちに、(石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ) これも堂々とした挽歌を夫に捧げたことになっている。創作された物語として読むならこれでよい。しかし、この展開を現実に起こりえた事実として読むには無理がある。

 行路の死が挽歌に相応しいのは、その死が異郷にあって家族が看取ることのできない、無惨なものとして恐れられたからであり、尚かつそれが、一方ではありふれた日常の光景であったからである。家族への思いや異郷にあることの不安が今よりは遙かに強く、その一方で、旅先の出来事は、本人亡き後は尚のこと知りたくても知りようがない。ましてや現場にいち早く駆け付けるというようなことは、ほとんど望むべくもない。「夫の死を聞いてその現場へ行かない女が、はたして夫を愛する妻といえるであろうか」(梅原猛)というような無茶なことを言われても困るのである。

 有間皇子のように旅の無事を祈って松の枝を結んだり、家に残された妻が、同じ目的で野の草を摘んだりする民俗の切実さは、今となっては余程この時代に想いを凝らさないことには理解のしようがない。しかし、それが不可能というわけでもない。上の歌とセットになった「妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや」にしても、言葉通りの理解とは別に、家で草を摘んで帰りを待ちわびている妻の姿と重ねて読むのが正しいのであろう。

 ことによったら、「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌」もまた創作であるかもしれない。この歌が、挽歌として死者に捧げられたものであるにしても、実際にそれを享受したのは都の貴族であり、そこに詠われた「狭岑嶋」や「那珂の港」が固有の地名としてそれほどの意味を持つわけもなく、その土地の実際を知らなくても、伝聞だけでもこのような歌は詠えるし、それによって歌の価値が損なわれるというわけでもない。

 人麻呂は、ありふれた行路の死を、伝統的な挽歌の様式を踏まえながらも、それを誰にも共感できる感動的な物語に仕立てて見せた。人麻呂が讃岐の狭岑嶋で目撃したとされる名もなき人物は、異郷で力尽きた多くの者達の象徴であり、場所を変え、我が身に置き換えて読むことは誰にもできるのである。これは人麻呂にして初めてできたのであり、人麻呂の名前が不動とされる所以である。

 人麻呂は、長歌の形を借り妻の死を詠い(「妻死之後泣血哀慟作歌」)、別れを詠い(「従石見國別妻上来時歌」)、異郷での死を詠った。いずれも相聞(愛)と挽歌(死)を主題とする、最も万葉集らしい作品群である。これらの作品の成功が、人麻呂の名とその印象を決定づけ、後世繰り返しそれが語り継がれたに違いない。人麻呂の「在石見國臨死時自傷作歌」は、その過程で人麻呂本人あるいはその周辺から、生まれるべくして生まれたのではないのか。

 そうであるとしたなら、そこに詠われた場所や状況や事情の細部について、あれこれ想像を逞しくしてみてもはじまらない。整合しない点をいくらでも論うことは出来る。一つ一つの歌は、人麻呂の死の印象をごく大雑把に伝えているにすぎない。しかし、それが行路の死であることについては、疑う余地がない。

 五首ある中の、丹比真人の次の最後に置かれた「天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし」には、注として「歌作者未詳但古本以此歌載於此次也」とある。ここでも終焉の地が、山なのか、海なのか、それとも野なのか、詮索するまでもない。それは遠い異郷の地であり、「鄙の荒野」こそ、それに相応しいのである。注はそれを誰もが納得して語り伝えてきたことを示している。

衾道を引手の山に妹を置きて山道思ふに生けるともなし(215)
ふすまぢを,ひきでのやまに,いもをおきて,やまぢおもふに,いけるともなし

 人麻呂の「妻死之後泣血哀慟作歌」、二首目の長歌に添えられた短歌の中の一つである。この場合、妻は山に隠れたのである。それを思うと生きた心地もしない。「天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし」、ここでは置き去りにされたのは人麻呂の方である。歌の主役が入れ替わっただけで、同じような歌が繰り返し使われている。最初に上げた丹比真人の「荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ」と、人麻呂の「沖つ波来寄る荒礒を敷栲の枕とまきて寝せる君かも」についても然り。人麻呂及びその周辺の者達が、何を主題として詠ったのか、それが読み取れればよいのであり、謎解きのような当て推量を積み重ねてみても、歌の鑑賞に役立つとは思えない。

 引用がくどいが、ここでもこんな文章が多少は参考になる。

……その島で人麿は恐ろしいものを見た。……流人人麿は、ここに先輩流人の無惨な屍を見たのである。そこにおそらく、近い将来に自分がおちいるにちがいない運命を人麿は見たのである。もはやここでは人麿が死人そのものであり、死人の第一の思いは、はるかに遠く離れて、自分が今ここにこうしていることも知らないでいる妻への思いである。……そういう死人を目前に見て、自己の運命に身ぶるいする詩人の姿を私はそこに見る。それは凄惨で壮絶な美である。そのような美は、日本の詩ばかりではなく、世界の詩においても類例の少ないものであると私は思う。この歌を万葉集随一の歌にしてもいいと私は思う。朗々と朗誦して見たまえ。冷たい月がかがやいている冬の夜にでも、この詩を朗誦したら、魂の底まで凍え切ってしまうだろう。……

 これによれば、狭岑嶋は流人の島であり、人麻呂は偶然島に立ち寄ったのではなく、この島に流されたのである。人麻呂は、そこで目撃した死人に自分の姿を重ねている。その通りである。「万葉集随一」かは別として、この長歌が万葉集を代表する歌の一つであることも、その通りである。しかし、人麻呂が流人でなくても、この場合そのように理解するのが自然である。また人麻呂が目撃したのが、流人でなかったとしても、その無惨さに違いがあるわけでもない。(つづく)

(35) 磐根しまきて

2007-10-02 | 万葉集あれこれ

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな   正岡子規
水洟や鼻の先だけ暮れ残る    芥川龍之介

 辞世というとこんな句を思い浮かべたりもするのだが、そもそも辞世の句や歌が可能なものか、はなはだ疑問である。上の二つにしても本人にそんなつもりはないにきまっている。子規の句は病床の遺作と言えば済むし、芥川の句も、自死とは無関係に詠まれたもので、いずれも辞世にかこつけるまでもなく良い句である。芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」にしたところで、単純に病中吟として読めばそれで済む。

 かつて辞世の文化とでもいうべきものが存在したことは事実であろう。予め詠んでおいたり、詠まなくてはならないものと思い込んだりした例はあったに違いない。詰め腹を切らされる武士の小道具みたいに詠まれたりすることもあった。悪趣味もよいところである。

 人麻呂の「石見國に在りて死に臨む時自ら傷みて作る歌」は、この題詞のままに読むならまさしく辞世である。同じような辞世ともとれる例に、大津皇子の「死を被りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌」と、「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」でよく知られた有間皇子の「自ら傷みて松枝を結びし歌」があるが、これらは前にも触れたように(27 鳥雲に入る)、後世の代作とみた方がよい。

 大津皇子のものも、有間皇子のものも、辞世と読むには無理があるとすると、人麻呂についてのみ、題詞のままに辞世とするのはどんなものであろうか。中世になって、禅僧が死に際して偈を残したあたりから、辞世といった奇妙なものが生じたとも考えられ、そのようなものが人麻呂の時代にあるわけもない。

 死に際して歌を詠むというようなことは常識的に考えてどこか無理がある。仮にそれが可能な状況を強いて想像してみるなら、病の果てとか、覚悟の上での自死、刑死といった、ごく稀な事態を想定するしかない。実際に、前回の梅原猛の場合は水死刑といった不可解なものを持ち出しているし、大和岩雄(『人麻呂の実像』)のように自殺、それも「岩根しまける」というのだから、山中の服毒によるものと説かれたりしている。

 「鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ」 人麻呂が死に臨んで詠ったとされるこの歌は内容的には、ごくありふれた行路の死を詠っているだけで、格別特徴があるわけでもない。巻二相聞の冒頭に、仁徳天皇の皇后磐姫のものとして次の歌がある。

かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを(86)
かくばかり,こひつつあらずは,たかやまの,いはねしまきて,しなましものを

 人麻呂の「鴨山の岩根しまける」は、相聞と挽歌の違いがあるだけで、既によく知られた「高山の磐根しまきて死なまし」の、表現のみか、そのイメージまでも借りている。要するに、人麻呂でなくてもこの程度の歌は作れるのである。恋心を強調した「死なまし」を、強引に行路死に結びつけていること一つ取ってみても、これを辞世と読むには無理がある。

 「鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ」 この歌の一つ前に、同じ行路死でも、これは人麻呂にしか詠えない、人麻呂らしい挽歌が置かれている。順序が前後したが、こちらの方を先に読んでみると、もう少し事情が分かりやすくなるかもしれない。

 題詞は「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌」、長歌一首と短歌二首よりなる。

玉藻よし 讃岐の国は     (たまもよし,さぬきのくには)
国からか 見れども飽かぬ     (くにからか,みれどもあかぬ)
神からか ここだ貴き     (かむからか,ここだたふとき)
天地 日月とともに     (あめつち,ひつきとともに)
足り行かむ 神の御面と     (たりゆかむ,かみのみおもと)
継ぎ来る 那珂の港ゆ     (つぎきたる,なかのみなとゆ)
船浮けて 我が漕ぎ来れば     (ふねうけて,わがこぎくれば)
時つ風 雲居に吹くに      (ときつかぜ,くもゐにふくに)
沖見れば とゐ波立ち      (おきみれば,とゐなみたち)
辺見れば 白波騒く      (へみれば,しらなみさわく)
鯨魚取り 海を畏み      (いさなとり,うみをかしこみ)
行く船の 梶引き折りて      (ゆくふねの,かぢひきをりて)
をちこちの 島は多けど      (をちこちの,しまはおほけど)
名ぐはし 狭岑の島の      (なぐはし,さみねのしまの)
荒磯面に 廬りて見れば      (ありそもに,いほりてみれば)
波の音の 繁き浜辺を      (なみのおとの,しげきはまべを)
敷栲の 枕になして      (しきたへの,まくらになして)
荒床に ころ臥す君が      (あらとこに,ころふすきみが)
家知らば 行きても告げむ      (いへしらば,ゆきてもつげむ)
妻知らば 来も問はましを      (つましらば,きもとはましを)
玉桙の 道だに知らず      (たまほこの,みちだにしらず)
おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは(220)
     (おほほしく,まちかこふらむ,はしきつまらは)

 讃岐の国の「那珂の港」から船を漕ぎ出したものの、強風を恐れて「狭岑の島」に緊急避難したのである。島の磯辺に仮小屋を建て船出を待つ間に、海岸の岩陰に、海難の犠牲者であろうか、遺骸のあることにふと気付く。その驚きと哀悼が詠われている。(家知らば 行きても告げむ) 家が分かるものなら、すぐにも知らせてやりたい。(妻知らば 来も問はましを) 妻が知れば、取るものもとりあえず駆けつけてくるに違いないものを。痛ましく哀れでならない。同じ行路にある者として、とりわけ困難な船旅にある者として、同情を禁じ得ない。ほんの僅かな偶然が、自分とこの骸と化した者とを隔てているだけなのだ。

 前半で(天地 日月とともに 足り行かむ) 天地、日月と共に満ち足りた瀬戸内の大きな景色を詠い、一転して行路の死に目を向ける。人麻呂ならではと感心する外ない。見事な挽歌である。添えられた短歌は、この対照を更にもう一歩際立たせる。 

妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや(221)
つまもあらば,つみてたげまし,さみのやま,ののへのうはぎ,すぎにけらずや

 「うはぎ」は嫁菜である。妻がこの場にいれば、摘んで一緒に食べることもできたであろう野の草も、盛りを過ぎ、今は徒に生い茂っているだけだ。これは、飢えて死んでいった者の心中を代わりに詠んだものであろうか。

 「鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ」 行路の死を詠った人麻呂が、自らをその死者に見立てて歌を詠むということがありえないと言い切れるか。詠われた作品が、その出来映え故に作者をその当事者と錯覚させ、人麻呂もまた行路の死を遂げたと伝承されることだってないとは言い切れない。この場合は代作である。いずれにしても、創作として読めば、それでよいわけで、辞世などではない。(つづく)

