goo blog サービス終了のお知らせ 

峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

峠越えれば(28) 願わずわしらず

2011-07-16 | 峠越えれば

先たのむ椎の木も有夏木立

 峠のむこうとこっちを行ったり来たりしているうち、いつの間にやら、軸足は田舎暮らしの方にかかり、ついには初めての越冬も果たし、もうこの辺で腰を据えてもよいのだが、峠を挟んでむこうとこっち、見る方向が違えば、目に映る光景も同じではない、その妙味はそうそう手放したくはない。相変わらず行ったり来たりしている。

 芭蕉が、奥の細道の長旅を終えて、近江国分山中の廃屋に住み着いたのは、元禄3年春から夏の数ヶ月、その際の心境を俳文に仕立て、締めくくりに置いたのが上の句で、取り敢えずの住み処を得た安堵と、旅の疲れを癒してくれる、庵を覆い尽くした、頼もしい木々の真夏のたたずまいが、そのままに詠まれている。

 峠のむこうの、今はこっちの我が家なのだが、山中にあらず、周囲は耕作放棄の田園ばかりで、風の通りばかりは、この上なくよいものの、真夏の今の時期、頼むに足るほどの木々が、これといって周りにないのが玉に瑕で、昨年来庭にせっせと木を植えている。風が通り、木々が日を遮ってくれさえすれば、快適に夏を過ごせる。電気など一切不要なこと言うまでもない。

 芭蕉がこの幻住庵記を書いたとき、その念頭に鴨長明の方丈記であったことは間違いない。位置的にも、二人の庵は隔たること数キロ、指呼の間にある。山中に庵を構えて、こんな風に日を過ごすのが長年の夢であったかのように語っている。芭蕉ならずとも、たとえ方丈、四畳半の庵であっても、夏に限って言えば、熱帯と化した昨今の都市の住民あこがれの究極のエコライフがどこにあるかといえば、案外こんなものかもしれない。古典とは妙なもので、見よう、読みようでいくらでも新しくもある。

 表題の「願わずわしらず」は方丈記の一節。「わしる」は走る。「わしらず」は走り回ってあくせくしないこと。この箇所、少しだけ引用してみる。

 願わず、わしらず。ただ静かなるをのぞみとし、うれへなきを、楽しみとす。……もし、なすべきことあれば、すなわち、おのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるより、やすし。もし、歩くべきことあれば、みずからあゆむ。苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心をなやますには、しかず。いま、一身を分ちて、二つの用をなす。手の奴、足の乗物、よくわが心にかなへり。心身の苦しみを知れれば、苦しむときは、休めつ。まめなれば、つかふ。つかふとても、度々過ぐさず。ものうしとても、心を動かすことなし。いかに、いわんや、つねに歩りき、つねにはたらくは、養生なるべし。

 「願わずわしらず」、実際にはどうしたらよいかと言えば、ゆっくり歩けばよいだけのことで、「たゆからずしもあらねど」(面倒ではあっても)、何でも手足を使って自分でやればよい。自分のために自分でやっている限りは無理する理由は何もない。いやならよせばよいだけのことで、「ものうしとても、心を動かすことなし」(それをいちいち気にする必要はない)。第一、適度に歩き、身体を働かすことこそが養生、健康の秘訣で、それこそが真っ当な生き方というものだ。

 まったくもって、その通りであり、明快なこと、この上ない。しかし、そうであっても「わしらず」と言い切るのはそんなに容易いことではない。さんざ「わしり」、「わしり」廻され、この世にある限りは「わしる」外ない、その現実をここに重ねてみないことには、この明快さは意味をなさない。方丈記を、芭蕉同様胃中に消化し尽くした、もう一つの例をあげてみる。徒然草の七十四・五段にはこうある。

 蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に「わしる」人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
 世に従へば、心、外の塵に奪はれて迷ひ易く、人に交われば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず。人に戯れ、物に争い、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし。惑ひの上に酔へり。酔の中に夢をなす。「わしり」て急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。

