かくれ住む門に目立つや葉鶏頭 永井荷風
「紅滾々と」という句がどこかにあったが、写真の上部中央が芯、花ならぬ葉を日々滾々と吹き出している。色姿共、奇妙奇天烈なこと鶏頭に負けていない。しかもどちらも優雅な別称を持ち、万葉集の昔から親しまれている。庭に植えるのに何の遠慮もいらない。それにしてもである、葉鶏頭も鶏頭(一景一句12)も、その色たるや、よくもまあここまで、何ともはや強烈で見飽きない。「葉鶏頭途方に暮れしまま紅く」(柿並その子) 「何かさかさまの色なる雁来紅」(中井洋子) 「解脱など思いもよらぬ雁來紅」(本田幸信)
芭蕉は奥の細道の、その行脚の終わり頃、旧暦の八月上旬、福井に旧知の等栽という「隠士 」を訪ねている。「市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔・へちまのはへかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す」源氏の夕顔に絡めた、よく練られた文章なのだが、ここにも鶏頭が植えられている。よせばいいのにとも思うのだが、街中に隠れ住む者になぜか鶏頭が似合う。
偶々今庭に植えてある葉鶏頭は矮性の園芸種で、背丈は程々なのだが、葉鶏頭は鶏頭よりよく伸び、一メートルを超える。ほうき草の箒木も同じくらいによく伸び、なるほど「戸ぼそを隠」してもおかしくない。ことによると、芭蕉はここで鶏頭と葉鶏頭を混同しているのかもしれない。鶏頭の方はもう少し背が低い。芭蕉に「鶏頭や雁の来る時尚あかし」があるが、雁の来る頃赤くなるから雁来紅で、この句の鶏頭もどちらを詠んだものか。
「まだ咲かぬ菊の間に葉鶏頭」(牧稔人) 箒木は子供の頃毎年庭先に勝手に生え、実際箒にして使っていたが、最近はとんと見かけない。来年はちゃんとした葉鶏頭と、序でに箒木も植えてみたい。
根元まで赤き夕日の葉鶏頭 三橋敏雄