(34) 峽に交りて

2007-10-02 | 万葉集あれこれ

 人麻呂の「従石見國別妻上来時歌」が、文学史上「もっとも悲しい別れの歌」(梅原猛)であるかどうかは別にして、人麻呂の歌の中でもとりわけ印象の強い、人麻呂を代表する歌の一つであることは確かである。巻二の人麻呂の作品群には、石見国を舞台にした歌が、相聞と挽歌に一つずつ採られており、どちらにも現地妻の依羅娘子(よさみのおとめ)が登場する。挽歌の方の題詞は「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌」「柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌」、長歌はなく人麻呂の短歌が一首、依羅娘子のものは二首ある。

 読みようによっては、この相聞と挽歌は一体のものとみることもできる。究極の別れの歌が挽歌であり、本来相聞と挽歌は、裏表の判別の出来ない例の輪のようにつながっており、別のものではないともいえる。実際に、前にも(14愛河の波浪)触れたように、挽歌として詠われたものが、相聞と誤解されて読まれている例もある。

 挽歌の方は長歌を欠いているが、この二つを連続した一つの物語として読むこともできる。その経緯は語られていないが、妻を残して旅立った人麻呂は、その旅の途中で帰らぬ人となったのである。この時代行路の死は珍しくない。人麻呂は意図して、ここでの長歌を省いたのかもしれない。

鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ(223)
かもやまの,いはねしまける,われをかも,しらにといもが,まちつつあるらむ

今日今日と我が待つ君は石川の峽に交りてありといはずやも(224)
けふけふと,わがまつきみは,いしかはの,かひに,まじりて,ありといはずやも

直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(225)
ただのあひは,あひかつましじ,いしかはに,くもたちわたれ,みつつしのはむ

 最初が人麻呂、後の二つが依羅娘子である。それぞれを独立した歌とみればそれ程の特徴はない。しかし、三首並べてみれば最低限の状況は説明されている。鴨山も石川もどこにもありそうで、強いて特定の地名に結びつけるまでもない。人麻呂は旅の途次、山中で不慮の死を迎えたのである。その事実をどのようにして依羅娘子が知ることになったかは分からない。何かの便りでそれを知った妻の驚きと悲しみが次に詠われている。「鴨山の岩根」に対し、「石川の峽」を呼応させ、歌の一体感を演出している。三首とも作者は同一人とみるのが自然であろう。

 状況を説明しているだけなので、いずれも分かりやすい。こんな山の中で岩を枕に死んで行く私を妻はそれとも知らず、帰りを待っていることを思うと心残りでならない。今日こそは帰るかと心待ちしている、その人があろうことか川を遡って山の挟間で亡くなったと聞くではないか。もう逢うこともかなわないのであるなら、せめて川から山に雲が立ち上ってほしい。その雲と共に更に遠くに旅立った人のことを偲ぶほかないのだ。

 ここで、これ以上付け加える必要は何もないように思えるのだが、ここでも、前回同様どうもそんなことでは済みそうもない。例の「専門」がからめばの話である。

 上の依羅娘子の一首目の原文はこうなっている。

且今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓 [一云 谷尓] 交而 有登不言八方
けふけふと,わがまつきみは,いしかはの,かひに,まじりて,ありといはずやも

 問題は「貝尓 [一云 谷尓] 交而」であり、「貝に交じりて」ということになると、人麻呂が川底に貝と共に沈んでいるイメージとなる。「貝」がただ音を借りただけとあれば何も問題はない。「峽に交りて」、人麻呂は山峡、谷間に紛れ込んでしまっただけのことである。「野山に交じりて」のような言い方が現にある。「一云 谷尓」、この注にあるようならば、誤解の余地は更に何もない。

今日今日と我が待つ君は石川の谷に交りてありといはずやも(224)

 人麻呂は鴨山の谷間で死んだのであり、本人が「岩根しまける」、岩を枕にしてと詠んでいる以上、疑問は何もない。しかし、原文にある貝が、どうにも気になるのである。万葉仮名の厄介なところである。貝がそのまま貝なのか、峡なのか。いったんは「かひにまじりて」と読み、その上で前後の意味を確かめ、貝あるいは峡と判断するのが正しいのであろう。そうすると「交りて」に馴染むのは、やはり峡よりは貝であろうというような解釈も成り立つ。

今日今日と我が待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも(224)

 確かに死の状況としては大分イメージの違ったものとなる。これは水死であり、人麻呂は水底に横たわっていることになる。このイメージに添って、大部の論証を試みたのが『水底の歌』であることは言うまでもない。梅原の空想した場面はこんなものである。

……おそらくはうららかな初夏の一日、詩人は舟にのせられて海に投げられたのであろう。……詩人は、悲鳴をあげて海に落ち、その姿はたちまち波間に沈んで見えなくなったのであろう。そして初夏の海は何事もなかったかのようにうららかであり、舟は詩人を一人海の中におきざりにしたままで、やがて帰ってきたのであろう。……

 海に投げられたというのは穏やかでないが、人麻呂は罪に触れることがあり、都から遠く流され、ついには水死刑に処せられたとするのが、梅原の思い描く人麻呂像である。同じ様に歌の印象から鴨山の在処を尋ね、ついに山中の名もなき温泉を突き止め、そこを人麻呂終焉の地と宣言するに到った斎藤茂吉などは、梅原の立場からは言語同断ということにならざるをえない。この場合、茂吉は当然のこととして「峡」と読んだのである。

 梅原は、人麻呂の遺骸は水底にあるものとして、独自の解釈から上の歌を次のように解説する。

……夫に逢いたい、せめて、夫の屍なりと見たいと女はいう。しかし、その屍は河口近くの海に沈んで、どこにあるのか分からない。そして女が詠んだのが、最初の歌である。……いつの世でも、死んだ人間の遺骸にすがりついて、よよと泣きくずれるのは女の方である。今、その女らしい嘆き方すらできない依羅娘子の妻としての悲しみは、どんなに深いものだったろう。依羅娘子は、海底に沈んで貝に交じっているという夫の死体を現実に見ることが出来ないのである。何という残酷かと彼女は思う。しかしその残酷さも、後世の解釈者には少しも分からなかったのである。もう一首の依羅娘子の歌も、こういう状況を考えることによって、よく分かる。女はここまで来たけれど、夫の死骸すら見ることができない。……夫の死体はどこへ行ったのか分からない。そこで女は叫ぶのだ──せめて石川にいっぱい雲が立ちこめておくれ、その雲を見て夫を偲ぼう、と。……

 梅原の言いたいことはこうである。夫の死の知らせを受けた依羅娘子は、取るものもとりあえずその現場へ駆けつけたのである。それが仮に山峡・谷間であるなら、そこで夫の遺骸にすがって「よよと泣きくずれる」こともできた。ところがそれが水底とあっては、それすらかなわない。上の歌にはその悲しみが詠われている。その肝心な点が「後世の解釈者には少しも分からなかった」のであり、全く通じていない。

 「貝」と「峡」とでは悲しみの質までもまるで違ったものになる、と言いたいのである。繰り返しになるが、専門とは縁のない、時には古典にも親しんでみようかという程度の立場からは、とうていそこまで付き合う気にはなれない。「夫の死を聞いてその現場へ行かない女が、はたして夫を愛する妻といえるであろうか」とも言うのであるが、行きたくても行けない場合だってある。そこまで窮屈に考えることもなかろう。(つづく)

(33) 水底の歌

2007-10-02 | 万葉集あれこれ

 同じ題詞の長歌はもう一首あり、こちらの方は対照的に別れの悲しみが丁寧に詠い込まれている。しかし、(さ寝し夜は幾だもあらず)とか、(心を痛み思ひつつかへり見すれど)とか、(妹が袖さやにも見えず)とか、(大夫と思へる我れも)とか、格別新しさはない。最後に袖を濡らすというのも月並み過ぎる。それだけのことが言いたいのなら、別に短歌であってもかまわないし、人麻呂でなくてもこの程度の歌は作れる。

つのさはふ 石見の海の     (つのさはふ,いはみのうみの)
言さへく 唐の崎なる    (ことさへく,からのさきなる)
海石にぞ 深海松生ふる    (いくりにぞ,ふかみるおふる)
荒礒にぞ 玉藻は生ふる     (ありそにぞ,たまもはおふる)
玉藻なす 靡き寝し子を    (たまもなす,なびきねしこを)
深海松の 深めて思へど    (ふかみるの,ふかめておもへど)
さ寝し夜は 幾だもあらず    (さねしよは,いくだもあらず)
延ふ蔦の 別れし来れば    (はふつたの,わかれしくれば)
肝向ふ 心を痛み    (きもむかふ,こころをいたみ)
思ひつつ かへり見すれど    (おもひつつ,かへりみすれど)
大船の 渡の山の    (おほぶねの,わたりのやまの)
黄葉の 散りの乱ひに    (もみちばの,ちりのまがひに)
妹が袖 さやにも見えず    (いもがそで,さやにもみえず)
妻ごもる 屋上の山の    (つまごもる,やかみのやまの)
雲間より 渡らふ月の    (くもまより,わたらふつきの)
惜しけども 隠らひ来れば    (をしけども,かくらひくれば)
天伝ふ 入日さしぬれ    (あまづたふ,いりひさしぬれ)
大夫と 思へる我れも    (ますらをと,おもへるわれも)
敷栲の 衣の袖は 通りて濡れぬ(135)
(しきたへの,ころものそでは,とほりてぬれぬ)

 二つの長歌に添えられた短歌もそれぞれ一首ずつあげてみる。

笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば(133)
ささのはは,みやまもさやに,さやげども,われはいもおもふ,わかれきぬれば

秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む(137)
あきやまに,おつるもみちば,しましくは,なちりまがひそ,いもがあたりみむ

 それ程の特徴はないものの、別れの情景はそれなりに鮮やかに描かれている。季節は秋、山を渡る風がしきりに黄葉を散らし、笹を鳴らしている。別れの沈んだ心の中とは関わりなく、笹の生い茂った山道は明るく、風は爽やかに通って行く。遠く袖を振る姿が、風に舞う黄葉に邪魔され、次第に小さく視界から消えて行く。

 (しましくはな散り乱ひそ) わずかの間でもよいから、風が止まり、視界を遮る黄葉が消えて欲しい。「靡けこの山」の後だと、何とも慎ましい期待ではあるが、対照ということであるなら、これはこれでよいのかもしれない。

 長歌二つは一体のものとして合わせて読むべきなのであろう。二つの長歌を時間の推移とも、情景を捉える間合いの違いとも様々に解釈できる。順序よく配列を考えるのなら、こちらの長歌を最初に置き、前回の一首目を後に置いた方が、「靡けこの山」が生きるように考えられないこともない。

 いずれにしても歌の鑑賞ということであるなら、これら一群の長短歌を繰り返し口にし、それぞれに別れの情景をイメージできればそれでよい。ところが、事はどうも、そんなに簡単ではないらしいのである。一つはここにあげられた地名であり、もう一つはこの秋という季節である。

 上の長歌の「唐の崎」、「渡の山」「屋上の山」、そして前回の一首目の「角の浦廻」、これらは地名である限り、石見のどこかに実在するはずであり、それをどこに比定したらよいのか。また、人麻呂は、この歌を読む限り、現地妻を置いて、都と石見を往復したらしい。それが黄葉の季節であるとしたら、それはどのような役割を担ってのことか。

 たった一群の歌のみを手掛かりに、そこまでの考証を諦めるようでは専門を名乗る資格はない。恐竜の骨片一つから、その生きたままの全体像をイメージできるのが専門であり、歌であっても、それ位のことができてよい。

 しかし、さすがに一千年以上遡ってしまうと、当時の地名を特定することはほぼ不可能に近く、この点についての議論は錯綜しており、簡単には整理のしようがない。一方、人麻呂の身分については、下級官吏とすることに大方は異論がない。地方に派遣された官吏の考文、勤務評定のようなものであろうか、その他の公文書を定期的に中央に届ける朝集使という役割があり、十一月一日の官会に間に合わせようとすると、石見国を出立するのは丁度黄葉の頃になる。人麻呂は地方官として現地妻を得、また朝集使として度々任地を離れることがあった。

 通説がほぼこのようなものであるとして、これに真っ向から異を唱えたのが、先の梅原猛の『水底の歌』である。

 梅原は、この一群の長短歌が「わが国の文学史上において、もっとも悲しい別れの歌」であるとした上で、なぜそのような歌を人麻呂が残すに到ったかを問い、そこに人麻呂のこれまで語られることのなかった悲劇を読み取ろうとしている。先の引用と重複するが、梅原は別の箇所で同じ趣旨のことをこうも述べている。