 これまた、よどみなく明快なことこの上ない。方丈記は文庫本にしてせいぜい二三十頁、徒然草に至っては、どこから読み始め、どこで読み終えてもよい。同様に古典中の古典であっても、源氏物語などとは対照的に、ごく取り付きやすいし、原文のまま、そのままに理解できる。そうではあるのだが、方丈記にしても、徒然草にしても、そのよどみのなさが裏目に出て、世を拗ね、捨てた隠者の達観といった程度に、学校教育の弊害もあったりして、適当に読み流されたりもしていることも確かで、そんな常識の枠をものの見事に打ち砕いて、古典の古典たる所以を、これまた明快に解き明かしてくれたのは、今は亡き堀田善衛であったように思う。

 堀田は、その方丈記私記の冒頭に、これは古典の鑑賞でも解釈でもない、「私の経験」であるとことわっている。言うまでもなく、ここでの経験とは、二十代でとことん戦争に翻弄、「わしら」された、堀田の、「私の」終戦と敗戦の記憶であり、今奥付を見ると1971年の刊、もう四十年前になる。堀田が、その「私の経験」を、自らの胃中で消化し尽くすのに、二十年以上を要したことになるし、その時、多分堀田は、方丈記の著者とはほぼ同じ年ごろではなかったか。

 方丈記の著者は、その五十年の生涯に自ら経験した、都の三分の一を焼き尽くした大火、「地獄の業の風」もかくやとばかりの辻風、都がいったんは廃墟と化した遷都騒動、「飢ゑ死ぬる者の類、数も知」れぬ大飢饉、そして最後に「恐れの中に、恐るべかりけるは、ただ地震(ない)なり」と、かつてない大地震の記憶を、次々に呼び覚まし、それを反芻しながら、「願わずわしらず」へと結んでみせる。考えてみれば、堀田がそうしたように、方丈記は、その成り立ちからして、「私の経験」を重ねて読む以外の読み方があるはずもなく、これだけが唯一真っ当な読み方で、解釈したり、鑑賞したりは、実のところどうでもよい。

 もう何年か堀田を通じて方丈記に親しんできて、今またそれを読み直しているのだが、そのきっかけが何であるかと言えば、これはもう言うまでもない。先の三月十一日の地震、津波の大災害であり、更に、これはもう、方丈記の著者には知りようもない原発の惨事であり、それ以外であるわけはない。加えてもうひとつのきっかけは、これはたまたまなのだが、影印の嵯峨本方丈記を読む機会があり、読み慣れた文庫本との違いから、いくつか気付かされることがあった、それによる。

 嵯峨本は活字を組んで製版した、それも一冊ごとにわざと活字の一部を替えた、おおよそ世界の活版印刷の常識に反した、信じがたい豪華本なのだが、精選された古典中の古典として、方丈記も徒然草もそれに含まれている。単純な隠者の達観であるなら、その類の人物が、自ら暇にあかせて写し取って読めばよいだけのことで、こうまでも珍重されたりはしない。

 鴨長明の真蹟が元であるとされている文庫本との違いを一つあげてみる。上の「飢ゑ死ぬる者の類、数も知」れぬ大飢饉の際、あえて、その数を知ろうとした隆暁なる僧がいた。彼は路傍に餓死した者が放置されているに忍びず、せめてもにと、その額に阿の字を書くことで回向に代えようと思い立ち、合わせて、その数を知ろうと、事のついでに、その数を数えてみたのだという。その頭の数、都の路のほとりに、二ヶ月で「四万二千三百あまり」とある。その数日々に増したであろうとも、こうして数えられた数に間違いはあり得ない。

