先たのむ椎の木も有夏木立
峠のむこうとこっちを行ったり来たりしているうち、いつの間にやら、軸足は田舎暮らしの方にかかり、ついには初めての越冬も果たし、もうこの辺で腰を据えてもよいのだが、峠を挟んでむこうとこっち、見る方向が違えば、目に映る光景も同じではない、その妙味はそうそう手放したくはない。相変わらず行ったり来たりしている。
芭蕉が、奥の細道の長旅を終えて、近江国分山中の廃屋に住み着いたのは、元禄3年春から夏の数ヶ月、その際の心境を俳文に仕立て、締めくくりに置いたのが上の句で、取り敢えずの住み処を得た安堵と、旅の疲れを癒してくれる、庵を覆い尽くした、頼もしい木々の真夏のたたずまいが、そのままに詠まれている。
峠のむこうの、今はこっちの我が家なのだが、山中にあらず、周囲は耕作放棄の田園ばかりで、風の通りばかりは、この上なくよいものの、真夏の今の時期、頼むに足るほどの木々が、これといって周りにないのが玉に瑕で、昨年来庭にせっせと木を植えている。風が通り、木々が日を遮ってくれさえすれば、快適に夏を過ごせる。電気など一切不要なこと言うまでもない。
芭蕉がこの幻住庵記を書いたとき、その念頭に鴨長明の方丈記であったことは間違いない。位置的にも、二人の庵は隔たること数キロ、指呼の間にある。山中に庵を構えて、こんな風に日を過ごすのが長年の夢であったかのように語っている。芭蕉ならずとも、たとえ方丈、四畳半の庵であっても、夏に限って言えば、熱帯と化した昨今の都市の住民あこがれの究極のエコライフがどこにあるかといえば、案外こんなものかもしれない。古典とは妙なもので、見よう、読みようでいくらでも新しくもある。
表題の「願わずわしらず」は方丈記の一節。「わしる」は走る。「わしらず」は走り回ってあくせくしないこと。この箇所、少しだけ引用してみる。
願わず、わしらず。ただ静かなるをのぞみとし、うれへなきを、楽しみとす。……もし、なすべきことあれば、すなわち、おのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるより、やすし。もし、歩くべきことあれば、みずからあゆむ。苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心をなやますには、しかず。いま、一身を分ちて、二つの用をなす。手の奴、足の乗物、よくわが心にかなへり。心身の苦しみを知れれば、苦しむときは、休めつ。まめなれば、つかふ。つかふとても、度々過ぐさず。ものうしとても、心を動かすことなし。いかに、いわんや、つねに歩りき、つねにはたらくは、養生なるべし。
「願わずわしらず」、実際にはどうしたらよいかと言えば、ゆっくり歩けばよいだけのことで、「たゆからずしもあらねど」(面倒ではあっても)、何でも手足を使って自分でやればよい。自分のために自分でやっている限りは無理する理由は何もない。いやならよせばよいだけのことで、「ものうしとても、心を動かすことなし」(それをいちいち気にする必要はない)。第一、適度に歩き、身体を働かすことこそが養生、健康の秘訣で、それこそが真っ当な生き方というものだ。
まったくもって、その通りであり、明快なこと、この上ない。しかし、そうであっても「わしらず」と言い切るのはそんなに容易いことではない。さんざ「わしり」、「わしり」廻され、この世にある限りは「わしる」外ない、その現実をここに重ねてみないことには、この明快さは意味をなさない。方丈記を、芭蕉同様胃中に消化し尽くした、もう一つの例をあげてみる。徒然草の七十四・五段にはこうある。
蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に「わしる」人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
世に従へば、心、外の塵に奪はれて迷ひ易く、人に交われば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず。人に戯れ、物に争い、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし。惑ひの上に酔へり。酔の中に夢をなす。「わしり」て急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。
これまた、よどみなく明快なことこの上ない。方丈記は文庫本にしてせいぜい二三十頁、徒然草に至っては、どこから読み始め、どこで読み終えてもよい。同様に古典中の古典であっても、源氏物語などとは対照的に、ごく取り付きやすいし、原文のまま、そのままに理解できる。そうではあるのだが、方丈記にしても、徒然草にしても、そのよどみのなさが裏目に出て、世を拗ね、捨てた隠者の達観といった程度に、学校教育の弊害もあったりして、適当に読み流されたりもしていることも確かで、そんな常識の枠をものの見事に打ち砕いて、古典の古典たる所以を、これまた明快に解き明かしてくれたのは、今は亡き堀田善衛であったように思う。