……歌は、女に別れて都に行く男の悲しみを歌っている。その悲しみは異常である。しばらく同棲して現地妻と別れる、それはたしかに悲しいことである。しかし、そういう場合、悲しむのは、男の方より、むしろ女の方である。男の方は悲しいにはちがいないが、長い地方ずまいを終えて、都へ帰れる期待にどこか心ウキウキするものである。都には妻が、あるいは新しい恋人が待っているかもしれない。彼は女の前では悲しんで見せるが、心のどこかに、長い地方住いを終えて、都へ帰る嬉しい心をかくせないのである。泣く女をふり切って、必ず帰ってくるからと約束して都へ行く男、そうして、永久に帰って来なかった男も多かったにちがいない。……

 人麻呂が朝集使であるなら、半年もすればまた帰ってくる。それをあたかも一生の別れのように悲しむのは「異常」だとする。梅原は、従来の解釈は「詩人の心にある、深い別離の悲しみの正体に鈍感」であり、「この歌は、朝集使として都に上る人麿が、妻と一時の別れを惜しんだというような歌ではない」と断定的に言い切る。

 梅原にしたところで、現地妻というような自らの体験を述べているわけでもなかろうが、歌を作ったり、作られたそれを享受したりすることに、それほど特別の体験が必要とも思われない。一時の別れを永久の別れのように思い込むこともあろうし、そのように詠うこともできる。梅原の言うように「心ウキウキ」ということもあるかもしれない。いずれにしても、断定して言い切るようなことではない。

 上の一群の人麻呂の長短歌のすぐ後に、本来ならここに含めてよいはずの、肝心の人麻呂の別れの相手、現地妻の歌が置かれている。巻二相聞の最後、題詞は「柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂と相別るる歌」、現地妻の名前は依羅娘子(よさみのおとめ)である。

な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひずあらむ(140)
なおもひと,きみはいへども,あはむとき,いつとしりてか,あがこひずあらむ

 そんなに思い詰めないでとおっしゃるのですが、今度いつ逢えるか、それが分からないから、こんなに切ないのではありませんか。難しい歌ではない。別れというと、いつの時代でも、どんな別れでも、大方はこのような言い方になるのではなかろうか。(つづく)

(32) 靡けこの山

2007-10-02 | 万葉集あれこれ

 目から鱗というような言い方があるが、人麻呂の「妻死之後泣血哀慟作歌」について、こんな風に書かれていたりもする。

 ……二つの長歌は、けっして同じ妻が死んだときのものではなかろうと言われる。先の軽に住んでいた妻は、その葬儀にも参加できないところを見ると、妻というよりは隠し恋人、あるいは (略) やんごとなき恋人であるように思われる。しかし次の妻は、いつも子供と一緒に寝ていた妻なので、明らかに彼の妻である……

 要するにどういうことかというと、万葉集が編集された時点では、もう「古い歌がつくられた状況などは、はっきり分からなくなっていた」ので、それぞれ別に詠われた歌が、同じ題詞の下に括られてしまったというのである。

 「言われる」とあるので、このような考え方も突飛なものというわけでもなく、専門的に認知された通説の一つなのかもしれない。題詞が恣意的なものであることは既に見てきた通りであり、これもあり得るかもしれない。しかし、それにしても大胆というか、随分都合のよい理解の仕方ではある。

 人麻呂にはいったい何人の妻がいたのであろうか。天才は好色というようなことも、上に引用したのと同じどこかで述べられていたような気がするが、大真面目に論じることではない。

 巻二相聞の最後に、ここにもまた人麻呂の妻が詠われている。これは死ではなく別れである。

石見の海 角の浦廻を (いはみのうみ,つののうらみを)
浦なしと 人こそ見らめ (うらなしと,ひとこそみらめ)
潟なしと 人こそ見らめ (かたなしと,ひとこそみらめ)
よしゑやし 浦はなくとも (よしゑやし,うらはなくとも)
よしゑやし 潟はなくとも (よしゑやし,かたはなくとも)
鯨魚取り 海辺を指して (いさなとり,うみへをさして)
柔田津の 荒礒の上に (にきたづの,ありそのうへに)
か青なる 玉藻沖つ藻 (かあをなる,たまもおきつも)
朝羽振る 風こそ寄せめ (あさはふる,かぜこそよせめ)
夕羽振る 波こそ来寄れ (ゆふはふる,なみこそきよれ)
波のむた か寄りかく寄り (なみのむた,かよりかくより)
玉藻なす 寄り寝し妹を (たまもなす,よりねしいもを)
露霜の 置きてし来れば (つゆしもの,おきてしくれば)
この道の 八十隈ごとに (このみちの,やそくまごとに)
万たび かへり見すれど (よろづたび,かへりみすれど)
いや遠に 里は離りぬ (いやとほに,さとはさかりぬ)
いや高に 山も越え来ぬ (いやたかに,やまもこえきぬ)
夏草の 思ひ萎へて (なつくさの,おもひしなえて)
偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山(131)
(しのふらむ,いもがかどみむ,なびけこのやま)

 題詞は「従石見國別妻上来時歌」長歌二首の中の一首目。いわゆる現地妻というのであろうか。赴任先の石見国(鳥取)から、人麻呂は妻を残して都に帰ったのである。歌の半分は、その別れとは関係のない海を詠っている。本題に入る前に、共に寄り添って暮らした妻の、その「寄り」を引き出すために、対句を次々に繰り出し調子を整え、気付けば本題に入っている。去り難い気持ちを抑え、海辺の道を振り返り、振り返りして遠ざかって行く情景と重ねて読むこともできる。

 (八十隈ごとに 万たび かへり見すれど) いよいよ遠ざかり、今更引き返すわけにも行かず、去り難い気持ちが極まったところで、思わず口をついて出たのが、「靡けこの山」である。(夏草の 思ひ萎へて 偲ふらむ 妹が門見む) 夏草のように打ち萎れ、今なお門口に佇む姿を思い浮かべ、山に向かって「靡け」を呼び掛けずにはいられない。別れに伴う諸々の情景をすべて省略し、誰も予期しないこの一言で歌は唐突に終わる。聴衆の、読み手の反応を、すべて計算し尽くして詠われているかの印象がある

 草木が靡くのではない、山に向かって、邪魔だから退けと詠う。神話か民話の世界である。破天荒な言葉がここではよく生きており、人麻呂以外には詠えそうもない。人麻呂の意表を突く独創は、古い呪歌の伝統を一方でよく踏まえている。

 巻十三の雑歌には、作者も制作年代も不明な長歌ばかりが集められているが、同じように山に向かって「靡け」と詠っている例が他に一つある。

ももきね 美濃の国の 高北の くくりの宮に 日向ひに 行靡闕矣 ありと聞きて 我が行く道の 奥十山 美濃の山 靡けと 人は踏めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山(3242)
(ももきね,みののくにの,たかきたの,くくりのみやに,ひむかひに,行靡闕矣,ありとききて,わがゆくみちの,おきそやま,みののやま,なびけと,ひとはふめども,かくよれと,ひとはつけども,こころなきやまの,おきそやま,みののやま)

 美濃の奥十山がどのような山かは分からないが、どことなくこの場合は民話風である。この山も人の通い路を邪魔しているのであろう。しかし、(心なき山)のこととて、靡くはずもなく、それでも気が収まらないので、踏んだり突いたりしてみただけのことである。人麻呂の詠い方とは大分違う。

 これ以外にも、同じ巻十三の雑歌の中には、上の人麻呂の長歌と共通する表現がいくつか含まれている。

天雲の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬の川は 浦なみか 舟の寄り来ぬ 礒なみか 海人の釣せぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 礒はなくとも 沖つ波 競ひ漕入り来 海人の釣舟(3225)
大君の 命畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 早き瀬を 棹さし渡り ちはやぶる 宇治の渡りの たきつ瀬を 見つつ渡りて 近江道の 逢坂山に 手向けして 我が越え行けば 楽浪の 志賀の唐崎 幸くあらば またかへり見む 道の隈 八十隈ごとに 嘆きつつ 我が過ぎ行けば いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 剣太刀 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡山 いかにか我がせむ ゆくへ知らずて(3240)

 この後の方の長歌などは完成度も高く、これに先行する似た表現の歌が他にも存在したのかもしれない。それらを吸収して、上の人麻呂のものや、この長歌が成ったものと考えることもできる。万葉集に採られなかっただけのことで、これ以外にも、無数の口承され親しまれていた歌が存在したことは間違いない。

 最初に引用した目から鱗の文章は、梅原猛の『水底の歌』からであるが、梅原はここでも、この題詞は間違いであるとして、こんなことを書いている。

 ……この歌のひどく悲しい調子は、現地妻を残して都に帰るなどというものではない。そういう場合は、泣くのはたいてい女のほうで、男は女に別れる悲しさはあるものの、都へ帰る嬉しさに、どこか心が浮き浮きしているものである。……

 確かに心が浮き浮きしていては、「靡けこの山」はない。しかし、別れは別れであり、悲しくないわけはない。人麻呂は、ただ人の別れを最もドラマチックに、誰にも分かるように、その悲しみを描いてみせたにすぎない。ことによると、その舞台も石見国でなくてもよいのかもしれない。その意味では梅原の言うように、題詞をはずして読んでいっこうに構わない。(つづく)

(31) 軽の市

2007-10-02 | 万葉集あれこれ

 先日、これも青葉に誘われ、藤沢の遊行寺を訪ねてみた。境内の植え込みに隠れて、異形の歌碑が一つ置かれている。この一画は元々万葉植物園のつもりが、花が咲く端から持ち去れてしまい、荒らしておくわけにも行かず、放出された元江戸城の壁石を加工して、歌碑に仕立てたのだという。

 本人手書きの歌をそのまま刻んであるので読みにくいが、前回の人麻呂の長歌と同じように、短く区切って改行し、書き直してみると、次のようになる。

糞掃衣 すその短く 
くるふしも 臑もあらはに
わらんちも 穿かぬ素足は 
國々の 道の長手の
土をふみ 石をふみ来て 
にしみたる 血さえ見ゆかに
いたましく 頬こけおちて 
おとかひも しゃくれ尖るを
眉は長く 目見(まみ)の静けく 
たぐひなき 敬虔(つつしみ)をもて
合せたる 掌のさきよりは 
光さへ 放つと見ゆれ (以下略)

 像に刻まれた一遍上人の印象を詠ったもので、いかにも遊行寺の境内に相応しい。同じ境内には、上の歌の通りのブロンズ像も置かれている。作者の川田順は、老いらくの恋とやらでよく知られた、明治生まれの歌人であるらしい。

 上の歌が長歌を意識したものかは別として、今の時代でもこのように詠むことはできる。分かりやすい歌である。しかし、散文的であることはいなめない。このことは、人麻呂についても、長歌が長歌らしい、呪歌本来の特徴を失って行く過程で、既にある程度言えたことではなかろうか。

 順序が前後したが、巻二挽歌人麻呂の「妻死之後泣血哀慟作歌」の長歌一首目はこうなっている。人麻呂は予期しない妻の死を突然知らされる。それが何によるものであるかは触れられていない。

天飛ぶや 軽の道は      (あまとぶや,かるのみちは)
我妹子が 里にしあれば    (わぎもこが,さとにしあれば)
ねもころに 見まく欲しけど  (ねもころに,みまくほしけど)
やまず行かば 人目を多み   (やまずゆかば,ひとめをおほみ)
数多く行かば 人知りぬべみ  (まねくゆかば,ひとしりぬべみ)
さね葛 後も逢はむと     (さねかづら,のちもあはむと)
大船の 思ひ頼みて      (おほぶねの,おもひたのみて)
玉かぎる 岩垣淵の      (たまかぎる,いはかきふちの)
隠りのみ 恋ひつつあるに   (こもりのみ,こひつつあるに)
渡る日の 暮れぬるがごと   (わたるひの,くれぬるがごと)
照る月の 雲隠るごと     (てるつきの,くもがくるごと)
沖つ藻の 靡きし妹は     (おきつもの,なびきしいもは)
黄葉の 過ぎて去にきと    (もみちばの,すぎていにきと)
玉梓の 使の言へば      (たまづさの,つかひのいへば)
梓弓 音に聞きて       (あづさゆみ,おとにききて)
言はむすべ 為むすべ知らに  (いはむすべ,せむすべしらに)
音のみを 聞きてありえねば  (おとのみを,ききてありえねば)
我が恋ふる 千重の一重も   (あがこふる,ちへのひとへも)
慰もる 心もありやと     (なぐさもる,こころもありやと)
我妹子が やまず出で見し   (わぎもこが,やまずいでみし)
軽の市に 我が立ち聞けば   (かるのいちに,わがたちきけば)
玉たすき 畝傍の山に     (たまたすき,うねびのやまに)
鳴く鳥の 声も聞こえず    (なくとりの,こゑもきこえず)
玉桙の 道行く人も      (たまほこの,みちゆくひとも)
ひとりだに 似てし行かねば  (ひとりだに,にてしゆかねば)
すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる(207)
              (すべをなみ,いもがなよびて,そでぞふりつ               る)