 これが、どれほどに途方もない数字であるかは、先頃の震災の犠牲者数が、現時点で二万八百九十一人、阪神・淡路大震災だと六千四百三十四人であったことと単純に比べてみればよい。この途方もない数を、来る日も来る日もたった一人で数え続けたのだという。堀田は、その行為の意味を、とことん突き詰めて考えてみたのだという。堀田によれば、方丈記の著者も当然その現場に立ち会っていたはずで、この二人が、その挙げ句に、ついにはどのような境地を得るに至ったか。量は質に変じたであろうというような何とも難しい言い方になっている。一方の嵯峨本なのだが、同一箇所を見ると一言「聖を数多かたらひつゝ」と補ってある。要するに隆暁が発起し、幾人かで分担して行ったということで、これだと如何にもありそうな話で、あまりここで考え込んだりしなくてもすむ。考えてもみればよい。二ヶ月で数万、日に千、一日十時間として、一時間当たり百人近く、額に阿の字を記す、何も死者が順番を待って並んでいるわけではない。小説家の想像力というのも、これまた時に途方もないものには違いない。

 方丈、たとえ四畳半の庵でも、夏なら木立に恵まれさえすれば、それなりに快適なのだが、冬はどうか。住はともあれ、衣食はどうする。まさか「藤の衣」「麻の衾」「野辺のをはぎ(嫁菜)」「峰の木の実」で事足りるわけもないことなど、書いた本人が一番よく知っている。多くの語られない省略の上に成り立っている古典は、それ自体が創作であり、だからこそ「私の経験」を重ねて様々に、時代を越えて読まれ、どのような読み方がなされたとしても、それでよいのであり、いずれは多くがこれに今回の原発の惨事を重ねて読むことになる。今はそんな時代に置かれているわけで、残念ながらそうに違いない。

 それにしても、あの日以来「わしる」こと、「わしる」こと。とりわけ人一倍「願う」ことが多過ぎるのであろう、政治を生業とする者たちの「わしる」こと、「わしる」こと。まさに「蟻の如くに」で、相も変わらず国難、亡国、国が、国がと、それのみを言い続けている。方丈記の著者がついには見限った現実と、今の時代、変わるところは何もない。(つづく)

一景一句(55) 冬桜

2010-12-17 | 一景一句
満開といふ時持たず冬桜  荒野桂子

 冬桜というものが世に存在することを知らなかった。狂い咲きの帰り花でも、春を待ちかねての早咲きでもない。暮れから正月に咲き続け、厳冬期に一休みして、春になるとまた咲き始める、花季が長いので二度咲きになる。

 庭に山桜を植えたついでに、花の途切れる冬に、それも桜が咲いたら面白かろうと、聞き知った三波川桜を植えてみたのだが、二年生の接ぎ木苗に、早くも花をつけている。気が早いのか、長いのか不思議な桜で、このところ毎日しげしげ眺めているのだが、たった一輪、見ての通り艶やかに匂い立ち、かつ凛として霜などものともしない。葉と違って花は本来寒さに強い。

 「一弁を吐ける莟や冬桜」(富安風生)「はなびらの小皺尊し冬さくら」(三橋敏雄) 咲きそうで咲かない、咲いたら一向に散る気配がない。脇にはもう次の莟が日に日に膨れてきているのだが、これまた簡単には咲きそうもない。その隣の堅そうな莟はまだ休眠中らしい。要するに、ぽつぽつと気長に、気ままに咲くのが好きなわけで、種としての事情があってのことなのであろう。

 「今日ありと思ふ余命の冬桜」(中村苑子)というような句もあるのだが、時ならぬ桜というのは、人の勝手な心象でしかなく、一斉に咲いて一斉に散る桜の方が、よほど儚く、根性に欠けている。一木一山の満開ではなく、たった一輪で、人の目を引きつけて離さない、際だった個性は並ではない。冬桜は器が大きすぎて俳句には収まりそうもない。

 「冬桜きまりがあってないような」(河村芳子)「白湯たぎる音のどこかに冬桜」(浅沼艸月) 強いてあげればこんなところか。

冬桜空青ければ散りもせず  百瀬美津

一景一句(54) 鵙の贄

2010-10-07 | 一景一句
飢えることなしともいえず鵙の贄  甲斐里枝

 「天刑は天のわがまま鵙の贄」(亀田虎童子) わがままというか、気まぐれというか、乱暴狼藉もいいところ、なんとまあということで、磔刑のような串刺しは、目の辺りにするとあまり俳句向きの光景とはいいがたい。秋の季語として想像を刺激するところから結構よく詠まれている。

