絵筆を手にするのは随分と久しぶりなのだが、眼前の景と心象の違いを少しずつ埋めていく作業が何とも楽しい。結局の所、満足の行く程には、それを埋める技も経験も持ち合わせず、程々のところで見切りをつけるしかないのだが、それはそれで、漫筆たる所以で、これでよしとする外ない。余白で成り立っている水墨画の伝統をどこかで引き継いでいる水彩画は、画面を塗り尽くさないで、気楽に入り、気楽に筆を止められるところがよい。これも漫筆たる所以で、最近は水筆などと称する優れ物もあるらしい。柄の部分に水を仕込んであるらしく、これだと、いちいち筆を洗う手間も省けるのだという。準備も片付けも気にせず、気が向いたら描き、いつでも止められる。
見ての通りの屋根にまで草生した正真正銘の廃屋で、最近はあまり見かけない。廃屋ならずとも草生した藁屋根もあったりして、家々の新旧の対照が村の景観をなしていた時代はとうに去り、峠のこちら側でも、見かけ上家の造りは総じて立派で、どれも新しい。向こう側で見慣れた、お馴染みの建て売り住宅と、大して変わるところがない。耐用年数が尽きれば、さっさと取り壊して、ローンを組んで建て替えてしまうらしく、家の新旧、大小が住む者の暮らし向きやら格式やら何やらを映し出し、そのまだら模様が農村、地方らしい景観を醸し出してきた名残はもはやどこにもない。
千曲川の切り立った崖の上に広がった、水の乏しい台地に散在する人家の一つなのだが、ことによると物置代わりに使われているのかもしれない。この周囲だけが時が止まり、稀な景観をなし、ここ何年か、脇を通る度にしげしげと眺め、健在に安堵してきた。この地方独特の煙出しの吹き抜けが屋根の上にあり、かつては養蚕にも使われていた二階家で、強風でいつ倒れてもおかしくない風情ながら、それはそれ、結構頑丈に造られているのであろう。脇にある野放図に枝を伸ばし、旺盛に繁った松の大木も一役買って、往事を語って飽きることがない。
例によって先日偶々通りかかると、隣の耕作放棄の荒れ地にコスモスが咲き乱れ、中には薄も混じり、それ越しに件の廃屋と絶妙のアングルをなしている。放ってもおかれず、かくなる一枚となる。実際のコスモスは盛りを過ぎ、ちらほらという感じなのだが、これも漫筆たる所以で、時間を少し戻して描いてみた。