 軽は、今の橿原市の東南、畝傍山に近い。そこに妻の里があり、持統天皇に扈従する人麻呂は、藤原京の外れのこの辺りに通っていたのである。軽には市が立ち人が集まる。それで、(ねもころに 見まく欲しけど) もっともっと逢いたいのだが、(やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ) 人目を気にして、あまり頻繁に通わないよう遠慮していたのだという。 

 ところがある日、いつも妻の便りを届ける使いの者が悲しい知らせを持ってやって来る。予期しない突然のことに、(言はむすべ 為むすべ知らに) 言葉を失いどうしてよいか分からないまま、(千重の一重も 慰もる 心もありやと) 千に一つも気が紛れることもあろうかと、いたたまれず市の雑踏の中に身を置いてみた。しかし、(道行く人も ひとりだに 似てし行かねば) 妻もよく出掛けた市に行き交う人の群に、その面影を求めても、道行く誰ひとり妻に似た者はいない。どうしてよいか分からぬまま、その名を呼びながら、むなしく袖を振り続けたという。こうした場合、袖を振ることに何か特別の意味があったのであろう。

 悲しみに耐えかねて、市の雑踏の中に、似た面影を求め彷徨うというのが歌の骨子であり、これは今の時代でも通じる。詠み手もまた観客の一人として、人の死をドラマチックに演出するならこれでよいのである。

 しかし、これを人麻呂個人の身に降りかかった現実の出来事と考えると、どこかちぐはぐなことになる。病に伏していたのなら、人目を気にして見舞わないというのは随分薄情な話で、前回の二首目にあるように、二人の間には嬰児もいたとすると、人目をはばかる理由があるとも思えない。婚姻の形が今とは違うにしても、これでは余程こみ入った事情があったとでも考える外ない。

 この長歌に添えられた短歌二首の中の一首はこうである。

秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも(208)
あきやまの,もみちをしげみ,まどひぬる,いもをもとめむ,やまぢしらずも

 季節は秋、山は一面の黄葉、茂った葉がいっせいに色づく。その茂みの奥へ、この世ならぬ黄葉に誘われたか、妻は迷い込んでしまったのだ。それなのに、その姿を探し求めようにも、どの道をどう辿ったらよいのか、皆目見当がつかない。突然わが身にふりかかった現実を、できることならないものと信じたい。これは本当に現のことなのか。

 短歌であるなら、このように限られた言葉に凝縮された思いを託せばよい。読み手の想像力を刺激してやれば、歌はそこで終わる。それが長歌だと、連ねる言葉に制限はない。多くを語ることはできるが、説明し過ぎてしまえば歌にならない。何らかの人麻呂本人の体験が歌の背後にあるにしても、それをそのまま詠っても、今に通じる感動が引き出せるわけではない。人麻呂にはそれがよく分かっている。(つづく)

(30) 為むすべ知らに

2007-10-02 | 万葉集あれこれ

 川越の氷川神社の大鳥居をくぐってすぐ、社務所の脇に小さな摂社が置かれている。人丸神社である。ご神体は、脇息に身を寄せ、ゆったりと筆を構えた例の人麻呂の木像で、五寸余り、首ははめ込みになっているという。首が抜けることに、何事か特別な意味を見る向きもあるが、首を廻らし月を振り仰ぐポーズと見れば、ユニークで気がきいている。

 先日、青葉に誘われ、気付かなければ見落としてしまいそうな、小さな社を訪れたばかりである。ゆっくり見学するつもりが、急に空模様が怪しくなり、雷に驚いて早々に、冊子を頒けてもらっただけで帰ってきた。

 人麻呂の忌日に合わせて、広く影供が行われるようになったのは平安半ば以降らしい。人麻呂の像を奉じて供え物をし、歌の披講が行われた。歌聖人麻呂の誕生であり、後の芭蕉の場合と似ている。河童忌や獺祭忌やらもその亜流であろう。

 しかし、影供のためらしき人麻呂像が、いつの間にかご神体と化し、人丸の語呂合わせ(ヒトマル、火止まる、ヒトウマル、人産まる)から、火伏せや安産の守り神として、人麻呂が信仰されるに到る経緯は、容易に解き明かせそうにない。上の冊子によると、川越では家運が急に傾いたりすると、人丸様の祟りが囁かれたりすることもあるらしく、その背後には容易ならざる闇が広がっているのかもしれない。

 これも上の冊子(「柿本人麻呂と川越」)によると、全国に二百ほどもある人丸神社の中、人麻呂の子孫を名乗る綾部家が祭主となっているのは、川越の他には、石見(島根)の益田市戸田の柿本神社だけで、川越の方が分家だという。綾部一族が、託宣と意味する語家(かたりや)を職掌としたとする伝承もあるらしく、各地で歌聖人麻呂を語り伝えた、ことによると吟遊詩人のような一群の人々を想像してよいのかもしれない。

 いずれにしても万葉歌人の多くがそうであるように、人麻呂の生涯については、いつどこで生まれ、いつどこで死んだのか、確かなことは何も分からない。しかし、万葉集を代表する歌人は人麻呂であり、人麻呂の存在なくしては、万葉集もまた存在しなかったかもしれない。

 万葉集を代表する歌人が人麻呂であるとして、その人麻呂の代表歌に何をあげるか、時代によって一定しない。短歌にこだわる限り、そうなっても仕方がない。長歌は人麻呂によって完成され、その形式は、万葉集以降に引き継がれることなく終わっている。長歌は、多分呪歌である祝詞のようなものが洗練され、完成したのであろうが、人麻呂以降、呪歌の伝統が失われて行くにとともに、それを最も濃厚に引き継いだ、長歌の形式もまた失われていったのであろう。

 人麻呂の長歌を、次のように現代詩のように改行して配列すると、対句の部分も分かりやすく読みやすい。題詞は「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌」、二首ある中の後の方である。愛妻を亡くした人麻呂の嘆きであり、当然挽歌である。

うつせみと 思ひし時に(うつせみと,おもひしときに)
取り持ちて 我がふたり見し(とりもちて,わがふたりみし)
走出の 堤に立てる(はしりでの,つつみにたてる)
槻の木の こちごちの枝の(つきのきの,こちごちのえの)
春の葉の 茂きがごとく(はるのはの,しげきがごとく)
思へりし 妹にはあれど(おもへりし,いもにはあれど)
頼めりし 子らにはあれど(たのめりし,こらにはあれど)
世間を 背きしえねば(よのなかを,そむきしえねば)
かぎるひの 燃ゆる荒野に(かぎるひの,もゆるあらのに)
白栲の 天領巾隠り(しろたへの,あまひれがくり)
鳥じもの 朝立ちいまして(とりじもの,あさだちいまして)
入日なす 隠りにしかば(いりひなす,かくりにしかば)
我妹子が 形見に置ける(わぎもこが,かたみにおける)
みどり子の 乞ひ泣くごとに(みどりこの,こひなくごとに)
取り与ふ 物しなければ(とりあたふ,ものしなければ)
男じもの 脇ばさみ持ち(をとこじもの,わきばさみもち)
我妹子と ふたり我が寝し(わぎもこと,ふたりわがねし)
枕付く 妻屋のうちに(まくらづく,つまやのうちに)
昼はも うらさび暮らし(ひるはも,うらさびくらし)
夜はも 息づき明かし(よるはも,いきづきあかし)
嘆けども 為むすべ知らに(なげけども,せむすべしらに)
恋ふれども 逢ふよしをなみ(こふれども,あふよしをなみ)
大鳥の 羽がひの山に(おほとりの,はがひのやまに)
我が恋ふる 妹はいますと(あがこふる,いもはいますと)
人の言へば 岩根さくみて(ひとのいへば,いはねさくみて)
なづみ来し よけくもぞなき(なづみこし,よけくもぞなき)
うつせみと 思ひし妹が(うつせみと,おもひしいもが)
玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば(たまかぎる,ほのかにだにも,みえなくおもへば)(210)

 二度、三度繰り返し口にしてみるとよく分かる。同じ長歌でも憶良の貧窮問答歌などより言葉の律動がくっきりしており、枕詞も取って付けたような不自然さが一切ない。詠われているのも、どこにでもある悲しみであり、嘆きである。それに、これ以上の形を与えようとしても無理である。今の時代においてでもである。ここまでくれば、人麻呂本人の体験や境遇を詮索してみてもはじまらない。人麻呂の天才とその作品を、可能な限り引き出し洗練させる場が、確かに存在したのである。挽歌ではあったにしても、儀礼的に詠まれ、そこで終わったものではなく、繰り返し歌われ、多くを感動と共感の中に、更に洗練を加え、その結果このような作品が、人麻呂の名で残されるに到ったのであろう。

 (うつせみと 思ひし時に) うつせみは現人、この世の人、後に蝉の抜け殻の空蝉を当て意味が変わってしまうが、ここでは生前、いつまでもこの世のものであり続けることを疑ってもみなかったと振り返っている。そんな二人が手に手を取り合って眺めた、堤の上の槻の木は変わることなく葉を茂らしているというのに、こう詠い出す。そして、最後に再び(うつせみと 思ひし妹が)、今はどこを探しても(ほのかにだにも 見えなく)なってしまった。これが果たしてうつつ(現)のことなのであろうか。

 極めつけは、(我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と ふたり我が寝し 枕付く 妻屋のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ)、残された赤子を、(男じもの)男ではない、女のように小脇に抱え、いくら泣かれても、何を与えてよいのやら、どうあやしたらよいのやら (為むすべ知らに) どうしてよいか分からぬまま、昼も夜も亡き妻の部屋の中でおろおろするばかり。若い妻を亡くした男の姿をこれ以上には描きようがない。人麻呂の長歌がどのような場で、どのように歌われたかは想像してみるしかない。一人本を読むようにしてではなく、聴衆の一人としてこれを聞いたとしたら、例外なく皆涙したと考えるのが自然であろう。 

 長歌には短歌も添えられている。推敲の跡をうかがわせる「或本歌曰」とある、上と一部異なる同じ歌の短歌三首目は、次のように詠われている。長歌に辛うじて耐えられたとしても、これで涙しない者はいない。

家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕(216)
いへにきて,わがやをみれば,たまどこの,ほかにむきけり,いもがこまくら

 (為むすべ知らに) どうしてよいか分からぬまま、そこに帰ったであろう、山に行けば逢えると人の言うのを頼りに、険しい山道を登ってみたが、どこにも姿は見えない。疲れ果て家に帰って、部屋の片隅をふと見れば、見慣れた木枕があらぬ方を向いて転がっている。さりげないところに、本当の悲しみがある。人麻呂は人の感動を知り尽くしている。(つづく)

(29) やど貸さず

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

宿かせと刀投出す吹雪哉 蕪村

 この句は前に「(13)夢に娘子になりて」で一度引用している。余計な説明をとことん削ぎ落とし、後は読み手の想像力に任せる。ツボを心得たうまい句である。芝居がかっているのは、蕪村の趣味だから仕方がない。歌舞伎や時代劇が愛好される限り、こうした句も忘れられることはない。

 歌も句も、詠まれた時の状況や動機とは無関係に、読み手の想像力次第で勝手に一人歩きし、予期しない物語を紡ぎ出すことはよくある。その辺りを逆手に取って、関連のない歌を連ねることで、もっともらしい話の筋を演出することもできるし、話の筋に合わせて、それらしい歌を詠むこともできる。いずれにしてもこれも創作であり、遊びが高じて手の込んだ創作がなされたとしても不思議ではない。

 皇位の継承を巡って敵対する立場に置かれた、大津皇子と有間皇子の二人と関わりを持った、石川郎女と同じ名前で巻二の相聞にこんな歌が載っている。

風流士と我れは聞けるをやど貸さず我れを帰せりおその風流士(126)
みやびをと,われはきけるを,やどかさず,われをかへせり,おそのみやびを

 題詞は「石川女郎贈大伴宿祢田主歌」とある。二人から求愛された石川郎女とは逆に、この石川郎女は大伴田主に振られたのである。歌はその腹癒せであり、せっかく女の方から訪ねていったのに、(やど貸さず)泊めてもくれないで、この私を帰すとは、風流士が聞いて呆れるというわけである。風流に好き者の意味も含めた、多くの万葉集らしい相聞歌の初々しさとは無縁な大人の話である。大伴田主というのは、とかく噂のある、そんな話の主役にうってつけの男であったのであろう。歌の事情を解説して長い注が付されている。