 この場合、生け贄に供されたのが蛙ということもある。北アルプスの麓で庭造りを趣味にしている高名な作家が、その成果を写真集にして幾冊か出しているのだが、牡丹や薔薇の豪華な花の中からきまって雨蛙がもの言いたげに顔をのぞかせている。高踏に過ぎる作家の言説をからかっているかのようで、妙に分かった風の顔が愛嬌たっぷりで何とも可笑しい。本人もそれを承知で、蛙同志を会話させたりして遊んでいる。花を育てていると、なるほど近くに川や池がなくとも不思議と蛙が寄ってくる。

 我が家の、殺風景すぎる庭の真ん中に、とりあえず山桜を一本植えてみた。人の背丈をわずかに上回る程度のか細い若木を根付かせるのは、結構大変で、夏の間せっせと水をやり、どうにか持ちこたえさせたものの、九月の残暑できれいさっぱり葉を散らせ、枯れ木のようになってしまったのだが、そこへ秋の気配に誘われ里へ下りてきた、気の早い鵙が、早速に一仕事に及んだということで、情けない姿を樹上にさらしているのは、あろうことか一夏のよき隣人、あの雨蛙ではないか。「まだ乾びちぢむよちあり鵙の贄」(寺島ただし)などと馬鹿な句を詠むわけにはいかない。

 「殺戮もて終へし青春鵙猛る」(松崎鉄之助) 「鵙の贄叫喚の口開きしまゝ」(佐野青陽人) 「夫の夢を断ちしはわれか鵙の贄」(朝賀みどり) 鵙が何故彼の仕儀に及ぶのか知りようもないのだが、その猛々しさが何事か痛切な記憶に呼び覚ますことは間違いない。

青年を呼びつつありき鵙の贄  永田耕衣

峠越えれば(27) 虫しぐれ

2010-08-30 | 峠越えれば
生きて知るソ連崩壊虫しぐれ  三橋敏雄

 「いつせいに柱の燃ゆる都かな」三橋は、大戦末期に二十代の初めで応召している。生涯戦争を詠み続けているが、そこで何を見たかについては、どこかで語っているのかもしれないが、知るところは何もない。俳人というのはあまり具体的には語らぬものらしい。ことによると、間接的にはシベリアの抑留体験といったものまでも身内に取り込んでいたのかもしれない。

 庭だけは広い田舎屋に引っ越して、このところ虫しぐれの贅を味わい尽くしている。周囲に耕作放棄の荒れ畑に恵まれていることも幸いしている。昨年まで都内の、公園の隣にいたのだが、外来の青松虫の、時雨ならぬ、樹上から降ってくる豪雨のような騒音に悩まされていたのがうそのようで、虫の音が、この国に限って、何故時代を越えて詠み継がれてきたのか理屈抜きに納得するほかない。時に高揚し、時に幽く、遠く近く様々に交響し、音楽とはそもそもこのようなものなのであろう。

 ソ連の崩壊は1991年の八月、帰省帰りの渋滞の中で、ラジオに釘付けになっていたことをよく覚えている。ゴルバチョフの改革のテンポについて行けない、その側近が、クーデターを仕組んだものの想定外の市民の抵抗に動揺し、ゴルバチョフが軟禁先のクリミアからモスクワに帰還するに及んで、主役はいつの間にかエリツィンに入れ替わっており、全能のソビエト共産党はあっけなく解体されるに至る。八月の19日から28日のわずか十日間の出来事で、この年の暮れには、レーニンの、そしてスターリンの国、ソビエト連邦自体がこの地上から消滅する。歴史はこのように急展開することもあるという見本のようなものなのだが、当然それを準備した気の遠くなるような、語られることのない営々とした積み重ねがあったことは言うまでもない。

