人麻呂の「在石見國臨死時自傷作歌」一首は、現地妻依羅娘子の二首の他に、更に次の二首が関連したものとして一つに括られている。この短歌五首は一体のものとして、万葉集成立以前から読み継がれてきたのである。
荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ(226)
あらなみに,よりくるたまを,まくらにおき,われここにありと,たれかつげなむ
天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし(227)
あまざかる,ひなのあらのに,きみをおきて,おもひつつあれば,いけるともなし
最初の歌の題詞は「丹比真人[名闕]擬柿本朝臣人麻呂之意報歌」。名前を欠いており正確には誰と言えないが、丹比何某が亡き人麻呂に代わってその意中を述べたとする。真人は朝臣・宿禰などと同じ八色姓の一つ。人麻呂の「臨死時自傷作歌」とその際の依羅娘子の歌を創作ではなく、事実として読んだとすると、このあたりは大分ちぐなぐなことになる。これは明らかに海岸のイメージであり、山中でも川辺でもない。「峡に交じりて」でも「貝に交じりて」でもないことになる。
前回の「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌」長短歌三首の中、残りの短歌一首は次のようになっている。
沖つ波来寄る荒礒を敷栲の枕とまきて寝せる君かも(222)
おきつなみ,きよるありそを,しきたへの,まくらとまきて,なせるきみかも
これは人麻呂が狭岑嶋で力尽きた死者に語りかけたものだが、上の丹比真人の歌は、状況としてはこの狭岑嶋の歌を念頭に置いたものであろう。しかし、(我れここにありと誰れか告げなむ) こんな所に私が行き倒れていることを誰が知らせてくれたものであろうか。この言葉は人麻呂のもので、狭岑嶋の死者の妻はその死も知らず、いまだその帰りを待っている。人麻呂の場合はと言えば、妻の依羅娘子が取るものもとりあえず駆け付ける。何者かが、いち早く知らせてくれたのである。そして、その場で直ちに、(石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ) これも堂々とした挽歌を夫に捧げたことになっている。創作された物語として読むならこれでよい。しかし、この展開を現実に起こりえた事実として読むには無理がある。
行路の死が挽歌に相応しいのは、その死が異郷にあって家族が看取ることのできない、無惨なものとして恐れられたからであり、尚かつそれが、一方ではありふれた日常の光景であったからである。家族への思いや異郷にあることの不安が今よりは遙かに強く、その一方で、旅先の出来事は、本人亡き後は尚のこと知りたくても知りようがない。ましてや現場にいち早く駆け付けるというようなことは、ほとんど望むべくもない。「夫の死を聞いてその現場へ行かない女が、はたして夫を愛する妻といえるであろうか」(梅原猛)というような無茶なことを言われても困るのである。
有間皇子のように旅の無事を祈って松の枝を結んだり、家に残された妻が、同じ目的で野の草を摘んだりする民俗の切実さは、今となっては余程この時代に想いを凝らさないことには理解のしようがない。しかし、それが不可能というわけでもない。上の歌とセットになった「妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや」にしても、言葉通りの理解とは別に、家で草を摘んで帰りを待ちわびている妻の姿と重ねて読むのが正しいのであろう。
ことによったら、「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌」もまた創作であるかもしれない。この歌が、挽歌として死者に捧げられたものであるにしても、実際にそれを享受したのは都の貴族であり、そこに詠われた「狭岑嶋」や「那珂の港」が固有の地名としてそれほどの意味を持つわけもなく、その土地の実際を知らなくても、伝聞だけでもこのような歌は詠えるし、それによって歌の価値が損なわれるというわけでもない。
人麻呂は、ありふれた行路の死を、伝統的な挽歌の様式を踏まえながらも、それを誰にも共感できる感動的な物語に仕立てて見せた。人麻呂が讃岐の狭岑嶋で目撃したとされる名もなき人物は、異郷で力尽きた多くの者達の象徴であり、場所を変え、我が身に置き換えて読むことは誰にもできるのである。これは人麻呂にして初めてできたのであり、人麻呂の名前が不動とされる所以である。
人麻呂は、長歌の形を借り妻の死を詠い(「妻死之後泣血哀慟作歌」)、別れを詠い(「従石見國別妻上来時歌」)、異郷での死を詠った。いずれも相聞(愛)と挽歌(死)を主題とする、最も万葉集らしい作品群である。これらの作品の成功が、人麻呂の名とその印象を決定づけ、後世繰り返しそれが語り継がれたに違いない。人麻呂の「在石見國臨死時自傷作歌」は、その過程で人麻呂本人あるいはその周辺から、生まれるべくして生まれたのではないのか。
そうであるとしたなら、そこに詠われた場所や状況や事情の細部について、あれこれ想像を逞しくしてみてもはじまらない。整合しない点をいくらでも論うことは出来る。一つ一つの歌は、人麻呂の死の印象をごく大雑把に伝えているにすぎない。しかし、それが行路の死であることについては、疑う余地がない。
五首ある中の、丹比真人の次の最後に置かれた「天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし」には、注として「歌作者未詳但古本以此歌載於此次也」とある。ここでも終焉の地が、山なのか、海なのか、それとも野なのか、詮索するまでもない。それは遠い異郷の地であり、「鄙の荒野」こそ、それに相応しいのである。注はそれを誰もが納得して語り伝えてきたことを示している。
衾道を引手の山に妹を置きて山道思ふに生けるともなし(215)
ふすまぢを,ひきでのやまに,いもをおきて,やまぢおもふに,いけるともなし
人麻呂の「妻死之後泣血哀慟作歌」、二首目の長歌に添えられた短歌の中の一つである。この場合、妻は山に隠れたのである。それを思うと生きた心地もしない。「天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし」、ここでは置き去りにされたのは人麻呂の方である。歌の主役が入れ替わっただけで、同じような歌が繰り返し使われている。最初に上げた丹比真人の「荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ」と、人麻呂の「沖つ波来寄る荒礒を敷栲の枕とまきて寝せる君かも」についても然り。人麻呂及びその周辺の者達が、何を主題として詠ったのか、それが読み取れればよいのであり、謎解きのような当て推量を積み重ねてみても、歌の鑑賞に役立つとは思えない。
引用がくどいが、ここでもこんな文章が多少は参考になる。
……その島で人麿は恐ろしいものを見た。……流人人麿は、ここに先輩流人の無惨な屍を見たのである。そこにおそらく、近い将来に自分がおちいるにちがいない運命を人麿は見たのである。もはやここでは人麿が死人そのものであり、死人の第一の思いは、はるかに遠く離れて、自分が今ここにこうしていることも知らないでいる妻への思いである。……そういう死人を目前に見て、自己の運命に身ぶるいする詩人の姿を私はそこに見る。それは凄惨で壮絶な美である。そのような美は、日本の詩ばかりではなく、世界の詩においても類例の少ないものであると私は思う。この歌を万葉集随一の歌にしてもいいと私は思う。朗々と朗誦して見たまえ。冷たい月がかがやいている冬の夜にでも、この詩を朗誦したら、魂の底まで凍え切ってしまうだろう。……
これによれば、狭岑嶋は流人の島であり、人麻呂は偶然島に立ち寄ったのではなく、この島に流されたのである。人麻呂は、そこで目撃した死人に自分の姿を重ねている。その通りである。「万葉集随一」かは別として、この長歌が万葉集を代表する歌の一つであることも、その通りである。しかし、人麻呂が流人でなくても、この場合そのように理解するのが自然である。また人麻呂が目撃したのが、流人でなかったとしても、その無惨さに違いがあるわけでもない。(つづく)