大伴田主字曰仲郎 容姿佳艶風流秀絶 見人聞者靡不歎息也 時有石川女郎 自成雙栖之感恒悲獨守之難 意欲寄書未逢良信 爰作方便而似賎嫗 己提堝子而到寝側 哽音蹢足叩戸諮曰 東隣貧女将取火来矣 於是仲郎 暗裏非識冒隠之形 慮外不堪拘接之計 任念取火就跡歸去也 明後女郎 既恥自媒之可愧 復恨心契之弗果 因作斯歌以贈謔戯焉

 この大伴田主ときたら、「容姿佳艶風流秀絶」キムタクやらヨン様やら何やらを取り集めたような男で持てに持て、尋常なやり方では女の方から近づきようがない。石川郎女は一計を案じたのである。「似賎嫗 己提堝子而到寝側 哽音てき足叩戸諮曰 東隣貧女将取火来矣」卑しい女のなりをして、土鍋を提げ、田主の寝所に近づき、しわがれ声で足をふらつかせながら戸を叩き、隣の貧しい女が火を借りに来たと告げる。田主の方は暗くてよく見えないので、女の顔をよく確かめもせず、事情を察することもできないまま、火種を取らせて早々に帰したというわけである。尾鰭のついたうわさ話に、男共が宮廷のサロンで、打ち興じている様を思い浮かべて、間違いはない。出来すぎた話で創作にきまっている。いくら好き者でもそこまでする女はいない。

 田主も挨拶を返さないわけには行かず、こんな歌を贈る。

風流士に我れはありけりやど貸さず帰しし我れぞ風流士にはある(127)
みやびをに,われはありけり,やどかさず,かへししわれぞ,みやびをにはある

 これが本当の風流というものさ、というのだが面白くも何ともない。「風流士」を気取るなら、もう少し気のきいたことが言えてもよい。

 この程度とみたか、石川郎女が再度当てつける。

我が聞きし耳によく似る葦の末の足ひく我が背つとめ給ぶべし(128)
わがききし,みみによくにる,あしのうれの,あしひくわがせ,つとめたぶべし

 意気地なしの田主を、一本足の案山子に見立ててからかったか。田主は足に何かハンディを抱えていたか。(耳によく似る)聞いたとおりの、周知とはいえ、(葦の末の足)へなへな足とか、歌の贈答にこれまで持ち出すようでは石川郎女も大したことはない。

 この一連は、どうということもない歌が、その成り立ちを説明した注の面白さだけで支えられており、注を外したら意味をなさない。これでもまだ、編纂の立場で多少物足りなさを覚えたか、続けて更にもうひとつ関連のありそうな歌を付け加えている。

古りにし嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと(129)
ふりにし,おみなにしてや,かくばかり,こひにしづまむ,たわらはのごと

 歳を取っても幾つになってもこの道ばかりはと言いたいのであろうが、これが土鍋を提げて、田主の寝所をうかがった、あの石川郎女のその後だよと言いたいのであろうか。歌自体は親しい間柄で、自分を古りにし嫗、老婆に見立てた戯れ歌として読んだ方がよい。それが石川郎女である必要は何もない。

 題詞には「大津皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂歌」とあり、大伴宿奈麻呂は大伴田主の弟にあたる。この石川女郎をあえて「大津皇子宮侍」と断っており、こうなるといやでも大津、草壁両人と関わりを持った例の石川郎女と同一人という連想が働かざるをえない。関係者の年齢から勘案すると、石川郎女はこの頃四十過ぎということになるらしい。この時代の年齢の感覚からいったら文字通りの「古りにし嫗」で、戯れ歌にしてもどこか哀れである。(つづく)

(28) 夏来るらし

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

夏来るらし貝がらのストラップ  黛まどか

 前回「(27) 鳥雲に入る」で、持統天皇の小倉百人一首「春すぎて夏來にけらし白妙の衣ほすてふ天のかぐ山」に触れたのだが、これは、万葉集では「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(28)」になっており、黛まどかは、この句はその本歌取りだという。今様の携帯のストラップが万葉集に跳ぶあたりが楽しい。

 歌や俳句に詞書きを添えることがある。句に限って言えばこれはないほうがよい。吐き出された瞬間に、作者とは無縁に一人歩きさせるのが本来であろう。作者が誰かも本当のところどうでもよいのかもしれない。作者の名前や詞書きで、印象が大きく変わるとしたら、それはおかしいのである。

 しかし、実際のところこれはよくあることで、上の句にしても作者が黛まどかと知って納得したり、陰湿に謀略を仕組む持統天皇が、一方で清々しく夏の到来を詠ったりすることに妙に感心したりしている。それはそれでよいのだが、万葉集を好き勝手に読んでいると、この点は結構厄介である。

 万葉集の歌の多くは作者不詳で、読み人知らずとするのが正しいのであろう。歌を職掌とする者やその集団が存在する中で、代作も行われているとしたら、作者を特定することは難しいし、歌を個人の名前と結びつけることにそれほど意味があるとも思えない。歌は特殊な職能の一つとして発達したのであろうし、無名であることがむしろ歌の意味を正しく伝えているとも言える。人麻呂や赤人などの宮廷付きの専門歌人は卑官であり、正史に名を残したりはしない。それがどうような人物であるか、その人柄を論い詮索してみてもはじまらないのである。

 不明なものは不明なままにしておけばよいのだが、実際には題詞に書かれた内容が、虚実不明のまま、様々な憶測を呼び、伝承と史実が混同されてきたのである。

 万葉集を代表する歌人として柿本人麻呂を上げることに誰も異存はない。しかし、人麻呂の代表歌ということになると、何をあげたらよいのであろうか。万葉集の秀歌を集めた、いずれも昭和になってからの斎藤茂吉『万葉秀歌』、山本健吉・池田弥三郎『萬葉百歌』、松尾聡『万葉の秀歌』、久松潜一『万葉秀歌』、中西進『万葉の秀歌』、これらに共通して採られているのは次の二つだと言う。

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(48)
ひむがしの,のにかぎろひの,たつみえて,かへりみすれば,つきかたぶきぬ

近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(266)
あふみのうみ,ゆふなみちどり,ながなけば,こころもしのに,いにしへおもほゆ
 いずれも題詞抜きでは少し難しそうな歌ではあるが、わずかこの二つだけである。最初の方は、原文の仮名だと「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」であり、これが上のように読まれるようになったのは近世になってからである。百人一首の「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」は巻十一(2802)の作者不詳歌であり、人麻呂のものとする根拠はない。各地の人麻呂神社の縁起などによく出てくる「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」はそもそも万葉集のものではない。

 万葉集を代表する歌人が、代表歌とされるものさえ様々異説のある人麻呂であるということは、万葉集自体が、人麻呂同様伝承と切り離しては理解できないということになりそうである。作者についても、題詞に書かれたこともいったんは全ては伝承であり、創作であるとした方が万葉集は理解しやすい。伝承は伝承として、そのようなものとして残さなくてはならない意味が、別に必ずあるはずである。

 万葉集巻二の相聞に、題詞の意味を考える上で参考になりそうな例がある。次の連続して並べられた四つの歌は、題詞抜きに読めば、どうということもない万葉集らしい相聞歌である。最初の二つは、一対で東歌によくあるようなものと変わらないし、四番目も似たようなものである。三番目は占いを引き合いに出しているあたり、要するに人に知られることなど恐れてはいない、それほどに思いは深いと言いたいだけの歌で、素朴という言い方もできる。四つとも読み人知らずであれば特に言うべきことはない。

あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに(107)
あしひきの,やまのしづくに,いもまつと,われたちぬれぬ,やまのしづくに

我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを(108)
あをまつと,きみがぬれけむ,あしひきの,やまのしづくに,ならましものを

大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我がふたり寝し(109)
おほぶねの,つもりがうらに,のらむとは,まさしにしりて,わがふたりねし

大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も我れ忘れめや(110)
おほなこを,をちかたのへに,かるかやの,つかのあひだも,われわすれめや

 問題は、この連続した四つの歌の題詞がそれぞれ「大津皇子贈石川郎女御歌」「石川郎女奉和歌」「大津皇子竊婚石川女郎時津守連通占露其事皇子御作歌<[未詳]>」「日並皇子尊贈賜石川女郎御歌[女郎字曰大名兒也]」となっている点であり、こうなると一つ一つの歌が、本来の意味とは別に、関連しあって特別な意味を持たざるを得ない。「日並皇子」は持統天皇の実子「草壁皇子」であり、前回触れたように持統天皇は、草壁皇子の皇位継承の邪魔になる大津皇子を謀殺したのである。

 「石川郎女(女郎)」は万葉集のあちこちに登場し、何人もの石川郎女がいたことになるが、この場合は同一人物が大津皇子と草壁皇子の両者に関わっていると読まざるをえない。ライバル同士の二人と通じた石川郎女が、大津皇子と「竊婚(密かに逢)」ったということは、石川郎女は草壁の妻であったということになるのであろうか。

 皇子ともあろう者が山の雫に打たれて逢い引きしたり、それもすっぽかされたりとか、歌垣の掛け合いのようなことがあるわけもなく、だから「竊婚」などと妙なこじつけをしてみてもはじまらない。「我がふたり寝し」などというのも皇子らしくもない。結局のところ、[未詳]たしかではないがとか、[女郎字曰大名兒也]大名兒は石川郎女を指すとか、思わせ振りの注を付して、詞書きで曖昧なストーリーを紡いでいるわけで、これも数ある伝承を取捨選択し、編纂の際にある程度創作の手を加えた結果、こうなったということなのであろう。

 有間皇子の場合「(15)友ありき」と同様、この大津皇子の場合も、政治の論理とは別に、それでは割り切れない部分を真偽不確かな伝承が埋めているのであり、そこに同情や批判や皮肉が込められ、伝承は伝承として勝手に一人歩きしているのである。万葉集はそれをありのままに写し取っている。それが万葉集の面白さであろう。

 それにしても持統朝というのも凄まじい。これ以上複雑な家系というのもないであろう。天武天皇は、実兄の天智天皇の娘四人を妻とし、中の一人である持統天皇が、実子の草壁皇子のために、実の姉妹と夫である天武天皇の間に出来た、草壁皇子とは腹違いの兄弟である大津皇子を抹殺するのである。そして、期待した草壁皇子が早世すると、持統天皇は、草壁皇子と父である天智天皇の娘との間に出来た、孫の軽皇子の即位に執念を燃やし、文武天皇としてこれを実現させる。このような不可思議な世界の住人の心の中を、現代の常識で、歌を解釈し推しはかろうとしても、それはどだい無理というものである。(つづく)

(27) 鳥雲に入る

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

鳥雲に入るおほかたは常の景  原 裕
行春に佐渡や越後の鳥曇り   森川許六
恥知りてこの地捨て得ず鳥曇  杉山岳陽

 「鳥雲に入る」は春の季語、渡り鳥が雲に隠れて北に帰る。そんな時期の曇り空を「鳥曇」、これも春の季語である。さすがに許六の近世の句は響きがよい。近代になると、同じ鳥曇でも岳陽のようにやや屈折する。

 季語がなくては俳句は成り立たない。何故であろうか。どうということもない鳥の行方や雲、風、霧、露といった自然の姿に、ここまでこだわりを持つというのは何故であろうか。季節感に敏感な風土柄といったことだけでは説明がつかない。遺伝子レベルで、それ以前に何かもっと大きなものが刷り込まれてしまったとしか考えられない。万葉集にはその答えがありそうな気がする。

 山部赤人の「勝鹿真間娘子」は巻三の挽歌に置かれている。柿本人麻呂の挽歌を引き継いだのは赤人であり、更にそれを引き継ぐ形で、高橋虫麻呂の「菟原娘子」や「勝鹿真間娘子」は巻九の、これも挽歌である。

 しかし、同じ挽歌であっても、人麻呂から赤人を経て虫麻呂へ、長歌は次第に伝承を語ることに軸足を移し、本来の呪歌としての性格を失って行く。

 人麻呂も生没年不詳であるが、活躍したのは持統、文武天皇の時代であり、作歌の時期を680~709年、赤人のそれを724~736年とすると、両者はかなり時代を隔てている。