 三橋の前掲の句は「生きて知る」という予期しない驚きと、永久に変わることのない「虫しぐれ」のやさしい語感が響き合って、偶然の即興の句ながら印象深い。

 小説の類とはあまり縁がないのだが、今年逝った井上ひさしと立松和平には、その風貌に好感し、そこそこ作品にも親しませてもらっている。前回の丸山健二のように、風貌には好感のしようのない小説家とはよい対照で、人柄が作品を呼び込むことがあってもよい。虫時雨の中で、井上ひさしの『一週間』を読み終えたばかりで、多分訃報がなければ、読む機会を逸したのかもしれない、この戦後日本を代表する戯作者の遺作は、ことによったらその集大成といってよいのかもしれない。

 十日とか一週間とか、わずかな期間に絞り込んで長大な物語を紡ぎ出す手法は珍しくないのだが、時を追って展開する奇想天外な成り行きに、膨大な史実を登場人物の経歴に絡めて語り込んでいく手際はさすがで、近世以来の戯作の究極の到達点なのかもしれない。

 この月曜に始まり日曜に終わるシベリアの捕虜収容所を舞台にした物語を着想した時、井上の念頭にソ連崩壊に至る十日間があったものかどうか。『一週間』最初の月曜の出来事が雑誌に載ったのが、ソ連崩壊のほぼ十年後の2000年の二月号、日曜のあっけない(それでよいのだが)結末は2006年の四月号に載せられている。その間、どれほどの史料を井上が漁ったものか見当もつかない。

 非合法の地下活動に関わった若者が、同志に裏切られ特高の拷問を凌いで満州に渡り、Mなる裏切り者の行方を追い続ける。その間にソ連の侵攻により満州国は崩壊し、四十代に至ったかつての若者もシベリアに抑留されるが、持ち前の正義感はいよいよもって盛んで、収容所の関東軍将校の食料のピンハネに断固として立ち向かう。ひょんなことから(そうに決まっているのだが)、この主人公がレーニンの手紙なるものを手にしたことから、収容所に巣くう関東軍将校に加えて、それを管轄するロシア人将校までも敵にまわして、たった一人の痛快な大活躍が始まるのだが、それはそれとして、問題はこの手紙であり、ソ連崩壊このかた、そんなものがあっても誰も不思議とは思わない、そっちの方の現実であり、歴史に翻弄された者は、その傷に見合うほどは歴史に学んでいることは間違いない。
    
 そのレーニンの手紙に何が記されているか、井上得意の会話を少しだけ引用してみたい。以下、レーニン、ウラジーミル・イリイチと同年生まれの、共に法律を学んだチェチェン人の老人と、モスクワに近い日本人捕虜収容所から、トルコに向けて三千キロの脱走を敢行した軍医中尉とのやりとり。

「どうしもよくわからないなあ。どうしてモスクワ政府はそんなふうに少数民族をあっちこっちに移そうとしているですかねえ」
「レーニンの後継者たちは少数民族の抵抗をおそれているんだよ。とりわけチェチェン人の中にはコーカサス山中に立て籠もって、いまだに中央政府に抵抗している猛者たちがいる。彼らが核となって平地のチェチェン人を組織し、大規模な抵抗が発生するのではないかと警戒しているのだろうよ。だから、〈すべての民族集団の高い統一に向けた同化〉という美しいスローガンを高く掲げて、再定住計画なるものを進めようとしているんだろうね」
「いやに長ったらしいスローガンですね」
「ソ連邦を構成するのはただ一つの民族であるというバカな夢を見ている阿呆どもがモスクワには大勢いるということだよ。そのために少数民族を地上から消そうとしている。それが統一に向けた同化の真の意味だね」
「……なるほど」
「もっと云えば、モスクワの指導者たちは、過去を変えようとしているのだね。そして彼らは、〈そうやって過去を支配できれば、未来までも支配できる〉と信じている。まったくバカな話だ。過去にあったことはあったこと。どんな権力者にも、それをなかったことにはできない。そんな簡単なことも理解できないのだから、阿呆も阿呆、阿呆の行き止まりだな。……それにしても、民族自決というレーニンたちの革命の理想が、こんなに早く、ここまで堕ちるとは思ってもいなかった。……」