堀田は、その方丈記私記の冒頭に、これは古典の鑑賞でも解釈でもない、「私の経験」であるとことわっている。言うまでもなく、ここでの経験とは、二十代でとことん戦争に翻弄、「わしら」された、堀田の、「私の」終戦と敗戦の記憶であり、今奥付を見ると1971年の刊、もう四十年前になる。堀田が、その「私の経験」を、自らの胃中で消化し尽くすのに、二十年以上を要したことになるし、その時、多分堀田は、方丈記の著者とはほぼ同じ年ごろではなかったか。
方丈記の著者は、その五十年の生涯に自ら経験した、都の三分の一を焼き尽くした大火、「地獄の業の風」もかくやとばかりの辻風、都がいったんは廃墟と化した遷都騒動、「飢ゑ死ぬる者の類、数も知」れぬ大飢饉、そして最後に「恐れの中に、恐るべかりけるは、ただ地震(ない)なり」と、かつてない大地震の記憶を、次々に呼び覚まし、それを反芻しながら、「願わずわしらず」へと結んでみせる。考えてみれば、堀田がそうしたように、方丈記は、その成り立ちからして、「私の経験」を重ねて読む以外の読み方があるはずもなく、これだけが唯一真っ当な読み方で、解釈したり、鑑賞したりは、実のところどうでもよい。
もう何年か堀田を通じて方丈記に親しんできて、今またそれを読み直しているのだが、そのきっかけが何であるかと言えば、これはもう言うまでもない。先の三月十一日の地震、津波の大災害であり、更に、これはもう、方丈記の著者には知りようもない原発の惨事であり、それ以外であるわけはない。加えてもうひとつのきっかけは、これはたまたまなのだが、影印の嵯峨本方丈記を読む機会があり、読み慣れた文庫本との違いから、いくつか気付かされることがあった、それによる。
嵯峨本は活字を組んで製版した、それも一冊ごとにわざと活字の一部を替えた、おおよそ世界の活版印刷の常識に反した、信じがたい豪華本なのだが、精選された古典中の古典として、方丈記も徒然草もそれに含まれている。単純な隠者の達観であるなら、その類の人物が、自ら暇にあかせて写し取って読めばよいだけのことで、こうまでも珍重されたりはしない。
鴨長明の真蹟が元であるとされている文庫本との違いを一つあげてみる。上の「飢ゑ死ぬる者の類、数も知」れぬ大飢饉の際、あえて、その数を知ろうとした隆暁なる僧がいた。彼は路傍に餓死した者が放置されているに忍びず、せめてもにと、その額に阿の字を書くことで回向に代えようと思い立ち、合わせて、その数を知ろうと、事のついでに、その数を数えてみたのだという。その頭の数、都の路のほとりに、二ヶ月で「四万二千三百あまり」とある。その数日々に増したであろうとも、こうして数えられた数に間違いはあり得ない。
これが、どれほどに途方もない数字であるかは、先頃の震災の犠牲者数が、現時点で二万八百九十一人、阪神・淡路大震災だと六千四百三十四人であったことと単純に比べてみればよい。この途方もない数を、来る日も来る日もたった一人で数え続けたのだという。堀田は、その行為の意味を、とことん突き詰めて考えてみたのだという。堀田によれば、方丈記の著者も当然その現場に立ち会っていたはずで、この二人が、その挙げ句に、ついにはどのような境地を得るに至ったか。量は質に変じたであろうというような何とも難しい言い方になっている。一方の嵯峨本なのだが、同一箇所を見ると一言「聖を数多かたらひつゝ」と補ってある。要するに隆暁が発起し、幾人かで分担して行ったということで、これだと如何にもありそうな話で、あまりここで考え込んだりしなくてもすむ。考えてもみればよい。二ヶ月で数万、日に千、一日十時間として、一時間当たり百人近く、額に阿の字を記す、何も死者が順番を待って並んでいるわけではない。小説家の想像力というのも、これまた時に途方もないものには違いない。
方丈、たとえ四畳半の庵でも、夏なら木立に恵まれさえすれば、それなりに快適なのだが、冬はどうか。住はともあれ、衣食はどうする。まさか「藤の衣」「麻の衾」「野辺のをはぎ(嫁菜)」「峰の木の実」で事足りるわけもないことなど、書いた本人が一番よく知っている。多くの語られない省略の上に成り立っている古典は、それ自体が創作であり、だからこそ「私の経験」を重ねて様々に、時代を越えて読まれ、どのような読み方がなされたとしても、それでよいのであり、いずれは多くがこれに今回の原発の惨事を重ねて読むことになる。今はそんな時代に置かれているわけで、残念ながらそうに違いない。
それにしても、あの日以来「わしる」こと、「わしる」こと。とりわけ人一倍「願う」ことが多過ぎるのであろう、政治を生業とする者たちの「わしる」こと、「わしる」こと。まさに「蟻の如くに」で、相も変わらず国難、亡国、国が、国がと、それのみを言い続けている。方丈記の著者がついには見限った現実と、今の時代、変わるところは何もない。(つづく)