 巻三の、配置上は赤人のすぐ前に置かれた人麻呂の挽歌の一つを見てみる。題詞は「溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麻呂作歌」とある。

山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく(429)
やまのまゆ,いづものこらは,きりなれや,よしののやまの,みねにたなびく

 これは伝承ではない。人麻呂は「出雲娘子」の早世に立ち会っているのである。不慮の事故であろうか。鎮魂と哀惜の情を、古代の人々はこのように表白したのであり、そうすることができたのである。霧は霧であって単なる霧ではない。見事な挽歌である。

 古くからこのような場合に挽歌を捧げる習慣があり、人麻呂やその周辺に、あるいはそれに先行して、それを職掌とする人々が存在した。巻三挽歌の最初に置かれているのは聖徳太子のものである。

家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ(415)
いへにあらば,いもがてまかむ,くさまくら,たびにこやせる,このたびとあはれ

 題詞は「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌」とある。これは路傍に行き倒れた者をたまたま見掛けたとする。縁もゆかりもないとしても、そうであればこそ、このような場合、身分に関わりなく何人であれ見過ごすことなく丁重に葬る、そのような民俗が古来存在した。聖徳太子の名を冠したこの挽歌はその象徴であり、挽歌とは本来どのようなものとされているか、先ず以て冒頭に示したのである。

 人麻呂にも、この聖徳太子のものとよく似た挽歌がある。題詞は「柿本朝臣人麻呂見香具山屍悲慟作歌」とあり、状況はほぼ同じとしてよい。

草枕旅の宿りに誰が嬬か国忘れたる家待たまくに(426)
くさまくら,たびのやどりに,たがつまか,くにわすれたる,いへまたまくに

 次も人麻呂の挽歌、題詞は「土形娘子火葬泊瀬山時柿本朝臣人麻呂作歌」とあり、これは上の「出雲娘子」の場合とよく似ている。

こもりくの初瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ(428)
こもりくの,はつせのやまの,やまのまに,いさよふくもは,いもにかもあらむ

 先に「(14)愛河の波浪」で、額田王の次のよく知られた歌なども、これは挽歌ではないかとする考えもあるとしたのであるが、これらの一連の挽歌の中に置いてみると、なるほどそのようにも読めるのである。

君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾動かし秋の風吹く(1606)
きみまつと,あがこひをれば,わがやどの,すだれうごかし,あきのかぜふく

 万葉集の時代、更にそれを遡る古代、人の生死の境は今ほどには判然としていない。その曖昧な境を風や雲や霧などが柔らかく包み込み、その間を鳥あるいは蝶などが優しく橋渡している。草木よくもの言うアニミズムの世界ではこれが普通なのかもしれない。

 上の聖徳太子に続いて、大津皇子のものとされる次の挽歌が置かれている。

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(416)
ももづたふ,いはれのいけに,なくかもを,けふのみみてや,くもがくりなむ

 題詞に「大津皇子、死を被りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌」とあり、この通りであるとすると、これは挽歌というより辞世である。本人が死に臨んで自ら詠ったのである。今眼前に池で遊ぶ鴨と、ほどなく雲に隠れ遠く飛び去って行くであろう、鴨と化した自分の姿が、ここでは既に判然としていない。

 大津皇子は、父の天武天皇の死後、その後ろ盾を失うや謀反のかどで「死を被」った、自殺を強いられたのである。謀反発覚の翌日のこととされる。夫である天武天皇から権力を引き継いだ持統天皇が、凡庸な息子の草壁皇子を後継とするために仕組んだ、というのはいかにもありそうな話である。これが、百人一首「春すぎて夏來にけらし白妙の衣ほすてふ天のかぐ山」、清々しく初夏の景色を詠う作者の、もう一つの顔である。

 上の大津皇子のものとされる歌はやはり辞世ではなく、挽歌であろう。本人には何が起こったのか、呑み込む間もなく、慌ただしく死に追いやられたのである。辞世を詠む余裕などあろうはずもない。後世、その間の事情をよく知る立場で、痛ましい死に上の挽歌が捧げられたのである。

 アニミズムの世界の住人にとって、自然はただ優しく美しくあるだけではない。雲も風も雨も、干ばつや疫病と一体の人智を越えた脅威の象徴である。虫や鳥にしたところで同じである。死者は様々なものに姿を変える。災いを為すものにも姿を変えることも当然ありえる。

 陰惨な政争や権力闘争の犠牲者、行路の行き倒れや不慮の死こそ挽歌に相応しいのである。これらの尋常ならざる死者を慰撫し、自然に帰して災いをなす事を避けるための祈りが、挽歌本来の姿であろう。挽歌の本質は、自然への畏怖であり、言霊に込められた祈りであろう。挽歌が呪歌たる所以である。(つづく)

(26) 身をたな知りて

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 高橋虫麻呂は、年頃になると隣家にも姿を見せない箱入り娘の「菟原娘子」と、(夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける) 夜中であろうと、気にもせず出て行く開放的な「珠名娘子」の、いずれとも対照的なもう一人の伝承を残している。「勝鹿真間娘子」である。

 万葉集の時代、東海道の東の果ては常陸であり、相模からは三浦半島から舟で房総半島に渡り、上総の国府(市原市)、下総の国府(市川市)を経て常陸の国府(石岡市)に至る。武蔵、今の東京の湾岸地帯は低湿地で通行不便であり、相模から陸路武蔵を経て下総に向かうには無理があった。武蔵は東山道に属しており、これが東海道に加えられるのは771年、万葉集がなるのは751年である。万葉集の頃の東海道だと、今の常識に反して房総半島の上総の方が都に近く、そのため「上」総となる。虫麻呂もこのルートで上総、下総を経て任地の常陸に向かったはずである。

 「勝鹿真間娘子」、通称手児名は下総の国府に近い、真間の入江の海浜の乙女である。東京湾岸の景観も千年の間に随分と変わってしまった。海岸線は今では十キロも南下しており、真間の入江も市川市の住宅街になっており、当時の面影は全くない。それにしても下総の手児名といい、上総の珠名といい、都からは遙か遠い、こんな東国の片田舎の伝承がよくぞ中央の古典に残されたものである。美人の評判は、いつの時代であれ、それほどに関心を呼ぶのである。

鶏が鳴く 東の国に 古へに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣に 青衿着け ひたさ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 沓をだに はかず行けども 錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめや 望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 港入りに 舟漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く港の 奥城に 妹が臥やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも(1807)
とりがなく,あづまのくにに,いにしへに,ありけることと,いままでに,たえずいひける,かつしかの,ままのてごなが,あさぎぬに,あをくびつけ,ひたさをを,もにはおりきて,かみだにも,かきはけづらず,くつをだに,はかずゆけども,にしきあやの,なかにつつめる,いはひこも,いもにしかめや,もちづきの,たれるおもわに,はなのごと,ゑみてたてれば,なつむしの,ひにいるがごと,みなといりに,ふねこぐごとく,ゆきかぐれ,ひとのいふとき,いくばくも,いけらじものを,なにすとか,みをたなしりて,なみのおとの,さわくみなとの,おくつきに,いもがこやせる,とほきよに,ありけることを,きのふしも,みけむがごとも,おもほゆるかも

 (その顔の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば) これは珠名、(望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば) これは手児名である。花のような笑顔は同じでも、手児名は細面の美人ではなく、丸顔で愛くるしかったのであろう。(夏虫の 火に入るがごと 港入りに 舟漕ぐごとく) 夏の虫が火に、舟が港に集まってくるように、(行きかぐれ 人の言ふ) 人を引きつけ、人は手児名をうわさし合ったという。

 しかし、珠名とも菟原娘子ともタイプは異なるようである。(麻衣に 青衿着け ひたさ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 沓をだに はかず) 着るものは粗末で、髪の手入れもせず、いつも裸足である。短歌にはこうある。

勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ(1808)
かつしかの,ままのゐみれば,たちならし,みづくましけむ,てごなしおもほゆ

 (立ち平し水汲ましけむ) 手児名は地面が平らになるほどに、水汲みに励む評判の働き者であり、なりふり構わずよく働く。それでいて、(錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめや) 着飾ったどこの箱入り娘より人の目を引きつけた。「手児」の例が東歌に一つだけある。

剣大刀身に添ふ妹を取り見がね音をぞ泣きつる手児にあらなくに(3485)
つるぎたち,みにそふいもを,とりみがね,ねをぞなきつる,てごにあらなくに

 国名は不明とあるが、上総や下総と見てかまわない。意中の女を(取り見がね) 自分のもとに置くことができなかった、他の男に縁づいたのであろうか。(手児にあらなくに) 幼子でもないのに、声を上げて泣いたという。旅人の讃酒歌ではないが、この時代男もよく泣いたのである。言葉を多く身につけた分、今は柳田国男が言うように感情をコントロールし過ぎているのかもしれない。手児は手に抱く子、幼子、手児名の名は愛称の接尾語、手児名は「赤ちゃん」に近い愛称かと思われる。珠名の方もお珠か珠ちゃんといったところか。いずれにせよ、幼い頃からみんなが見知っている手児名は、土地のみんなに、誰からも愛されていたのである。

 山部赤人もまた、この地を訪れ真間の手児名を詠っている。虫麻呂と同じ下級官吏で生没年不詳であるが、共に聖武天皇の時代、虫麻呂よりはやや先んじて活躍したと考えてよい。題詞は「過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌」となっており、巻三にある。

いにしへに ありけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて 伏屋立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我れは 忘らゆましじ(431)
いにしへに,ありけむひとの,しつはたの,おびときかへて,ふせやたて,つまどひしけむ,かつしかの,ままのてごなが,おくつきを,こことはきけど,まきのはや,しげくあるらむ,まつがねや,とほくひさしき,ことのみも,なのみもわれは,わすらゆましじ

我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ(432)
われもみつ,ひとにもつげむ,かつしかの,ままのてごなが,おくつきところ

葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ(433)
かつしかの,ままのいりえに,うちなびく,たまもかりけむ,てごなしおもほゆ

 短歌の中一つは、虫麻呂とは、玉藻を刈るか、水を汲むかの違いだけである。虫麻呂は、この赤人の歌を踏まえて手児名のイメージを膨らませたのであろう。赤人の歌は伝統的な挽歌を意識したものか、関心は、専ら手児名の墓と、今のそのあり様に向けられており、生前の手児名については、(倭文幡の 帯解き交へて 伏屋立て 妻問ひしけむ) 手児名と同じような(倭文幡の帯) 粗末な帯をした、土地の男と一緒に暮らすこともあったと語っているだけである。手児名が伝説的な美人であったことは、今更触れるまでもなく、それがどのようであったかに赤人の関心はない。

 赤人も虫麻呂も、手児名の早世の事情については何も語っていない。虫麻呂はただ、(いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて) 誰も大して生きられるわけでもないのに、何でまた(身をたな知りて) わが身のすべてを見通したかのように、何を思い詰めたものやら、と慨嘆するのみである。

 美人が美人というだけであるならすぐに忘れられる。その死が不可解であり、受け容れがたいものであればあるほど、生前の姿は鮮烈な記憶となって残されるのである。世に流布している、男たちが争うのを見かねて、というのは、多分菟原娘子と話が重なってしまったのである。虫麻呂の描く手児名は、生活感溢れもっとたくましい。(何すとか 身をたな知りて) 本当のところは本人にしか分からない、思い当たることなど誰にも何もないのである。(つづく)

(25) すがる娘子

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

菫程な小さき人に生れたし 漱石

 漱石の教養の半分は近世のもので、漢詩も俳句も達者である。しかし、この句はどうであろうか。同じ菫でも「山路来て何やらゆかしすみれ草」のような俳句然としたところがまるでない。漱石と知らなければ、稚拙の一言で済まされてしまいかねない。ともあれ、ノートの片隅に思いつきで残したような句が、全てを正直に語ってしまったりするところが、俳句の俳句たる所以である。

 那美さんが苦労して茶店の婆さんに教えた「長良の乙女」の歌は巻八秋雑歌にある。

秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも我は思ほゆるかも(1564)
あきづけば,をばながうへに,おくつゆの,けぬべくもわは,おもほゆるかも

 日置長枝娘子とあり、次に家持が答えているところをみると、これは相聞歌である。家持の方はこうである。

我が宿の一群萩を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも(1565)
わがやどの,ひとむらはぎを,おもふこに,みせずほとほと,ちらしつるかも