 件のレーニンの手紙には、自らもまた他ならぬ少数民族、カルムイクの出であることを告白し、「少数民族のしあわせをいつも念頭において政治闘争を行う活動家になることを誓います」と結ばれている。モスクワの阿呆ども、シベリアのその手先どもが血眼になって当然の代物ということになる。カルムイクの集団再定住に抗議して、これはごく最近のことなのだが、肩に傷を負った老人が許せないのは、レーニンが、この手紙の二十三年後、革命の翌年には、社会主義の利益は、諸民族の利益にまさると公然と言い切り、社会主義の大義を振りかざして臆するところのない、その政治、国家至上主義であり、老人は、それをレーニンの変節、革命の堕落と断じている。カルムイク十万の強制集団移住の途次、一万五千の犠牲、これもレーニンの変節の延長上に当然起こるべくして起こった、老人の目にはそう映じている。

 雑誌連載後、加筆の予定があり、そのまま放置された、この大作のテーマは実に分かりやすい。『吉里吉里人』も、この『一週間』も変わるところはない。井上が一貫して描いているのは、政治を、国家を至上とする者たちが、肝心のその拠り所とするそれ自体が、予期しない事態に遭遇し、揺らぎ、危機に瀕した時、諸々の欲まみれの、その本性を満天下に曝し、右往左往する滑稽な姿であり、政治や国家ほど常に揺らぎ、時に危機的な様相を呈しやすいものはないという、いつの時代にも、どこにでも見られる見慣れた、お馴染みの光景ということになる。

  繰り返しになるが、歴史に翻弄された者は、その傷に見合うほどは歴史に学んでいることは間違いない。相も変わらず、危機だ危機だと触れて回り、この国を何とかしないことにはとか、国がダメになるとか、国を任せるとか、任せられないとか、今こそ豪腕がとか、人一倍大きなものを担っているかの顔をして、声高に言いつのる向きには、いい加減見切りをつけてよいように思える。政治や国家の、あるいは政治家のあり得べき姿は多分、そのもう少し先の方にあるはずで、井上もまたそれが言いたかったに違いない。(つづく)

一景一句(53) 朝顔

2010-08-07 | 一景一句
学校が好き朝顔に水をやる  津田清子

 「蕣藍に定まりぬ」(子規)。そうなのだが、起き抜けの眠気も吹っ飛ぶ藍や紺の朝顔に、このところお目に掛かっていない。どれも空色に近い印象で、色に深みがない。写真の朝顔は、記憶をたよりに少々加工してある。

 庭だけは広い田舎家に引っ越して、早速幾種類か種を蒔いてみたのだが、これがひどいだめ土で、梅雨の間も一向に育たない。梅雨が明けると、今度は蔓ばかり伸ばして、莟がふくらむ気配がない。呆れていたら、秋立つのを待っていたかのように、ようやく咲き始めた。色はいまいちなのだが、前夜たっぷり水をやり露を含んで、夜明けとともに開花した大輪の朝顔は、これ以上なく清々しい。普段気の重い学校も、仕事も、一時好きになったとしても不思議はない。

 「朝顔に水遣りたくて早起きす」(あめみちを) 黎明即起、夜が明けたらぐずぐずしないで直ちに起き、身の回りの雑用くらいは、朝の中に片付けろということなのだが、田舎暮らしの、これが良いところで、こんな小難しいことを言われなくとも昔から誰もがそうしている。転居以来いつの間にかその習いに従っているのだが、朝顔が咲き始めると、いよいよ早起きが苦にならない。

 「朝顔に我は飯くふ男かな」「朝がほや一輪深き淵のいろ」それにしてもかなわないなと思う。朝顔の句はこのふたつで後はもういらない。後はもう眺めるだけでよい。近世にも今と同じで園芸ブームがあり、随分変わった色や形の朝顔がもて囃されたりしたらしいのだが、ここで詠まれている朝顔は、ひときわ朝顔らしい紺以外は考えられない。

朝顔の紺のかなたの月日かな  石田波郷