 尾花に対し萩を持ち出してみただけのことで、これもどうということもない。

 日置長枝娘子とあまり違わない歌が巻十に作者不詳のまま並んでいる。

秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは(2254)
あきはぎの,うへにおきたる,しらつゆの,けかもしなまし,こひつつあらずは

秋の穂をしのに押しなべ置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは(2256)
あきのほを,しのにおしなべ,おくつゆの,けかもしなまし,こひつつあらずは

秋萩の枝もとををに置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは(2258)
あきはぎの,えだもとををに,おくつゆの,けかもしなまし,こひつつあらずは

 (消かもしなまし恋ひつつあらずは) 思い続けているよりは消え失せてしまいたい。(消ぬべくも我は思ほゆるかも) 消え入るばかりに思い続けている。どちらも露に絡めて、消えて、死んでしまうばかりにと言っているわけで、こうした場合の決まり文句なのであろう。相手の気を引こうと必死なのだろうが、気の弱い相手には脅し紛いの印象を与えかねない。最初の「秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは」は巻八(1608)に天武天皇の息子、弓削皇子のものとして載っているところをみると、男が詠んでもおかしくはない。

 『草枕』では、本来なら「ささだ男」か「ささべ男」が「長良の乙女」に差し出すべき歌が、乙女の辞世に変わり、それを「あの歌は憐れな歌ですね」なんてやっている。そんなつもりで読むと、そんな風にも読めるところが面白い。歌は背景次第で容易に意味を変えるのである。

 高橋虫麻呂は、(消かもしなまし)などと言い寄られたら、途方に暮れるばかりの、初心な心優しい「菟原娘子」とは対照的な伝承も語っている。題詞に「詠上総末珠名娘子」とあり、虫麻呂が任地の常陸への途次、東海道上総の末(周淮)、今の千葉県中部辺りで拾った話である。

しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 周淮の珠名は 胸別けの 広き我妹 腰細の すがる娘子の その顔の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば 玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに 鍵さへ奉る 人皆の かく惑へれば たちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける(1738)
しながとり,あはにつぎたる,あづさゆみ,すゑのたまなは,むなわけの,ひろきわぎも,こしぼその,すがるをとめの,そのかほの,きらきらしきに,はなのごと,ゑみてたてれば,たまほこの,みちゆくひとは,おのがゆく,みちはゆかずて,よばなくに,かどにいたりぬ,さしならぶ,となりのきみは,あらかじめ,おのづまかれて,こはなくに,かぎさへまつる,ひとみなの,かくまとへれば,たちしなひ,よりてぞいもは,たはれてありける

 話題の主、「珠名娘子」は、(胸別けの広き)(腰細のすがる娘子)だという。胸乳大きく蜂の腰といったところか。すがるは腰のくびれたじが蜂である。今時のグラビアアイドルならこれでよいのだろうが、伝統的な美人の形容には収まりようがない。随分と大胆な物言いである。鄙の伝承とあればこれでもよいのであろう。(その顔の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば) ただでさえ人目を引くこんな女の子が、誰彼なく愛想よく笑いかけるのだから、男共はたまったものではない。(道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ) といった始末で、隣家の亭主などは(己妻離れて 乞はなくに 鍵さへ奉る) さっさと女房を離縁して、気を引こうとしてあの手この手である。

 (人皆の かく惑へれば たちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける) 子供のように、人の注目を浴び、声を掛けられることが単純に嬉しいだけなのだが、あの子ときたら、なんとまあ、見境もなく誰にも戯れ、と目に角を立てる向きがない方がおかしい。家の鍵まで持ち出す男の愚かさより、気を引いたわけでもない女の振る舞いが、ただ目立つというだけの理由で非難されるのである。女は意外と賢く男の間をすり抜け、駆け落ちしたりすることもなく、土地に根を下ろしたのかもしれない。短歌はこうである。

金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける(1739)
かなとにし,ひとのきたてば,よなかにも,みはたなしらず,いでてぞあひける

 はしたないことに、とこれも目に角の口なのであろうが、虫麻呂は実際に語られていた言葉を、そのまま巧みに歌に詠み込んだものと思われる。ただ語り口が見事なのは、「菟原娘子」も「珠名娘子」も、虫麻呂からは等しい距離で見ており、そこに不必要な思い入れは何も加えていない。これは簡単そうで難しい。「珠名娘子」のような子が、このように鮮やかに記憶され、語られるのは異例である。(つづく)

(24) 負けてはあらじ

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 漱石の『草枕』冒頭、主人公の画工(えかき)と茶店の婆さんとの会話である。
 
「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘が御座りましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に懸想して、あなた」
「なるほど」
「ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう
 あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
と云う歌を咏んで、淵川へ身を投げて果てました」
 
 こっちは同じ画工と出戻りの那美さんとの会話。上の歌は、那美さんが茶店の婆さんに教えたのだという。婆さんは、以前那美さんの旅館に奉公していたのである。

「しかしあの歌は憐れな歌ですね」
「憐れでしょうか。私ならあんな歌は咏みませんね。第一、淵川へ身を投げるなんて、つまらないじゃありませんか」
「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、男妾にするばかりですわ」
「両方ともですか」
「ええ」
「えらいな」
「えらかあない、当り前ですわ」

 美しい娘と複数の求婚者、妻争い、その果ての悲劇といった伝承は、いかにもありそうな話で、事実どこにでもある。那美さんの置かれた境遇も似たようなものである。ただ、上の気性だから、古典的な悲劇とは縁がないだけで、その不幸はもう少し手が込んでいる。

 万葉集は伝承の中から生まれ、万葉集がまた様々の伝承を生んできた。上の歌も万葉集からとられており、このように勝手な解釈がなされることはよくあるし、これと似た話は万葉集にいくつもある。

 巻十六に「桜児」と「縵(かづら)児」という二人が詠まれている。漢文の序によれば、「長良の乙女」とは、縵児は三人の男が争い、向かった先が淵川か、林の中の樹の下か、池かの違いがあるだけである。ここでは、残された男の方が、
 春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも(3786)
とか、
 あしひきの山縵の子今日行くと我れに告げせば帰り来ましを(3789)
とか、取って付けたような呑気な歌を詠っている。元々どこで詠われたものやら怪しいものである。

 伝承を元に長歌を創作するとなると、やはり前回の浦島伝説の高橋虫麻呂が断然優れている。題詞に「見菟原處女墓歌」とあり、内容は上とほぼ同じであるが、土地の記憶をなぞる態をよそおいながら、そこに新たな命を吹き込んでおり、後世様々なヴァリエーションを生むことになるのは、この虫麻呂の作品である。

葦屋の 菟原娘子の 八年子の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士 菟原壮士の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 長き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓 中に造り置き 壮士墓 このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭泣きつるかも (1809)
あしのやの,うなひをとめの,やとせこの,かたおひのときゆ,をばなりに,かみたくまでに,ならびをる,いへにもみえず,うつゆふの,こもりてをれば,みてしかと,いぶせむときの,かきほなす,ひとのとふとき,ちぬをとこ,うなひをとこの,ふせやたき,すすしきほひ,あひよばひ,しけるときは,やきたちの,たかみおしねり,しらまゆみ,ゆきとりおひて,みづにいり,ひにもいらむと,たちむかひ,きほひしときに,わぎもこが,ははにかたらく,しつたまき,いやしきわがゆゑ,ますらをの,あらそふみれば,いけりとも,あふべくあれや,ししくしろ,よみにまたむと,こもりぬの,したはへおきて,うちなげき,いもがいぬれば,ちぬをとこ,そのよいめにみ,とりつづき,おひゆきければ,おくれたる,うなひをとこい,あめあふぎ,さけびおらび,つちをふみ,きかみたけびて,もころをに,まけてはあらじと,かけはきの,をだちとりはき,ところづら,とめゆきければ,うがらどち,いゆきつどひ,ながきよに,しるしにせむと,とほきよに,かたりつがむと,をとめはか,なかにつくりおき,をとこはか,このもかのもに,つくりおける,ゆゑよしききて,しらねども,にひものごとも,ねなきつるかも

 葦屋は、今の兵庫県芦屋市、ここに住む「菟原娘子(うなひをとめ)」を地元、摂津国の「菟原壮士(うなひをとこ)」と隣国、和泉国の、よそ者である「茅渟壮士(ちぬをとこ)」が争ったのである。二人の男は(焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ) 弓矢刀で武装して、水火厭わずという勢い。こうなるともう引くに引けない。互いに意地の張り合いで、果ては一族あげて一戦交えようかという雲行きである。
 当の娘はといえば、八歳このかた隣家の者も姿を見たことがない。引っ込み思案な心優しいタイプなのであろう。世間の評判が鬱陶しいのである。評判だけが一人歩きして、それに乗せられた血の気の多い、うぬぼれ屋の二人が、空想をかき立て執心しただけのことかもしれない。内気な娘は、自分の知らないところで、自分が争いの種になっているのを聞くにつけ、世間が煩わしく、身の置き所がない。母親だけにこっそり心中を打ち明け、遠いところへ旅立ったのである。
 隣国から押しかけてくるくらいだから、思いの上で(ちぬをとこ)の方がやや勝ったものか。いち早く夢で娘が旅立ったことを察知した(ちぬをとこ)は、迷うことなくその後を追う。遅れをとった(うなひをとこ)も、(天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと) 後れを取った悔しさに地団駄を踏み、あんな奴に負けてなるものかと、これまた即座に後を追いかけたのである。
 残された者達が、この哀れにも壮絶な話を後世に伝えようと、中央に娘、左右に男達を配して大きな塚を築いたのだという。

 伝承と共に後世に伝えられた、この娘子塚と称するものは現存するらしいのだが、どうも前方後円墳のようである。たまたま三基並んで残された古墳時代の遺物が、このような伝承を生んだ、話の順序を逆にした方が理解しやすいのかもしれない。

 虫麻呂の語り口は、伝えられ語られた話そのまま写し取っているかに、いかにも自然である。短歌の方は、一つはこうなっており、やはり同じ調子で語っている。

墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも(1811)
はかのうへの,このえなびけり,ききしごと,ちぬをとこにし,よりにけらしも

 これはいわば尾鰭であろう。まことしやかに、娘は本当のところ(ちぬをとこ)の方に気があったんだけどね、回りはよそ者を入れようとしなかったんだよ、とか。そんなことを言い出すのが必ず出てくる。尾鰭は更に続く。家持も虫麻呂の歌を踏まえ長歌「追同處女墓」を残しており、短歌はこうである。

娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも(4212)
をとめらが,のちのしるしと,つげをぐし,おひかはりおひて,なびきけらしも
 娘の形見の櫛を塚にさしておいたら、あのように黄楊の木に育ち、枝が(ちぬをとこ)の方に靡いているところをみると、やはり娘の心は決まっていたのだよ、とか。

 『草枕』では、那美さんが画工に「長良の乙女の五輪塔を見ていらしったか」などと言っているところをみると、伝承の墓は五輪塔で、平安末か鎌倉頃の話ということになりそうである。昔のことには違いない(つづく)

(23) 玉櫛笥

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

いくつよりとしよりならむカンナ燃ゆ 久保田万太郎
老人の日といふ嫌な一日過ぐ     右城暮石

 万太郎の句には、「としよりの日といふものあるよし」と前書きがある。戦後、年寄りの日が設けられ、十年ほど経って老人の日に名称を変えた。更にその後、敬老の日に変えられ、ややこしいことに、最近になって国民の祝日法で、敬老の日は9月の第3月曜日に固定された都合上、元の9月15日の方は、老人福祉法上の老人の日とされ、念の入ったことに、それらしき日が二日ある。

 子供の日があるのだから、老人の日があってよいし、名称などどうでもよいのだが、どうも当の高齢者にはあまり歓迎されている様子がない。暮石ほどに臍を曲げる必要もないが、万太郎も、おれには関係ないよという感じで、そっぽを向いている。

 どこまでが子供で、どこからが老人かは、線引きをするとなると結構厄介である。古代の律令の下では、21歳から60歳までの男を正丁として調庸と兵役を課している。次丁は16歳と65歳で区切って、半人前のそれに準じた扱いとなっている。刑事責任能力という点では、7歳以下と90歳以上は完全な無能力とみなしている。

 今、本格的な高齢化を迎えて、年金受給開始年齢は60歳から65歳へ引き下げられ、ドイツやアメリカなどでは、更にその先の67歳辺りまでを視野に入れているらしいのだが、老人を年金生活者と考え、行政の都合を言うだけならこれも一つの目安にはなる。

 線引きは難しいにしても、成人の前後にグレーゾーンがり、その先に誕生(生)と死があることに間違いはない。子供と老人は、生死の境に接しており、それを聖俗の境と読み替えることもできる。子供と老人は、生死に近づくほど、限りなくこの世ならぬ聖に近い存在へと姿を変えて行くのである。3寸、10センチ足らずの子が三ヶ月で成人する、かぐや姫の場合は、まぎれもなく聖そのものである。

 七歳になるまで子供は神様という言い方もある。神仙思想に登場する神の多くは翁である。翁とおかっぱ頭の童は、どこか印象が重なる所があり、神仙の翁が童を伴って一体に描かれる場合もある。親子孫三代の中、親と孫の間には何か通じるものがあり、両者の親和には根拠がある。

 かぐや姫は、この世ならぬ「老をせずなん、思ふ事もなく侍る」不老不死の仙界に去ったのであるが、逆にそこからこの世に戻ってきた男がいる。万葉集巻九「水江の浦の島子」である。

春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦の島子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦の島子が 家ところ見ゆ(1740)
はるのひの,かすめるときに,すみのえの,きしにいでゐて,つりぶねの,とをらふみれば,いにしへの,ことぞおもほゆる,みづのえの,うらしまのこが,かつをつり,たひつりほこり,なぬかまで,いへにもこずて,うなさかを,すぎてこぎゆくに,わたつみの,かみのをとめに,たまさかに,いこぎむかひ,あひとぶらひ,ことなりしかば,かきむすび,とこよにいたり,わたつみの,かみのみやの,うちのへの,たへなるとのに,たづさはり,ふたりいりゐて,おいもせず,しにもせずして,ながきよに,ありけるものを,よのなかの,おろかひとの,わぎもこに,のりてかたらく,しましくは,いへにかへりて,ちちははに,こともかたらひ,あすのごと,われはきなむと,いひければ,いもがいへらく,とこよへに,またかへりきて,いまのごと,あはむとならば,このくしげ,ひらくなゆめと,そこらくに,かためしことを,すみのえに,かへりきたりて,いへみれど,いへもみかねて,さとみれど,さともみかねて,あやしみと,そこにおもはく,いへゆいでて,みとせのあひだに,かきもなく,いへうせめやと,このはこを,ひらきてみてば,もとのごと,いへはあらむと,たまくしげ,すこしひらくに,しらくもの,はこよりいでて,とこよへに,たなびきぬれば,たちはしり,さけびそでふり,こいまろび,あしずりしつつ,たちまちに,こころけうせぬ,わかくありし,はだもしわみぬ,くろくありし,かみもしらけぬ,ゆなゆなは,いきさへたえて,のちつひに,いのちしにける,みづのえの,うらしまのこが,いへところみゆ

 むかしむかし浦島は、の浦島伝説である。万葉集(759年)の外、日本書紀(720年)や丹後国風土記逸文にも出てくる。風土記の方が詳しく、そこでは伊預部馬養の作品によるとされており、元の形が創作なのか民間伝承なのかはっきりしない。馬養は律令の選定にも関わった、七世紀後半の有能な官吏であったらしい。

 上の長歌は高橋虫麻呂のものとされている。万葉集は虫麻呂集から多く採られているが、虫麻呂についも詳しくは分からない。旅人が太宰府から都の藤原房前に琴を贈った(「(13)夢に娘子になりて」)、その房前以下、参議麻呂、右大臣武智麻呂、参議宇合の不比等の子四兄弟が共に天然痘で亡くなった735年、宇合の下にいた虫麻呂もこの時期に生涯を終えているらしい。虫麻呂が活躍したのは旅人や憶良よりやや後ということになる。

 若狭湾に面した丹後半島の地名をかなり意識した話の内容から、あるいはこの辺りの漁民の伝承、漂流して別の土地で暮らし、何十年後かに故郷に戻ってみればとか、そんな話と神仙譚が結びついたものか。この浦島伝説も中世には、助けた亀の恩返しの話に変わって行くように、伝承や昔話であっても、それなりに創作の手は加えられて行くのであり、馬養や虫麻呂の創作が及んでいても別におかしくはない。

 上の長歌も、春の日のどこか夢のような、霞のかかった沖の釣り船を、見るともなく眺めていると、(いにしへの ことぞ思ほゆる) いつか心は昔の話の中に遊んでいるという、伝承を踏まえてはいても、これも一つの創作である。

 (老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の) せっかく不老不死の(常世に至り)、そこで楽しく暮らたものを、それをこの島子という漁師ときたら、よせばよいのに里心がついて、親の顔が見たいなどと言い出し、その上大切な約束を忘れ箱(玉櫛笥)を開けてしまうとは、何と愚かな男であることよ、短歌でもう一度それを繰り返している。

常世辺に住むべきものを剣大刀汝が心からおそやこの君(1741)
とこよへに,すむべきものを,つるぎたち,ながこころから,おそやこのきみ

 丹後国風土記逸文にある馬養のものは、最後をこのように結んでいる。

ここに、島子、前の日の期りを忘れ、忽ちに玉匣を開きければ、即ち瞻ざる間に、芳蘭しき体、風雲に率ひて蒼天に翻り飛びき。
 島子、即ち期要に乖違ひて、還、復び会ひ難きことを知り、首を廻らして踟み、涙に咽びて徘りき。ここに、涙を拭ひて哥ひしく、
  常世辺に雲立ちわたる水の江の浦島の子が言持ち渡る
 神女、遥かに芳しき音を飛ばして、哥ひしく、
  大和べに風吹きあげて雲離れ退き居りともよ吾を忘らすな
 島子、更に、恋の望ひに勝へずして哥ひしく、
  子らに恋ひ朝戸を開き吾が居れば常世の浜の波の音聞こゆ

 箱を開けて島子はどうなったのか、この相聞のような歌は何なのか、やはり虫麻呂のものの方が作品としては格段によい。島子の愚かさを嘆いていてみせてはいるものの、「常世」とこの世は、島子のようにしか、このようにしか渡り合えないことを、そのことだけを詠っている。

 「常世」の三年はこの世の三百年、向こうの世界に時間はない。老いも死もない。島子は漁のない春の一日、浜辺で霞んだ沖を眺めながら、うつらうつら夢を見たのである。結末に驚いて目を覚ました島子はどうしたか。いつも通り親の待つ家に帰ったのである。「春の海ひねもすのたりのたりかな」(つづく)

(22) 月の舟

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ(1068)
あめのうみに,くものなみたち,つきのふね,ほしのはやしに,こぎかくるみゆ

 空を海に見立てると、山の端から昇ってそこを横切って行く月は、さしずめ舟ということになる。三日月であるなら、殊にゴンドラ風のイメージにぴったりである。舟ということになれば、それを操る人もあってよい。

天の海に月の舟浮け桂楫懸けて漕ぐ見ゆ月人壮士(2223)
あめのうみに,つきのふねうけ,かつらかぢ,かけてこぐみゆ,つきひとをとこ

 舟を操る「月人」の持つ楫は桂の木でできている。月には桂の巨木があり、それを伐ったのであろう。冬も枯れない桂は生命の象徴であり、仙薬の原料にもされていたらしい。月の兎が搗いているのは、餅ではなく仙薬かもしれない。万葉集には七夕の歌がおびただしく詠まれている。「月人壮士」も牽牛が天の川を舟で通う空想から出たものか。

 仙薬の原料があるくらいだから、「変若水」も月にあるのだという。月が不老不死と結びつくのは月の満ち欠けに関連する。次第に欠けて行って再び新月となって復活する、その繰り返しは再生、不死の不思議を思わせる。月にヒキガエルがいるとするのも、似たような発想である。冬眠から覚めた蛙が土中から現れたり、蛇が脱皮して生まれ変わることに、特別な意味を見いだしてきたのは、この国に限られたことではない。

 これらの月にまつわる諸々のイメージを、竹取の翁の歌と、それが下敷きにしている神仙譚に結びつけ、新たな創作を試みるのはそれほど難しくない。「竹取物語」の作者はその誘惑に負けたのである。

 二十年ほども前であろうか、沢口靖子を主演に、元気な頃の三船敏郎と若尾文子が翁夫婦を演じ、特撮仕立ての竹取物語が作られ、結構評判になった。「未知との遭遇」ばりのマザーシップが、宇宙の果てからかぐや姫を迎えに来る趣向で、さすがに月面で、人が跳んだり跳ねたりする時代となっては、月から迎える来たのでは芸がなさすぎると考えたのであろう。

 「月の舟」や、月の住人を竹の中から誕生させ、相容れない世界を交錯させる奇想に比べれば、かぐや姫を宇宙人に置き換える程度の思いつきは、子供だましもよいところということかもしれない。

 竹取物語原文から一部だけ引用してみる。

この児、養ふ程に、すくすくと大きになりまさる。三月ばかりになる程によき程なる人になりぬれば、髪上げなどさうして、髪上げさせ、裳着す。帳のうちよりも出ださず、いつき養ふ。この兒のかたちけうらなる事世になく、屋のうちは暗き所なく光り滿ちたり。翁、心地あしく苦しき時も,この子を見れば、苦しき事もやみぬ、腹立たしきことも慰みけり。

 翁は気分の悪くても、苦しくても、腹立たしくても、この子さえ側にいれば耐えられ、常に慰められるという。これはかぐや姫の尋常でない光り輝く容貌を強調したものであるにしても、別にかぐや姫でなくてもよい。親にとっての子、老いにとっての若きとは、一番幸福な面だけを取り出せば、このようなもの以外ではない。

 映画の設定では翁夫婦は幼子を亡くし、それを埋め合わせるかのように、十センチ足らずの女の子が三ヶ月で成人する奇跡に恵まれるのである。この筋立てだけは悪くない。上の幸福な一面は、生活に追われ、成長にともなう親子の避けられない葛藤故に脇に置かれることの方が多いのである。三ヶ月で成人する子に親が振り回されることはないし、竹の節から金を得る翁はいつか生活苦を忘れている。翁は子を失い、代わりに孫を得たと考えれば、話は分かりやすい。親子孫三代連ねないと、老いと若きの本来の連鎖とその先にあるものは見えてこない。いつの時代でも孫がかぐや姫なのである。

 以下、竹取物語の筋を追ってみる。

避けられない別れを前に翁は言う。
「御迎へに来む人をば、長き爪して、眼をつかみ潰さん。さが髪をとりて、かなぐり落とさむ。さが尻をかき出でゝ、こゝらの公人に見せて、恥を見せん」。もとから三船を想定してのセリフみたいである。

かぐや姫は答える。
「かの都の人は、いとけうらに、老をせずなん。思ふ事もなく侍るなり。さる所へまからむずるも、いみじくも侍らず。老い衰へ給へるさまを見たてまつらざらむこそ、恋しからめ」。かぐや姫も月に帰りたいわけではない。

迎えの天人になおも翁は言いつのる。往生際が悪いのである。
「かぐや姫を養ひたてまつること二十余年になりぬ。かた時とのたまふに、あやしくなり侍りぬ。又異所に、かぐや姫と申人ぞおはすらん」。「こゝにおはするかぐや姫は、重き病をし給へば、え出でおはしますまじ」。

天人は羽衣と不死の薬を持参している。天人が言う。
「壺なる御藥たてまつれ。穢き所の物きこしめしたれば、御心地悪しからむものぞ」。かぐや姫はそれを「わづか嘗め給ひて、すこし形見とて、壺の薬そへて、たてまつらす。」

次に、かぐや姫は羽衣を身にまとう。途端に、
「翁をいとほしく、かなしと思しつる事も失せぬ。此衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乘りて、百人ばかり天人具して、昇りぬ。」何か罪に触れ、下界に下ろされた天人は、こうして元の世界は帰って行く。

残された翁は、
「なにせむにか命もをしからむ。たがためにか。何事も用もなし」。薬も取ろうとせず、病み臥してしまう。

帝も、
逢ことも涙にうかぶ我身には死なぬくすりも何にかはせむ
かぐや姫の残した「御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけて燃やす」よう命じ、天に近い一番高い山の頂上に運ばせる。以来山は「ふじの山」と呼ばれる。

 最後を地名の由来譚で結んでいるのは蛇足として、作者には不死の意味も、老いの意味もよく分かっている。よくできた物語である。かぐや姫が帰って行ったのは、もし月の都でも、宇宙の果てでもないとしたら、本当のところ、どこへ行ったと考えたらよいのであろうか。(つづく)